優しい国にするために

ンヲン・ルー

第1話 ボディガード

 街というものは、ほんの数週間あまり人が手入れしないだけで、こんなにも荒れてしまうのか。

 まず生ゴミが腐ったような悪臭がひどい。発生源は明白。回収されるはずのゴミが回収されず、カラスに突っつき回わされてそこらじゅうに散乱しているのだ。たった数回、回収されなかっただけで、街の大半が悪臭に包まれてしまうゴミの量に驚嘆する。道行く車が減って排ガス臭さはなくなったが、気休めにもならない。

 次に公共交通機関だ。バスや電車の本数が大幅に減ったせいで、バス停や駅に人が溢れかえっている。ただでさえ押し合いをするほど混雑しているというのに、人を運ぶ器が半分以下になってしまえば、そこに待ち受けるのはマナーもへったくれもない戦場だ。若い女性やお年寄りが早々に諦めて立ち去っていく。駅員の悲痛な叫びは、誰にも届いていなかった。

 スーパーやコンビニは品薄状態だった。特に食料品不足が深刻で、価格は軒並み三倍以上に跳ね上がっていた。すでにシャッターを降ろしてしまった店もある。代わりに、農家が野菜などを直接売りに来る姿を見かけるようになった。軽トラックの前に買い物客が群がっている。青々とした積荷が見る見るうちに減っていく。それに比例するように客のマナーが悪くなる。最後には順番を守る者などいなくなり、オークションのような状態と化していた。

 小学生の集団下校を見かける。ここのところ毎日だ。集団には親か教師らしき大人が必ず張り付いている。中には、これみよがしに竹刀を携えた大人までいた。普段はひまわりのように明るい子供たちの笑顔が一様に陰っていた。

 

 

 西暦二〇二×年。五月中旬。

 温暖化の影響か、晴天の昼間は三十度近くにも上り、夏のように暑い。

 特に熱がこもりやすいコンクリートジャングルでは長袖など着てはいられない。が、着ていなければならないのが社会人のつらいところだ。

 もっとも、現在その社会がまともに機能しているとは言い難い状況ではあるが……。

「――おい!」

 少し離れたところから、低い怒鳴り声が聞こえてきた。

 足を止め、顔をそちらへ向ける。

 薄暗い路地で男子中学生が柄の悪い二人組に絡まれていた。恐喝の類いだろう。

 胸ぐらをつかまれ、壁に押し付けられた男子中学生は怯えきっている。

 放っておくわけにもいかない。俺は携帯電話を手に、男たちに声をかけた。

「やめておけ。通報するぞ」

「はぁ?」

 こちらを向いた二人に一一〇番の入力を終えた画面を見せつける。

 もうワンタッチで通報できる状態だ。

 だが、二人は鼻で笑った。

「馬鹿かお前? 警察がこんな小さな事件で動くわけねえだろ」

「今はそれどころじゃないからな」

 悲しいが、男たちの言うことは本当だ。退いてくれる可能性もあったので威嚇してみただけだ。俺は携帯電話を引っ込め、ズボンのポケットにしまう。

「じゃあ、俺が代わりに金を出すから、その子は見逃してやってくれ」

 そう言うと、男たちはチラッと目を合わせた後、男子中学生を解放した。

 男子中学生は何も言わず、足をもつれさせながら走り去っていった。

「で、いくらくれんの?」

 今度は俺に迫ってくる男たち。

 中学生より大人の俺の方が金を持っていると判断したのだろう。それに、自分で言うのもなんだが、俺は背が低く細身で見た目は弱々しい。男たちは、格好の獲物が自ら飛び込んで来てくれたという表情だ。

 残念ながら、それは判断ミスなわけだが。見た目と中身は必ずしも一致しない。

「もう面倒だから財布ごとよこせよ」

「カード持ってんなら暗証番号も教えろ」

 無防備過ぎる。

 顔面も鳩尾みぞおちも股間もガラ空きのまま、平然とこちらの間合いに入ってくる。

 明らかに素人、ただのチンピラだ。

 先制攻撃で一人倒せば、あとは一対一。武器を出される前に畳み掛ければ、まず問題なく勝てる。二度とふざけた真似ができないよう懲らしめてやろう。

 ――と言いたいところではあるが、こんな雑魚を蹴散らして悦に入るなど三流のやることだ。俺はそんなことのために武道をやっているのではない。

 ここは逃げるが勝ちだ。

「あ! 危ない!」

 何の前触れもなく、俺は男たちの背後を指して叫んだ。

 男たちは反射的に後ろを向く。それが演技だとは気付かず。

 その隙に、俺は反対方向に全速力で駆け出した。

「あ、おい!」

 二、三秒して男のどちらかが気付いたようだが、すぐには追ってこられまい。

 心構えのない人間が、とっさに全力で走ることなどできはしない。ましてや、連中は楽して金を手に入れようとする怠け者だ。まず本能が拒否する。

 俺は脇目も振らず、男たちの視界から消えるように角を曲がり、人通りのある道に出た。

 これでもう追いかける気力は萎えたはずだ。

 念のため、しばらくは後方を確認しつつ、クールダウンするように軽く走る。

 やはり追いかけてはこなかった。だいぶ時間を稼いだから、男子中学生の方を追ったということもあるまい。ひとまず危機は去った。

 俺は走るのを止め、歩きながら呼吸を整える。額から流れ出る汗をハンカチで拭く。

「はぁ……」

 そして、ため息をついた。

 むなしかった。あれでは何の解決にもなっていない。今頃あの男たちは悔しがっているだろうが、それも一時のこと。また新たな獲物を探して恐喝を続けるだろう。

 では懲らしめてやった方がよかったか?

 そんなことをしても、連中は俺を恨むだけで反省などしない。それがわかっていたから武力行使はしなかった。俺の力では、たまたま目に入った人間を助けるだけで精一杯なのだ。

 街や人がすさんでいても、夕陽は変わりなく綺麗だった。



 街がこのようになってしまったのは、一ヶ月程前から全国各地で大規模発生するようになったデモやストライキが原因だ。

 企業による労働者の使い捨て、違法な搾取、広がる所得格差。それを放置するどころか後押しする政府運営。積りに積もった民衆の怒りが、ついに爆発したのだ。

 デモやストライキに参加するのは、主にこれまで負担を強いられてきた労働者たちだ。そうなれば必然、国中のあらゆる業務が滞ることになる。事なかれ主義、先送り体質の政府では、この騒動に適切な対応をすることができない。

 そうして手をこまねいているうちに騒ぎは暴動へと発展し、暴力行為や破壊行為まで発生するようになった。警察は暴動を抑えるのに多くの人員を奪われ、街の治安は急激に悪化した。先ほどのような恐喝行為は今や日常茶飯事だ。

 このような状況のため、身の危険を感じ始めた富裕層はボディガードを雇うようになった。ただし、日本にはプロのボディガードが少ないため、高名な武道家や格闘家と個人契約をするケースが多いという。

 しかし、彼らの多くがスポーツ選手であり、護衛には不向きであることが露呈。それにより今まで表舞台に出ることのなかった真の武道家たちに注目が集まることとなった。

 そして、俺もその一人。試合で勝つためのスポーツ武道ではない、本物の武道を学んだ人間だ。そのことを知っている人間は多くないはずだが、いったいどこで聞き付けてきたのか、俺のところにもボディガードの依頼がやってきた。

 最初は断ろうと思った。

 たまたま金集めの才能があったというだけでふんぞり返っている老人のお守りなど冗談ではない。俺には教師という大事な務めがある。

 だが、ふと思い返した。これはチャンスではないかと。

 認めたくはないが、この資本主義社会において、金集めが得意な人間に発言力があるのは紛れもない事実だ。そんな彼らの立場を利用して、社会を少しでも良い方向に導けないだろうか。

 ボディガードとは、依頼主のために身体を張るだけが仕事ではない。どんなに優れた能力を持っていても、ターゲットである依頼主自身に防衛意識がなければ到底守りきれるものではない。よって当然の如く、最低限の護身術は指導させてもらうことになる。

 そう、ボディガードになれば彼らに指導をする機会があるのだ。その機会に武道精神の根幹たる慈悲の心を伝えられれば、この暴動騒ぎを穏便に止められるかもしれない。

 ほこを止めると書いて『武』と読む。

 本来、武道とは戦うためのものではなく、戦いを止めるためのものなのだ(異説はあるが、俺はそういうものだと解釈している)。

 うまくいくかどうかはわからないが、やってみる価値はある。このままではどのみち、子供たちに明るい未来はないのだから。

  

 

 正式採用の前に面談を行うということで、俺はダークグレーのスーツを纏い、依頼主である金満かねみつ氏の邸宅を訪れた。

 都会の喧騒から少し離れた閑静な住宅街に位置する、古風でありながら最新のセキュリティが施された豪華な日本家屋だ。

 インターホンを鳴らしてしばらく、スピーカーから男性の声が聞こえてきた。

『どちら様で?』

「失礼します。ボディガードの依頼を受けて参りました、太刀河信たちかわしんと申します」

『どうぞ』

 素っ気ない対応の後、カシャッと扉のロックが解除される電子音がした。

 扉の向こうには広大な庭と木造二階建ての母屋があった。

 それから、俺と同じ二十代後半くらいの男が庭に立っていた。七十歳の金満氏の息子にしては若い。孫にしては逆。服装こそビジネススーツだが、顔付きや髪型が金持ちの息子という雰囲気ではない。ヤクザというかヤンキーというか、とにかく柄の悪そうな男だ。だが、金満氏の親族かもしれないので失礼はいけない。

 俺はお辞儀をしつつ、改めてあいさつする。

「はじめまして。太刀河です」

「へえ、あんたが……」

 男はあいさつを返そうともせず、品定めするようにこちらを見てきた。

「全く強そうに見えねえな。ほんとに武道の達人なのか? なんかの間違いじゃねえのか?」

 無礼な……。

 だが、これしきことで腹を立てるほど未熟ではない。

「私では、まだまだ達人には及びませんが、この家のご主人にボディガードの依頼を受けたことは確かです。ご主人に会わせていただければわかることです」

 男はあからさまに舌打ちをした。

「言われなくともそうするさ。あんたを案内するのが俺の最後の仕事らしいからな」

 なるほど。この男、元ボディガードか。

 よく見ると、服の上からでも細身ながら筋肉質なのがわかる。肩幅が広く、ウエストの割に足が太い。体型からしてボクシングかそれに近い競技といったところだろう。

 男は案内すると言いながら動こうとしない。

「ところでよ、俺のこと知ってるか?」

 俺は小さく首を横に振る。

「いいえ、存じません。どこかでお会いしましたか?」

「そうじゃねえ。新聞とか雑誌とか見てねえのかよ。俺はキックボクシングのウェルター級チャンピオン、澤村隆さわむらたかしだぞ」

 キックか。ならば離れて戦うのは得策じゃないな。いざとなったら素早く組付けるよう、さりげなく距離を詰めておくか。

 分析しつつ、俺は答える。

「すみません、スポーツ記事は見ていませんので。それより、そろそろご主人のところへ案内していただけませんか?」

「その前に俺の話を聞いてくれよ」

 澤村と名乗った男は、本題を無視して話し始めた。

「実は俺な、金がなくて困ってるんだよ。チャンピオンつっても客が入らないんじゃ金にならなくてよ」

「そうですか」

 彼らのファイトマネーの額など知らないが、同じプロでも野球やサッカーのような人気スポーツとは比べものにならないことは予想できる。ましてや、今の状況では試合そのものができるかどうか。

 こちらの興味なさそうな態度にも構わず、澤村は話を続ける。

「そうなんだよ。それでせっかくいい仕事が見つかったってのに、たった一週間でクビになっちまった。だから困ってんだよ」

 知ったことではない。が、彼を怒らせても仕方がないので、丁寧に言葉を返す。

「申しわけありませんが、私に言われてもどうにもなりません。ご主人に相談されてはいかがでしょう?」

「もうしたよ。そしたらこう言われたんだ。『君が太刀河より優れていることを証明すればクビは取り消す』ってな」

 そういうことか。

 これで金満氏の知能レベルがわかった。到底この屋敷の荘厳さに見合うものではない。

「ま、そういうわけだから一対一の勝負、受けてもらうぜ」

 澤村は不敵な笑みを浮かべながらネクタイを緩める。

 優れているという言葉を格闘能力の優劣だと思っているらしい。典型的なスポーツマンの発想だ。だからクビになったということが、まだわからないのか。

「こんなところで戦っても無意味です。その話が本当かどうかも確認したい。まずはご主人に会わせてください」

「話は本当だ」

 不意に、澤村の後方から低く威厳のある声がした。

 現れたのは、背が低く腹の出っ張った肥満体型、不自然なほど黒く染まった髪の老人。

 依頼主の金満氏だ。

「太刀河君、これはテストだ。君が本当にわしのボディガードにふさわしいかどうか。この男に勝って証明してくれ」

 バカな……そんなことをして共倒れになったらどうするつもりだ? 武道家を闘犬か何かと勘違しているのか?

 後方の扉は固く閉ざされている。逃げ場はない。マイナーな競技とはいえ相手はプロ、それもチャンピオンだ。まともにやって勝てる相手ではない。

 まだ組付くには距離があり過ぎる。仕方ない、あの手でいくか。

「悪人ではない人間と戦うのは本意ではありませんが、ご主人が命じるのであれば従います。ルールはいかがいたしましょう?」

「ない。好きにやれ」

「わかりました」

 俺は澤村に対し、あえて無造作に歩み寄る。

「澤村さん、勝負の前に一つだけ条件を聞いていただきたいのですが、よろしいでしょうか?」

「あん? なんだ?」

 やはりわかっていない。こうもやすやすと接近を許すとは。

 俺は何も言わずに澤村の顎を掌底しょうてい(手のひらの肉厚な部分)で打ち抜いた。

「あ……?」

 金満氏の間の抜けた声。

 同時に、澤村は石畳の上に崩れ落ちた。

 ……起きてこないな。

 俺はしっかり残心ざんしんをとった後、金満氏に言う。

「これでいかがでしょう?」

「おい! 今、話の最中だったろうが。合図もなしに、いきなりなんだ?」

 金満氏は困惑した表情で返してきた。

 スポーツマンをクビにして俺を雇ったというのに、事の本質がわかっていないらしい。

 俺を雇うことに決めたのは誰かの入れ知恵のようだ。それも中途半端な。

 ならば教えてやるしかあるまい。

「お言葉ですが、実戦に合図などありません。わざわざ予告をしてから襲いかかってくる輩などいません」

「だが、これはテストだ」

「先ほどルールはないとおっしゃったでしょう? ならば、合図をする前に攻撃してはならないというルールもありません。私が承諾した時点で戦いは始まっていたのです。スポーツマンである彼にはそれがわからなかった。彼はボディガードにはふさわしくありません」

 有無言わさぬ口調で一気に捲し立てた。

 これで通じぬ程のボンクラなら、もはやこの場所に用はない。

「ふむ……まあいいだろう。合格だ」

 金満氏はぎこちない表情で告げてきた。

 とりあえず第一関門は突破か。まだまだ先は長そうだ。



 金満氏は澤村に十万円の手切れ金を支払うことで、恨み辛みはすべて水に流すよう約束させた。顎を叩き割るのではなく、脳を揺らす打ち方をしたので外傷も出血もない。せいぜい今晩、頭痛で眠るのに苦労する程度のダメージだ。それで十万円は手厚い。

 澤村は困惑と歓喜が混じった様子で屋敷を去っていった。

 それから、彼と入れ代わるようにスーツ姿の女性が庭に姿を現した。

 金満氏より一回り若い五十代前半といったところか。服装やきびきびとした動作からして奥方には見えない。おそらく仕事上の関係者だろう。

 女性は軽くお辞儀をする。

「太刀河信さんですね。はじめまして。金満会長の秘書の野木のぎと申します。さっそくですが面談を行いますので、応接室までご同行ください」

 ようやく面談を受けられるか。俺にとっては全然さっそくではないが、突っ込んでも仕方がないので無難にあいさつを返し、付いていく。

 建物や庭の和風な外観と違い、応接室はなぜか洋風だった。豪華なソファセットにシャンデリア、鳩の古時計というアンティークな雰囲気の中に、これまたなぜか鮭をくわえた木彫りの熊。なんともチグハグな趣味をしていらっしゃるようだ。金持ちの考えることはわからない。

 金満氏は付いて来なかった。面談は秘書が行うらしい。採用自体はすでに決まっているので、ここで話し合うのは具体的な仕事内容だろう。

 はじめに、秘書から一枚のプリントを手渡された。紙面には今月のカレンダーが印刷されており、空白の部分に様々な予定が書き込まれている。

「そちらが会長のスケジュールです。基本的にはそのスケジュールに従って護衛の任に就いてください。変更があった場合はすぐにお知らせします」

 会長というのがどんな仕事かは知らないが、会社員と違って毎日同じ時間に仕事をするわけではないようだ。『会食』『会合』『ゴルフ』の予定が多い。ゴルフは仕事なのか?

 秘書が続ける。

「ただし、わたしが管理しているのは仕事上のスケジュールだけです。会長がプライベートでお出掛けになる場合は直接呼び出しをするそうですので、いつでも出られるよう準備しておいてください」

 つまり週七日二十四時間体制で勤務しろということだ。会長が四六時中動き回る人間だったとしたらブラックな企業どころではない。

 七十歳にもなる老人が、この情勢下で毎日のように遊び回る猛者でないことを願う。

「屋敷内にはセキュリティがありますので、警報が鳴らない限り護衛をする必要はありません。呼び出しが掛かるまで待機していてください。待機時間は自由に過ごしていただいて構いませんが、外出の際は必ず許可を申請してください。それから、会長が就寝されるまで飲酒はしないようお願いします」

 酒は元々飲まないので問題ない。むしろ、会食に付いていった時に勧められたらどう断るかだ。仕事中だろうとなんだろうと見境なく酒を勧めてくる老人は未だに多い。

「護衛の方法は太刀河さんにお任せします。何か必要な物がありましたら遠慮なくおっしゃってください。最後に、報酬についてですが」

 秘書から提示された報酬額は二十代後半の平均収入を少しばかり上回る程度のものだった。ただし、この金額は何も起きなかった場合の基本給であって、異変が起きた際の働き次第では追加報酬を出すという。

 やはりわかっていない。 

 ボディガードとは何かが起きた時に対処するのが仕事だと思っているようだ。もちろん、それも仕事のうちではあるが、一番大事なのは何も起こさないことなのだ。そのために、ありとあらゆる事前策を用意するのが本当の仕事というもの。身体を張って依頼主を守るのは、用意した防衛網をすべて突破された時の最終手段に過ぎない。こんな報酬の出し方では事前策を怠る者も出てくるだろう。

 まあ、俺の目的は金ではないから手を抜くつもりはないが。

「こちらからの説明は以上ですが、何か質問はありますか?」

「質問ではありませんが、一つよろしいでしょうか?」

「どうぞ」

「ご主人の安全を確実なものにするためには、すべてを私に任せきりにするのではなく、本人にも防衛意識を持っていただかなくてはなりません。たとえプロであっても防衛意識を持たない人間を守ることは非常に困難だからです。ですので、最低限の護身術は指導させていただきたい」

「護身術ですか……?」

 秘書は困ったような表情をした。

 なぜ困っているのかはだいたいわかるので、説明を続ける。

「護身術といっても戦うための技を覚えていただくわけではありません。大事なのは護身の心得です。危険に対処する方法よりも、危険を回避する方法を中心に指導いたしますので、激しい運動はありません。数分程度の簡単なレクチャーを何日か受けていただくだけですので、どうかご主人にお伝え願えないでしょうか?」

 ボディガードからこんなことを言われるとは思ってもみなかったのだろう。秘書は目を丸くして聞いていた。それから、慌ててボールペンと手帳を取り出す。

「すみません、もう一度お願いできますか? 会長にはできるだけ正確にお伝えしたいので」

 こちらとしてもその方が望ましい。

 秘書のペンの動きに合わせて、俺は先ほどの言葉をゆっくり繰り返した。



 面談の後、金満家の家族構成について聞かせてもらった。

 まずは家長の金満聡かねみつさとし氏。それから息子夫婦。さらに現在小学生の孫が二人。計五人だ。聡氏の奥方はすでに他界されたらしい。また、息子夫婦は海外出張が多く、あまり家には帰ってこないので、実質三人家族のようなものだという。

 敷地内には母屋の他もう一棟、長屋のような建物があった。そこには住み込みで家事を担当する女性がいるという話だ。俺も住み込みで働かせてもらうことになっているので、使用人仲間であると同時にアパートのお隣さんのような関係になる。後であいさつしておかなければ。

 この屋敷にアポなしで出入りするのは、親族以外では秘書の野木と孫たちの家庭教師のみ。それ以外の人間が訪ねてきた場合は、必ず金満氏に確認を取るようにとのことだ。

 護衛の任に就くのは明日、引っ越し作業が終わってからだ。今日はもう話が済んだと言うので、最後にこれから住むことになる部屋を見せてもらう。

 少々手狭な1Kではあるが、新しくて綺麗な部屋だ。家具も揃っている。

 ずっとここに住み続けるわけではない。引っ越し業者に頼まなくとも、レンタカーで最低限の私物を運べば充分だ。

 部屋の確認が終わったところで、ここまで案内してくれた秘書が告げる。

「それでは明日から護衛の任、よろしくお願いしますね」

「こちらこそよろしくお願いします」

 軽くお辞儀を交わした後、秘書は母屋に戻っていった。

 さて、帰って引っ越しの準備でもするか。おっと、その前に、お隣にあいさつだな。

 そう思って隣部屋の方を向いた時、部屋の扉がガチャリと音を立てて開いた。

 ちょうどいい……って、あれ?

 中から出てきたのは五、六歳の女の子だった。

 ふわりとしたショートヘアにパッチリとした目。それに赤と黒のチェック柄のワンピースがよく似合う可愛らしい子だ。

 金満氏の孫は小学生、二人とも男の子だと聞いた。誰だ、この子は? 親戚の子か?

 よくわからないが、とりあえずあいさつはしておくか。

 俺はその場でしゃがみ、女の子に視線の高さを合わせた。

「こんにちは」「おじさんだあれ?」

 ほとんど同時だった。

「え?」

 女の子は目を開いてポカンとしてしまう。

 タイミングが悪かったな。それと、俺はまだ二十七歳だからおじさんではないのだがな。

 子供相手にムキになっても仕方ないので、タイミングを見計らい、改めてあいさつをする。

「ええと、こんにちは。君はここの子かな?」

「おじさんだあれ?」

 ……手強いな。

 だが、この子の態度は間違っていない。新参者が先に名乗るのは当然の礼儀だ。

「俺は――」

 言いかけたところで、扉からエプロン姿の女性が出てきた。

 立ち上がって女性と目を合わせる。

 女の子と顔がよく似ている。女性はロングヘアだが、ふわりとした髪質もよく似ている。まるで女の子が二十年後の姿となって現れたようだ。母親だろうか。

「ねえ、あのおじさんだあれ?」

 女の子がこちらを指差しながら母親らしき女性に尋ねた。

 すると女性は、頬を膨らませて女の子を叱る。

あいちゃん、人を指差しちゃダメって教えたでしょ?」

 それから、こちらに頭を下げてきた。

「すみません、うちの子が失礼なことを……」

「いえ、気にしないでください」

 つい最近まで小学校の教師をやっていたから、こういうことには慣れている。腹を立てるほどではない。

「ええと、ボディガードの方ですよね?」

「はい。明日からお世話になります、太刀河信と申します」

 名乗りつつ、深くお辞儀をする。ようやくまともにあいさつができた。

「わたしはここで家事のお仕事をさせてもらっている、三辻麻里みつじまりといいます。この子は娘の愛。こちらこそよろしくお願いしますね」

 女性は慈愛に満ちた笑顔でお辞儀を返してきた。

「ほら、愛ちゃんもあいさつして」

「うん」

 母親に言われ、女の子は膝に手をついて上体が地面と平行になるくらい大きく頭を下げた。

「みつじあいです。ごさいです。しょうらいのゆめはおじぞうさんです」

 お地蔵さん? それはまた壮大な夢だな。

「ちょっと愛ちゃん、ふざけちゃダメでしょ!」

「ふざけてないよ。あい、ほんとにおじぞうさんになるもん」

 おそらく絵本か何かに影響されたのだろう。このくらいの歳の子なら不思議ではない。

 男の子がアニメや特撮のヒーローになりたいと思うのと似たようなものだ。

「あはは……」

 つい笑いがこぼれてしまう。

 子供がいるとは聞いていなかったので少し戸惑ってしまったが、こんなおもしろい子なら大歓迎だ。これなら退屈せずに済みそうだな。

 

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