第4話 再会

 あれから二日間、多少悩みはしたものの、わたしは生徒会入りを断ることにした。

 剣道にそれほど執着があるわけではないが、部活を通して得た友達を裏切るようなことはしたくない。それに、生徒会役員といえば生徒たちのリーダー的存在だ。学級委員とか班長とか部長とか、そういう役割を一度も任されたことのないわたしに務まるとは思えない。

 福富先輩がなぜわたしを勧誘してきたのかはわからない。ただ、わたしが二年生の教室まで丁重に断りに行くと、少しも恩に着せることなく丁寧な言葉を返してくれた。

「そう、残念ね。気が変わったらいつでも声をかけてね」

 これで勧誘の話は終わったが、安心などしてはいられない。

 翌週には例の不良三人組が停学から復帰するからだ。それに、あの三人以外の不良に目を付けられる可能性だってある。

 またあんなことがあった時、どうすればいいのか……?

 半年間練習して身に付けた剣道の技は何の役にも立たなかった。竹刀を握って構えることすらできなかった。竹刀を袋から素早く出す練習なら何度もしたのに、それ以前の問題だったのだ。

 仮に襲われたのがわたしより遥かに強い部長さんだとしても結果は同じだろう。構える前にあれだけ近付かれてはどうしようもない。竹刀の長さがかえって邪魔になってしまう。

 そうならないためにはどうすればいいか?

 常日頃から竹刀を構えたまま全方位に気を配って歩くしかない。そのぐらいでないと、とても間に合わない。

 当然そんなことは無理だ。完全に不審者だ。

 では不意に近付かれても対応できるよう、もっと短い武器を持ったら?

 竹刀には片手で扱える短いものもある。短剣道や二刀流で使う竹刀らしいが、あれなら近間でも使える。でも、そういう竹刀があると知っているだけで、それを扱う練習をしていないわたしが三人も相手に勝てるはずがない。

 刃物かスタンガンでも使えば勝ち目はあるが、そんなものを持っていたらこっちが犯罪者にされてしまう。

 ボールペンなら持っていても違法ではないし、相手を威嚇するには有効かもしれないけれど、わたしが福富先輩と同じことをしてもあの三人には笑われてしまうだろう。あの威嚇は一分という時間制限と福富先輩の気迫があればこそ成功したようなものだ。

 かといって、本当に顔や喉を刺してしまったら過剰防衛になりかねない。

 では、剣道ではなく空手か柔道にすれば良かった?

 わたしが素手で三人の男を倒せるはずがない。

 やはりどう考えても打つ手がない。あの三人に目を付けられた時点で、もう詰んでいたとしか言いようがない。

 助けが来てくれたのは運が良かっただけ。目を付けられたのは運が悪かったから。

『運』

 何をどう考えても、最後はこの一文字にたどり着いてしまう。

 この先、平穏に生きていけるかどうかは運次第ということに……。

 このままじゃダメだ。何か新しい対策を練らなきゃ。

 でも、どうやって?

 悩んでいてもラチがあかなかったので、女子剣道部顧問の樋口先生に相談してみた。

 樋口先生は剣道歴十五年、段位は四段で、かつて全国大会に出場したことがあるほどの実力者だ。指導も適切でわかりやすい。

 先生なら武道はもちろん、護身術についてもそれなりの知識は持っているはず。

 そう思ったのだけど――

「ごめんなさい、相談に乗ってあげられなくて。わたし、試合で勝つための知識ならともかく、護身術のことはあまり詳しくないの」

 これだった。

 樋口先生ほどの武道経験者でも無理となると、もはや武道と護身術は別物ということになる。

 肩を落としたところで、先生が付け加えてきた。

「でもね、わたしは無理でも、わたしの大学時代の先輩に護身術に詳しい人がいるから、新條さんさえ良ければ紹介してあげるけど、どうする?」

 いきなりそう言われても、知らない人というのは抵抗がある。

「その先輩というのは、どんな人ですか?」

「わたしより二つ年上の男性で、小学校の教師をしている人なの。ちょっと変わったところはあるけど、優しい人だから安心して」

「え、それって……」

 わたしの頭にとある人物の顔が浮かんだ。年齢的に当てはまるし、護身術に詳しい小学校教師がこの辺りにそうそう何人もいるとは思えない。

「あ、あの、その人のお名前は?」

 尋ねると、先生は一瞬キョトンとするような表情をした。

「名前は、太刀河たちかわさんっていうの」

 やっぱり! まさかこんなところで繋がっていたなんて。

 あの人なら、太刀河さんなら何か良い対策を授けてくれるかもしれない。

 ようやく希望が見えてきた。

「新條さん、もしかして太刀河さんのこと知ってるの?」

「はい。実は――」

 わたしは、先生に去年の誘拐未遂事件のことを簡単に説明した。

 その時、太刀河さんに助けてもらったことも。

「なるほどね、そんなことが……。さすがに二度もそんな目に遭ったんじゃ、不安になるのも当然よね」

「それともう一つ、太刀河さんが言っていました。この先、国内の治安が悪化する可能性が高いから、今のうちに身を守る術を覚えておいた方がいいって」

「治安が……? どういうこと?」

 先生は小首を傾げた。体育教師に社会情勢はわからないのだろうか。

「詳しくはわかりません。ただ、そう言っていたとしか」

 社会科担当の先生ならわかるかもしれないが、そこは今重要ではないので話を進める。

「だからわたし、護身になると思って剣道を始めたんです。でも実際には何もできなくて……」

「そうね。いくら剣道が強くたって、心構えができる前に攻めて来られたらどうしようもないものね。かといって、ずっと気を張っているわけにもいかないし、難しい問題ね」

「それでも、生きていく以上、身の安全を運任せにはしたくないんです。また、あんなことがあったらと思うと、わたし……」

 一年前、そしてついこの間、どちらの事件も思い出すだけで身体が震えそうになる。

 樋口先生は、そんなわたしの手を優しく握ってくれた。

「そうならないよう、先生も努力してみるね。といっても、護身術の知識は乏しいから人任せにはなるけど。太刀河さんには、なるべく早く会えるよう頼んでみるから、元気出してね」



 次の日曜日。

 わたしと紗月は、太刀河さんに会うべく駅近くの喫茶店を訪れた。ここで会えるよう、樋口先生が話をつけておいてくれたのだ。

 待ち合わせの時間は午前十時。現在、九時五十五分。

 もういつ来てもおかしくない。

「ハァ、緊張するなぁ」

 わたしがつぶやくと、隣の席に座る紗月は顔をしかめた。

「小鞘はいいじゃない、一度会ったことあるんだから。わたしなんて初対面だよ?」

「それはそうだけどさぁ。でも太刀河さん、わたしのことちゃんと覚えてくれてるかな?」

「あんな事件があったのに、たった一年で忘れるわけないでしょう?」

「事件のことはそうだけど、わたしの顔は覚えてないかもしれないよ? わたしだって太刀河さんの顔、ぼんやりとしか思い出せないし」

「一度しか会ってないんだから仕方ないでしょ。顔は覚えてなくても、あの時の子だってことはすぐわかるよ」

「そうかなぁ? 紗月とわたし、間違えないかな?」

「あ、それはあるかもね。背格好が似てるし、髪は一年あればわたしくらいまで伸ばせるからね。ぼんやりとしか覚えてなかったら区別付かないかもね」

「間違えられたらショックだな」

「はいはい」 

 そんなやり取りをしていると、店内に見覚えのある男性が入ってきた。

「あ……」

 わたしはテーブルに手をつき、腰を浮かせた。

 黒とグレーを基調としたフォーマルっぽい服装に癖のない髪、穏やかで優しそうな顔。

 一年前と変わりない、わたしにとっての恩人、太刀河さんだ。

「おはよう」

 太刀河さんは真っ直ぐこちらを見て、ほがらかにあいさつしてくれた。

 すぐにわたしだとわかってくれたようだ。

「お、おはようございます!」

 わたしは立ち上がって背筋を伸ばし、お辞儀をした。

 緊張で少し声が裏返ってしまった。

「おはようございます」

 続いて、紗月が立ち上がってお辞儀をする。わたしと違って落ち着いた様子だ。

 まずは席に着き、向かい合う。

「あの、今日はわざわざ来てくれてありがとうございます」

 わたしは軽く頭を下げ、次に紗月の方を見る。

「こっちは玉野紗月です。わたしと同級生で、一緒に剣道部に入ってます」

 紗月と太刀河さんは互いに目を合わせ会釈した。

 店員が来たので太刀河さんがコーヒーを注文。その後、さっそく本題に入る。

「樋口先生から聞いているかもしれませんが、今日はどうしても太刀河さんに相談したいことがありまして」

「うん、聞いたよ。また事件に遭ったんだってね」

「はい。でも一年前と違って、剣道を習ったり、通学の時は必ず竹刀を持つようにしたりして対策はしてたんです。それが全く通じなかったから、もうどうしたらいいのかわからなくなって……」

「そっか。ごめん、あの時ちゃんとアドバイスしなかった俺も悪かったよ」

「いえ、そんな……」

 不意に謝られて、わたしは困惑した。太刀河さんが謝る必要なんてどこにもない。

 それなのに優しく言ってくれる。

「だから今度は、君たちが納得いくまで話を聞くよ。俺にわかることなら何でも答えるから、遠慮なく聞いてほしい」

「はい。お願いします」

 わたしは一度紗月と目を合わせる。それから、単刀直入に聞く。

「では教えてください。剣道は――いえ、武道は本当に護身になるんですか?」

「なるとも言えるし、ならないとも言える」

 なんとも曖昧な答えが返ってきた。

「どういうことですか?」

「武道と言ってもいろいろあるし、人によって性質も変わってくるから一概には言えないんだ。ただ、君たちに限って言うなら、現在主流のスポーツ武道ではほとんど護身にならない」

「スポーツ武道?」

 初めて聞く言葉に、わたしは首を傾げた。

「まあ、一般的にはそんな言い方しないから造語でしかないんだが……。要するに、特定のルールの下で勝つことを目的とした武道のことだよ。剣道、柔道、空手、なぎなた、弓道、相撲。みなスポーツ武道だ」

「じゃあ、わたしたちがいくら剣道の練習をしても無駄ってことですか?」

「全くの無駄ではないが、その力が発揮できる場面はかなり限定されるな。まず竹刀かそれに近い形状の武器を持っていなければならない。それから、その武器を振り回すだけの空間がなければならない。そしてなにより、敵の存在に気付いていなければならない。気付く前にやられてしまっては、どんな強力な武器も無意味だからね」

 太刀河さんの言うことは、まさにわたしが実感したことだった。実力以前にクリアしなければならない条件が多過ぎる。

 今度は紗月が発言する。

「スポーツ武道ではない武道なら、突然襲われた時にも対処できるということですか?」

「いや、それも難しいな。スポーツ武道よりは戦術の幅が広いというだけで、いきなりやられてしまえば同じことだよ」

「では、結局どうしようもないってことですか?」

 紗月が少しムキなったように聞くと、太刀河さんは穏やかに「まあ聞きなさい」と返してきた。さすがに学校教師だけあって落ち着いている。

「襲う側と襲われる側のどちらが有利かと言えば、これは断然襲う側だ。例え世界チャンピオンでも、いきなり後ろから刺されればどうしようもない。完全に対処する方法はないよ。だからこそ、『襲われた時どうするか』ではなく『どうしたら襲われないか』を考える方が大事なんだ。技なんてものは保険に過ぎない。事前の対策こそが本当の護身術なんだよ」

 言われてみれば、なぜ今まで気付かなかったのか不思議なくらい当然のことだった。

 運が悪かったと結論付けてしまった自分が情けない。

 紗月が納得できないような表情をする。

「でも、わたしたちは人並み以上に気を付けてました。それでも小鞘は襲われたんです」

「どうかな? 樋口さんから事件の詳細を聞いたが、まだまだ判断が甘いと言わざるを得ないところがいくつかあったよ」

「それは、具体的にどこですか?」

 紗月が聞いたところで、太刀河さんの注文したコーヒーが届いた。

 太刀河さんは砂糖をほんの少しだけ入れて、ゆっくりと口に含む。

 ひと息入れた後、説明を始める。

「まず、体育館裏で吸殻が発見された話が広まっていたということは、もうその場所では喫煙できないということだ。すると、溜まり場を失った連中は次の溜まり場を探す。だがすぐには見つけることができず、とりあえず今日は適当な場所で――という流れになる可能性はあったわけだ。そんな時に、新條さんはひと気のない場所に一人で行ってしまった」

 そうだ、わたしは体育館裏に近付かなければ大丈夫と思い込んでいた。よく考えてみれば、発見された直後にそこで吸うはずがない。

 太刀河さんは続ける。

「次に、廊下でタバコの臭いに気が付いた時、立ち止まって周囲を確認してしまったことだ。その時、気付いていないフリをして歩き去れば見逃してもらえる可能性は高かった。気付かれたからこそ、彼らは口封じのために動いたのだからね。最悪でも後ろから声をかけられた瞬間、振り向かずに全力で走り出すべきだった。いきなり走り出した人間をすぐに追いかけられる人間はそういない。途中で追い付かれるにしても、図書室にいる人が異変に気付くところくらいまでは行けただろう」

 わたしは戦う覚悟があるわけでもないのに異変を感じても逃げもせず、ただ興味本意で確かめようとしまった。すぐに逃げるという選択肢が、なぜか浮かんでこなかった。

「最後に、突然大声を上げたのはまずかった。実際、彼らに逆上されて暴行を受けそうになったんだろう? まずは『大声を出しますよ』と警告すべきだったんだ。ひと気がないとはいえ校舎内だ。時間稼ぎをすれば、そのうち人が来る可能性は充分にあった。叫ぶ前に言葉を使って駆け引きすべきだったな」

 太刀河さんの言葉の一つ一つが、わたしの胸に突き刺さった。あの時、取るべき手段がこれだけあったというのに、わたしは苦し紛れに叫ぶ以外何もしなかった。

 最後は運良く助けてもらえたことといい、一年前とほとんど同じだったのだ。

 悔しい。

 そんなわたしに代わって、紗月が反論するように言う。

「でも、それだけの状況判断を瞬時にしろというのは酷じゃありませんか? そんなの、普段からよっぽど備えてないと無理です」

「だから普段からよっぽど備えるのさ。それが護身術だ」

「いつどこで襲われるかわからないのに、そんなことできるんですか?」

「絶対は無理だよ。でも、備えることで確率をゼロに近付けていくことはできる」

「では、具体的にどうすればいいのか教えてください」

「もちろんそのつもりだ。でも、その前に場所を変えよう。ここよりも外を歩きながらの方が説明しやすい」

 そう言って、太刀河さんは残りのコーヒーを飲み干した。

 わたしと紗月は顔を見合わせ、同時に小首を傾げた。



 十月の下旬。日中の気温は暖かで、一年を通して最も快適といえる時期。

 さらに、今日は風が優しく、外を歩くにはもってこいの秋晴れだ。

 喫茶店を出たわたしたち三人は、川の堤防上の歩道をのんびりと歩き始めた。

 道沿いに並んだ木々の葉が赤く染まり始めていた。あと二週間もすれば紅葉が真っ盛りになる。

 わたしと紗月は二人並んで太刀河さんの後を付いていく。

 いったい外でどんな説明をしてくれるのだろうか。

 しばらく歩いたところで、太刀河さんは足を止め振り返った。

「それじゃあ、今から危険予測の練習をしてみようか。その時その場で起こりうる危険を歩きながら探していくんだ。例えば、あの車」

 見ると、赤い乗用車がこちらに走ってくる。

「今、あの車がこちらに近付いてきている。普通ならただ通り過ぎておしまいだが、そうでない可能性もある。ひょっとしたら、いきなり歩道に突っ込んでくるかもしれない」

 わたしは一瞬ゾッとした。

 いや、でも、ちょうど今ここでそれが起こる可能性は低い。とてつもなく低い。

 ほぼ皆無といってさしつかえないほどに。

 そうこう考えている間に車は過ぎ去っていった。

 乗っていたのは若い旦那さんと奥さんと子供、ごく普通のファミリーだった。

 太刀河さんが淡々と続ける。

「とまあ、あの車に関しては何事もなく済んだわけだが、そうでない可能性もわずかながらあった。こんな感じで、これから君たちに危険予測をしてもらいたい。可能性は低くてもいい。とにかく、気付いたことをいくつでもいいから挙げてみてくれ」

「はい……」

 歯切れの悪い返事の後、わたしたちは再び歩道を歩き出す。

 護身術について説明してもらうはずが、なぜか交通安全教室みたいなのが始まった。

 どういうつもりだろう? 意味わかんないし。もしかしてこの人、ちょっと不思議系の人なのかな?

 少し歩いたところで交差点に差し掛かる。信号が赤なので横断歩道の手前で足を止める。

 その時、紗月が声を上げた。

「あの、信号が青になって横断歩道を渡る時、左右を確認せず道に出たら危険です。もしかしたら信号無視する車がいるかもしれません」

 太刀河さんは、こちらを向いてニコリと笑った。

「そうだね。青信号だからといって絶対安全とは限らない。ちゃんと自分の目で確認するのが基本だ」

 信号が青に変わる。

 わたしたちは右見て左見てもう一度右見てしてから、横断歩道を渡った。

 やっぱりこれ交通安全教室だ! 懐かしいな。小学生の頃よくやったよ。

 今はもう、ほとんど確認をせず、青になった瞬間に渡っている。思えば無用心だ。

 意図はわからないが、反省の意味でもやってみる価値はありそうだ。

 そう思って周囲を観察しながら考えるも、意外と危険要素は見つからない。

 この堤防の上はあまり車が走らない道で、日中に通り魔やひったくりは出ない。

 ……いや、ダメか、勝手に決め付けては。可能性が低くてもいいんだ。

 後ろを見ると、ゆっくりこちらに近付いてくる自転車があった。

 乗っているのは、八十歳は過ぎているであろうお婆さん。

「あ、あの!」

 わたしの声に紗月と太刀河さんが振り向く。

「あの自転車のお婆さんが、実は通り魔かもしれません」

「はぁ?」

 紗月が呆れたような顔をした。

「そんなわけないでしょ。失礼でしょ」

「そうだけど、でも絶対ではないというか……」

「限度ってものがあるでしょう」

「いや、それでいい」

 太刀河さんが低い声で断定的に言う。

 そうしている間に、お婆さんが近付いてくる。

 わたしは反射的に紗月に身を寄せた。紗月も寄せてきた。

 まさか……まさか、いくらなんでも本当に――

 お婆さんは一瞬こちらを見ただけで、何事もなく通り過ぎていった。

 当然過ぎるくらい当然のことなのに、少しホッとしてしまった。

「もう! 小鞘があんなこと言うから身構えちゃったじゃない」

「ごめん……」

「謝る必要はない。限度なんてものは考えなくていいから、その調子でどんどん言ってみなさい」

 冷静に言った太刀河さんの背中を、紗月はキッとにらみ付けた。



 わたしたちは堤防を降りて住宅街に入った。

 視界の大半を占めるマンション、アパート、一軒家の他は、ところどころに小さな畑や工場があるだけの平凡な街並みだ。

 しかし、景色が変わったところで起こりうる危険性にそれほど違いがあるわけでもない。交通事故、通り魔、ひったくりの類はもう出尽くした。

 それ以外といえば――

「あの犬の首輪が外れて、噛み付いてくるかもしれません」

 せいぜいこれくらいだ。

 三十分近く歩いたので、公園で少し休憩する。

 わたしと紗月がベンチに座り、立ったままの太刀河さんと向き合った。

「もう終わりかな? まだいくらでもあるのに」

「いったいどこにあるんですか? これ以上出せって言われたら、もう無理矢理になっちゃいますよ」

 いつになく頭を捻ったせいで脳がストレスを感じたのか、ついつい口調に不満が混じってしまう。しかし、太刀河さんはお構いなしの態度で返してくる。

「無理矢理でいいから出してみなさい」

「じゃあ、あそこの電柱が実はもう倒れる寸前で、ちょうどわたしたちが通ったタイミングで倒れてくるとか?」

「それもあるかもしれないな」

 そうは言うけど、本当に無理矢理過ぎる。

 そんな確率、0.00000000……と0がいくつ続くかわかったものではない。

 こんな危険予測にいったいどんな意味があるんだか……。

 住宅街に入った辺りから紗月はずっと黙っている。かなり苛立っているみたいだ。

「玉野さんは他に思い付かないかな?」

「ありません」

 一刀両断だ。

「ダメだな、そうやって考えることを放棄してしまっては。もっと視野を広げてみれば、見えてくるものがあるはずだ」

 そこへ挑発するようなことを言うものだから、紗月はますますムキになる。

「だったら太刀河さんが言ってみてください。今すぐ十個言ってください!」

「ちょ、ちょっと紗月!」

「いいだろう」

 わたしが紗月を止めようとしたところで、太刀河さんは平然と答えた。

 まさか、本当に十個言うつもり?

「まずは、俺が君たちをひと気のないところへ誘導して襲う可能性がある」

「は……?」

 言葉の意味を理解するまで数秒かかった。

 その間、瞬き以外身体は固まったままだった。

 太刀河さんの表情は真顔のまま変わらない。

「どうした? そこの電柱がピンポイントで倒れてくる可能性よりは遥かに高いと思うが。もしかして全く想定してなかったのかな?」

 紗月は唖然としたまま声が出せない様子。

 わたしは何とか平静を取り戻して尋ねた。

「そ、それって本気じゃないですよね?」

「当たり前だよ。でも、君たちの立場からすれば可能性はゼロじゃない。その逆、俺が君たちに襲われる可能性もあるが、それは数に入れないでおこうか」

 まさか一つ目からこんな発言が出てくるとは。

 わたしたちが太刀河さんを襲う理由なんてどこをどう探してもないはずだけど、人の心が読めない以上、絶対とは言い切れない。

 太刀河さんは続ける。

「次に……今朝、君たちが食べた食事に腐っている材料があって、ちょうど今この場で食中毒の症状が現れるかもしれない」

 そうきたか。もうこの場所関係ないな。

 そう思いつつも、今朝食べた物の中で腐っていた可能性がある物はないか思い出そうとしているわたし。

「あとは……逃げてきた銀行強盗が君たちを人質にしようと襲いかかってくるかもしれないな。それから、飛行機やヘリが墜落してくる可能性もある。悪性のウイルスが飛んでいるかもしれない。今この瞬間、大地震が起こる可能性もあるな」

 これで六つ。よくもまあ、これだけ突拍子もない意見が次々と出てくる。

「それから……」

 ほんの数秒間だけ考えるようにした後、今度は早口で続ける。

「原発事故が発生して、規模や風向き次第ではここまで放射能が飛んでくるかもしれない。周辺国からミサイルが飛んでくるかもしれない。隕石が落ちてくる可能性もある。あと一つは、そうだな……」

 太刀河さんが、わたしたちの足元に視線を向けてくる。

「そのベンチ、実は足が腐っていて壊れる寸前かもしれない」

 例え話とわかっていても、わたしは腰を浮かせずにはいられなかった。紗月もだ。

 念のため回り込んでベンチの足を確認してみる。見た感じはなんともない。でも、もう座る気にはなれない。

「これで十個。納得してもらえたかな、玉野さん?」

 少し勝ち誇ったように言う太刀河さんに対し、紗月は怒りを隠そうともしなかった。

「するわけないでしょう! いくらなんでもミサイルとかあり得ないし!」

「限りなくゼロに近いがゼロではない」

「ゼロです!」

「果たしてそうかな」

 あくまでも冷静な太刀河さんの言葉に、紗月は目を細めた。

「それなら、納得のいく説明をしてちょうだい」

 なんだかもう口調が……。

 しかし、太刀河さんは気にする様子もなく、涼しげな表情で説明を始める。

「例えば戦時中、原爆を落とされた地域の人々は、まさかそんなものが自分たちの頭上に落ちてくるとは夢にも思っていなかったはずだ。わかっていたなら何らかの対策をしていたはずだからな。少なくともその瞬間まではゼロだったんだ。だが実際に悲劇は起きた。この世界ではそんなことが起こりうるんだ。ならば今この瞬間、頭上からミサイルが降ってきてもおかしくはない」

 とんでもなく強引ではあるが、説得力のある言葉だ。

 それを証明するように、紗月は悔しそうな表情をしていた。

「それは、そうかもしれないけど……でも、可能性がわずか過ぎるでしょう? そんなことまで気にしてたら、何もできないじゃないですか!」

「だからはじめに言ったろう? 練習だって」

「いったい何の練習ですか? こんなの意味あるんですか?」

「すぐに人に聞くのは良くないな。もっと自分の頭で考えるべきだ」

「考えてもわからないから聞いてるんです!」

「それならもっともっと考えることだ。意味はある。わからないなら、それは君の想像力不足だ」

 紗月は言い返せなかった。代わりに、今にも飛びかからんとするような目付きで太刀河さんを見据える。

 わたしは二人の間でおろおろするしかなかった。

 まさか紗月と太刀河さんがこんな険悪なムードになるなんて……。

 それに、紗月が目上の人に対してこれほどムキになったところは初めて見た。

「小鞘は……!」

 紗月が叫ぶような声で沈黙を破る。

 それから、急に怒気がしぼんだように視線を落とした。

「小鞘は、すごく怖い思いをしたんです。いえ、今もし続けてるんです。それであなたを頼ってきたのに、ちゃんと護身術を教えてくれないと困るんです」

 悲しそうな声。

 そっか、紗月はわたしのために……。

 太刀河さんは小さく息をついた。

「悪かったよ、回りくどいやり方をして。でも本当に意味はあるんだ。要するに、さっきやっていたのは想像力を養うための練習だ」

「想像力?」

 紗月が顔を上げる。

「そう。危険予測をするためには広い視野で物事を捉える柔軟性が必要になる。さっき君たちは、自分の目で見える範囲の危険予測しかしなかった。でも実際には、目に見えないところにも危険は潜んでいる。そいつを予測できるようにするには、少々ひねくれた思考回路が要るということだ」

 この人の場合少々では済まない気がする。でも、言いたいことはわかる。

 確かに、危険が目に映ってから行動を起こしたのでは遅過ぎる。だから、わたしたちが自分で考えるよう仕向けてきたのだ。

「それならそうと、はじめに言ってくれれば良かったのに……」

 紗月は不満そうだが、もう怒った様子ではなかった。

「まずはやらせてみて、その後に説明した方が印象に残ると思ってね」

「あなたが意地悪な人って印象の方が強く残りました」

「それは困ったな……」

 ツンと顔を背ける紗月を見て、太刀河さんはほろ苦く微笑んだ。



 それから、また少し歩いて、わたしたちはさっきの喫茶店の近くまで戻ってきた。

 太刀河さんが先生らしく言う。

「もうお昼だな。今日はこのくらいにしておこうか。また何かあったら、いつでも連絡するといい。それから、危険予測の練習はちゃんとしておくように」

「はい」

 紗月が返事をする。

 わたしは返事ができなかった。ここで太刀河さんと別れるのが不安だからだ。

「あ、あの!」

 だから、思い切って尋ねてみる。

「いざという時の対処法も教えていただけませんか?」

「……対処法か。それはつまり、敵を撃退するための技を教えてほしいということかな?」

「そうです。技よりも危険予測の方が大事だってことはわかりました。でも学校の中じゃどうやっても危険を避けられないことがあると思うんです」

「なるほど、例の三人組か。確かに校内というのは厄介だな」

「まだ諦めてくれたとは限りませんし、このままじゃ不安なんです」

 少しくらい技を身に付けたところで彼らに対抗できるとは思えない。それでも、拠り所のようなものがほしかった。

「そうか……」

 太刀河さんは考え込むように軽く目を閉じた後、静かに言う。

「わかった。でも、外で技の練習はできないから家に来てもらうことになるが、それでもいいかな?」

「え……」

 家というワードに、わたしの心臓がトクンと跳ねた。

「それって、太刀河さんの家ですよね?」

「もちろん、そうなる」

「一緒に住んでるご家族は?」

「いないよ。アパートで一人暮らしだから」

「家は近いんでしょうか?」

「ここから歩いて十分くらいかな。もし来るならその前に昼食くらいはご馳走するけど、どうする?」

 わたしは紗月に身を寄せて、小声で相談する。

「ねえ、どうする?」

「どうするたって、教わりたいなら行くしかないでしょう」

「でもさっき、誘導して襲うとか言ってたし……」

「あれは例え話でしょ!」

「わかってるよ。じゃあ、行くってことでいいんだね?」

 紗月は小さく頷いた。

「じゃあ、行きます」

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