第4話 子供名人

伊豆の街は人でごったがえしている。いたるところで、トタン屋根の市が林立し、足下では靴磨きの少年が罵声に似た呼び込みを行っている。健在に見える建物も痛みが激しい。雄三は復興間もない街に落胆しつつも本分に立ち返る。


住所の書かれたメモを渡されていたが、土地勘がないために途方に暮れた。


路地を一本入った民家の露台に将棋盤が置かれている。ちりちり頭の子供が盤の前に座って考えこんでいた。


「よお、坊主、将棋おせえてやろうか」


雄三が気前よく話しかけても、子供は返事をしない。盤面を睨んだままだ。雄三はその後ろに立って一緒に考えた。


駒の陣型は両者均衡に近い。局面は中盤の入り口だ。どちからしかけるか判断に迷う。雄三は先手良しの変化を見つけたが、後手の子供はどう見ているのだろうか。


足音がして建物から中年男がのそのそやってきた。白いタンクトップがめくれあがって太鼓腹が出ている。彼は雄三をうろんな目で見やった。


子供の父親らしい。太い眉がそっくりだ。


「何かうちにご用で……?」


「いや、この子の将棋を見てただけです。筋がいいですね」


雄三はお世辞を言って、一端その場を退いたが、目的があってここに来たのではなかったか。


「少し訊ねたいのだが、ここいらにこういう宿はないか」


メモを親父に渡すと、丁寧に教えてくれた。礼を言って別れようとしたが、焦れている子供が目に入る。


親父もそれに気づき、頭をかいた。


「恐縮ですけども、この子は筋悪ですわ。教え方が悪いのか、私に似たのか、きっと両方ですね」


子供は真っ赤な目で盤面を睨んでいる。今にも泣き出しそうだ。他人の前で恥をかかされたのだ。それはそうなるだろう。雄三は彼が気の毒になった。盤の前の丸太に座り、子供と向き合う。


「坊主、一局どうだい」


「……、いいよ」


子供はぶっきらぼうに応じた。


「どういう風の吹き回しだい。さっきは相手にしてくれなかったじゃねえか」


「上からおせえてやるなんて言われて従う奴あるか。かかしじゃねえんだ。つええんだぞ、おでは」


雄三は腕をまくり、背筋を伸ばした。


「そりゃあ楽しみだ」


この日の将棋は、雄三にとって久方ぶりに心の底から楽しめるものだった。子供は何度負かされても立ち向かってくる。父親がやめさせようとするが、聞く耳を持たない。無心とはそういうものだ。


この子は伸びる。雄三は確信した。子供はよく感覚で指すことが多い。この子もそのきらいは多少あるものの、相手の手を読もうと考えている。将棋は相手のいるゲームだ。一人よがりでは決して勝てない。それは人生にも当てはまる。


(師匠から見たら、俺もこんな感じだったのかもな)


離れてみるとわかることもある。雄三は一人よがりだった。周りは心配してくれていたのに、その好意を蹴ってその日暮らしを続けている。隘路に迷い込むのは必然であった。


気づけば夕刻、鈴虫の声が騒々しい。いよいよ子供の牙が、雄三に届くに至った。きれいに負かされた時は煮えくり返るような気持ちになることもあるが、今回はただ終わったことに安堵した。


「負けました」


雄三は頭を下げた時に気づいた。


将棋盤も駒も木彫りだが、素人の手によるものである。作りが荒い。親父の手作りとわかるとやけにほほえましかった。


「おでは名人になる!」


子供はまだ歯も生え変わらぬというのに、大志をあけすけに語る。雄三は笑いもせずその頭を撫でた。


「もう少し大きくなったら、雑司ヶ谷のこれこれという人を訊ねろ。俺の名前を出せば弟子にしてくれる」


師匠を紹介したが、逆効果かもしれない。破門された身なのにおこがましい。言ってから後悔した。


子供の親父が団扇片手にやってきた。


「あれー、まだやってたんかあ、あんたら」


「この子は筋悪なんかじゃありませんよ。負かされちゃいました」


「ほえー、よくやったなあ」


親父に抱き抱えられ、子供は歓声を上げた。勝利の褒美としてはそれで十分だった。


「もう遅い時間だから晩飯食べていったら?」


親父は将棋の礼に報いたいと言い出した。


 雄三は遠慮した。物資が不足している世の中だ。赤の他人がご馳走になる余裕はないはずである。生き馬の目を抜くような世界で生きているのに、変な所で律儀だった。


「こんなこと言うのあれやけど」


親父は雄三を引き留めたい理由があるようだ。聞くと、意外なことが明らかになった。

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