第5話 武

 駅近くのファミリーレストランで、わたしと紗月は昼食をご馳走になった。日曜日の正午で混雑しているとはいえ満席ではなかったので、食後の紅茶をゆっくりと楽しむ。

 わたしは、ずっと気になっていたことを尋ねた。

「そういえば、太刀河さんはどんな武道をやってるんですか?」

「いろいろかな。空手、剣道、合気道。居合道も少しだけやってたな」

「そんなに! じゃあ、護身術はどの武道で教わったんですか?」

「どれでもないよ。本で学んだ」

「え、本?」

 意外な答えに、わたしは目を開いた。

「といっても、一冊の本にすべてが書いてあったわけじゃない。いろんな知識を寄せ集めて自分なりに消化したのが俺の護身術だ。ほとんど自己流と言っていい」

「そうだったんですか……」

「期待外れだったかな?」

 わたしは慌てて横に首を振った。

「いえ、そんなことないです。でもそうなると、やっぱり武道と護身術は別物なんでしょうか?」

「いいや、切っても切り離せない関係だよ。本来はね」

「じゃあ、今の武道は本来のものではないと?」

「残念だが、そうと言わざるを得ないな。武道の武という文字を思い浮かべてみなさい。若干形は違うが、〝ほこ〟と〝止める〟の二文字が組み合わさっている。〝戈〟は武器の一種であると同時に、戦いを意味する言葉だ。それを止めるのが武。本来、武道とは戦うためのものではない。戦いを止めるためのものなんだ」

「戦いを、止める……」

 わたしは太刀河さんの言葉を繰り返した。

「イメージとは正反対だろ?」

「はい」

「武というと武器とか武力とか、どうしても野蛮なイメージが浮かびますよね」

 わたしの返事の後、紗月が口にした。

「悲しいが、武器も武力も遣い手の考え一つで野蛮なものになってしまうのが現実だ。本来は人を守るためのものなのにね。武道も同じ。試合に勝つことばかり追求していたら、強い者だけが生き残り弱い者は淘汰される。それはもう武道とは呼べない」

 身体が小さいわたしと紗月は間違いなく淘汰される側だ。

 太刀河さんも男性としては背が低く、線も細い。スポーツに限れば、わたしたちと同じ側に違いない。

 紗月が少し身を乗り出す。

「でも確か、合気道には試合がないんですよね? 太刀河さんの言うスポーツ武道のカテゴリにも合気道は入っていませんでした。それでも、護身術にはならないんですか?」

 合気道のことはわたしも気になっていた。ぜひ知りたい。

「いきなり後ろからやられたりしなければ――という条件付きなら合気道の技は護身術向けだよ。老若男女使えるその身体操作の技術は素晴らしい。だが欠点もある。技術を習得するのがとても難しいんだ。実戦で使えるようになるまでには相当な年月が必要だろう。平和な時ならともかく、明日にも襲われるかもしれない状況で、そんな悠長なことは言ってられない」

 やはり一長一短ということか。

「じゃあ、このあと太刀河さんが教えてくれる護身の技は短期間で覚えられるってことですか?」と紗月。

「基本的な技術だけなら数回のレクチャーで充分だ。覚えられるかどうかは君たちの努力次第だけどね」

 太刀河さんはカップを手にし、紅茶を口にした。

「じゃあ、今日だけじゃなく、これからも太刀河さんが教えてくれるってことですか?」 

 今度はわたしが聞いた。

「ん、まあ、そうなるな」

「いいんですか? お仕事忙しいんじゃ?」

「仕事は忙しいが、プライベートは本を読むか身体を鍛えるくらいしかやることがなくて暇なんだ」

「どこか遊びに行ったりは?」

「滅多にないよ。この辺には付き合いのある友人もいないし、遠くに出掛けようって気にもなれない。余計なお金は使いたくないしね」

「そ、そうなんですか……」

 どうやら、太刀河さんは素朴な生活を好む人のようだ。

 地雷踏むといけないし、これ以上は聞かない方が良さそうだな。



 ファミリーレストランを出たわたしたちは、そこから徒歩で太刀河さんの住むアパートまでやって来た。建物は若干古びた感じがするものの、周囲は閑静な住宅街で駅も近く立地条件が良さそうだ。わたしも一人暮らしするならこんなところがいいなと思う。

 太刀河さんに続いて一階の通路を奥へと進む。

 だんだんと緊張してきた。見ると、紗月も表情が固くなっていた。

 もちろん、太刀河さんのことを疑っているわけではない(0.000000001%くらいは疑っているが)。行ったことのない家に行くのは、それだけで緊張するものだ。

「ここだ」

 着いたのは一階の一番奥の部屋だった。

 太刀河さんはドアを開けて、わたしたちを入れてくれる。

 先に入って片付けとかしなくていいのかな?

「お邪魔します」

 玄関で靴を脱いで上がった場所がすでにキッチンという、こぢんまりとした空間だ。奥には洋室と和室の二部屋がある。左手には浴室とお手洗い。2Kの間取りだ。

「じゃあ、こっちの部屋で」

 わたしたちは和室に案内される。

 部屋は六畳で、中央のちゃぶ台と座布団一枚の他は何も置いていない。 

 太刀河さんは、ちゃぶ台を持ち上げ洋室に移した。

 向こうは和室より少し狭い四畳半くらいだ。木製の大きな本棚と、デスクトップのパソコンが置かれた机がチラリと見えた。

「シンプルなお部屋ですね。ここでご飯を食べるんですか?」

 紗月が和室を見回しながら聞いた。

「そうだよ。それと寝床にも使う。布団を押入れから出してね」

「へえー、太刀河さんは床で寝る派なんですね」

「昔からそうだったから。実家が田舎なんだ。やっぱり畳の部屋は落ち着く」

「日本人ですね」

「日本人だよ。ベッドを買うのがもったいないってのもあるけどね」

 二人は顔を合わせ、互いに微笑んだ。

 あれ? さっきまでの険悪ムードが一転して良い雰囲気になってない?

 わたしは少し焦って、口を挟むように本題に入る。

「でも、ここで練習なんてできるんですか?」

 どう見ても、六畳しかないこの部屋で三人が運動できるとは思えない。

「激しく動くわけじゃないから大丈夫だよ。それに狭い場所の方がいいだろう。不意に襲われた時なんて、大抵空間が限定されているものだ」

 そう言われて、わたしはハッとした。

 そうだ、剣道とは違う。前の事件の時みたいに、追い詰められた場合どうするかが重要なのだ。

 太刀河さんは押入れから座布団を二枚出し、わたしたちに座るよう勧めてくれる。

 三人が正座した状態で向き合った。

「まずは技の練習の前に護身術の心得をまとめておこうか」

 わたしと紗月はコクッと頷く。

「護身術において一番大事なのは、あらかじめ危険を回避する努力をすることだ。言うまでもなく、何かが起きてから対処するより、何も起きない方がいい。そのためには常日頃から危険を予測する癖を身に付けておく必要がある」

 ついさっき教わったことだ。予測さえできていれば危険は容易に回避できる。

「次に、不幸にして事件と遭遇してしまった場合は真っ先に逃げることだ。興味本位で深入りしようとしてはいけない。脇目も振らず全力で走るんだ」

 これも過去に実感したことなのでよくわかる。気になるからといって立ち止まってしまっては逃げ遅れる事態になりかねない。

「その次に、逃げるのが困難な場合は相手を威嚇してみることだ。武器が使えるなら武器、言葉が通じるなら言葉で威嚇してもいい。それで退いてくれれば良し。ダメでも時間稼ぎにはなる。よほど人の寄り付かない場所でない限り、時間が経てば経つほど襲う側は不利になるからな」

 これは福富先輩が実行したことだ。あの余裕のある態度からすると、先輩はとっさに思いついたのではなく、あらかじめ心構えがあったに違いない。

 太刀河さんは続ける。

「場所によっては大声で叫ぶのも有効な手段だ。ただし、相手が逆上する恐れもあるから、ある程度の被害は覚悟しておいた方がいい」

 実際わたしがそうだった。

 助けがもう少し遅かったら暴行を加えられていたかもしれない。

「そして、これらの手段がすべて通じない時、ここで初めて戦うという選択肢が現れる。あくまでも最終手段であって、可能な限り戦いは避けるべきということを忘れてはならない」

 いざとなったら竹刀で戦おうとしていた自分が、いかに的外れなことをしていたか。

 まさに『生兵法は怪我の元』だったのだ。

 太刀河さんは一旦話を区切る。

「ここまではいいかな?」

「はい」

 わたしと紗月が返事。

「では最後の手段となる、戦うすべに入ろう。まずは戦う際の心構えからだ。実戦は試合以上に心構えが決め手になる。迷ったりためらったりしていては、たちまちやられてしまうだろう」

 それまで淡々としていた口調に熱が籠っていく。

「だから、やると決めたからには一切迷わず、容赦なく全力でやること。同じ学校の生徒だろうと情けは無用だ。過剰防衛のことは考えなくていい。中途半端が一番危険なんだ」

 去年助けてもらった時、太刀河さんには迷いも容赦もなかった。わたしと違って一瞬で気持ちを切り替える準備ができているに違いない。

「戦うなら当然、素手よりも武器があった方がいい。竹刀でなくとも、その辺にあるもので武器になりそうなものなら何でもいい。花瓶でもゴミ箱でも机でも椅子でも、使えるものは何でも使え」

 以前、パン屋さんの看板を武器にしようなんて突拍子もなく言ったが、あれは間違いではなかった。とにかく、その場で有効なものなら何でもいいのだ。

「武器になる物がない時、あるいはそれを手にする隙がない時、ここまで追い込まれて、ようやく素手による格闘術の出番になる。ただし格闘といってもパンチやキックのことではない。君たちのような小柄な女性に顔面や腹を殴られたくらいで大人の男は倒れない。下手をすれば殴った手の方が壊れてしまう」

 空手部の体験入部を思い出した。あの時、殴るという行為は思いのほか自分にも負担が掛かると実感させられた。

「そもそも女性が襲われるとなれば、殴られるよりつかまれたり押し倒されたりする可能性の方が高い。よって、今回は密着に近い状態での攻撃方法を教える」

 わたしが襲われた過去二回の事件は、いずれも密着と言えるくらい相手との距離が近かった。柔道家なら投げ技に持ち込むような間合いだろうが、わたしにそんなことはできない。

 太刀河さんが立ち上がる。

「ここからは実践しながら説明しよう。だが説明の前に、君たちに想像してもらおうか」

 太刀河さんに促され、わたしたちもその場で立ち上がった。

「まずは新條さんが追い込まれた時のような状況を再現する」

 太刀河さんは両手でわたしの肩をつかみ、軽く押してきた。

 一瞬ビクッとしたものの、素直に従い後退する。

 部屋の隅に追い込まれた形になった。あの時と同じ、まともに身動きが取れない状態だ。

「この間合いだ。新條さん、この距離でどうやって攻撃する?」

「え、ええと……」

 太刀河さんとわたしの身体の距離は十センチもない。ほんの少し前に出るだけでくっついてしまうような状態だ。

 身体が熱くなってくる。頭が回らない。

「早くしないとやられるぞ」

 そんなこと言われても……あ!

 緊張して視線を下げたおかげで気付いた。すぐそこに、絶好の攻撃箇所が。

「あ、あの、膝で、ここを蹴るというのは?」

 わたしはためらいがちに言いながら、少しだけ膝を上げる動作をした。もちろん、間違っても当てないよう、ほんの少しだけ。

「正解だ」

 太刀河さんはわたしの肩から手を離し、一歩下がった。

「知ってのとおり、股間は男子最大の急所だ。君たちの力でも充分、一撃で相手を行動不能にできる。蹴りじゃなく手で打ってもいい、握り潰してもいい。そんなところ触りたくないとか言うのはなしだ。真っ先に狙え」

 有無言わさぬ口調だ。確かに恥ずかしがっている場合ではない。

「次に」

 太刀河さんは紗月の背後に回り込み、両手を肩の上に置いた。

 紗月もビクリとした後、表情を固くする。

「後ろからつかまれた場合だ。見てわかると思うが、この位置では股間が狙いにくい。玉野さん、こんな時はどうする?」

「ええと、肘ですか?」

 紗月は振り返りながら、ゆっくりと肘で太刀河さんのお腹を突く動作をする。

 もちろん、当ててはいない。

 去年、誘拐犯と戦ったあの時、太刀河さんは肘打ちを多用した。だから、正解かと思ったのだが――

「惜しい。肘打ちは強力な技だ。正確に当てれば女性の力でもかなりのダメージを与えられるが、この場合正解とは言い難いな」

「どうしてですか?」

「君は今、肘打ちをする時に身体を捻っただろ? その動作は俺が優しく押さえているからできるのであって、強くつかまれたり背中から完全に密着されたりすれば満足に力を出すことはできない。しかも、位置的に当たらないだろう?」

「そ、そうですね」

 紗月は、今度は身体を捻らずに肘打ちの動作をした。当然、真後ろにいる太刀河さんには当たらない。横幅のある相手なら当たるかもしれないが、あの体勢からではたいしたダメージは期待できないだろう。

「それで、次はどうする?」

 太刀河さんに言われ、紗月はおろおろする。

「早くしないとやられるぞ」

 さっきのわたしと同じだ。

「あ、足を踏み付けるとか?」

「不正解だ。君の体重では、素足ならともかく靴を履いている相手にはそれほど効果がない」

 ちなみに、わたしには答えがわかっている。最初に助けてもらった時、太刀河さんに言われて実行したからだ。

 紗月はますます焦る。

 ちょっとかわいそうではあるが、教えたら紗月のためにならないから仕方がない。

 そう思い、黙って見ていると、紗月はあたふたするばかりで、なかなか正解にたどり着けない。

 その間、二人はずっと密着に近い状態で、わたしは放置。だんだん二人がじゃれあっているように見えてきて苛立ってきた。これ以上は見ていられない。

 わたしは紗月の正面に立ち、指で天井を指した。

 それに気付いた紗月は天井を見ようと顔を上げる。

 すると、ゴンッと鈍い音がして、太刀河さんが仰け反った。

「あ……!」

 しまった、まさかあんなに強く当たるなんて。

 わたしは慌てて駆け寄ろうとするが、それより先に紗月が声をかけた。

「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」

「……大丈夫だ」

 太刀河さんは口元を手で押さえ、少し籠った声で返した。

 手が離れると、口元にはうっすら血が。さっきの頭突きで唇が切れたようだ。

「ようやく正解だな、玉野さん」

「そ、それよりも血が!」

 紗月はポケットからハンカチを出し、太刀河さんの口元に当てた。

 真っ白なハンカチの一角が赤く染まる。

「あ……ぅ……」

 わたしはその場でおろおろすることしかできなかった。

「気にするな。ちょうど頭突きの威力がわかって良かったじゃないか」

 太刀河さんの視線がこちらへ向く。

 どうやら、わたしのヒントが原因なのはお見通しのようだ。

「ごめんなさい! わたしが余計なことしたせいで」

 わたしは深く頭を下げた。

「掠り傷だからどうってことない。その程度でうろたえてはダメだ」

「でも……」

「焦りは判断力を鈍らせる。これもいい機会だ、覚えておきなさい」



 幸い太刀河さんの傷はそれほど深くなく、出血は数分で止まった。

 わたしたちは再び部屋の中央で三人向かい合って座る。

「さて、話の続きをしようか。身体を捻らなくても打てる頭突きが密着状態で有効なのはさっき見てのとおりだ。頭蓋骨は脳を守るためかなり頑丈にできているから、拳のように簡単に壊れることはない。思い切り当てていい」

「でも」

 わたしが聞く。

「頭と頭がごっつんこしたら痛くないですか?」

「当然痛い。けれど、君たちの場合その危険性はあまり気にしなくていい。新條さん、ちょっと立ってみて」

 言われたとおり立つ。

 太刀河さんも立ち上がり、さっきみたいにわたしのすぐ近くまできた。

「この位置をよく見て。新條さんの頭頂部がちょうど俺の顎の位置にある。頭突きを当てるには絶好のポジションだ。逆に俺が新條さんに当てようとしたら、一旦姿勢を低くしないと鼻や顎には当てられない」

 確かに、この位置関係なら断然わたしの方が速い。

「相手の背が高かったら、伸び上がるようにして打てばいい。飛び上がってもいい。頭突きは、背の低い方が使いやすい数少ない技なんだ。これを使わない手はない。玉野さんも立って確かめてみて」

 それから、わたしと紗月は太刀河さんを相手に、急所蹴りと頭突きの練習をした。全く当てないのでは練習効果が薄いからと、太刀河さんが手のひらで受け止めてくれた。

 正面から頭突きをする練習もした。背後の敵に頭突きをした後、すぐに振り返って急所を蹴る練習もした。

 それは、わたしの知っている武道とはまるで異質なものだった。競技ではなく身を守るための練習。身体が小さく力の弱いわたしたちのための練習なのだ。

 この技を覚えれば万全というわけではないが、不安に苛まれたわたしの心はずいぶん軽くなった。

「それじゃあ、練習はここまでにしようか。最後に、護身は試合と違って勝つ必要はない。途中で逃げられそうなら、いつでも逃げていい。あくまでも逃げるきっかけを作るための戦いだということを忘れないように」

 練習後、太刀河さんが温かいお茶を淹れてくれる。わたしたちは和室に戻したちゃぶ台を囲み一休みした。

「そういえば次からの練習はどうしますか? 毎週日曜日にしますか?」

 わたしの問いに、太刀河さんは少し迷うような表情をした。

「毎週か。それではちょっと間隔が短いな」

「そうなんですか? 毎日じゃないですよ? 週一ですよ?」

「それでもさ。あまり一気に覚えると、いざという時に頭がこんがらがるからな。しばらくは今日教えた危険予測と護身の心得をしっかり自分のものにできるようイメージトレーニングしておいた方がいい」

「イメージ……。自分で練習しなきゃいけないんですね」

「そう。自分の生活の中でどんな異変が起こりうるのか、それが一番わかるのは自分自身を置いて他にいない。スポーツと違って人から与えられたメニューをこなせば良いというものではないんだ」

 部活とは違う。指導者が教えられるのは最低限のことだけで、あとは自分で取り組まなければならない問題なのだ。

「じゃあ、次は二週間後くらいでいいですか?」

「そうだな。時間は午後二時。あの駅に集合で」

「はい。紗月もそれでいい?」

「うん」

 こうして、第一回目のレクチャーは終わりを告げた。わたしにとって部活の練習十回分よりも有意義な時間だった。

 帰ったら今日教わったことをメモしておこう。



 翌日、月曜日。

「おはよう、小鞘」

「おはよー」

 わたしと紗月はいつもどおり竹刀袋を手に、二人で登校する。

 ただし、先週までのわたしたちとは違う。今は危険予測能力が大幅に向上している。

「紗月、後ろから自転車が走ってくる」

 わたしたちは歩きながらやや半身になり、背後を確認する。

 同じ学校の男子生徒だった。

 ほんの一瞬目が合っただけで、何事もなく過ぎ去る。

「小鞘、前から歩いて来る太ったおじさん、ずっとこっちを見てる」

 わたしは視界の端でおじさんの動きを見張りつつ、いつでも迎え撃てる心構えですれ違った。

 瞬間、後ろから襲ってくるかもしれないので、確認のために振り返る。

 ――目が合った。

 おじさんも振り返っていた。

 理由はわからない。ただの偶然かもしれない。それでも、おじさんが慌てて目を逸らして行ってしまうまで、わたしは油断せず目を離さなかった。

 再び前を向いて歩きながら、紗月が言う。

「今のおじさん、ちょっとだけ怪しかったね」

「うん。まさか襲ってくることはないだろうけどね」

「でも絶対じゃない」

 ひと気のないところで近付いてくる者はとりあえず疑う。そのくらいでないと対処が間に合わないのだ。

 ハッキリ言って面倒な作業だ。それでも、万が一の事態を避けるためにはやるしかない。

 それが護身術。

 人通りが多くなってきたので警戒レベルを下げ、紗月に話しかける。

「ねえ、紗月。太刀河さんのこと、どう思った?」

「何、いきなり?」

「深い意味はないよ。ただ、太刀河さんってちょっと変わった人だから、紗月はどう思ったかなって」

「わたしは、ちょっとどころじゃない気がするな。あの人のひねくれ方は明らかに普通じゃないでしょう。まあ、基本良い人なのは認めるけどね」

 紗月は苦笑混じりの声で言う。

 さすがに一度会っただけで恋心が芽生えたわけではなさそうだ。

 ひとまずホッとする。二人が仲良くなって、置いてきぼりにされるのは寂しいから。

「そういう小鞘はどう思ってるの?」

「ええと、そうだな……不思議な人、かな?」

「どうしてそう思う?」

「なんとなくだよ。強いて言うなら、言ってることが不思議だからかな」

「それって武道のこと?」

「うん。結局、武道ってのがなんなのかよくわかんなかったし。紗月はわかった?」

「ううん。わたしにもよくわからなかった。戦いをやめさせるためのものなのに、戦う練習をするんでしょ? 不思議だよね」

 戈を止める。

 その発想は太刀河さんではなく昔の人が考えたのだろうけど、そんな禅問答みたいなことを実践しようとしている時点ですごい。わたしの知っている、口を揃えたかのように同じことを言う大人たちとは何かが違う。

 わたしは少し考えた後、思いついたことを話す。

「もしかして抑止力のことかな? 見た目がいかにも強そうだったら、襲われる可能性だって減るじゃない?」

「たぶんそれもあるでしょうけど、それだけだとしたら、わたしたちには永遠に不可能でしょうね」

「まあ、そうだね……」

 護身術がどういうものなのかはだいたいわかった。でも、それがどのように武道とつながっているのかわからない。

 戦いをやめさせるにしても、それを実現する方法は?

 まだまだ疑問が尽きることはなかった。

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