第12話 敵意と祈り
雄三は垂直に飛び上がるようにして目覚めた。息が上手く吸えない。顔に畳の赤い跡がついていた。寝相が悪かったせいで肩が強ばり痛んだ。
日は既に高く上り、仕事の遅れは明白だった。
メリッサの姿はなく、自分にかかっていた薄い布団を押入にしまった。
明の動静に聞き耳を立てるが、何も聞こえてこなかった。冷や汗が止まらない。気が短そうな明のことだから一度の遅刻で放り出されることもありうる。
雄三は素早く身支度を整え、廊下を蹴るようにして進んだ。明の姿を探す。弁解の余地がないにしろこのままではいけない。
名前を呼びかけながら歩いたが、返事はない。もし明が家の中にいるのなら、計り知れない怒りを隠している事になる。
台所にも誰もいない。雑炊の残りが鍋の中にあったので、無我夢中で胃に流し込む。腹が無性に減って耐えがたかったのである。
腹の虫が落ち着いた所で、けたたましく玄関を叩く音がした。誰も出ないので、明は不在のようだ。
が、安心している場合ではない。現在応対できる人間は雄三しかいないのだ。
玄関に回って戸を開けてみると、見知らぬ老人が立っていた。背は低かったが、かつて肉体労働に従事していたらしく、肩の筋肉ががっしりしている。客にしては剣呑は雰囲気をまとっていた。
「ここに
老人は決めつけるような言い方をし、なおかつ家の中を覗きこもうとしてきた。
「いませんよ、そんなの」
雄三は図体をいかして通り道を塞いだ。自然、目隠しのような格好になった。老人にはそれが気に入らなかったらしく、嫌な絡み方をしてくる。
「時にあんた、良い体しとるのう。このご時勢に」
「……、生まれつきですよ」
「そりゃあんた、ご両親に感謝せんと。恥ずかしい生き方をせんようにな」
雄三は思わず逆上しそうになった。この老人がどこの誰かは知らないが、メリッサにも自分にも良い感情を抱いていないのは確かだ。
メリッサがこの場にいないのは不幸中の幸いだった。一応解決したとはいえ、明と悶着を起こした後だったし、これ以上彼女の心を騒がせたくない。
どうしてメリッサにそこまで気を配るのか、今ではわかる。同志だからだ。
「もう一度言います。妖夷なんてここにはいませんよ。見ず知らずのこんな男の言葉信じるほど貴方の心が広いかわかりませんが」
売り言葉に買い言葉。気づけば雄三は老人を圧するように体をそらせて迫っていた。
老人は雄三の空威張りに怯んだのか、「また来るからな!」と捨て台詞を残して去っていった。
入れ違うようにして明とメリッサが帰ってきた。闇市で食材を仕入れてきたようだ。戦中、戦後の混乱期には市場ルールが確立されておらず、物資の窮乏も相まって各地にブラックマーケットが林立した。インフレの煽りを受けつつも、人々は堪え忍ぶしかなかったのである。
「あれ、檜田さんと会わなかったかい? さっきすれちがったけど」
先刻やり合った老人は明の知り合いらしい。雄三は正直に打ち明ける勇気が持てず、誤魔化すしかなかった。
「回覧板を届けに来てくれたんです」
「そう。で、回覧板はどこ?」
答えに窮していると、明は明敏に察したようだ。メリッサに荷物を渡して奥に行くようにし向けた。
「メリッサの事だね」
「はい……」
「あの人はね、この近所に住んでいて、自分の生活が脅かされるのが怖いのさ。気にしないことだね」
明はそっけなく言うと、下駄を脱ぎ、雄三の脇をすり抜けた。意識してか棘のある言葉を残して。
「そうそう、あの人の息子も戦争行って帰って来なかったっけね。ま、余所者のあんたらには関係ないことさ」
雄三は一人、壁に手をつき嘆息した。メリッサを外に出すのは危険かもしれない。目に見える形の敵意がすぐそこに迫っていた。
二
魚の香ばしい匂いが雄三の鼻に届く。メリッサが台所でめざしを焼いていた。
雄三の顔色が悪いのを見て取ったメリッサは、めざしを献呈することを明に願い出たのだ。
その願いはあっさり聞き入れられた。床の間に卓を並べ、雄三は貴重な海の幸を味わうことができた。
「それにしても魔族が仕入れてくる食材は安くて助かるよ。なんかよくわかんないのも混じってる時あるけど」
雄三の目の前の皿に、しなびたごぼうみたいな野菜が置いてあるが、うねうねと動いている。誰も箸をつけようとしない。
闇市にも魔族が進出してきているが、比較的良心的な価格で商売をしていると明は言った。公定価格を無視している店がほとんどの中、異例の対応だろう。感心しているふうでもあったが、警戒心は解いていないようである。
「
メリッサが同胞の仕事に太鼓判を押した。雄三は意味もなく同意するように頷いた。そのはずみでむせてしまう。
「大丈夫デスか」
メリッサが背中に手を置いてさすってくれた。
「あんたたち夫婦みたいだねえ」
明のからかいを、雄三は必死に否定しようとするが、声が出ない。代わりにメリッサが涼しい顔で受け流す。
「私たちは同志デスから」
強い連帯が、雄三の血を沸き立たせる。
「ふうん……」
明は頬杖をついてタバコをふかす。雄三はメリッサの言っていたことを思い出した。きれいな所でしか生きられない。
「明さん、煙草はちょっと……」
「ああん? 固いこと言いっこなしだよ。あんたもどう?」
明の煙草は外国の輸入品だ。雄三も喉から手がでるほど欲しかったがメリッサの手前言い出せない。
「メリッサは煙草が苦手なんですよ」
「へー、そうなんだ。本当?」
メリッサは困ったように笑い、間をもたせるように湯呑みを持った。それ以上困ったのは雄三である。勇み足だった可能性が出てきた。
「私は大丈夫デスよ。苦手な人もいマスから気遣いはありがたいデスけどね」
メリッサの気遣いがやるせなく、雄三は顔をまともに見られない。明はつまらなそうに空き瓶に灰を落とした。
「見せつけてくれちゃってまあ。ところでメリッサって首が取れる以外に何か特技とかあるのかい?」
人間の理解の範疇にある特技ではなく、魔族としての能力を知りたがっている。雄三はそう解釈した。
「別にいいじゃないですか、今はそんなこと」
「雄三に訊いてない。メリッサに訊いてるんだ。どうなの?」
メリッサは湯呑みをテーブルに置き、一息ついた。雄三よりも数段落ち着いている。
「あるといえばあるし、ないといえばないデスね」
「謎かけはもういいんだよ。教えてくれないか」
もはや好奇心からではなく、恐怖心から問いを発していることが雄三にはわかった。さっきの老人と同じだ。メリッサをこの場に置いておきたくなかった。
「すみません、説明するの難しいデス。私たちの力は願いを起点としていマス。祈りと言い換えた方がわかりいいでしょうカ」
「祈り……」
雄三は朝の出来事を思い出していた。メリッサには夢があると言っていた。雄三が手放してしまったもの。そして恐らく、明も雄三と同じ気持ちだったに違いない。
「祈りで世界を変えマス。大きな神様がそれに応えてくれるんデス」
「くっだらない!」
明はテーブルを叩き、メリッサをねめつけた。
「祈っても帰ってこなかった奴だっているじゃないか! 口ではきれいごと言っても結局、力で押さえつけるんだろ」
メリッサは憂いを込めた顔で明の怒りを受け止めた。
「おっしゃる通り、我々にも反省するべき点は多々ありマス。大きな力を行使すれば反動があるのは必定。回復のために我々ができることを模索中デス……」
メリッサは当事者とはいえ、直接虐殺に荷担したわけではなさそうである。メリッサが身代わりになる必要はないはずた。雄三は嫌気が差してきた。
「オウ……」
メリッサが正座した状態で後ろに倒れた。雄三が慌てて助け起こした。首は外れなかったのが幸いだ。
「足が痺れてしまいまシタ」
明は口元に力を入れ、笑いを堪えていたが、我慢できなくなり吹き出した。雄三にもそれが伝染し、同じ状態に陥った。無垢なメリッサに敵意を向け続けるのは難しい。
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