紙の本の耐久性と100年後に僕の本を誰かが読む可能性について

 先日、京都の出町柳まで行ってきました。

 とあるトークイベントに参加するためです。

 街の小さな本屋を営む3人の男性が、それぞれの本屋というものに対する想いをただただ喋るという、大多数の人にとっては全く興味のないであろうイベントです。

 ですが自分としては彼らの経験とその紆余曲折はどれも興味深いことばかりで、三者三様のキャラクターもあり非常に楽しいものでした。

 そしてその中で僕はとても重要なキーワードに出会うことができました。

 そのキーワードとは――紙の本の耐久性、です。

 僕は読んですぐ役に立つ本は売りたくない、とその店主は言いました。ええもうはっきりと言い切りました。

 得てしてこういうものは言葉にするとダサくなるのですが、読んで何年も経ってから「ああ、あの言葉はこういう意味だったんだ」とか「あの登場人物はもしかしたらこういう気持ちだったんじゃないか」とか「ずっと積んでいた本を読んだら今読むに相応しい本だった」とか、きっとその辺りのことで、比較対象は安易なハウツー本や自己啓発の本(またこの辺の本はよく動く≒利益になるのだとか)だと思うのですが、彼の言った『紙の本の耐久性』という言葉に僕はすごく感銘を受けました。


 齊籐が持っている本の中で一番古い本を紹介します。 

 タイトルは『家庭實用 西洋料理法』。

 ちなみに實用は実用と読みます。

 初版が大正8年、手元にある第三版が大正9年3月に出版されたもので、ざっくり100年前の本ということになります。

 もちろん読めます。日本語表記です。 

 法律上、版権も消滅していることなので、序文を少しだけ載せてみたいと思います。


――・――・――・――・――・――・――


 序


 維新ゐしん大業成だいげふなつて、海外かいぐわいとの交通頻繁かうつうひんぱんになるにれ、歐米おうべい文化恰ぶんくわあたか河川かせん氾濫はんらんしたるがごとく、我國内わがこくない流入りうにふして、各方面かくはうめん制度せいど變化へんくわおよぼしたる事蓋ことけだしくおどろくのほかなし、我々生活われわれせいくわつ要素えうそたる「衣食住いしよくじゆう」も亦此またこ影響えいきやうけて、古來こらいより踏襲たうしふしたる「純日本式じゆんにほんしき」は破壊はくわいせられて、れに歐米式おうべいしき加味かみし、當初一部たうしよいちぶ人士じんしつてこころみられて驚異きやういまなこしはりしことも、今日こんにちおいてはすで一般いつぱん普及ふきふせられ、羽織袴はおりはかまは「フロックコート」に、各自銘々かくじめいめいはこばれる本膳ほんぜんむかつて、かしこまつたものは、共同きようどう卓食テーブルむかつてナイフフオークにて牛肉ぎうにくしよくし、備後表びんごおもて金屏風きんびよぶうひのき一枚板いちまいいたとこに、墨繪すみえけて自慢じまんとなせし座敷ざしきは、模造皮もざうひ敷物しきものきて、椅子ゐすテーブルをき、周圍しうゐ白壁しろかべには油繪あぶらゑかかげ、マニラ煙草たばこくゆらすにいたれり、


――・――・――・――・――・――・――


 小文字がない、旧かな使いや旧漢字が使われている、句点(。)がなく読点(、)のみなど多少の差異はあるものの、2019年の今でも問題なく意味が分かるし、むしろ流入してきた西洋料理の文化を貪欲に取り入れようとした情熱が本からにじみ出ていて、眺めるだけでも無茶苦茶面白い本であることが伝わるでしょうか?(コロケツト、ポターヂ、プツデイング、水五しやく西洋寒天ヂエラチン六枚、砂糖五十もんめ牛酪バターといった表記さえ楽しいしワクワクする)

 100年の時を経て、いま僕の手元にあることが非常に愛おしいし感慨深いし、例えようもなくドラマチックで、きっと手放せばもう二度と手に入ることはないでしょう。

 事実、紙の本は一世紀を跨げるだけの耐久性を持っているということを僕は経験として知っているわけです。


 で、本題です。

 『100年後にも僕の小説を読んでもらう方法』についてです。


 平成から令和に突入し、時代の流れは早くなってゆく一方です。

 その中で自分の書いた本を長く流通させることは非常に難しいことだと僕は思います。ですが、それを可能にする方法は――あります。

 その方法は至ってシンプルで、誰にでもできるものです。


1、自分で本を作る

2、本を売るイベントに参加し、手売りする。

3、めちゃくちゃ長生きして、これを100年続ける

 

 あ、待って。石を投げないで。

 とりあえず落ち着いてください。

 いやね、これが一番確実な方法なんですよ。本当に。

 少し説明しますね。

 前述の通り商業出版の流れに乗ってしまうと自分がどんなに再版を望んでも不可能ってなことがありうるわけです。

 その点、上記の1に倣って自分で本にしてしまえばこの縛りからは解放されます。お金さえ出せば自分の好きなときに好きな冊数を刷ることができます。長いスパンで考えたときにこれはとても重要なことです。

 ちなみにお金もたいしてかかりません。『竜斬の理』を製本したときの話で言うと、新書でカバー着けて50部ほど刷りましたが6万円程度でした。境遇がどうあれ、ちょっとお小遣いを貯めればこの程度ならば実現可能かと思われます。

 次に売り方です。

 自分で刷る以上、本屋に並べることはまず不可能です(自分で本屋をやる以外は)。

 でも売ることはできます。上記の2の話です。

 僕が参加しているのは文学フリマという同人小説を直接頒布するイベント(コミケの小説版と言えば分かる人には分かるかも)なのですが、これがなかなかに盛況です。年々参加者は増え、SNSの台頭もあって交流の要素も強まり、参加すればするほどに楽しくなるイベントへと成長しています。

 実際、真面目に参加すれば、本は売れます。

 僕自身、都合4回ほど参加していますが、一冊も売れなかったことは今のところありません。本気で作った本はきっと誰かのアンテナに引っかかります。

 そして3について。

 今後、紙の本は減少していくことは免れないでしょう。ですが、紙の本が大好きだという層が一定数は生き残ると僕は考えています。そういう意味では紙の本を売るイベントというのは消えることはないと思います。

 形は変わるかも知れません。古本市やWEB上でのやりとりになるかも知れません。でも絶対に無くなりません。少なくとも100年は無くならないと思います。

 なので生きている限り、何らかの手段で自分の書いた本を売り続けることができるわけです。

 それならば、あとは長生きするだけですよね。

 脳みそさえそれなりに元気であれば、電動の車椅子を操るなりしてイベントには参加できますし、WEBであれば24時間売り続けることが可能です。でもできればイベントでしょうね。流通における今後のトレンドだと思うのですが、何を買ったいくらで買ったよりも、がどんどん重要になってくると僕は考えているので。


 ちなみに。

 このアイデアは僕のオリジナルなものではありません。

 佐藤友哉という作家が『1000年後に生き残るための青春小説講座』という著書の中で何年も前につまびらかにしています(佐藤案と重なるのは上記の3についてで、生き残るための手法は違っています)。

彼は1000年後をイメージしていますが、僕の想像力はそこまで飛躍できそうにありません。どんなに羽ばたいても100年――自分の孫が年寄りになるくらいまで――が限度だと思うので、僕は100年に設定しました。

 ヨボヨボの狒々爺になった僕が100年後の世界で本を売っている場面を僕は容易に想像できます。

「これは……儂が100年前に書いた小説なんじゃが一冊買わんかね?」

 めっちゃ面白くないですか?

 最高じゃないですか?

 これを僕はやりたい。やってみたい。


 いま考えているのは、今後10年の間に滅茶苦茶面白い本を10冊以上書いて、それを生涯売り続けるというものです。

 とりあえずは二冊目をこの夏にお披露目できるはずです。 

 ミサイルほどのペンを片手に楽しいことを沢山したい。

 これからもずっと。

 人生の現在地として僕はこんなことを考えています。

 

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