橋姫の麒麟児

竜山藍音

松風と橋姫

 私、橋姫はしひめ紫音しおんは魔術師である。

 源氏物語の巻名に因んで名付けられた五十四家の四十五番目、橋姫家の長女だ。兄弟姉妹はいないので、いずれは私が跡を継ぐことになるのだろうけど、父が存命なので今のところそれを考える必要はない。その父はよく自身の書斎に篭って魔術の研鑽をしているらしい。

 私達橋姫の扱う魔術は、「音に関わるもの」と決まっている。千年も前から決められているのだと父は言う。父も祖父も、音に何かしらの関わりを持った魔術を使っていた。魔術というのも万能ではない。万能ではないが、別に音に関係しないと使えないという訳ではない。あくまで、それに特化しているというだけで。

「紫音。そろそろ時間だぞ」

 父の声で我に返る。いけない。ぼんやりしている間に学校へ行く時間になっていたようだ。時計を見ると午前八時。八時半には着席していないといけないから、あまりのんびりはしていられない。歩いて二十分もかかるのだ。

 私の通う私立野分学園中等部は、小学校から大学までエスカレーター式で、野分のわきというのは学長の苗字らしい。

 野分。源氏物語第二十八巻。父に訊いてみたところ、やはりその野分学長も魔術師らしい。ここ大宅市には、橋姫の他にも魔術師の家系が存在するらしく、野分もその一つだと言う。

 学長が魔術師なだけあってか、この学校には魔術部という部活がある。部員は私しかいないけど。何年か前まで学長の息子がいたらしいのだけど、もう卒業してしまったし、二つ上にいた先輩も、既に高校生だ。顧問は社会科の賢木さかき先生。やはり魔術師として雇われているらしい。

 本来、魔術というものを一般人に知らせてはいけない。故に校内で私が魔術師だと知っているのは学長と賢木先生だけだ。魔術部の存在を知っているのも、そう。殆どの人は私を帰宅部だと思っているはずだ。

 野分学園には、魔術師の子供がよく在学しているらしい。というのも、学長が魔術師なので何かあった場合の対応に安心出来るからだ。何かあった場合というのは、うっかり一般人の前で魔術を行使してしまった場合などを指す。過去にはもっと酷いこともあったらしいけど、私はよく知らない。

 そんなことをつらつらと考えているうちに、もう校門まで着いてしまった。時刻は八時二十二分。いつもより少し遅いが、遅刻さえしなければ問題はないと思う。

「おはようございます」

「はい。おはようございます」

 校門前に立っていた国語科教師に挨拶をして、まっすぐ教室へ。既にクラスメイト達は概ね来ているだろう。私のクラスの人達は、皆朝来るのが早いのだ。

 三年生のフロアに着くと、既に人がたくさん。クラスメイトも、隣のクラスの人も、だいぶ来ているようだ。私はいつものように教室のドアを開け、

「おはよー」

 と、他の子が皆言うように挨拶して教室に足を踏み入れた。

 そして気付く。何故今まで気が付かなかったのか分からないが、教室にクラスメイトの姿はない。私しかいない。否、私の他に。かろうじて体つきから小柄な男性である事は分かるが、姿がハッキリしない。

「ほう、貴様が橋姫の麒麟児か」

 くぐもった老人のような声でこちらに問うてくる。なるほどお爺さんか、とこの状況で思える程惚けているつもりは無い。

「──貴方は、誰ですか?」

 敢えて質問には答えず、逆に聞き返す。

「儂か? 儂は松風まつかぜ純一郎じゅんいちろうという者じゃ。改めて問うが、かく言う貴様は橋姫紫音に相違なかろうな?」

 松風。これも源氏物語の巻名にあった筈だ。確か、第十八巻。

「貴方も魔術師ですね? でなければ『橋姫の麒麟児私の通り名』を知りはしないでしょうから」

「如何にも。儂は松風家の先代当主じゃ。お主に少し話があってな。無粋な事ではあるが、人払いをさせて貰った」

 名を聞いても未だ正体が判然としない。何らかの魔術によって身を隠しているようだ。そもそも、ここにいる老人が本体とは限らない。姿を映像として投影することも、魔術を使えば可能だ。

「さて、我が松風の魔術が何であるか、知っているかね?」

 知る由もない。興味もない。故にその通りに答えると、何故か老人は嬉しそうに笑った。

「呵々、なるほどお主程の天才であれば興味もなかろうな。我らの魔術はな、『精神に関わるもの』じゃ。実は儂はもう先がなくてな。そこで新しい身体に意識を移そうと思っているところじゃ。その新しい身体に相応しい身体の持ち主となれば、最早お主を置いて他にいまいて」

 ……反吐の出るような理論だ。私の身体を寄越せと言うわけだ。自分が死にたくないから私に死ねと言うわけだ。冗談じゃない。自分の都合でしか物事を考えられないのか、この老人は?

「お断りします。これは橋姫の身体です。断じて貴方松風のものでは無い」

「………」

 気まずい沈黙。言い方を誤ったような気もするけどそこはそれ、気にしたら負けだ。

「良かろう。そうなればあとは実力行使。儂とて元より交渉が成立するとは思っておらなんだ。先程の台詞、橋姫からの宣戦布告と受け取った。覚悟して待っているが良かろうて……」

 そう言い残して、老人の姿は霧散した。同時に、何人かのクラスメイトが教室に入って来る。人払いが解けたのだろう。

 全く、嫌なことを言い残してくれた。宣戦布告ときたか。私とて魔術師の端くれとして、その意味は理解している。魔術師同士が仲良くやっているのは表向きだけだ。かつて同じ神秘を目指す者として、己の魔術に絶対の自身を持った魔術師達は、他の家を異端と看做して壮絶な戦いを繰り広げたという。幸いにしてどの家も滅びる事は無かったようだが、それ以来魔術師同士の戦いは断続的に続いている。その一つを、橋姫と松風でやろうと言うことになる。

「はぁ……朝から酷い日ね……」

「どうかしたの?」

 あまりにも酷い展開に思わず嘆息したところ、クラスメイトの一人に気付かれてしまったようだ。当然魔術師ではない子だ。

「一限から体育だなんて、憂鬱この上ないでしょ?」

 適当に誤魔化す。こんなのは日常茶飯事だ。魔術は決して公にするべからず。当然だ。こんなものがあると分かれば大混乱は避けられない。

「えー、ひめっち体育出来るじゃん。私の方が憂鬱だよー」

 お前は呑気でいいな、という文句が頭をよぎったが、何も知らないのだから当然のことだ。

「いい加減、私をそのひめっちふざけた名前で呼ぶの、やめてくれないかしら? 恥ずかしいったらないわ」

「えー、いいじゃん。カワイイし」

 全く、コイツは人の事をなんだと思っているのか。

「良くないから言ってるのよ」

 言い残して席を離れる。別にお互い仲が悪い訳じゃないが、むしろ普段なら良い方だが、私の機嫌が悪いのを察したのだろう。それ以上話しかけてくることはなかった。


 放課後。

 朝の松風翁との会話を忘れた事はなかったが、とはいえ私にはそれを父に知らせる手段がなかった。これが学校外であれば、ポケットに必ず一体使い魔の人形ヒトガタを忍ばせておくのだが、今は持っていない。故に自分が帰ってから直接伝える他ない。

 だが、魔術師相手に後手に回ったのは良くなかったのだろう。

 何故なら、帰宅した私を待っていたのは両親ではなく、両親だったからだ。

 見間違うはずもない、今朝と同じ服。だが、服以外にそれが両親であると判断する材料はなかった。

 いや、服しか特徴が残っていないわけではない。残った部分から体格くらいは判断できるだろう。そしてやはり、それも私の両親のものと同じだった。

「顔がない……。いや、と言うべきね」

 そう、居間で私が見たのは、首のない死体二つだったのだ。

「普通の人間ならここは取り乱すのでしょうけど…私にそんな普通の神経なんかないからね」

 誰もいない居間に語りかける。少なくとも、生きた人間は誰もいない。

 私は魔術師だ。である以上、私が知人の死如きで動揺することはない。それが家族であっても同様だ。

「問題は、誰がやったか分からないこと。それと、まだ私が生きてる以上、次は私が狙われる可能性が高いこと、かしらね」

 すると、誰かに助けを求めるべきか。下手人が松風家の一員であるのは間違いないだろうが、それがあの純一郎翁だとする根拠はない。

 目的が私の身体でありながら、被害者が私ではなく両親だったことを考えれば、同じように直接的には無関係の人物の可能性もある。宣戦布告を知らなかったとはいえ、両親とて魔術師だ。にもかかわらずこの有様。敵は相当の手練だと考えられる。

 私が直接、一人で相手取るしかなくなったわけか。

 私一人では危険だろうか。父ならば、危険だと言うだろう。母ならば、出来ると言うだろう。大体二人ともアテにならない。

 では私自身は?危険だとは思う。でも出来ないとは思わない。要するに、私が一番役に立たない。

 今日はもう遅い。先生に連絡は取れないだろう。明らかに魔術によって殺されている以上、警察に連絡も出来ない。

 今日のところはもうどうにもならない。明日先生に報告するとしよう。明日もまだ私が生きていたら、だが。


 結局、私は翌日も生きていた。

 私の結界なんかが役に立ったとは思えないから、運が良かっただけかも知れない。

 ふと、掌に痣があるのが見えた。1センチ程の短い線が四つ、ほぼ一列に並んでいる。知らないうちに、手を握り締めていたのか。

「みっともない。禁忌に触れる者の癖に、こんなことで簡単に取り乱しちゃって。父さんに合わせる顔がないじゃない」

 独りごちて通学路を急ぐ。遅刻の心配はないものの、一刻も早く学校へ行きたかった。

 先生に昨日の事を話したかった、というのも勿論ある。だが、最大の理由はそれではない。

 私は逃げたかったのだ。両親の死体から。凶行の現場から。そして魔術師たることを強いられた己の運命から。

 幸い、いつもより早く着いた。朝の職員会議にもまだ時間がある。賢木先生が来ていなかったどうしようかと思ったが、そちらも心配要らなかったようだ。

「朝からどうかしましたか?橋姫君」

 魔術部の部室に来た先生は、当然のことを聞いてくる。賢木先生は生徒のことを〇〇君と呼ぶ。私もその例外ではないけれども、年頃の女子としてはちょっと思うところがなくもない。

 そんなどうでもいい話にうつつを抜かしている場合ではなかった。昨日の顛末を包み隠す話す。

「……ご冥福をお祈りします。ご愁傷様でした」

 長い沈黙の後、それだけの事を言うのがやっとだというように弔辞を述べた。

「それはいいんです、先生。問題は──」

「問題は、このままだと君の身が危ない、というところですね」

「はい、先生。私一人で相手して、それで失敗しては意味がありませんから、こうして相談を」

「いい判断ですね。と言っても、僕も役に立つかはわかりませんが……」

 これは謙遜だ。賢木先生は空間に作用する大魔術を巧みに操る。私には出来ない芸当だ。教室くらい小規模であれば多少は出来るかもしれないが、先生の場合は校舎丸々射程距離内だろう。

 とまれ、取り敢えずは信頼のおける協力者を一人見い出す事が出来たのであった。


 そのまま何も無ければ幸福だったのだが、残念ながら私にはその運が致命的にないらしい。

 放課後になって、何事も無く帰れるのかと思った矢先、その光景が目に飛び込んで来た。

 濃い血臭。床に広がった赤。そしてなにより目を引くのが、

 首がないのは両親のそれと同じだが、綺麗に首だけがなかった両親と違い、こちらはあちこちが切り裂かれ、見るも無惨な肉体の残骸となっていた。

「もはや人体と呼んでいいのかすらわからないレベルね。そもそも、これは誰なのかって事が問題なのだけど」

 思わず独りごちる。

 実際にそれは問題だ。だが、この場合もっと問題なのは、この学校という場所において、殺人があった事だろう。私の独り言は、その問題を先送ろうとしているようで、自分で腹が立つ。

 面倒な事になった。これは先生に伝えるべきだろう。だがこれがまた魔術師によるものだったら?普通の教員に知らせる訳にはいかない。やはり賢木先生に伝えるしかないのか。

 魔術部部室前という、驚愕の場所で斃れているこの女子生徒を人目に付かせること無く賢木先生に伝えなければならないという訳だ。

 ……そもそも、何故魔術部の部室前にいるのか。ここは本来魔術師でなければ入れないよう結界が張られていたはずなのだ。おかげで今まで誰にも見つからずに倒れ続けていたのだろう。故に、このままここに放置しておいても、他人に見つかる心配はないだろう。

 ふと、やや離れた所に落ちている鞄が目に付いた。身体と同じように、見る影もなくズタズタになっている。あの生徒の持ち物だったのだろう。と、いうことは、その中に身元を特定する何かがあるかもしれない。

 私の指紋がつかないよう、部室から持ってきた手袋をはめた上で物色すると、思惑通り教科書の類いが出てくる。明らかに三年生のものだ。だが肝心の名前が書いていない。これでは何のために漁ったのかわからないぞと思った矢先に、思いがけないもので身元が知れた。

 携帯電話、というよりスマートフォンに、女の子らしいストラップ。可愛らしいケースに付けれられたそれは、私にも見覚えのあるもの。確か、クラスメイトの一人が、自分で作ったと言っていた。

 それはまさに今朝話しかけてきたクラスメイト。名前は、荒巻あらまき明菜あきな。私が割と気兼ねなく話せる、友人と呼んでも差し支えないだろう人物。

「私のことをひめっちって呼ぶのだけはいただけなかったけど、それ以外はいい子だったのに。少なくとも、こんな死に方をするような子じゃないでしょ」

 そう、こんな非常識的な死に方をする理由なんてなかったはずだ。。まさか、私のみならず、関係ないクラスメイトまで手にかけるとは思いもよらなかった。外道畜生にも程がある。

「橋姫君のせいではありませんよ。君は何も間違っていない。間違っているのは犯人です」

 反射的に振り向く。そこには、いつもと変わらない賢木先生の姿があった。

「先生……」

 言葉が出ない。何を言えばいいのか分からない。何をしたらいいのか分からない。誰と話しているのか分からない。何も分からない。もう自分が何者で何処にいて何をしているのかすら分からない。私は誰だ?足元のコレは何だ?ここはどこだ?目の前にいるのは誰だ?私は何をしている?分からない、わからない、ワカラナイ!

「落ち着いてください。分からないことではないでしょう。落ち着いてしまえばどうということはありません」

 静かな声で我に返った。私は何をしていたのだろうか。

「『分からないこと』に対する恐怖、未だに克服していないようですね」

 みるみる自分が赤面していくのを感じる。恥ずかしいことこの上ない。何度これで迷惑をかけたことか。結局、もう二年半弱治ることはなかった。

 『分からない』が怖い。『理解出来ない』が恐ろしい。

 周りからはよく「大人びてる」だとか、「しっかりしてる」なんて言われるけど、私からしてみれば、私なんてただの女子中学生に過ぎない。怖いものは怖いし、怖いものに直面すればパニックを起こす事だってある。いたって普通なのだ。その対象がちょっと人と違うだけで。

 周りから見れば、突然パニックを起こすのと同じことであり、治せるなら治したかったのだが……。

「治る兆しは見られませんね」

「はい…すみません」

 先生の言う通りなのだ。まるきり治る兆しがない。むしろ年々悪くなっているような気さえするのは、気のせいだろうか。

「君が謝ることではないし、気に病むことでもありません。気長に治せばいいだけですから」

「それでも、迷惑をおかけしてますから」

「気にしたら負けですよ、橋姫君」

 出来の悪い教え子を諭すように、ゆったりとした調子で注意された。否、実際に出来の悪い教え子なのだ、私は。少なくともこの件については。

「ところで先生、こういう時ってどうしたらいいんですか?」

 そう、それだ。私に分からなかったこと。この状況で、何をしたらいいのか。

「取り敢えず、身元は確認出来ましたね?では簡単です」

 そして先生は、私の最も聞きたくなかった答えを吐き出した。

「その子を

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