蒸した廊下は榊を現実に連れ戻す。

「俺、あんな風に思ってたのか」

 誰よりも幸せでいてほしい。今思い出してもその答えは変わらない。だが、今まで考えもしなかった。深澤の事は好きだ。それは誰に勧められたわけでも、後押しされたわけでもない。単純にその人柄に惚れたのだ。そして、こんな子が自分の彼女だったらどれだけ幸せだろうと想像していた。でも……。

「天宮との勝負に勝って、深澤に告白をして…それで深澤は幸せになれるのか? 」

 自慢じゃないが、榊は深澤と一度も話したことがない。校内ですれ違うことがあっても、素知らぬ顔をして通り過ぎていた。それに、自分が深澤に好意を抱いていることも天宮以外には話していない。面識がない。そんな人間からの告白を深澤はどう思うだろうか。

「……なんて考えても意味ないのにな。結局、俺はフラれるのが怖くて怖気づいているだけってことか。天宮の言う通り」

 自身の情けなさに思わず苦笑する。

二位のレッテルを払拭するために天宮に勝負を挑んでも、深澤への告白が失敗したら、もう榊は自分を信じられなくなる。それがたまらなく怖い。

汗が一筋、つう、と頬を滑り落ちていった。

「俺は……」


「よお榊! どうしたんだよ、こんなところで突っ立ってさ」

 突然声をかけられビクリと肩が飛び跳ねた。

「な、なんだハルか。驚かすなよ」

「別に驚かしてないだろ。普通に声かけただけだっての」

 ハル、と呼ばれた青年はそう言って笑った。

 結城晴也。榊とは一年の頃からのクラスメイトで底抜けた明るさと気さくな性格の持ち主だ。榊の親しい友人の一人でもある。

「なんだ、テスト勉強のし過ぎか? ちょっとは気を抜けよ。俺みたいに」

「いや、お前はもっと勉強しなきゃダメだろ。この前のテストの赤点の数忘れたのか? 」

「覚えてるさ。大丈夫だって、今度こそ! 」

「本当だろうな? 」

 二人は吹きだして笑う。結城のこの性格に、榊は知らず知らずのうちに救われていた。

「お、あれ吹部じゃね? マーチングバンドってやつ?」

「今度外部でやるパレードの練習だよな。確か」

 日差しの中、懸命に楽器を吹く姿は、さながら軍隊のように揃っていた。そこには深澤すみれの姿もある。滴る汗。輝く楽器。華やかで雄大な音の響き。自分の知らない世界に立つ彼女が、とても眩しかった。

「あれだよなー4組の深澤すみれちゃんって可愛いよな。お前の文芸部に確か4組の奴いたよな? なんか話聞いたりしてないわけ? 」

「へっ? あ、そうだったな。特に何も言ってなかったと思うけど」

 自分はその深澤のことが好きだなんて、口が裂けても言えない。

「いいよなーああいう子と付き合いてー」

「お前はいつも気楽だよな。なんというか自分に正直というか、何でも臆することなくズカズカと進むというか、羨ましいよ。その勇気」

 俺とは正反対だ、という言葉は飲み込んだ。

「ん? 別に勇気があるとかないとかそんなん関係ないだろ」

「じゃあなんなんだ」

 結城の丸い瞳が輝き、短髪が風に揺れる。

「俺は後悔したくないだけだ。自分で選んだことには責任を持てるし後悔だってしない。ほら、今現国の授業でやってる小説の一文にあるだろ。”私は自分のしてきたことについて後悔したことは無かった。しなかったことについてのみ、いつも後悔を感じていた。”って。それと同じだ」

 一瞬、世界の時間が止まったように何も聞こえなくなった。乾いて張り付いた喉の奥を引き剥がし、言葉をひねり出す。

「……お前が中島敦の言葉を知っているなんて、意外だな」

 そう言うのが精一杯だった。

「ふふん。俺だってたまには勉強位するっての」

「ははは……」

「あっやべ。委員会の資料取りに行くよう頼まれてるんだった。じゃあな榊。あんまり思い詰めすぎんなよ! 」

 足早に走っていってしまった友人の後ろ姿を見つめながら、榊は考えていた。これから何をすべきなのか。何を伝えるべきなのか。もう少しで、目の前にかかった靄を振り払えるような、そんな気がしていた。

「戻ろう。」

 くるりと身を翻し、書庫室の方へと歩き出す。

 そういえば、ここにくるまでに何か大事なことを忘れてしまったような気がする。あれは何だったか、どうしても思い出せない。

 夏は、もうそこまで来ていた。

 俺がするべきことは、決まっている。

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