雨は優しくて仕方がない

因幡寧

第1話

 傘の外に足を出してはいけない。風向きにも細心の注意を払う。

 神経が磨り減る作業というのは、こういうものを言うのだろう。こうやって仕方なく雨の世界を歩くたびに、そういう実感を得る。そう思う俺の足元に、水たまりの上を走る乗用車が水をかけていった。


 雨が怖いなどと言えばたいていの人は鼻で笑うだろうが、俺はその嘲笑を気にすることができるような余裕がない。人目なんぞどうでもいい。俺の雨具で隠していない部分が雨にあたるかあたらないか、それだけが重要だ。


「アハハ! すごい恰好」


 だから、その言葉が自身にかけられたとき、俺はそれを迷わず思考の外に追いやった。


「ねえ君一年だよね。どうしてそんな恰好でソロソロ歩いてんの? そこまで強い雨ってわけじゃないのにレインコートに大きな傘! そんなに雨に濡れたくないわけ?」


 足元ばかりを見ていた視線を上げて、そのうざったらしい声の主を見上げる。


 背が高い、というのはそれだけで威圧感があるものだが、それに加えてその人物は傘などの雨具を一切使っていなかった。つまり、今現在降りしきる雨でその人は濡れていた。それだというのにその手に持つ荷物で頭を覆ってなどいなかったし、落ちてくる雨粒に対して目を細めるようなこともしていなかった。


 見下げられるという状況。雨を少しも気にしないそのそぶり。きっと、直前まで雨に濡れないように緊張していたこともあったのだ。俺はその人を妖怪か何かかと勘違いした。そして、驚いた俺は雨から意識をそらしてしまった。


「――い゛」


 まるで熱いものに触れたかのように足が勝手に動く。そうしてバランスを崩しても、死ぬ気で傘を握り締めた。

 しゃがみ込む。膝をついたっていい。雨に当たらなければいいのだ。水たまりは雨じゃない。


 バシャという音が耳に届いて、そこでようやくぼやけた思考が焦点をあわせる。


「え、ちょ、大丈夫?」


 大丈夫ではない。雨が当たったところがまだジンジンと痛んでいる。それは鋭い針で深く刺されたような痛みで、そしてやはり、目を向けたところで傷跡もなにも存在しなかった。


 だからこそ俺はいつものように「大丈夫です」とそう告げて立ち上がる。膝をついた時に濡れてしまったズボンが思っていたより気持ち悪い。


「……そういう風には、見えないんだけど」


 濡れたところを気にする俺にかけられたその声には、少し怒気が混じっているような気がした。

 ――いや、気がするではない。怒っていた。その顔を見れば一目でわかるほどには。


「嘘はダメだよ。よくない。大丈夫って言葉は、ちゃんと大丈夫な時にだけ言うべき。君はそんな顔には見えないから」


 指を俺の顔の前まで持ってきて、まるで説教でもするかのようにそう告げる雨の中の人は、どうやら『先輩』と呼ぶべき人物のようだった。

 制服からそんな事実を確認しながらも俺は、その物言いにむっとした。建前を許さないその言葉にイラついた。それはなんというか、とても自分勝手な怒りだった。


『嘘はダメだよ』なんて、いったい何回言われただろうか。俺が俺の身に起こることについて説明するたびに、そんなことを言われて。

 その一方的な確信を持って紡がれる音には、もう辟易していたのだ。


 問題は今回については、俺の言葉が正しく嘘であったというところなのだが。


 まあそのなんやかんやが俺の頭の中で巻き起こったせいで、俺はいつもは決して口にしないような事実を口にした。


「じゃあ、雨があたるとその場所が死にそうなほど痛むんですと俺が言って、あんたはそれを信じるんですか。先輩」


 雨にうたれている先輩は、俺の言葉に少しだけ驚いたような顔をした。


 ……雨に物理的な痛みが伴う。そのことを理解したのは半年くらい前だった。つまりその症状は半年くらい前に始まったということだ。その原因には、実は心当たりがある。


 少し考えればわかることだった。その時期は、自分が孤立した時期と一致する。友達をなくした頃と重なってしまう。俺の頭によぎるのは、精神病といういろんなものを包括する言葉だった。


 友達をなくしたきっかけは些細なことだ。示し合わせた約束を、雨が降っていたからなんとなくめんどくさくなってドタキャンした。それから少しずつ何かがずれていって、崩れた。

 きっと俺はそのことにちゃんとした理由を求めたのだと思う。だから俺は、雨の日に外に出ることが難しくなったのだ。


「さっきの奇声は雨にあたったから?」


 俺は頷く。俺の痛みに耐える声は、確かに奇声と言えるだろう。


「それは、そんなに痛いもの?」

「そうですよ先輩。今だって、俺の上からずっと針が降っているような感覚の中にいますよ」


 心は緊張を緩めてはいない。歩く時ほど気にしなくてはいいものの、風が吹けば雨は俺を襲うだろう。


「ねえ君は、思春期症候群って知ってる? 少しネットで噂になってる程度の話なんだけど」

「は? 思春期症候群……?」


 度重なる質問は疑心の果てのものだと思っていたから、唐突にそういった単語が先輩の口から出てきたことに困惑する。

 だがそんな俺のことなどお構いなしに、先輩は続けた。


「そ、思春期症候群。私たちみたいな思春期真っただ中の存在に起こる不思議な現象のことをそう呼ぶらしいよ。きっと君のはそれだ」


『嘘』とは違う決めつけだった。しかもそれはまるで――


「――まるで、俺の言葉を信じてるみたいな口ぶりですね」

「まるでじゃない。信じてるよ私。……ま、思春期症候群の話はネットの海から拾ってきただけのものだから、本当にそれかはわからないけど」


 雨音の中、それに負けずにしっかりと告げられた言葉と、先輩の目を見て、どうやらその言葉に嘘はないようだと判断した。俺はそう決めつけた。同時にそう決めつけることができたことに対して俺自身驚いて、目の前の雨でびしょぬれな先輩を見上げる。


 それから先輩は俺の状況について詳しく聞いてきた。不思議と俺はそのすべてに正直に答え、さらに自らが思う原因まで伝えた。なにが俺にそうさせたのか。きっと先輩が信じてくれたという事実が、俺が思っていたより重いものだったのだと思う。いろんなものをすっ飛ばして、俺の心をこじ開けてしまうくらいには。

 ……あとはきっと、その先輩の雰囲気がどこか現実離れしていたのもあるのだと思う。むしろそれが大部分を占めていたのだ。そうに決まっている。


 先輩は考え込んでいるようなそぶりを見せていた。それからすこしあたりを見回して、ひとりでに頷く。


「もしかしたら君のそれ治せるかも」


 少し早口で先輩はそう言う。


「……マジで言ってるんですか」

「マジ。マジもマジだよ。私のこと、よーく見ててね」


 それから先輩は一歩二歩と俺のそばから離れ、「一瞬も目を離さないでね」と言いながら、車道に立った。


 ………? 車道に――


「――ぉい、何やってんすか先輩! そんなとこにいたら轢かれますよ!」


 先輩は、ニコリと笑うだけだ。


 咄嗟に周囲を見回し、連れ戻すために雨に気を付けながら少し早歩きで近づこうとして、それに気づく。


 車が、近づいている。赤い車だ。このまっすぐの見通しのいい道で、先輩の姿が見えているはずなのに、それなのになぜか速度を落とさない車。ゆらゆらとした、そんな車。


 考えるまでもなく、俺は駆け出していた。


 一歩踏み出し、途端に痛みが襲う。傘は放り投げていた。一刻も早く近づくのに、それは邪魔でしかなかったから。


 痛みで意識が刈り取られるような気がした。だから俺は叫ぶ。


「痛い痛い痛いイタイいたい!」


 背の高い先輩に力任せに体当たりして、ともに赤い車の車線からずれる。赤い車は最後まで先輩に気づかなかったのか、そのままの速度で俺の後ろを通り過ぎていった。水たまりがはねて、俺は頭からそれを被る。


「なに、やってんだあんた」

「まだ痛い?」

「はぁ? ……ぁ」


 直前まで、死にそうなくらいの痛みが俺を襲っていた感覚が確かにあった。全身を針で刺されたかのような思い出したくない記憶が頭の中に焼き付いていた。でも、今はそんなこと全くなくて。


 思わず空を見上げて、雲の切れ間から太陽がのぞいているのを確認した。それでもまだ雨は降っている。


「ショック療法ってあるじゃん。それを試してみたわけ。君の場合それで治る気がした。君が能動的に雨の中に飛び出せば、たぶんどうにかなるってそう思った。ちょうど遠くに轢いてくれそうな車も見つけたし」

「あんた正気かよ。もし俺が間に合わなかったら――」

「死んでたかもね」


 少し困ったような顔をしながら、先輩はそんなことを簡単に言ってのけた。


 歩道に戻った俺は放り投げた傘を拾う。


「あらら、もうすぐ雨も止みそう」


 後ろで先輩がそう言って、振り返った俺に笑いかけた。


「……実はね、君のことを信じたのには一つ確固たる理由がある。ついでに君のそれを治せると思ったのにも、その理由が関係してる」

「……なんですか、それ」


 さっき先輩が言ったように、雨の勢いは急速に弱まっていた。傘の内側にたまっていた雨水を振り払って再度頭の上に掲げても、耳に届く音は先ほどまでとは比べ物にならないほど小さい。


「私はね、君と同じで思春期症候群にかかっているんだよ。私は雨が降っている間しか、世界に存在できなくなっちゃったんだ」

「……ちょっと、何言ってるのかわからないんですけど」

「だよねー、私もそう思う。でも事実なんだよ。ここ最近は雨が降ってる世界しか見てない」


 信じられない。だって、もしそれが真実だとしたら俺のそれとは程度が違う。人が消えるなんて、現実的に考えてあり得ない。


 そう思うのに。そう感じるのに。

 それなのに先輩の目は、その言葉の力強さは、俺のことを信じるとそう言ったときと少しも変わってなどいなかった。


「私と比べたら、君のそれは軽いものじゃん。だから治せると思った。……信じられないなら見てるといいよ。たぶん今雨が止めば、私はきっと消えてしまうから」


 まるで先輩のその言葉が合図になったみたいに、世界から雑音が消えていく。世界はもう十分な明るさを取り戻していて、傘はもう必要がないくらいだった。


「こうして思春期症候群にかかったのは、きっと雨が優しすぎるせいなんだよ。君も私も、それに寄り掛かって、どこかの何かを放り投げたんだ。……ねえ君、もし私に少しでも感謝してるなら、私のこのビョーキを治して見せてよ。なんとなく、私ひとりじゃどうしようもないような、そんな気がするんだ」


 先輩は、太陽を真正面から浴びていた。その後ろには、薄く虹がかかっていた。傘をさす俺はそんな風景を、ただ見逃さないようにじっと見ていた。


「信じますよ、先輩」


 虹だけが残った風景を見て、俺は傘を閉じる。やることはたくさんあるだろう。ひとまずは、先輩の名前を調べなければいけなかった。

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