第9話 決断

 むなしくも紀藤の予想は外れ、資産家をはじめとした富裕層への批判はますます激化していった。

 ついにはデモが暴動へと発展。暴力行為や破壊行為が多発するようになるが、それでも富裕層側は譲歩する意思を見せず、両者の衝突は激化する一方だった。

 学校では相変わらずみんなから無視される状態が続いていた。部活を休んだおかげで後輩から直接攻撃をされなくなったとはいえ、誰も相手にしてくれないというのは耐えがたい苦痛だった。

 今学校でまともに話をできるのは、わたしと同じく家が裕福な紀藤蓮ただ一人。

 不本意ではあるが、今日も体育館裏で彼と昼食を共にした。

「それにしても困ったもんだ」

 わたしのお弁当がまだ半分以上も残っているうちに、紀藤はサンドイッチを食べ終えていた。

「利権の亡者共がここまで頑なだったとはな。これだけ状況が逼迫しても何一つ譲ろうとしねえ。このままじゃ本当に日本が沈むぞ。そうなったら地位も利権も消えちまうってのに、どうなってんだ? 連中の精神構造は」

「さあね。いざとなったらいつでも海外に逃げられるようになってんじゃない?」

 わたしは呆れ気味に答えつつ、卵焼きを口に運んだ。今日のはちょっと甘い。

「お前んとこの親父は議員なんだろ? 何やってんだ?」

「さあね。お父さんが選挙以外でがんばってるとこなんて見たことないよ」

「ハハッ、典型的な税金泥棒ってヤツか」

 まったくもってそのとおりだが、ハッキリ言われるのはつらい。

「そういう先輩のところはどうなの?」

「俺が刺された甲斐あって、親父も少しは部下のために身体張るようになったよ。けど、たった一人じゃ企業は動かせねえっていうのが実情だ」

「そうだよね……」

 一人では何も変えられない。太刀河先生だって、武道家がみんなで力を合わせればと言っていた。わたしと紀藤、それから校内では距離を置いている紗月と花井を入れても四人。たったこれだけでこの事態をどうにかするには人数が少な過ぎる。

 他に誰か力になってくれそうな人はいないだろうか。

 箸を進めるうちに思い浮かんだのは、三期連続で生徒会長を務めている三年の福冨ふくとみ京香きょうか先輩だった。

 でも、福冨先輩と紀藤はあれからどうなったんだろう?

 わたしはおそるおそる聞いてみる。

「ねえ、福冨先輩のこと、もう恨んでないよね?」

「ん? まあ今さらな。まさか、あいつと組む気か?」

「できればね。今は同じ立場の人間同士、力を合わせなきゃ」

「あいつが俺たちを対等に扱ってくれるとは思えねえんだけどな」

 紀藤は呆れ気味に肩をすくめた。

「どうしてわかるの?」

「知らねえのか? 今の生徒会は福冨王国みたいな状態なんだよ。あいつにとって他の役員は仲間じゃねえ、家臣なんだ」

 知らなかった。王国という言い方は大袈裟にしても、福冨先輩を中心とした派閥みたいなものがあるに違いない。

「じゃあ、その家臣ってのも裕福な人たちなの?」

「まあ比較的な。福冨の家には遠く及ばないにしても、そこそこ裕福な連中が集まってんだよ、あそこは」

「そうなんだ……」

 なぜ生徒会が富裕層で固められているかはわからないが、一度話し合ってみたいという気持ちに変わりはなかった。

「ねえ、わたしが生徒会の人たちと話をしに行くって言ったら、付いてきてくれる?」

「あまりお勧めはできねえが……」

 紀藤は気が重たそうな表情をした。

「何かあったら力になるって約束だからな。一緒に行ってやるよ」

 でも、ちゃんと承諾してくれた。



 その日の放課後。

 わたしは紀藤と二人で生徒会室に足を運んだ。

 コンコン。木製の扉をノックすると、中からお堅い印象の眼鏡男子が顔を出した。

「なにか?」

「あの、わたし二年の新條と言います。こちらに福冨先輩はいますか?」

「少々お待ちを」

 眼鏡男子は素っ気なく言って、扉を閉じる。

 それから少しして、また扉が開いた。

「どうぞ、お入りください」

 この学校に入学して初めて生徒会室に入る。

 途端、その豪華さに目を見張った。

 床にはベージュ色の絨毯が敷いてあり、役員の机や椅子はすべてエグゼクティブ仕様。部屋の隅には高そうなソファに観葉植物。もちろん冷暖房完備で、冷蔵庫やコーヒーメーカーもある。もはや校長室以上だ。

 部屋には福冨先輩を含めて五人の男女がいた。三年生の校章を付けた副会長(男)と、同じ学年だから顔を知っている書記(女)と会計(女)。さっきの眼鏡男子は一年生の校章を付けている。おそらく、最近入ったお手伝いさん(次期役員候補)だろう。

「こんにちは、新條さん」

 この部屋の中心人物、福冨京香先輩が席から立ち上がり、わたしを歓迎してくれた。

「よく来てくれたわね。もうそろそろ来る頃と思っていたわ。余計な男まで付いて来ているみたいだけど」

 福冨先輩は、わたしの後ろに立つ紀藤を冷たくにらんだ。

「俺はただのお供だ。基本的には何もしゃべらねえから、ここで立ってるくらい大目に見てくれ」

 軽い調子で返した紀藤は、壁にもたれて腕を組んだ。

「まあいいでしょう。それより新條さん。こっちに座って」

 わたしは福冨先輩に促され、部屋の隅にある二人掛けのソファに腰を下ろした。

 適度な柔らかさで座り心地が良い。

「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」

「えっと、紅茶をお願いします」

 福冨先輩が目配せをすると、一年生の眼鏡男子が一礼して即座に対応した。まるで執事のようだ。

 なにこの空間? 同じ校内とは思えない。生徒会役員ってこんなに待遇がいいの?

 福冨先輩は正面のソファに腰を下ろすと、わたしの心を見透かすように言う。

「この部屋はね、わたしが校長から許可をもらって改装させたの」

「させたって、先輩がですか?」

「費用はうちが持つと言ったらすぐに取り掛かってくれたわ。三年間も過ごす空間だからね。快適性は大事にしないと」

 三年間が長いかどうかはさておき、放課後の生徒会活動のためだけに自費で改装するなんて並みの思考回路ではない。どれだけお金持ちなの?

「それで、今日はどんなご用件かしら? ようやく生徒会に入る気になってくれたのなら嬉しいのだけど」

「いえ、そうではなくて……。最近わたし、それから紀藤先輩も、みんなから無視されるようになって困ってるんです。それで、生徒会の皆さんも同じような状況ではないかと思って相談に来たんです」

「なるほどね。だったら話は簡単よ。あなたも生徒会に入りなさい。そうしたら、ここにいるメンバーがたった今からあなたの友達になってくれるわ」

「え?」

 突拍子もない言葉に、わたしは眉をひそめた。

「あ、あの、そうではなくて、生徒会として今の状況にどう対処するつもりなのか、お考えを聞かせてほしいのですが」

「どうもしないわ」

 率直で、淡々とした声が返ってきた。

「たとえメディアに踊らされているとはいえ、向こうはわたしたちを嫌っているのだから、そんな相手と無理に関わる必要はないでしょ? わたしはここにいるメンバーとあなたがいれば充分よ。みんなもそうよね?」

 福冨先輩が問いかけると、生徒会の四人はピシッと背筋を伸ばし、一斉に「はい」と返事をした。とても友達とは思えないロボットめいた反応だ。仲間ではなく家臣という紀藤の言葉がよく理解できた。生徒会に入ったら、わたしも今みたいに返事をしなければならないのか。

 とはいえ、なんとか協力関係を結びたくはあるので、相手の意見を否定せず、柔らかに提案してみる。

「わたしのこと、そこまで気にかけてくれて嬉しいです。でも、状況がさらに悪化すれば無視されるだけでなく暴力を振るわれる危険性もあると思うんです。そうならないための対策を、みんなで考えてみませんか?」

「それもそうね」

 福冨先輩だけが小さく返事をした。他の役員は無反応。

「どうぞ。砂糖とミルクはお好みで」

 一年生の眼鏡男子が紅茶を持ってきてくれた。一礼してすぐに下がる。ダージリンの香りがほのかに漂ってきた。

 沈黙が室内を支配する中、わたしは紅茶に砂糖を一匙だけ入れてかき混ぜ、口にする。

 それからしばらくして、福冨先輩が声を上げた。

「ではこうしましょう。明日から、うちで雇ったボディガードを学校に連れてくるわ。彼らにずっと見張ってもらえば、誰もわたしたちには手出しできないでしょう」

「は……?」

 わたしは口をぽかんと開いた後、小さく手を挙げて質問した。

「あの、ずっと、というのは、もしかして教室でもですか?」

「当然よ。心配しなくても許可ならすぐ取れるわ。校長はわたしたちの味方だからね」

 まずい、この人メチャクチャだ!

「もちろん、生徒会に入ってくれるなら、新條さんにもボディガードを付けてあげるわ」

 教室でずっとボディガードがにらみを効かせるなんて、異様過ぎる。

「お手洗いやお着替えの時のために、女性のボディガードも雇ってあるから安心よ」

 そういう問題じゃない!

「どうしたの? 浮かない顔して」

「いや、だって、そんなことしたら、かえってみんなを刺激するんじゃないでしょうか?」

「大丈夫よ。みんなすぐに慣れるわ。異様だろうと過酷だろうと、すぐに順応して受け入れてしまう。それが民衆だもの」

 完全に庶民を見下している態度だ。こういう人がいるから、過労死する人間が後を絶たないのではないかと思えてくる。

「でも、あなたは数少ないこちら側の人間よ。あなたにはその資格がある。こちらへいらっしゃい」

 高く澄んだ声で優しく微笑みかけてくる。

 わたしには、それが悪魔の囁きのように思えた。

「待ってください。わたしには大事な友達がいるんです。だから、その子と敵対するようなことはしたくないんです」

「そのお友達というのは、あなたと背丈の似たあの子のこと?」

「そうです。それに剣道部のみんなだって……」

「わかったわ」

 わたしの言葉を途中で遮るように、福冨先輩は声を上げた。

「では特別に、その子は雑用係としてここに置いてあげましょう。そうすれば、あなたも心置きなく生徒会に入れるでしょ?」

「え、雑用?」

「あなたは別よ。あなたには来期生徒会役員になってもらうわ。一応形としての選挙は行うけど、確実に当選できるようになっているから安心して」

 当選とかそういう問題ではない。確実ってなに? どういう仕組みなの?

「い、いえ、わたしは……」

「ポストは書記でどう? 今書記をやっているあの子には、来期は副会長に立候補してもらうから」

 話を聞いてくれない。これでは協力してもらうどころではない。

「もういいだろ?」

 それまでずっと黙っていた紀藤が、もたれていた壁から背を離し、こちらに近付いてきた。

「こいつらに話は通じねえのが、もうわかったろ? これ以上は時間の無駄だ。帰るぞ」

「ちょっと!」

 福冨先輩が勢いよく立ち上がった。

「勝手に口を挟まないで。わたしは今、小鞘と話をしているの」

「おいおい、いつの間に名前で呼ぶようになったんだ?」

 福富先輩の脳内では、すでにわたしは家臣になっているようだ。

「小鞘はもう、うちの子よ。部外者のあなたとは違うの。邪魔をするなら出ていきなさい」

 福冨先輩の警告に続き、副会長、書記、会計の三人が紀藤をにらみ付けた。

 無言の圧力だ。

「言われなくとも出てくよ。ほら、行くぞ」

 紀藤は動じることなく、わたしに手を差し伸べてくる。

「一人で出ていきなさい」

 鬼気迫る形相の福冨先輩。

「そいつは新條が決めることだ。お前が勝手に決めてんじゃねえよ」

 元不良だけあって、紀藤も気迫では負けていない。

「だったら本人に聞いてみましょうか。どうなの、小鞘?」

 やっとわたしのターンが回ってきた。コホンと一度咳払いをし、口を開く。

「その前に、聞きたいことがあります」

「なあに?」

「どうして、わたしは役員で紗月は雑用係なんですか?」

「それは家柄の違いよ。あの子は庶民の家の子だから、あなたとは違うの」

 福冨先輩は前時代的なセリフを平然と口にした。この人は封建時代からタイムスリップしてきたのだろうか。

「じゃあ、わたしを生徒会に迎え入れてくれるのは、わたしの家がお金持ちだからですか? それだけなんですか?」

「いいえ、お金だけの問題ではないわ。例えば、仮想通貨の投機で運良くお金持ちになった人間をわたしは認めない。そういう人間には気品がないからよ。でも、あなたの家は代々議員を輩出する由緒ある家柄でしょ。だから、あなたにも人の上に立つ人間としての気品が備わっているはずよ。わたしがほしいのはそういう人間なの」

「そうですか」

 わたしはソファから立ち上がった。

 紀藤の言うとおり、これ以上話をしても得るものはなさそうだ。

「先輩の言う気品がどんなものなのか、わたしにはよくわかりません。ただ一つ言えるのは、いくら気品があっても思いやりの心がない人とは、わたしは一緒にいられません」

「こ、小鞘? 何を……」

 信じられないという表情をする福冨先輩に背を向け、わたしは生徒会室の扉へ向かった。

 そして、最後に一言。

「福冨先輩、あの時助けてくれたことは今でも感謝してます。先輩は、きっと根はいい人だと信じてます。失礼します」



 生徒会室から出てすぐ、わたしは頭を抱えた。

「どうしよう。わたしが余計なこと言ったせいで、学校にまでボディガードが来ちゃう。これじゃあ、みんな授業に集中できなくなって大迷惑だよ……」

「お前のせいじゃねえだろ」

 紀藤が呆れたように言う。

「俺だって、生徒会長があそこまでぶっ飛んだお嬢様だとは思ってなかったからな。不可抗力さ」

「でも、きっかけを作ったのはわたしだし。なんとかして止められないかな?」

「あいつには何を言っても無駄だ。となると、校長に言ってやめさせるしかねえ」

「でもあの人、校長先生は自分たちの味方だって言ってたよ?」

「それでも行くしかねえだろ。授業に集中できないくらいはそのうち慣れるだろうからまだいいとして、ボディガードが生徒に手出しするような事態になったら校長だってクビだ。そこを突けばなんとか説得できるかもしれねえ」

 校長先生に直談判とは気が重たいが、悩んでいる時間はない。生徒会に先を越されてはまずいので、わたしたちはその足で校長室へと向かった。

 運良く校長先生は在室しており、わたしたちの話を聞いてくれた。

 しかし、返ってきた答えは非情なものだった。

「その件なら、今しがた生徒会役員から連絡を受けて承認したところだ」

 遅かった。まさか電話で先回りされるとは。

 わたしは、できるだけ平静を装って抗議する。

「でも、いいんですか? 部外者を勝手に立ち会わせたりして。もし何かトラブルがあったら大変なことになりますよ?」

「それは逆だろう? トラブルを起こさせないために身辺警護を許可したのだ。福冨さんの身に万一のことがあれば、私はクビどころでは済まん。当然の判断をしたまでだ」

 いったい何が当然なのかさっぱりわからない。

 クビでは済まないってなに? 暗殺でもされるの?

 紀藤が校長に詰め寄る。

「教頭や一般教員には相談したんですか? 教育委員会への報告は? いくら校長でもそんなことを勝手に許可する権限はないと思いますが?」

「平時ならともかく今は非常時だ。非常時には迅速な決断が要求されるため、本件についてはやむなく会議を省かせてもらった。事後承諾にはなるが、各教室の担任にはくれぐれも生徒たちに軽挙妄動を起こさせないよう通達しておく。君たちも余計なことばかり気にしてないで、こういう時にこそ勉強に励みなさい」

 ダメだ、この人。完全に犬だ。

 


 翌日。

 ダークスーツにサングラスというマフィアみたいな姿をしたボディガードが生徒会役員に付き従う様子に、校内は騒然とした。

 昨日の放課後に決まったことなので、まだ通達は行き渡っていない。誰もが驚いて道を開けるのは当然のことだった。

 生徒会長である福冨先輩は男女一人ずつのボディガードを従え、そんな中を堂々と歩いていた。並みの神経ではない。きっと一般人なんてジャガイモくらいにしか見えないのだろう。

 逆に、他の生徒会役員たちは恐縮しきった様子だった。こっちが当然の反応だ。

 会計の女の子は泣きそうな顔をしていた。可哀想に。

 幸いわたしのクラスには生徒会役員がいないので授業中の様子はわからないが、先生も生徒も役員もボディガードさんも、さぞ気まずい思いをしているに違いない。

 でも、それだけならまだいい。たぶんそのうち慣れる。

 問題なのは、福冨先輩の振る舞いが生徒たちを刺激して、ますます状況が悪化してしまわないかということだ。

 ボディガードが付いている以上、誰も直接攻撃はしないだろうが、持ち物を狙ったり、匿名で抗議文を送るなど、間接攻撃ならやろうと思えばできる。そうした行動がエスカレートした末、全面衝突に発展してしまうのが考えられる最悪の事態だ。それだけは何としても阻止しなくてはならない。

 でも、どうやって?

 この学校の現状は、まさに社会の縮図だ。富める者は庶民を気遣うことなく、ひたすら保身を考える。やがて我慢の限界が訪れ、一気に暴発する。

 社会が暴発したのは、一人の青年が命を捨てて世の不条理を訴えたことがきっかけだった。この学校にそこまでする人間がいるとは思えないが、何が暴発のきっかけになるかはわからない。

 わたしに何ができる?

 

 

 この異様な状況をどう解消するか。

 授業中も休み時間中もずっと考え続けたが、これといった案は思い浮かばなかった。

 そこで放課後、作戦会議を行うために、わたし、紗月、紀藤、花井の四人が体育館裏に集まった。紗月は部長さんに相談して練習を休ませてもらったらしい。一年生以外の剣道部員は密かにわたしたちの味方なのだ。

 まずはそれぞれが見てきた状況を報告し合う。といっても、四人とも生徒会役員とは違うクラスなので、出てきた意見は似たり寄ったりだった。

 今のところは生徒会側にも一般生徒側にも表立った動きはなし。ただ、一般生徒による陰口がすさまじい。それが本人たちに伝わっているかどうかはわからないが、福冨先輩以外の役員はひどく疲れ切った様子だったという。

 次に、それぞれが思ったことを意見する。まずは花井から。

「俺が思うにさ、福冨以外の役員にちょっかいかけようなんて奴はいない気がするんだ。そんなことしなくても充分ダメージ受けてるよ、あいつら。むしろ同情する奴もいるくらいだ。まあ、ボディガードが怖くて誰も声はかけられねえけどよ」

 それはわたしも思った。わたしだったら学校来なくなるな、絶対。

 しかし、紀藤は反論する。

「そう都合よくいくといいんだがな。福冨が怖くて手が出せねえ代わりに他の役員で鬱憤を晴らそうって腐った考えの奴がいてもおかしくねえと思うぞ」

 確かに一理ある。もちろんそんな人間は少数だろうけど、周囲に飛び火するきっかけになりかねない。

 続いて紗月が意見する。

「生徒会役員の人たちを味方に引き入れて、会長に反対してもらうのはどう?」

「そりゃあ無理だ」

 紀藤がまた反論した。

「校長ですらあいつには逆らえねえんだぞ。役員にそれができるとは思えねえ」

「じゃあ、他にいい考えがあるの?」と紗月。

「あるにはある」

 紀藤がわたしに目を向けてきた。

「なに?」

「新條に福冨を説得してもらうのさ。ボディガードを連れて来るのをやめるようにな」

「え、わたし?」

「お前の他に誰がいんだよ」

「なにそれ、丸投げするつもり?」

 人の意見に反論ばかりしておいてそれはない。

 それは承知しているのか、紀藤は少し申し訳なさそうな顔をした。

「そうなっちまうけど、お前しか適役がいないんだ。会長様はお前のことが、いたくお気に入りみたいだしな」

「それは昨日までの話でしょう。ハッキリ断ったんだから、今はもう恨まれてるよ」

「それでもやるしかねえだろ。他に妙案でもあれば別だが」

「……ちょっと考えさせて」

 わたしはしばらく悩んだ。

 その間、紗月と花井が紀藤に文句を言う。

「どうして小鞘にばかり押し付けるの?」

「そうだぞ、蓮。新條さんは俺たちが守ってやる約束だったじゃねえか」

「わかってるよ。いざとなったら身体張る覚悟はできてる。けど、なにか起きる前に事を収めるには、新條の言う武道の力に頼るしかねえ」

「武道ならわたしも習ってる!」

「知ってる。なにもお前が新條より劣ると言ってるわけじゃねえよ。ただ、福冨が相手なら新條の方が適任ってだけだ」

「やってみなきゃわからないでしょ!」

「じゃあやってみろよ。ボディガードに門前払いされておしまいだぞ」

「だったら、まずはボディガードから説得する」

「正気か? プロがクライアントを裏切って相手側に加担するとでも?」

「プロだって人間は人間でしょ!」

「おいおい、二人ともケンカしないでくれよ。仲間内で揉めてちゃどうにもならねえぞ」

 そうだ。花井の言うとおり今は言い争っている場合ではない。最悪の事態を避けるためにも早く福冨先輩を説得しなくては。

「わたし、やってみる」

 決意を込めて言うと、三人は黙ってこちらを向いた。

「正直自信はないけど、できる限りのことはしてみるよ」



 今にして思えば、わたしは生徒会に入っておくべきだった。太刀河先生があえてボディガードになったように、それとなく彼女たちを誘導して内側から変えていくべきだったのだ。

 でも、あの時はそこまで頭が回らなかった。自分の高校生活を犠牲にするほどではないと事態を甘く見ていた。

 きっと初手を誤ってしまった代償は大きい。それでも、今は行くしかない。

 わたしたち四人が生徒会室の前まで行くと、扉の前に立っていた男性ボディガードが短く尋ねてきた。

「ご用件は?」

「福冨会長に、新條が会いに来たと伝えてください」

「承知しました」

 しばらくして、確認に行ったボディガードが部屋から出てくる。

「では、新條さんのみ部屋へお入りください。他の方々はご遠慮を」

 とりあえず第一関門突破だ。通じるかどうかは別として、話は聞いてもらえる。

 紀藤がボディガードに言う。

「じゃあ話が終わるまで、俺たちは廊下で待たせてもらいますんで。別にいいですよね? ここは俺たちの学校なんだから」

「……ご自由に」

 低く答えながら、ボディガードが扉を開けてくれる。

 わたしは高鳴る鼓動を抑え、生徒会室に入った。

「失礼します」

 中には生徒会のメンバーが五人。それから、女性のボディガードが一人いた。

 福冨先輩が席から立ち上がる。

「きっとまた来てくれると思っていたわ、小鞘。さ、こっちに座って」

 意外にも明るい声で促され、昨日と同じようにソファで向かい合った。

「あの、怒ってないんですか?」

 わたしが聞くと、福冨先輩は柔らかく微笑んだ。

「怒ってなんかいないわ。ショックではあったけどね。わたし、同年代の子にあれだけハッキリ意見されたのは初めてだったから。でも、おかげで気付いたの。なんでも言うこと聞くお人形さんより、そっちの方が断然良いって」

 向こうでガタッと椅子の動く音がした。『お人形さん』という言葉に役員たちが動揺したようだ。だが、こちらをチラッと見てくるだけで声を出す者はいなかったので、わたしは話を進める。

「今日は福富先輩にお願いがあって来ました。聞いてもらえますか?」

「もちろんよ。なんでも言って」

 ここまでは順調だが、喜んではいられない。ここからが正念場だ。

 なんとか福冨先輩のご機嫌を損ねないよう慎重に話を進めなくては。

「今学校に来ているボディガードの人数を減らしてほしいんです。その上で、なるべく目立たない場所で待機するように指示してください。そうすれば、みんな授業に集中できると思いますので」

「あら、学校に連れて来るなとは言わないのね」

「それでは先輩たちが危険です。ただ、ずっと張り付いているのはさすがにやり過ぎなので、校内のどこかに待機しているとだけ伝えておけば充分だと思います」

「そうね……」

 福冨先輩は一年生の眼鏡男子が持ってきた紅茶を口にする。

 ゆっくりと、わたしの意見をどう扱うのか考えるように。

 わたしは目の前に置かれた紅茶に手を伸ばすことなく、答えを待った。

 たっぷり十五秒くらいかけて、ティーカップがソーサーの上に戻る。

「わかったわ、あなたの言うとおりにしましょう。ただし、条件が二つあるわ」

「言ってください」

「まず一つ目は、わかるわよね? 小鞘、剣道部をやめて生徒会に入りなさい」

 やっぱりそうきたか。

 ここまでは想定済みなので、わたしはすぐに承諾する。

「わかりました」

 問題はこの次。昨日、生徒会入りを承諾していれば、この二つ目はなかった。それが悔やまれる。

「二つ目だけどね。あなたには、わたしの秘書になってもらうわ」

 予想外の言葉に、わたしは首を傾げる。

「秘書? 書記じゃなかったんですか?」

「それは来期の生徒会役員選挙の話よ。わたしが言っているのは卒業後のこと」

「え……?」

 福富先輩は、動揺するわたしに構わず続ける。

「わたしね、高校卒業と同時に会社を一つもらうことになったの。もちろん、大学には進学するから、学校に通いながら社長をするということね」

 いったい何の話?

「一年間は前社長の秘書が就いてくれるから、あなたが就くのはその翌年。わたしと同じ大学に通いながら秘書を務めてもらうわ。大学卒業後には自動的に正社員よ」

「ちょ、ちょっと待ってください!」

 わたしはソファから身を乗り出す。

「卒業後って、そんな先のことまで! わたしはこの学校の話をしてるんです」

 学校の危機を収めるために高校生活残り二年弱を捧げるのはやむ無しと考えていたが、さすがにその先までは考えていなかった。

 福冨先輩は落ち着いた表情のまま言う。

「突然こんな話をされて戸惑うのは仕方ないわね。でも、よく考えてみなさい。このご時世、就職活動なしで一流企業に入って、いきなり社長秘書よ。あなたのお祖父さんのコネを使っても、ここまでの好待遇は無理でしょう。これはまたとないチャンスなのよ」

「そ、それはそうかもしれませんけど……。でもどうして、そこの生徒会役員さんではなく、わたしなんですか? わたしとは助けてもらった時にお話しただけじゃないですか」

「知っているの、わたし」

 大人びた福冨先輩の顔から、どこかイタズラっぽい笑みがこぼれる。

「あなたが剣道の他に武道を習っているのをね」

 身体がピクリと反応する。

 話した覚えはない。いつの間にか調査されていたようだ。

「あなたの先生、太刀河信さんともお話をさせてもらったわ。『武道は戦うためのものではなく、戦いをやめさせるためのもの』ですってね。その教えを以て、あなたは紀藤蓮を改心させた。そして、今度はわたしを説得するためにここに来ている」

 福冨先輩はひと呼吸置いてから続ける。

「わたしも合気道と弓道を習っているから武道精神を教わってはいるけど、そういった精神論を実行に移した人を見たことがないわ。みんな口だけ。でも、あなたは違う。あなたは普通の人にはないものを持っている。それがあなたを選んだ理由よ」

 ガタン、とまた向こうで物音がした。生徒会役員の誰かがひどく動揺しているようだ。

 本来なら、この中の誰かが秘書に選ばれることになっていたのかもしれない。

 もっとも、動揺しているのはわたしも同じだ。

「それで、そんなあなたはわたしをどう説得するのかしら?」

「……少し考えさせてください」

 わたしは混乱した頭を整理するため、ゆっくりと紅茶を口に含んだ。

 少し冷めている。でも、ハーブの香りが、わずかながら心を落ち着かせてくれた。

 態度からすると、福冨先輩はボディガードの配置にそれほどこだわっていない。その証拠に、提示された条件はこちらに不利などころか、役員たちが競い合ってほしがるほどのポジションだ。ハッキリ言って条件が条件になっていない。最初からわたしを引き込むことが目的のようだ。

 しかも、説得しに来たのがバレている。太刀河先生のことまで知られている。

 それに引き換え、わたしは福冨先輩の情報をほとんど持っていない。焦って何の準備もしてこなかった。これでは六十点以下だ。

 空になったティーカップを、そっとソーサーの上に置く。

 なるべく音を立てないよう気を付けたつもりだったが、手が震えて上手くいかなかった。

 紀藤の時と違い、明らかに向こうのペースだ。こうなったら小細工はせず、正直な気持ちをぶつけるしかない。

 わたしは顔を上げて、まっすぐ福冨先輩を見た。

「わたしのことを高く評価してくれるのは嬉しいです。でも秘書の話、先輩が言うほど好待遇とは思えません」

 福冨先輩は微かに目を細める。

「どうして? うちの会社は国内トップクラスの企業グループよ。これ以上の選択はあり得ないわ」

「それは社会が平穏な時の話です。経済的な格差が原因で暴動まで起きている今の状況で、一流企業に入ることが幸せにつながるとは思えません」

「では、どんな選択が一番だと言うの?」

「それはまだわかりません。でも、お金や地位が人の価値を決める世の中は、もう終わりに近付いていると思うんです。先輩ならそれはわかりますよね?」

「わからないわね」

 冷たく、即座に否定された。氷のような視線が、わたしを突き刺してくる。

「たとえ社会が変わっても、人間の本質は変わらないわ。財産と地位が人類最大の武器だという事実は、いつか文明が滅びるその時まで変わらない。あなたの言うとおり、現行の資本主義社会は間もなく衰退するでしょう。だからといって、すべての財産が突然無価値になるわけではないわ。封建社会が終わった時もそうだったようにね。だから財産を持っていることは決して無駄にはならない。いいえ、社会が衰退する時こそ自分や家族を守る切り札になる。それも護身術だと思わない?」

「多くの人を犠牲にしてまで自分を守ろうとは思いません。わたしは自分だけでなく、みんなのためになる選択をしたいんです」

 断固として言い返すと、福冨先輩は憐れむような表情を向けてきた。

「ずいぶんと崇高な志をお持ちのようね。でもね、小鞘。人が人である限り、格差や差別は絶対になくならないわ。どれだけ社会が発展しても弱肉強食の原理は変わらない。それは自然の摂理なの。人間社会だって、食物連鎖という大きな枠組みの一部に過ぎないの。それを否定してしまったら、わたしたちは何も食べられなくなってしまうわ」

「そ、そんなの……」

 わたしは反論できなかった。

 この人の言うことは詭弁だ。自然界の話を持ち出して人間同士の弱肉強食を容認させようだなんて、力技にもほどがある。でも、彼女の話を詭弁と言ってしまえば、普段動物を平気で食べているくせに人間だけは平等でなければならないという意見も詭弁になってしまう。

 福冨先輩は、わたしを諭すような口調で続ける。

「それにね、社会を変えるには力が必要よ。思想だけで人を動かすことはできない。現にあなたとあの三人だけでは、この学校を変えられないでしょう?」

 悔しいが、そのとおりだ。

「もし、あなたが良いお返事くれるなら、ボディガードの件だけでなく校内の風紀の改善にも力を尽くすわ。あなた自身も生徒会活動の名の下に存分に力を発揮することができる。それこそが、みんなのためになる選択ではないのかしら?」

 この条件を受け入れれば、少なくともこれ以上状況が悪化することはなくなる。生徒会の方から歩み寄れば、校内の澱んだ空気もきっと改善に向かうと思う。

 でも、わたしの人生は?

 これといって就きたい職業があるわけでもない。福冨先輩の言うことが間違っているわけでもない。ただ漠然と流されるのが嫌なだけ。

 そんなことのためにグズグズ悩むのは武道にも武士道にも反する。

 だから、この選択がわたしの人生を使うほどのものか、よく考えてみる。

 わたしの寿命が仮に八十年だとして、残りは六十数年。

 この学校の生徒数はおよそ六○○人だから、全員分を合わせれば一年で六○○年。福冨先輩が卒業するまで九ヶ月で考えても四五○年。

 六十数年と引き換えに四五○年なら、充分過ぎるほどおつりがくる。

「返答は今でなくてもいいわ。今後の人生に関わる決定ですもの。ゆっくり考えなさい」

 福冨先輩の言葉に対し、わたしは首を横に振った。

「いいえ。もう決まりました」

 答えが出た以上、『義』あるのみ。

「その条件でお願いします」



 生徒会活動は明日からということで、今日のところは帰らせてもらうことにした。

 生徒会室を出て、まずは廊下で待っていた三人に説明する。

「本気なの?」

 血相を変えた紗月がわたしの肩をつかんできた。

「そんなメチャクチャな条件、どうして承諾したの?」

「仕方ないよ。そうするしかなかったんだから」

「抗議してくる!」

 わたしを押し退けて生徒会室へ向かう紗月の前に、ボディガードが立ちはだかった。

「申し訳ございませんが、許可のない方は入室禁止となっていますので」

「会長さんと話をさせてください!」

「紗月、もういいよ」

 後ろから声をかけると、紗月は振り返って猛然と迫ってきた。

「よくない! だいたい、どうして返事をする前に相談してくれなかったの?」

「それは、言ったら反対されると思って……」

「当たり前でしょ!」

「俺も納得できねえな」

 紀藤が険しい表情で近付いてきた。

「自分で頼んどいて勝手かもしれねえが、そりゃねえだろ。もっとこう、俺の時みたいに上手く説得する方法はなかったのか?」

「ごめん、どうにもならなかった。あの人は武道精神のことを知ってて、その上で意見を曲げない人だったから」

「同じ土俵であいつの方が一枚上手だったってことかよ」

 紀藤は悔しそうに歯噛みした。

「でもよ、いくらなんでも進路のことまで決めちまうなんてやり過ぎじゃねえか?」

 花井がおろおろしながら言うと、紗月がすぐさま同意した。

「そうだよ! 小鞘一人がそこまでしなきゃいけないなんて絶対おかしい。今からでも遅くない。会長さんに言って取り消してきて!」

 わたしは静かに否定した。

「それはできないよ。こっちの都合で約束を一方的に取り消したら『誠』の精神に背くことになる。『武士に二言はない』って言うでしょ?」

「そんなこと……」

 紗月が泣きそうな顔ですがりついてくる。

「それより、小鞘の人生が……。ほんとに、ほんとにそれでいいの?」

 わたしは小さく頷いた。

「後悔はしてないよ。みんなのためだもん」

 それから、そっと紗月の手を握る。

「ごめんね、勝手に決断したりして。でもね、武道を続けるなら紗月にもきっとそういう決断をしなきゃいけない時が来ると思うの。そうなった時は、わたしに構わず教えのままに行動して」

「わかった……」

 紗月は涙声を押し殺しながら引き下がった。

 紀藤と花井は何も言わなかった。

「それじゃあ、いつまでもここで話してたら迷惑になるから、もう帰ろ?」

 それ以降、わたしたちは一言も発することなく校門まで歩き、別れを告げた。

 


 翌日。

 約束通り、ボディガードは教室まで付いてこなくなった。

 校舎内のどこかには居るらしいが、登下校時を除いては、ほとんど姿を現さなくなった。

 さらに臨時の全校朝礼で、中止が危ぶまれていた修学旅行と文化祭を予定通り行うという連絡があった。

 緊張状態からの解放と嬉しいニュースが重なったおかげで、学校内は急速に明るい空気を取り戻しつつあった。

「小鞘ちゃん、今までごめんね」

 休み時間、クラスメートの一人がわたしに声をかけてくれた。

 それを皮切りに次々とクラスメートが話しかけに来るようになり、昼休みが終わる頃にはすっかり元通りの教室になってしまった。

 たった半日でここまで……。

 偶然のきっかけがあったとはいえ――いや、もしかして、最初に声をかけてくれた子は福富先輩の仕込み? 

 そうとしか思えないくらい都合の良い展開だ。偶然とは思えない。

 事を起こすのが早ければ鎮めるのも早い。庶民感覚からずれた部分はあるものの、福冨先輩の誠意と実行力は認めざるを得なかった。

 そして、向こうが約束を守った以上、わたしもやるべきことはやらなければならない。

 


 放課後、わたしは退部届けの提出とあいさつのために剣道部の武道場を訪れた。

 退部の理由として、ボディガードの件と引き換えに生徒会の一員になることは話したが、余計な心配はかけまいと卒業後のことまでは話さなかった。

「ごめんね。わたし先輩なのに、小鞘ちゃんの力になってあげられなくて」

 背高の部長さんが涙ながらに言った。

「新條、剣道部やめてもあんたはあたしたちの仲間だからな。なにか困ったことがあったら、いつでも来るんだぞ」

 半年間、途中まで一緒に帰ってくれた先輩が頼もしく言ってくれた。

 それから、わたしに嫌がらせをしていたのが露見したのか、一年生五人が横一列になって謝ってきた。

「これからは周囲の空気に流されず、ちゃんと人の内面を見てあげてね」

 わたしは後輩たちに最初で最後の指導をした。

 学校全体のことに比べれば小事ではあったが、解決できて良かった。

 ただ、武道場に紗月が来ていないのが気になった。

 部長さんに聞いてみたところ、今日は用事があって休むのだという。

 昨日あっさり引き下がったことといい、どうも様子がおかしい。

 念のため紗月にメッセージを送って事情を聞いてみると、すぐに返信があった。

『大事な用があるの』

 こっちもすぐに返信。

『用って何? 言えないこと?』

『わたしも決断したの』

『どういうこと?』

『生徒会室に来ればわかる』

 嫌な予感がした。

 わたしは武道場をあとにし、生徒会室へと急いだ。

 生徒会室は二棟ある校舎のうち、教室がない方の一階の奥にあり、放課後はひっそりとしている。

 そこへ向かう途中の廊下に紗月はいた。なぜか竹刀を二本持って。

「紗月、こんなところで何してるの?」

「あんたを止めに来たの」

「え?」

 眉をひそめるわたしに構わず、紗月は話を進めてくる。

「秘書の話を断ると約束して。でなければ、ここは通さない」

「な、なに言ってるの? 今さらそんなことできないよ」

「だったら、わたしと勝負して。勝てば好きにしていいから」

 そう言って一方の竹刀をこちらに放り投げてきた。

 床に落ちた竹刀が足元に転がってくる。

「勝負って、ここで!? 防具もなしに打ち合うつもり?」

「死にはしないでしょう。所詮は竹刀、真剣勝負じゃないんだから」

 言葉とは裏腹に、紗月は真剣そのものの表情で正眼に構えた。

「やめて、紗月! 戦いを止めるのが武道でしょう? わたしたちが戦ってどうするの!」

「やると決めた時には迷わず戦う。それも武道と教わったでしょ。わたしは今やらなきゃいけない時なの。力ずくでもあんたを止めなきゃいけない時なの!」

 感情をぶつけるような叫喚とともに、ジリジリと間合いを詰めてくる。

「本気なの?」

「冗談に見える? 退くつもりがないなら早く竹刀を拾って。これ以上は待たない」

 本気の目だ。こちらも決断しなければ、やられる。

 わたしは素早く竹刀を拾い、正眼に構えた。

 直後、紗月が動く。

 剣道の試合のように開始の合図などない。いきなりだ。

 頭上から竹刀が降ってくる。

 わたしはそれを受け止める。

 竹刀と竹刀がぶつかり、乾いた音が廊下に響く。

 手加減は全くなしだ。一年間一緒に練習してきたからわかる。紗月は完全に迷いを捨てている。

 一旦、距離を取る。

 たった一度の攻防で真夏のように汗が吹き出てきた。試合とは違う実戦の緊張感。

 その相手がよりにもよって紗月だなんて……。

 この世で最も戦いたくない親友が、再び迫って――

「待ちなさい!」

 不意に、紗月の後方から甲高い声が響いた。

 現れたのは福冨先輩と男性ボディガードだった。

「そこで何をしているの? 小鞘はもう生徒会の一員よ。手出しするなら容赦しないわ」

「邪魔しないで」

 紗月は振り返りもせず、わたしを見据えたまま返した。

「取り押さえなさい」

 ボディガードに冷たい指示が飛ぶ。

 すると突然、廊下の陰から二人の男子生徒が飛び出し、紗月の背中を守るように立ちはだかった。

「待ってくれ! 勝負には手を出さないでくれ!」

 花井が叫んだ。

「これは二人の問題だ。あんたたちは大人しく見学してな」

 紀藤が威圧的に言った。

 どうやら、邪魔が入った時のためにあらかじめ待機していたようだ。

 ボディガードは判断を伺うように福冨先輩の顔を見る。

「後遺症が残らない程度に排除しなさい」

 指示の後、ボディガードと紀藤・花井の取っ組み合いが始まった。

 が、見ている場合ではなかった。 

 紗月が無言でメンを打ってくる。

 わたしはさっきと同じように受け止めた。

 また下がって距離を――と思ったが、紗月はそのまま押し込んできた。鍔迫り合いだ。

 この状態で迂闊に距離を取ろうとすれば、離れ際に打たれてしまう。

 わたしは体勢を崩されないよう足を踏ん張り、下腹に力を入れ、押し返した。

 力が全くの互角なので、この状態のまま膠着する。だが、これは剣道の試合ではない。

 ここから繰り出せる技を、わたしたちは持っている。

 太刀河先生を相手に何度も何度も練習し、イメージトレーニングを積んだその技は、考える必要もなく自然に出ていた。

 

 あれ? 

 ここはどこ? もう朝なの? 

 早く起きなきゃ遅刻遅刻……って、違う? 

 ここが学校?

 

 気が付いたら仰向けで倒れていた。

 身体は動く。でも、起き上がろうとすると視界がグルグルと揺れ、今度はうつ伏せに倒れてしまう。

 いったい何が? いや、それより早く立たなきゃやられる。

 と思いきや、紗月も同じようにフラフラと頭を揺らし、起き上がれずにいた。

 もしかして相討ち?

 確か鍔迫り合いになって、そこから……。

 思い出せない。記憶が飛んでいる。頭を強く打ったか。

 ――あ、そうか!

 思い出した途端、おでこがズキズキと痛み出した。

 わたしたちは互いに頭突きをしたのだ。

 同じ性別で同じ体格、同じ先生に同じ技を習い、同時にそれを出した。

 その結果は、当然と言えば当然のものだった。

 そうこう考えているうちに周りがハッキリ見えるようになってきた。

 福冨先輩がこちらを見ている。ボディガードと紀藤たちも取っ組み合いをやめて、こちらを見ていた。

 紗月はまだ起き上がらない。

 それなら、わたしも無理して起き上がる必要はないので、床にうつ伏せたまま話しかけた。

「ねえ、紗月。引き分けの場合、どうなるの?」

「知らない。考えてなかった」

「だよね……。でもどうして、こんなことになっちゃったんだろうね?」

「あんたが自分勝手なことするからでしょ」

「そんなことないよ。わたしはみんなのためにこの方法を選んだんだから」

「そのみんなの中に、わたしが入ってないのがわからないの?」

 わたしには返す言葉がなかった。

「小鞘、立場を変えて考えてみてよ。もし、わたしが相談もしないで人生を台無しにするような約束をしたら、あんたはどうする?」

「そ、それは……」

「認める? 諦める?」

 わたし、馬鹿だ。

「そんなはずないよね?」

 一番大切な友達の気持ちを考えてなかったなんて。

「絶対に止めに来るはずだよ」

 うん、絶対止める。

「もしかして泣いてる?」

 泣いてるよ。

 言いたいことがたくさんあるのに声が出ない。

 ぶつけた額が痛い。でも、それ以上に胸が痛い。

 わたしは間違っていた。だからと言って約束を反古にすることはできない。

 いったいどうすればいいの?

「そんなところでいつまで寝ているつもり?」

 福冨先輩が近付いてきた。

「見つかったら面倒だから、立てるなら早く立ちなさい」

 言いながら、いつかのように手を差し伸べてくれる。

 紗月も紀藤たちの手を借りて起き上がっていた。

 まだ少しフラつくものの、何とか歩けそうだ。

 福冨先輩が制服に付いたら埃を払ってくれる。

 それから尋ねてきた。

「ねえ、小鞘。どうして逃げなかったの?」

「え?」

「逃げ道がなかったわけでもないのに、どうして戦ったの?」

「そ、それは……」

 確かに逃げるという選択肢はあった。いや、それが一番正しかった。

 それなのに、気が動転して完全に頭から抜け落ちていた。

 福富先輩は大きくため息をついた。

「困ったわ。まさか小鞘がこんなに頭の悪い子だったなんてね。こうなると、秘書の件は保留にした方がいいかもしれないわね」

 わたしは福冨先輩の顔を見上げた。その顔は穏やかに笑っていた。



 こうして学校内の平穏は戻ったものの、社会における一般層と富裕層の対立は依然として収まることがなかった。

 しかし、夏が近付く頃になると、話し合いによる解決を求める声が大きくなり、暴動は急速に沈静化していった。それが単に暑さによるものなのか、太刀河先生たち武道家の暗躍による成果なのかは知る由がなかった。

 


 翌年、武道を小中高における必須科目とする法案が可決された。

 国家安寧のために武道の理念が必要だと多くの人に認められたのだ。

 しかし、武道教育が実施されるのはまだ先のことだ。

 何しろ指導者が足りない。そこで、体育教師改め『武道教師』の育成をするために、日本中の武道家が招集されることになった。太刀河先生もまた、ボディガードを辞めて武道教師を育てる講師になるのだという。

 そのメッセージに対し、わたしはこう返信した。


『わたし、武道教師を目指します』

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