手紙

睦月衣

遺書

 手紙だと、どうしても敬語になってしまう。気持ち悪いかもしれませんが、仕方ないことだと思ってください。


 冷たい雨が降る夜でした。

 凍える体を薄い毛布で包んで、私は闇の中でじっとしていました。なるべく動かないように、小さくなるように、そうして目をつむっていました。

 もう何年もそうしてきたように、そうしていました。闇になろうとしました。そうしていつか目を開けて光を見たときには、いつものようにまた絶望していました。

 幸い、軒下のあるここは時々風で雨が吹き込むくらいでした。ですから、土の匂いと共に私が目を覚ましたとき、被害というのは私のズボンの裾が惨めに濡れている程度でした。


 私にとって、雨上がりの朝ほど嫌なものはありません。地面にできた水たまりが光に反射している様子なんて最悪です。しかしもっと悪いのは、この土の匂いでした。昨日までの汚いものを全て洗い流した、新しくきれいなものだけを残したあの雨の名残とも言うべき、この、湿っぽい土の匂いでした。この匂いは、私がここにいるその意味を失いかねないものでした。

 私は闇になりたかったのです。そうして、何もかも、忘れてしまいたかったのです。朝の訪れとともに、何もかも。

 私が朝日を浴びて絶望を感じるのは、そのためでした。生きることにも、死ぬことにも、興味はありませんでした。ただ、こうして闇が来るのを待ち、願わくば自分もその闇となって消えてしまいたい、そう思っては毎朝、そこに自分がいる現実に落胆するのです。


 そんなある日、私はひょんなことからあなたの手紙を手にしました。無論、あなたにとってはひょんなことでも何でもないのですが、私には全く予想しえないことだということは、想像に難くないでしょう。

 その手紙は、ある女性から受け取りました。彼女はあなたの知り合いなのでしょうか、彼女は私を一週間探したと言っていました。あなたから託されたと言って、彼女は私に手紙を渡してくれました。

 はじめ、私は読むのを躊躇いました。数年前、あなたが私の元を訪ねてきたとき、私はあなたにとても酷い態度を取ってしまいました。あのときはごめんなさい、でも仕方がなかったんです。あの頃私はまだコンビニで働いていましたし、小さいアパートで暮らしていけるほどの財力は持っていました。母が私を心配しているなんて嘘だと思ったし、「早く帰ってこい」と言ったあなたの諭すような態度が気に食わなかったのです。

 でも、思えばあのときもっと冷静になるべきでした。あのときはまだよかったのです。社会も母も――あなたの親切心からの嘘だったとしても――、私を必要としてくれていたのですから。

 母がもう長くないと知って、私は言葉も出ないほど驚きました。私が家を出たときは、母はあんなにも元気でしたから――やかましいくらいに元気だったので、だから私は嫌になって家を出たのですが――ですから私が家を出た次の年に、神経衰弱で食事をとらなくなり入院したというのは信じられませんでした。私がいなくなって清々していると思っていたのですが……。それによる免疫低下がきっかけで、今の病気にかかってしまったのですよね。本当に信じられません。

 あのときあなたが言っていた、母が私を心配してくれていたというのは本当なのでしょうか。それなら私は、母に、もちろんあなたにも、本当に悪いことをしました。


 この手紙を読んでいるあなたなら、私が母に会いに行かなかったことはご存知でしょう。いいえ、今のは語弊がありました。どうしても行けなかった、というのが本当のところです。

 もちろん、何度も考えた結果なのですよ。しかし、想像してみてください。こんなに惨めな私が、落ちぶれた私が、母を裏切り続けた私が、今更どんな顔をして母に会いに行けるでしょうか。私には無理です。何もかも失ったと思っていた私は、生意気にも、こんなにもくだらないプライドを持っていたのです。何だか、自分が本当に嫌いになります。

 ですから、すみません、会いに行く代わりに、この手紙を書いています。あなたの手紙を持ってきてくれた彼女に、私の手紙を託しました。安心してください、ちゃんと母へも書きましたよ。ただ、あなたの住所がわからないので、あなたの手紙に書いてあった母が入院している病院の住所に、母へのものとあなたへのものをまとめて大きな封筒に入れて送ることにします。その旨を書いた紙を同封しておいたので、きっと病院の方がこの手紙をあなたに渡してくれていることを願います。


 では、最後に、私の気持ちを記します。申し訳ない。あなたは迷惑かもしれませんが、私の生きていた証として、この手紙を持っていてほしいのです。

 この手紙を読んでいるあなたはきっと、私がどうしてこのような結果を選んだのか気になっていることでしょう。端的に言えば、もう、朝日の中で自分の存在を憂うのはこりごりだからです。社会の闇のような私ですが、何度朝になって闇が消えても、何度雨が止んで全てが流されても、何度も私はここに残されました。闇にすらなれず、光どころか闇にまで見捨てられたのです。ああ、でも、一つ、勘違いしないでくださいね。私は生きていることが嫌になったとか、死にたくなったとか、そういう気持ちでこの手紙を書いているのではありません。それよりも、これ以上闇にも光にもいられない自分を認めたくなかったのです。まあ、ちょっとやってみようか、といった、ほんの好奇心、思い立ちなのです。ほら、昔よく一緒にいたずらをしたでしょう、あれと同じです。ですから、怖いとか、そういった気持ちは全くありません。ここにいてもいなくても、何も変わらない、ただ、絶望を感じなくて済むのならそっちの方がいい、それだけです。

 あなたから手紙が来たことはいい機会でした。私はあなたにとても感謝しています。この惨めな人生の中で、あなたは私の一番の友人でした。

 手紙での挨拶になってしまって申し訳ない。

 ありがとう。では。


     *


 宏美は窓を開けた。乾いた風が病室に入ってくる。昨日まで人がいたベッドは、もう跡形もなく元通りになっている。

「これ、間に合わなかったわね……」

 宏美の目線の先には、昨日亡くなったある患者へのメッセージカードがあった。このカードが届いたのは、その患者が息を引き取った後だった。

 匿名のこのカードは、別の人宛ての手紙と一緒に大きい封筒に入って病院に届けられた。その手紙は、指示通り、その患者の息子の幼馴染だという人に渡した。

「それにしてもこのカード……」


『長い間心配させてしまいすみませんでした。一足先に向かっています』


 そう書いてあるカードと共に、宏美はベッドの脇にまとめてあった患者の持ち物を持ち上げた。家族に取りに来てもらうのが普通なのだが、夫を若いころに亡くし、ただ一人の息子も数年前に家を出て行ったきり居場所がわからないということで、今日の午後、彼女のいとこが取りに来ることになっている。宏美は荷物を全て病室から運び出した。

 ロビーを通ると、東京で身元不明の自殺と思われる遺体が見つかったとニュースが流れていた。

「息子にも会えずに亡くなる人もいるっていうのに、自殺だなんてねぇ……」

 宏美は患者の荷物に目線を落としながら、ナースステーションに向かった。

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