第2話 初仕事

 今日も暑い。都市部の最高気温は三〇度にも達し、本当に五月かと疑いたくなる。

 日陰でじっとしている分にはいいが、少し動くとたちまち汗がにじんでくる。

 朝からレンタカーを借りて、荷物を運んで、レンタカーを返してきて、部屋の中で荷物整理と掃除を済ませた頃には夕暮れ時。まだ細かな作業が残ってはいるものの、とりあえず金満家の敷地内にある使用人専用宿舎への引っ越し作業は終わった。

 ずいぶん汗をかいたし埃もかぶった。シャワーでも浴びよう。

 景観を損ねさせないためか宿舎は立派な和風建築の外観をしているが、中は質素な洋室だ。最低限の空間と機能しか与えられていない。一人なら問題ないが、三人家族で暮らすには狭いだろう。

 お隣の女性の夫もここに住んでいるのだろうか。今のところ姿は見ていないし、声も聞こえてこない。この部屋の狭さから考えて母子二人暮らしの可能性が高い気がする。だとしたら、夫とはすでに離婚しているということか。それとも一時的に別居しているのか。

 もし困っているようだったら相談に……いや、デリケートな問題だ。むやみに首を突っ込むべきではないな。向こうから相談してくるか、明らかに様子がおかしければ別だが。

 そんなことを考えながら浴室から出ると、ひんやりとした空気が肌を撫でてきた。汗ばむ陽気だった昼間とはうって変わって涼しい。昼夜の温度差が大きいので、風邪を引かないよう気を付けなければ。

 部屋でお茶を淹れて休んでいると、玄関付近に設置された内線電話が鳴った。

 出ると、相手は秘書の野木だった。

「太刀河さん、急ですみませんが、会長が料亭での会食に出席することになりました。三十分以内に準備を済ませて、護衛に付いてください」

 さっそくか。

 まだ護身のレクチャーも安全なルートの下調べもしていないというのに困ったものだ。

 しかし、主である金満氏が行くと言う以上、付いていかないわけにはいかない。準備の時間がないならないなりに仕事をしなくてはならない。

 俺はさっき着たばかりの部屋着を脱ぎ、仕事用のスーツに着替える。

 このスーツは普通のビジネススーツと違い、防刄仕様の特注である。値は張ったが、ボディーガートとして必要だと思い自前で用意した。

 次に武器の準備。

 ボディガードとはいえ一般人の俺が銃や刃物を携帯することはできない。用意するのは通販で誰でも購入できる護身具だ。

 威嚇用のフラッシュライトに防犯ブザー、伸縮式の警棒。

 警棒は飾りのようなものだ。こんなもので人を殴ったら過剰防衛で捕まってしまう。

 たとえ相手が無法者であっても可能な限り素手で、それもなるべく怪我をさせないように対処しなければならない。それは、武道の修練を十年二十年積んできた者でも困難なことだ。

 だというのに、会長様は「ボディガードを雇ったからもう大丈夫」とばかりに意気揚々と料亭などへ出掛けようとする。テレビでもネットでも、連日のように暴動の様子が報道されているというのに能天気過ぎる。

 だが、こんな身勝手な老人でも利用価値があるうちは全力で警護しなければならない。

 俺は黒塗りの高級車の後部座席に乗り込もうとする金満氏に提言する。

「会長、この車では目立ち過ぎます。他の車で行きましょう」

「ん? そうか」

 金満氏は微かに不満そうな顔をするものの、素直に従ってくれた。

 代わりの車は――レンタカーはすでに返してしまったし、車庫にあった息子夫婦のものと思われる車もかなりの高級車だ。今の状況ではタクシーはほとんど捕まらない。

 となると、あれしかない。

 俺は、高級車の脇に立つ中年の男性運転手に頼む。

「すみませんが、あなたの車を使わせていただけないでしょうか?」

「え、私のですか? あまり乗り心地の良い車ではないのですが。よろしいでしょうか?」

 運転手はお伺いを立てるように金満氏を見た。

「まあこんな時だ。仕方あるまい」

 そう言って、金満氏は運転手に一万円札を渡した。

「これはガソリン代だ。取っておきなさい」

 料亭までは三十分程度の道のり、千円でもおつりがくるというのに気前のいいことだ。

 こうやって事あるごとに実弾をばらまくことで、周囲の人間に裏切られないようにしているわけだな。小賢しい。

 運転手の車は、金満氏の水素エンジン搭載型の高級車より一回り小さいコンパクトカーだ。古いタイプのガソリン車なので静粛性も座り心地も比べ物になるまい。

 だが、その程度のことで不満を漏らすほど器量が小さいわけではないらしい。金満氏は黙って運転席の後ろの座席に乗り込んだ。

 その際、彼がわざわざ回り込んでその席に座ったのを俺は見逃さなかった。そこが一番安全な席だということは知っているようだ。

 その次に安全な席、金満氏の隣に秘書が座る。当然の如く、俺は一番危険な助手席だ。

 できれば金満氏の隣に座って移動中に護身のレクチャーをしたかったのだが、序列で言えば俺より秘書の方が上なので仕方がない。

 なんとか一言二言でもとタイミングを伺うも、金満氏は移動中ずっと秘書と仕事の話をしたり、電話をしたり、口を挟む隙がない。

 結局、何も伝えられないまま目的地に着いてしまった。

 こうなったらもう半分は運に任せるしかない。幕末京都じゃあるまいし、料亭を襲撃する輩などいないとは思うが……。それは希望的観測だ。油断はできない。

 俺のボディガードとしての初仕事は準備不足のまま始まってしまった。



 オフィス街の外れにある、いかにも老舗といった木造建築の料亭前に車は止まった。

 まずは俺が降り、周囲の安全を確認する。

「異常なし」

 軽く手を挙げて合図を送ると、次に降りた運転手が後部座席のドアを開け、金満氏を料亭の入り口に誘導した。

 料亭に入るのは金満氏と秘書と俺の三人だ。運転手は一礼した後、車に引き返していった。

 暖簾をくぐった先は、すぐそこのコンクリートジャングルとは別空間だった。風情ある日本庭園と古風な木造家屋が〝わびさび〟の心を感じさせる。高級であっても華美ではない奥ゆかしき情景。失われつつある日本の伝統が、ここにはしっかりと生きていた。

 欧米で始まった資本主義経済の勝ち組が伝統的な和を堪能し、庶民は安価な輸入品に囲まれた生活を送る。皮肉なものだ。

 家屋の扉を開けると、玄関で着物姿の中年女性が正座をして待っていた。

「ようこそ金満様。お待ちしておりました」

 女性は、うやうやしく床に三つ指を突き、頭を下げる。

「おう、女将か。ひさしぶりだな。こんなご時世でも営業しているとは大したもんだ」

「いえいえ、金満様のようなお客様のおかげです」

「そうかそうか。じゃあ今夜はたっぷりサービスしてもらわんとな」

「ふふふっ、お元気そうでなによりですわ」

 女将は曖昧に笑って、金満氏の発言を受け流した。

 そして、すぐさま立ち上がり、低姿勢で案内をする。

「ささ、どうぞお上がりくださいまし。奥でお連れ様がお待ちになっておりますので」

「なんだ、もう来ていたのか」

 金満氏は少しつまらなそうな表情で靴を脱ぎ、用意されたスリッパにつま先を入れた。

 俺と秘書も靴を脱ぎ、女将の案内に続いた。

 座敷には六十歳前後の男性が二人、下座に着いていた。

「二人とも早かったな」

 金満氏が言いつつ部屋に入る。秘書も一礼して続いた。

 当然、ボディガードの俺は同席できない(したくもないが)。

 女将もそれは察しているようで、金満氏が上座に着いたところで襖に手をかけた。

「それではごゆっくり」

「ああ、待ちなさい」

 金満氏が女将を止める。ただし、視線は女将ではなく俺の方に向いていた。

「太刀河君、中へ」

「……はい」

 なんだ? まさかボディガードを同席させる気か? だが席は四人分だ。いくらなんでもそれはないと思うが。

 俺の不安を余所に、金満氏は得意気な表情で「ここに座りなさい」と言う。

 言われたとおり、俺は金満氏の隣に正座した。 

「会長、その若者は?」

「新しい秘書ですか?」

 男性二人の質問に、金満氏は「いいや」と首を振った。

「紹介しよう。わしの新しいボディガードの太刀河君だ」

 男性二人は意外そうな反応をした。

「なんと!」

「ボディガードでしたか!」

 二人が驚くのも無理はない。ボディガードといえば、誰だって屈強な大男を思い浮かべるだろう。俺の見た目はそれとは正反対だ。言われなければ秘書にしか見えまい。

「はじめまして、太刀河信と申します」

 俺は正座したまま軽くお辞儀をした。

「A社社長の田山だ」

「同じく専務の後藤だ」

 A社といえば、日本人なら大抵は知っているであろう大企業だ。そこのトップとあいさつを交わすなど、そうそうできる経験ではない。特に興味はないが。

 それより早く脱出経路の確認がしたい。

 しかし、無情にも話は続く。

「では、澤村君はどうなったんですか? 彼は確か、キックボクシングのチャンピオンだったでしょう?」

「まさか、この青年はチャンピオンよりも強いんですか?」

 田山と後藤の発言を、金満氏は高く笑い飛ばした。

「君たち、人を見た目で判断しちゃいかんよ。この太刀河君は澤村を一撃で倒した強者つわものだぞ」

「ええ!」

「本当ですか!」

「本当だとも。そもそもスポーツと実戦は違う。澤村はリングの上では強いかもしれんが、所詮はスポーツマンだ。不意打ち、騙し打ち、何にでも対応できてこそ本当のボディガードだよ」

 覚えたての知識を自慢気に披露する会長様。

「君たちもボディガードを雇う際は気を付けるんだぞ。いざという時、スポーツマンでは役に立たんからな」

 昨日は戸惑っていたというのに、いい気なものだ。

「会長、そろそろ外の様子を見てきます」

「ん、そうかね」

 酒が届き、話が途切れたタイミングを狙って、俺は席を外した。

 会長の自慢話を聞いている場合ではない。早く仕事に戻らなければ。

 今さらではあるが、俺は有事の際の脱出経路を確認する。

 この建物の出入り口は表玄関と裏口の二ヵ所。店の人に許可をもらって裏口の扉を開けてみると、そこは駐車場につながっていた。駐車場には運転手が待機しているので、ここからならすぐに脱出できそうだ。逆に裏口方面から不審者が近付いてきた時は運転手がすぐに知らせてくれる手筈となっている。

 次に、手の空いてそうな従業員を捕まえて、この辺りの治安状況について聞く。

 今のところ、この辺りで暴動や略奪といった事件は起きていないようだ。客が減って困っているとのことだが、治安そのものは悪くないらしい。

 運が良かった。これなら、今日は無事に帰れる可能性が高い。もちろん油断するつもりはないが。

 本来なら金満氏が来店する前に行わなければならない調査が今になってようやく完了した。このざまではプロに言わせればボディガード失格だろう。本職ならば事前調査が済むまでは金満氏を家から出さなかったはずだ。

 だが、俺には俺の目的がある。金満氏を再教育するためには、俺のことを認めさせなければならない。俺の言うことなら何でも信じるようになるところまで持っていかなくてはならない。

 だから雇われて間もない今の段階では、あまりうるさいことは言えない。嫌われて解雇されればおしまいだ。

 今は我慢の時だ。今は。



 調査が済んだ以上うろうろしていては迷惑がかかるので、部屋の前で待たせてもらうことにした。幸い、庭に面したこの廊下からなら店の出入口が見えやすい。怪しい人物が入ってきても即対処可能だ。

 襖越しに金満氏たちの話し声が聞こえてくる。

 特に釘は刺されていないので立ち聞きしていたが、内容は仕事に関することか暴動に対する愚痴ばかりだった。

「まったく、民衆の迎合主義には困ったものですな」

「そうそう、周囲がやることなら迷惑行為もお構いなし。奴らの中じゃ暴動も流行の一種なんですよ」

「だが、今回の騒動で被った経済的損失は大きい。その分また人件費を削らなくてはいかんな」

 ずいぶん勝手なことを言う。

 この騒動は自分たちが引き起こしたものだということがなぜわからない。そもそも犯罪行為をしたのは企業側が先だ。違法な長時間労働や賃金未払い残業など、自分たちがさせていることを棚に上げてよく言える。しかも、肝心の暴動をどう収縮させるかという話が出てこない。放っておけばそのうち終わるとでも思っているのか。

 話を聞いているうちに、だんだんと自信がなくなってきた。本当にこんな老人たちを指導できるのか。日本はもう沈没してしまうのでないのか。若者に負債を押し付け、裕福な老人だけが逃げ抜けしていく社会に未来など……。

 ふと、昨日会った女の子の姿が思い浮かんだ。それから、今まで勤めていた小学校の子供たちも。そうだ、あの子たちの未来のためにも簡単に諦めるわけにはいかない。戦いはまだ始まったばかりだ。

 それから一時間ほどで会食は終わり、部屋から四人が出てきた。

 途端、つんとしたアルコール臭が鼻に付く。かなり飲んでいるようだ。

 顔を赤くした金満氏が、ふらふらと俺の肩に寄りかかってくる。

「おう、これから二次会に行くから、今度は君も付き合え」

 鼻がもげるかと思うほど息がくさい。

 俺は顔を背けるのを全力で我慢しつつ、申し上げる。

「会長、これ以上は身体に毒です。今日はもう帰りましょう」

「なんだと!」

 金満氏は赤く火照った顔を、さらに赤くして大口を開いた。

「わしと酒は飲めねえってのか!」

「いいえ、会長のお身体を気遣ってのことです。それに私は仕事中ですので、お酒は飲めません」

「主人のわしがいいと言ってるんだから、ごちゃごちゃ言ってねえで付いてこい!」

 どうやら言葉は通じそうにない。

 やれやれ、地位も名誉もある人間が品のないことだ。そうやって怒鳴り散らせばみんな言うことを聞くと思っているのか。

 だがどうする? 

 いっそ眠らせるか?

 コンマ二秒あれば、脳を揺らすように顎を打って気持ちよく眠らせることができる。ついでに記憶も飛ぶ。他の三人が目を離した隙にやってみるか?

 いやいや、さすがにまずいだろう。

 相手は酩酊した老人だ。澤村のような屈強な男とは違う。下手をすると、そのまま永眠してしまう可能性もある。

「ほら、さっさと来い!」

 金満氏はふらつきながらも、肩をいからせて廊下を歩き出す。

 早くも恐れていた事態になってしまった。だが、こればかりはいくら主の命でも従うわけにはいかない。かといって力づくはダメだ。

 俺はすがるように秘書の顔を見る。

 すると、秘書はハッと気付いたように目を開き、金満氏をなだめにいった。

 そこに、もう名前も覚えていない社長と専務も加わったことで、金満氏は渋々ながら二次会に行くのを諦めてくれた。



 翌日。

 金満氏は十時半くらいになってようやく起きてきた。

「おはよう、太刀河君。昨日は無茶を言ってしまったようで悪かったな。今日は午後からゴルフだから、またよろしく頼む」

 昨日怒鳴った時とはまるで違う態度だ。おそらく記憶が飛んでしまったのだろう。

 そして後になって秘書から聞いた、といったところか。

 無責任な。これだから酔っ払いは。

 ゴルフ場の下調べは早朝に済ませてある。あとは護身術のレクチャーだ。どうにか時間を作れないか伺ってみると、朝食兼昼食の後に聞いてくれるとのことだ。

 というわけで、本来なら初仕事の前に行わなければならなかった第一回レクチャーを、金満邸の食堂にて始める。

「はじめに最も大切なことを申しますと、たとえプロのボディガードが百人いても、クライアント自身に防衛意識がなければ確実に守りきることはできません。どうかすべてをボディガードに任せきりにするのではなく、自分の身は自分で守るのだという意識をお持ちください」

「ふむ」

 昨日のことを多少は反省しているのか、金満氏は静かに頷いた。

 俺は説明を続ける。

「防衛における基本は、あらかじめ危険を回避することです。危険が起きてから対処していたのでは、手遅れになる可能性が高いと言わざるを得ません。ですので、我々ボディガードの仕事は事前策が最も重要だということを、どうかご理解ください」

 わざわざ言わなくても、昨日のような急な呼び出しは困るというのはわかるだろう。

「ボディガードはバーの用心棒とは違います。事が起きてから収拾をつけるのはヤクザのやり方です。何も起きないのが一番なのです」

 何も起きなかったからボディガードを雇って損をしたと思うのは間違いだ。ボディガードがいたからこそ、何も起きなかったのだ。

「ん……まあ、そうだな」

 歯切れの悪い返事だが、納得はしてくれているようだ。

 こうして耳を傾けてくれるだけでも助かる。この人はまだ理解がある方だ。「こっちは金を払っているのだから四の五の言わずにすべてやれ」と丸投げされては、どれほど優秀なプロでもお手上げだ。

 言いたいことはまだたくさんあるが、これ以上は覚えきれまい。今日のところは、このくらいにしておこう。

 金満氏が気を悪くしないよう、最後は穏やかに言う。

「それから、お酒の飲み過ぎには気を付けてくださいね。健康を損ねてしまっては護衛もなにもありませんから」



 予定通り、午後からゴルフに出掛ける。

 秘書が同行するということは、やはりゴルフは仕事なのか? それとも、彼女もゴルフをするのか? 服装はビジネススーツだが、それだけでは断言できない。

 ボディガードとしても個人としても気になるので、秘書に聞いてみた。

「仕事で行かれる時もあれば、趣味の時もあります。今日はお得意様がいらっしゃるのでわたしも同行しますが、会長お一人で出掛けることもありますね」

 なんとも曖昧な答えだった。

 昨日の会食といい、どうもこの人たちは仕事とプライベートの境界があやふやなようだ。 

 そんなことだから社員のプライベートを軽んじるのではないのか? 

 ゴルフ場へは昨日と同様、運転手の自家用車に乗っていく。会長様は少々渋い顔をなさっていたが、ゴルフ場に着いた途端パッと明るくなった。

 なぜなら、駐車場にある大半の車が高級車ではなく大衆車だったからだ。高級車で来た者はボディガードが付いていない者、あるいは護衛の知識がないスポーツマンが付いている者ばかり。すなわち、今日この場に限っては大衆車で来ることがステータスになっていたのだ。

 会長様は上機嫌で車を降り、ラウンジに入っていく。

 午前中に一度下見で来ているとはいえ、政財界のサロンとも呼ばれる場に足を踏み入れるのはさすがに緊張する。中にはテレビやネットで見たことのある顔もあった。

 だが、ここには俺以外のボディガードもたくさんいるので心強い。

 プロ・アマ合わせて二十人といったところか。これだけの防衛網を突破しようと思えば相当な戦力が要るだろう。それだけの人数が接近してくればすぐさま察知できるため、避難させるのは容易だ。この場合、怖いのは集団による暴動ではなく、単独でターゲットを殺しに来る鉄砲玉みたいな刺客だ。

 よって、ここでの仕事はゴルフ場に近付いてくる人間を見張るのと、コースの茂みなどに人が隠れていないかを探るのが主になる。当然、広いゴルフ場を一人で見て回ることはできないので、その場にいるボディガード全員で役割を分担することになった。

 俺に割り振られたのは、有事の際、客たちに異変を知らせ、素早く安全な場に誘導する役目だった。つまり、俺はずっと客たちの近くにいて彼らのプレーを見守らなければならない。贅沢を言うべきではないが、最も退屈な役目だ。

 ゴルフに興味はない。誰が上手くて誰が下手なのかもよくわからない。

 ただ、会長社長クラスの老人たちが気持ち良くプレーするための、いわゆる接待ゴルフをする若手(といっても四十歳以上が多いが)の繊細な心遣いにはある意味で驚嘆した。

 彼らは今、完璧に自我を抑えている。完璧に感情を制御している。その献身的な姿は菩薩を彷彿させるほどのものだった。

 ただし、出世のためだが。

 その慈悲深い笑顔を半分でいいから部下に向けてやってほしいものだ。



 今日も無事、帰途に着くことができた。やはり平穏無事が一番だ。

 当面の住処となった宿舎に戻り、スーツを脱ぐ。

 これから夕食の準備をしなくてはならない。外出許可はすでに取ってあるので、近所のスーパーか露店で食材を調達して、調理して。そのあたりはアパートで一人暮らしをしていた頃と変わらない。ただし、食材の値段が高騰しているため贅沢はできないが。

 今日もまた、もやし炒めだな。それから厚揚げを焼いて、みそ汁は買い置きのインスタントにしよう。

 なるべく安価なメニューを考えながら着替えが済んだところで、部屋のインターホンが鳴った。

 また仕事か?

 無視したく気持ちを抑えつつ扉を開けると、そこにいたのはお隣の女性、三辻真里さんだった。ふわりとしたアイボリーのワンピースの上に白いエプロン、頭には三角巾を着けている。古風なメイドのような姿だ。まっすぐなロングヘアは背中で一本に束ねられている。

「あの、今日はもう、お仕事終わりなんですよね?」

「ええ、そうです」

「夕飯の準備はまだですか?」

「はい、これから食材を買いに行こうとしていたところです」

 答えると、三辻さんの遠慮がちだった表情がパッと華やいだ。

「よかったら、うちで一緒に夕飯をどうでしょうか?」

「え、いいんですか?」

 意外な展開に驚き、目を開く。

「はい。二人分も三人分も、作る労力は大して変わりませんから。それにスーパーや露店では食材を買うのが難しいでしょう?」

「そうですね……。でも、三辻さんはどうやって食材を調達してるんですか?」

「駅のデパートで買ってきます。あそこなら食材が揃ってますので。ただし、お値段はとても高いですけどね」

 なるほど、高級デパートには優先的に食材が供給されているわけだ。

 どんな状況化でも、相応の金さえ出せば物は手に入るようにできているのだな。

「あ、食材の費用は気にしなくていいですよ。旦那様から、わたしたちの分もついでに買ってきていいと言われているので」

 そういうことなら経済面は問題ない。

 だが、もう一つ大問題がある。

「でも、その、俺みたいなのが家に上がり込んでしまっては、あなたの配偶者に申し訳ないというか……」

「いえいえ」

 三辻さんは小さく首を横に振った。

「うちは母子家庭ですから、夫はいません。それに、愛ちゃんもあなたに会いたいって言ってましたよ」

 そうか、あの子が……。

 父親がいなくて寂しいのかもしれない。俺に代わりが務まるとは思えないが、少しでも気が紛れるなら会ってあげたい。

「ではせっかくなので、ごちそうになります」

 三辻さんは嬉しそうに微笑んだ。

「では、わたしはこれから母屋の方の食事を作ってきます。旦那様はいつも夕飯が早くて七時頃には片付けまで済みますので、こっちの夕飯は七時半くらいになります。もしよかったら、少し早めに行って愛ちゃんと遊んであげてください」



 午後七時前。ようやく日が沈み、空が薄暗くなってきた頃、俺はお隣の三辻家を訪れる。

 インターホンを鳴らし、スピーカーに向かってあいさつをすると、すぐにバタバタと足音がして扉が開いた。

「あ! タッチーだぁ!」

 中から、ショートヘアの女の子が元気な声を上げて出てきた。

 タッチー?

 女の子――愛はピンと背筋を伸ばし、深々とお辞儀をする。

「こんばんは!」

 おお、一人でもちゃんとあいさつできるんだな。さすが将来お地蔵さんを目指すだけのことはある。

 俺はその場でしゃがみ、視線の高さを愛に合わせた。

「こんばんは。ところでタッチーっていうのは、もしかして俺のことかな?」

「そだよ。たち……たち……だからタッチー!」

 太刀河だからタッチーと言いたいのだろうが、本名を忘れているようだ。まあ、おじさんよりはいいか。

「タッチー、きてきて!」

 愛に袖を引っ張られ、俺は前屈みの姿勢で部屋に入った。

 間取りはうちと同じ1K。ベッドに箪笥、化粧台、それから、床にちゃぶ台が置かれている。三人で食事をするのにちょうど良さそうな大きさだ。

 男の部屋にはないフローラルな香りに鼓動が高鳴る。今さらながら、本当にお邪魔してよかったのかという気がしてきた。

「タッチー、ここすわって」

 俺にちゃぶ台の前に座るよう愛が促してきた。

 それから一冊の絵本を手に、隣に座ってくっついてくる。

「ねえ、これよんで」

「うん、いいよ」

 俺は愛から絵本を受け取る。

 表紙には、藁の傘をかぶったお地蔵さんが可愛らしく描かれていた。日本人なら皆知っているであろう有名な昔話『かさじぞう』だ。なるほど、これに影響されたのか。

 三辻さんに何度も何度も読んでもらったのだろう、ふちが擦りきれた絵本のページをめくり、平仮名で書かれた文章を読み始める。

「むかしむかし、あるところに――」

 おじいさんとおばあさんがいて、雪の日におじいさんがお地蔵さんに傘を被せてやったら、夜中お地蔵さんがやってきて、お礼に食べ物をたくさん置いていってくれたという話だ。

 今でこそ、お地蔵さんがどうやって食べ物を調達したのかという疑問を感じるものの、俺も昔はこの心暖まる話が好きだった。

 読み終えると、愛がこちらを見上げてきた。

「タッチーはおじぞうさんみたいなことできる?」

「え、お地蔵さん? おじいさんじゃなくて?」

「うん、おじぞうさん」

 どういう意味だ? おじいさんみたいな優しい行いができるかというならわかるが、おじぞうさんみたいって……。

 俺が答える前に、愛はしゃべり出した。

「あいね、おじぞうさんになって、ママにたべものもってきてあげたいの。そしたら、おうちかえれるでしょ?」

 食べ物……おうち……。

 俺は眉をひそめる。この発言は尋常ではない。

「おうちっていうのは、ここじゃなくて前に住んでたおうちのことかな?」

「うん」

「もしかして、ここが嫌いなのかな?」

「うん。あい、おうちにかえりたい。でも、あのおうちだと、あんまりごはんたべられないから。だから、おじぞうさんみたいにいっぱいだせるようになりたいの」

 それでわかった。この子は、お地蔵さんが魔法のように食べ物をいくらでも出せると思っているのだ。そして、そんな願望を持つということは、ここに来る以前は食べる物にも困るほど貧しかったということだ。

 加えて、ここなら食べ物に困ることはないのに、それでも出ていきたいということは、かなり嫌な目に遭っているに違いない。もしかしたら、金満氏の孫あたりにいじめられているのかもしれない。これは調べてみる必要があるな。

 その時、部屋の扉がガチャリと開いた。三辻さんが帰ってきたようだ。

「ママー!」

 愛は跳ねるように立ち上がり、三辻さんの腰に抱き付いていく。

「あのね、あのね、タッチーにえほんよんでもらったの!」

「そう、よかったね」

 三辻さんは柔らかな笑顔で愛の頭を撫でた。

 それから、こちらに顔を向けてくる。

「この子の相手をしてくださってありがとうございます。すぐに夕飯を作りますので、もう少し一緒に遊んであげてください」

 それから三十分ほど、俺は愛にいろんな絵本を読み聞かせてあげた。

 どの本も擦りきれてはいるものの、破れたり汚れたりはしていない。大切に扱っているようだ。

 もう何度も読んでもらって知っている話だろうに、愛は楽しそうに俺の朗読を聞いてくれた。

 同じ話でも読む人間が違うと新鮮に感じるのかもしれない。

「お待たせしました」

 三辻さんが食卓に料理を運んでくる。

 タケノコご飯にアスパラと湯葉のサラダ、たらの芽の天ぷらと、春の食材が満載だ。

 これだけの料理を三十分では作れない。おそらく、母屋の方である程度仕込みを済ませて持ってきたのだろう。

 三人で手を合わせ、食前のあいさつをする。

「いただきます」

「いただきます」

「いただきま~す!」

 まずは、たらの芽の天ぷらを醤油につけて一口。

 ……うまい!

 それから、サラダ、タケノコご飯を口に運ぶ。こちらも絶品だ。

 食材に良いものが使われているというのもあるが、それ以上に三辻さんの料理の腕が光っている。一流レストランでも通用するかもしれない。

 なるほど、この料理の腕を買われて金満氏に雇われたのか。分野は違えど、この女性もまたプロに匹敵する能力を持っている。

 だが、これほどの料理をちゃぶ台囲んで食べるというのも不思議だ。これほどの腕前を持ちながら、なぜ貧しい暮らしを?

「タッチー、おいしい?」

 愛の声で我に返る。

「うん、おいしいよ」

 そう答えると、愛は目を輝かせてさらに聞いてきた。

「いちばんおいしい?」

「うん、一番だ」

「やったぁ!」

 この子は本当にママのことが好きなんだな。

 俺もこのくらいの頃は母親にべったりだったろうか。よく覚えてないな。でも、楽しかった気がする。たぶん、あの頃が一番……。

 ふと、三辻さんと目が合う。

 三辻さんは少しはにかむように笑った。

 結婚して子供が生まれたら、こんな感じなのだろうか。だとしたら、ちょっと憧れるな。

 そうして、夢のような時間が過ぎていった。

「ごちそうさまでした」

 食材の高騰によって腹八分どころか六分くらいしか食べられない日々が続いていたので、お腹いっぱいで幸せな気分だった。

 食後のお茶をいただきながら、三辻さんが言う。

「太刀河さん、もしよかったら、これからも一緒に夕飯をいかがでしょうか? 時間のある日だけで構いませんので」

 そんなこと、願ってもみない申し出だ。

「ありがとうございます。では、予定のない日には、またお邪魔させていただきますね」

 愛が背中に抱き付いてきた。

「タッチー、またくる?」

「うん。また来るよ」

「じゃあ、またえほんよんでくれる?」

「うん」

 と言っても、ここにある絵本は今日全部読んでしまった。料理のお礼もしたいし、明日新しいのを買ってきてあげよう。

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