青春臆病野郎はハカナイ恋の夢を見ない

鶴宮 諭弦

青春臆病野郎はハカナイ恋の夢を見ない

 人の視線には力がある。

 人の視線は普通では見ることは出来ない上物理的な重さも無いし、人の肉体に傷を付けることは出来ない。

 それでも視線は人の見ることの出来ない所を傷つけると、茅ヶ崎直樹ちがさきなおきは知っていた。

 中学一年の時に兄が起こした暴力事件のせいで、直樹を見る周りの目が変わっていった。

 昨日まで仲の良かった者たちは、直樹のことをいないように扱い、教師たちの見る目は厳しくなり、弟だから何か問題を起こすかもしれないという視線で見る。

 周りからの視線は全て悪意あるものにしか感じなくなり、直樹自身それを面倒と思い、無視しようと努めた。

 しかし、そんな努力とは裏腹に、周りからの視線を感じ取る感性は強くなるばかりである。

 その内、近くで談笑している集団の笑い声は、直樹に対する嘲笑ちょうしょうのように聞こえてくるようになる。

 自分自身の勝手な思い込みによる悪意も直樹自身をむしばみ、確実に心の中にある何かを擦り減らしていった。

 直樹はそんな生活が嫌になり、少しでも改善しようと、教師の手伝いや他の皆が嫌がるような仕事を請け負うことで周りからの印象を変えようと試みた。

 人と話す時は作り笑顔をして、愛想を出来るだけ良くした。

 結果、少しは周りの反応も緩和されたが、一度身に付いたことは変えることは難しく、人と話すときには勝手に作り笑顔を作ってしまうし、周りの視線を悪意あるものだと思い込むことは治ることは無かった。

 そんな直樹も中学を卒業して、神奈川にある県立峰ヶ原高校に入学をした。

 高校に入り、何かきっかけがあれば変わることが出来る。そんなことを直樹は信じていた。

 信じていたからこそ何も変わらなかった時の落差は大きいものとなり、心に出来た虚無感もより大きくなった。





 入学して二ヶ月が経つ頃、クラス内でのグループ分けは明確になっていた。

 イケてるグループとそうではないグループ。

 そこには明確な壁があった。可愛い子たちが集まる上位グループには、他のグループに逆らってはいけないという『空気』が出来ていた。

 一度出来た『空気』を全員が暗黙のルールとして扱い、誰もそれを破ろうとはしなかった。

 直樹は、どこのグループにも属そうとはしなかったが、暗黙のルールを破る気にもならない。

 普段は視線に感性が反応しないほど、周りから気にされないように過ごした。

 それでも、聞こえてくるイケてるグループの笑いは自分のことではないかと感じてしまう直樹の感性は敏感といえる。

 そして敏感になりすぎた感性は、自分に向けられた視線以外にも気づけるようになっていた。

 人の悪意に気づけてしまうというのは、普通の心には辛いものでしかない。

 いっそ、何も見えなくなれば良いとさえ、直樹は思うようになっていたが、失明するのは生活が厳しくなるので現実的では無い。

 面倒事を起こさず、自分が我慢すれば良いだけと直樹は諦めた。





 そんな生活を半年経つ頃に、直樹の周りで不思議なことが起こるようになった。

 しかし、直樹にはその不思議の解決法は分からないし、こんな不思議なことは周りに話しても、電波扱いされて終わるのが目に見えているため、話すことが出来ずにいた。

 ただ、それでも直樹なりに調べた結果、この現象は、巷で囁かれている『思春期症候群』というものであるということ。

 直樹も聞いたことはあったが、そんな現実離れしたことは信じていなかったし、自分がなるなんて考えもしなかった。

 直樹はどうしたものかと考える日々が続いていた。

 気が付くとホームルームは終わり、教室から人が出ていく。

 人が少なくなったところで、直樹も教室を出ることにした。


「ちょっと待ってください。茅ヶ崎君」


 自分を呼び止める人がいることに驚きつつ、直樹が振り向く先には学級委員の砂川智美すなかわともみが立っていた。

 メガネを掛け、黒髪のショートカットで細身のあるその姿でその場に真っ直ぐ立ち、手元にはプリントの束を持っている姿は、学級委員というイメージがぴったりだった。


「時間があったらで良いんですが、職員室までプリントを運ぶのを手伝って貰っても良いですか?」


 智美は窓際にある自分の机に視線を向ける。それに釣られて、直樹もそちらの方に目を向けると、大量のプリントの束が机の上に置かれていた。

 断っても良かったが、直樹はそれにより周りから、どんな視線が飛んでくるのか分からなく、それを恐れた。

 そんな打算的な考えの基で直樹は動いた。


「大丈夫ですよ。今日は予定もないですから」

「ありがとうございます」


 勝手に出た作り笑顔での直樹の返答に対して、智美は心の底から安心したような笑みでお礼を言った。





「すみません。結局こんな時間まで手伝わすことになってしまって」


 結局、届け終わったタイミングで、担任の教師より更に仕事を追加され、直樹だけが途中で帰ることも出来なく、最後まで手伝った。

 外は既に日が沈み始め、夕日は学校から見える海を赤く美しいものにし、その光景を一種の宝石と言い換えても良いと思える程だった。

 この光景が見えただけでも良かったと思い、直樹は自分を納得させる。

 戻った教室の中も、窓から入ってくる夕日の影響で昼間とは違う雰囲気を醸し出している。


「あの! 茅ヶ崎さん、もう少しだけ時間を頂いてもよろしいですか?」


 まるで先程の繰り返しのように声のする方に振り向くと、そこに立っていた智美は、後ろの窓から差し込む夕日の影響からか、細身のあるスタイルは浮き上がり、先程より大人びたような雰囲気を纏って、何かを問うような視線で直樹を見つめた。

 

「手伝って貰ったお礼では何ですが。茅ヶ崎君の悩みの相談に乗りますよ」


 その言葉は、直樹の心の奥底にある、何かを掴むには十分だった。


「何で僕に悩み事があると思ったんですか?」

「だって、茅ヶ崎君はいつも作り笑顔をばっかりするじゃないですか?」


 更にもう一歩、笑顔のまま心に侵入してくる智美に直樹は警戒を強める。


「どうして作り笑顔だと?」

「茅ヶ崎君は笑顔がなる時って、口元も目元も笑っているのに、瞳が笑っていませんから」

「良く……見ていますね」


 自分でも気が付かないことを知られるというのは、存外気持ちの良いことではなく、直樹の口元は次第に乾いていく。

 そこまで自分が観察されていると直樹は思いもしなかった。

 何より、視線に敏感な直樹が智美の視線に気が付けなかったことにも、直樹に驚きを与えている要因になっている。

 夕日のせいなのか、顔が赤く見える智美の顔から直樹は不思議と目を逸らすことが出来ない。


「私が……茅ヶ崎君のことを好きだからですよ」

 

 直樹は聞こえた言葉を処理することが出来なかった。

 理解が出来なかった。

 言葉の意味は知っている。

 それでも、その言葉を直樹は受け入れることが出来ない。

 受け入れてしまえば、直樹は智美を傷つけてしまうと分かったからだ。

 同時に、何故智美の視線に気が付けなかった理由が理解できた。

 智美が直樹に向けていた視線は悪意が全く無かった。

 直樹は悪意の全くない視線は、基本的に自分のことではないと思い、流してきた結果、善意ある視線に疎くなっていたのである。

 それはつまり、智美の気持ちが本物であるという裏付けにもなった。

 それでも直樹は。


「ごめん。僕はその気持ちに応えられない」


 勇気を振り絞り、断ることを選んだ。

 心が痛かった。相手の気持ちが本物であると気が付いてしまったがゆえに、それを拒絶する心への反動は大きかった。


「そう、ですか」


 智美の声が明らかに小さくなっていることに直樹は気が付いたが、励ます言葉は見当たらない。


「砂川さん……思春期症候群って知っていますか?」

「あのネットで噂のですか?」


 智美の台詞に、戸惑いが溢れるのも仕方のない。

 断られた直後にこんな話をされるなど、驚きでしかない。

 それでも、直樹は現在も起こっている自分の思春期症候群について説明する。


「あれはただの噂ではないんです」

「何故、そこまで」

「僕もその思春期症候群を発症しているからです」


 直樹は智美が息を飲んだのが分かった。

 自分が告白した相手が、唐突に非現実的話をし始めたら誰だってそうなる。


「半年程前から、僕は時々ですが人が見えなくなるんですよ」

「人が?」

「はい。最初は視界の端の人が一人二人、見えなくなる程度だった。でも、時間が経つに連れて、見えなくなる人は増えてきました。この前なんて、十分くらいクラス全員が見えなくなった」


 智美が何も言ってこないことを確認し、直樹は続ける。


「今も、僕には砂川さんが見えないんです」

「えっ」

「声は聞こえるので、何とか会話が出来てますが、砂川さんがどんな表情をしているのかが分からないんです」


 直樹には智美が驚いていることは分かっても、どんな表情をしているのか分からない。


「私が見えなくなったのいつから」

「告白受けた直後かな」

「もしかして、それが告白を断った理由ですか」

「はい」


 心の中にあった悩みを吐き出すことで、軽くなっていくのとは対照的に、断った理由を本人前で伝える辛さに、胸が痛くなる。

 それでも、伝えなくはならないという義務感で口を動かす。


「こんな状態で付き合っても、いつか砂川さんを悲しませてしまう。必ず不幸が訪れると分かっているのに付き合うなんて無責任なことは僕には出来ません」


 直樹には誰かが必ず悲しむと分かっていて、それを回避しないなんてことは出来なかった。

 

「それでも! 私は不幸が訪れたとしても、茅ヶ崎君の傍にいたいです」

「……悲しむと分かっていても?」

「はい」

「僕には今、砂川さんがどんな表情も分からない。いつか、砂川さんがいなくなっても、僕には見つけ出すことも出来ない。最愛の相手に見つけ出してくれないなんて、傷つくだけですよ」


 人間は誰かの視線があることで、自分の存在に安心を持てる。それが悪意あるものだろうと。

 誰にも見てもらえないのはいないも同然の存在になってしまう。

 特に、不安で押しつぶされそうなときに、自分の好きな相手に自分の存在を認めてもらえないというのは、心が保てない。

 それを他人に強いる程、直樹の心は図太くは無かった。


「茅ヶ崎君は優しい人なんですね」

 

 呟かれた一言。

 たった一言。

 しかし、それが直樹の中にある何かにひびを入れた。


「僕はただ臆病なだけですよ。他人から悪意のある視線を向けられたくないからと、他人の顔色を窺いながら、ひっそりしているだけです」

「それでも、他人が傷付けない方法を考えて、自分の心を犠牲にしてもそれを実行出来るのは、十分に優しい思いやりを持った人なんですよ」


 中学の最初の頃から、周りの視線を気にして生きてきた直樹にとって、その言葉はとても温かいものだった。

 直樹は心の奥にある何かが決壊するのを感じた。言いたくとも、印象が悪くなるからと自分の言い分を潜め溜めてきたものが、智美の一言で壊される。

 

「その涙が、茅ヶ崎君が優しい人である証ですよ」


 智美に言われ、目を拭う直樹の袖には、確かに涙の痕が残る。

 何で涙が出ているのか、直樹には分からない。

 ずっと、中学の時から流さずにいた涙は止まって欲しい本人の意思を拒絶するかのように流れ続けた。


「そして、そんな温かい涙を流せる茅ヶ崎君だからこそ、私は好きになったんです」

「でも、僕には砂川さんを見ることは出来ない。砂川さんが不安になった時も、僕はその不安に気づくことが出来ないかもしれない」

「傍に居てくれればいいです」

「砂川さんがどこにいるかも僕には分からなくなる」

「なら、手を繋いでくれればいいです。茅ヶ崎君が見えなくも、それで私の不安はなくなります」

「僕は……存在しても良いんでしょうか?」

「少なくとも、私は茅ヶ崎君を必要としてます」


 優しい自分に否定するかのように漏らす直樹の言葉に、智美は一つ一つ、肯定の言葉を述べていく。


「だから、傍に居て下さい。茅ヶ崎君」


 既に、顔は涙で他人に見せられるような状態ではなく、普段の直樹ならば、顔を伏せ、視線が集まらないようにしていた。

 しかし、今だけは、見えないが間違いなく正面にいる相手に向かって、顔を上げ、いつ振りかも分からず忘れていた、心からの笑顔で返す。


「こちらこそ、臆病な人間ですが……よろしくお願いします」


 直樹は無骨でみっともなく、情けない姿だった自分をこの時だけは何故か誇りに思えた。

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