喉が乾いていた。宛もなく走り続け、酸素と二酸化炭素が肺の中でぐるぐると渦巻いている。

 天宮に勝負を挑み、勝った暁には深澤に告白する。榊は自分にこの制約を設けることで、失いかけた自信を再び取り戻そうとした。

 だが、一体それになんの意味があったのだろうか。

 深澤は榊の制約なんて知らない。榊が天宮に勝とうが負けようが、そんなことは深澤にとって何の関係もない。彼のしてきたことは、彼と天宮の……いや、榊だけの勝手な一人相撲に過ぎなかった。自分の好意一つ告げられない、情けない男の逃避。

 認めたくなかった。ずっと一番だった自分が天宮というたった一人の人間に簡単に敗れてしまうことも、深澤に好意を拒絶されることを恐れただ遠くから見ているだけだったことも、ハルのように正直になれない自分が嫌で嫉妬していたことも、全部。

 俺は、何もできないちっぽけな存在だった。はは、なんだよ。

「俺、超カッコ悪い……」

 もう走る気にもなれず、立ち止まる。静かだった鼓膜に少しずつ世界が戻ってくる。ガラスという無機物を隔てて響く、油蝉の合唱。淡い橙色と確かな蒸し暑さを放つ西日。火照った身体と頬を伝う汗。首に張り付く気慣れた白Yシャツ。ふと真横の教室に目を向けた。

 書庫室。文芸部の部室だった。闇雲に走っていたはずなのに、よりによって。

 ドアノブに手をかけ、捻る。鍵は開いていた。


 いつもなら涼やかな部屋の中は、廊下と変わらぬほどに蒸していた。整理整頓された数多の本棚と長机、そしてパイプ椅子が二脚。それしかない質素な空間なのに、不思議と退屈したことは無かった。

 放課後部室に来るなり、授業で出された課題をやったり、きまぐれに古い文庫本を読もうとぱらぱらとめくってはものの数ページで挫折したり、熟語の意味を調べようと広辞苑を開いてはそのまま寝落ちたり……思えば文芸部らしいことなんて殆どしていなかったかもしれない。でも叱責されたり追い出されたことはないし、部誌の制作には苦戦したが、何か困ったことがあればすぐに天宮が助け舟を出してくれた。

「あ……」

 どの季節に来ても部屋の中は快適な温度に保たれていた。榊がどれだけ本を机に広げても、帰り際には全てあるべき棚に揃っていた。課題をやっていれば手元には参考文献が積まれていたし、彼が投げ出した本を見てはあらすじが簡潔に説明され、居眠りから目覚めると探していた語のページに栞が挟まれていた。


 ああ、そうか。

 どうして今まで気が付かなかったんだろう。


 廊下から床を打つ音がする。

 国語を苦手とする榊が、半ば意地で入部した文芸部。普通に考えれば、苦痛だろう。だがそうでなかったのは……

「はぁ、はぁ、は……さ、榊! 」

 彼女が、天宮哨子がいたからだ。



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