晴天に散るは桜の花
夏織リオン
晴天に散る
1944年、第二次世界大戦の戦況の悪化に伴い日本では特攻兵器の開発、運用を本格的に始めていた。
小さい頃からあこがれていた海軍に入り、初めて所属した先は第七二一海軍航空部隊であった。この隊は神雷部隊と呼ばれていた。
「おーい、三村、なにしてるんだ訓練に遅れるぞ。」
「すまん川田、今いく。」
「遅れるなよ?」
これは僕、三村 正幸の記録である。
▽▽▽
八月のある日、緊急の招集があった。集合所に集まり話を聞いていると、それは
「特攻兵器、桜花に乗りたいという志願者はいるか。」という募集であった。
桜花、それは千二百キロもの徹甲爆弾を乗せた航空機である。車輪はなく一式陸上攻撃機、通称一式陸攻にぶら下げて移動する一人乗りで脱出装置はない、逃げることは許されない“檻”である。
それに乗れば、確実に死ねる。確実にお国のために死ねるのだ。そう思うと自然と答えは出ていた。それは先程僕を呼びに来た同室の川田 聡も同じようだった。
川田とは同室の友人で歳が同じの明るい青年だ。つらい訓練も彼がいれば笑い話になるような男を僕は川田以外に知らない。
「川田、お前も行くのか。」
「そういうお前だって、行くんだろ?」
「まあ、そうだが…」
「でもさ俺はさ、本当の目的は違うんだよ。」
何かをたくらむ子供のような屈託のない笑みを浮かべながら彼は小声で僕に言う。
「あとで宿舎に戻ってから言うな、ここじゃちょっとばかしまずいもんで」
そう言って彼は人ごみの中に消えていった。
同日、夜
「で、目的とはなんだ?」
「日本はさ、この国はもう幾分かで負けるだろう。」
「…は?お前、上官に聞こえでもしたらどうするんだ!出撃する前に死ぬぞ!」
「そう大声を出すなよ、本当に聞かれたらどうするんだ」
彼はとんでもないことを言いながら笑っている。
「た、たとえ負けるとしたら、どうなるんだ?」
「特攻なんてばかばかしいと誰かが気づくだろう、それで議論を重ねているとか何とかしている間にこの戦争が終わったらーって。そうしたら俺達は生きられる、夢を叶えられるんだ!」
声が弾んで、一気に流れてくる。
「俺はな、海が好きなんだ、だから大学に行って将来は海洋学者になりたいんだ。海の中をすべて知りたい、海の底をすべて調べたい、そのためには生きなければ、叶う可能性も消えてしまうんだ。お前には夢はないのか?」
夢を語る彼はどこか悲しそうに見えたのは、気のせいだろうか。僕の服を握りしめ、こちらをまっすぐ見つめる目に何が映っているのか知ってはならない気がした。お国のために死ぬと決めて故郷から出てきた僕には見る資格すらない気がして俯いてしまう。
「僕に夢、か。あった気もしたんだけどな、忘れたよ。歳かなぁ…」
「歳ってお前まだ二十歳だろー、この年寄りめー!」
「いてて、お前つねるなよ…って同じ年だからお前も年寄りだ!」
「川田!三村!うるせぇぞ!」
さすがに騒ぎすぎたようで隣の部屋から怒鳴られてしまった。
やっちまったな、そう笑って二人は眠りについた。
▽▽▽
桜花の訓練が始まりしばらく経った頃、僕は悩んでいた。
毎日宿舎に帰ってから一人自分を問いただす。
自分は本当にお国のために死にたいのか。
川田の目的の話を聞いてから悩んでいたのだが桜花のことを詳しく知ってさらに僕は悩んでいた。こんなばかばかしい兵器に自分の命を懸けられるのか。こんなものでお国は救えるのか。
答えはわかっていた。
―命を懸けるべきではない。
―救えるはずがない。
わかっていても自ら志願した身、逃げることは許されない。
「―許されないんだ。」
「ん?三村、なんか言ったか?」
「あ?い、いや何も…」
思っていたことがつい口に出てしまっていたらしい。
「何だ思い人でもいるのか?恋か、それとももう結婚してるのか、いやぁ、若さだねえ。」
「そんなものではないさ茶化すなよ、思い人もいないし結婚もしていないさ。
ただ、桜花に命を投げ打てるのか不安になっただけだ。」
声が震えていた。
「そんなもの、決まってるじゃないか。意味なんてあるわけがない、無駄死にだ。ただの自殺だよあんなもの。駆逐艦相手に千二百キロの徹甲爆弾なんかで勝てると思う方がおかしい、頭がいかれてる。お前だってわかってるんだろ?
死にたくないっていう自分の気持ちがさ。」
ご名答、だった。
言い返せない沈黙が続く。
「今日はもう、寝ようか。おやすみ、三村。」
「お、おやすみ、また明日。」
川田は僕を問い詰めず静かに布団の中に沈んでいった。わかってるよ、と言っているように思えて少し胸が痛かったのはなぜだろうか。
どうしてもわからなかった。
僕にはわからなかった。
目を閉じても頭は動いてしまっている。故郷の皆にお国のために死んでくるといった僕は勇ましいと皆言ってくれたのを覚えている。
じゃあ今、死におびえている僕を皆はなんと言うだろうか。
―腰抜け?
―お国のためにもならない役立たず?
故郷がとても恐ろしく思えた。僕はもうあの暖かい場所には帰ることはできないのかと思ってしまい怖くなる。母と妹たちのもとへ、昔のように笑いあったりできるはずのあの場所へ戻れなくなってしまうのか。恐怖がどんどん押し寄せてきた。
死が僕を狂わせていた。
死とは誠に恐ろしいもので目の前を、未来を何も見えなくさせられる。このときはもう何も見えずただただ暗い闇の底へ沈んでいく気がしてとても恐ろしかった。
「おい、三村、みーむーらー!」
いつの間にか眠っていたようで、気が付くと明るい風景の中に川田の顔があった。
「ん、朝か…」
「朝か…じゃねえゆったりしてると遅れちまうぞ!ほら、支度しろ支度!」
「え、ああ、そんな時間か!すまん行っていてくれ!」
「どうせ連帯責任だから待ってやるよ、ほら口より手を動かせ支度しろー!」
「わかった!」
…遅刻。
この日の訓練は二人だけいつもの量の三倍は苦しかったのをしかと覚えている。
「疲れた…死ぬ…出撃する前に死ぬ…」
「同じ飯なのにすげえ美味く感じる…」
いつものカレーが全く違うものかと錯覚するほどおいしかった。
こんな平和な毎日が続いてくれれば、そう願ったのは僕だけではないはずだ。
叶わないとわかっていながら不可能な夢を皆は持ち続けた。
▽▽▽
季節が過ぎ、桜花の訓練にももうすっかり慣れた頃。
「戦況が悪化した。」
上官は集会所の中の隊員に静かに言い放った。とても寒い冬の日だった。
皆の灰色の目と死への恐怖で部屋がいっぱいになる。
「近々、出撃という事もあると考えておくように。以上。」
上官が部屋から出て行った後、皆の顔は真っ白になっていた。
「この中の十数人が、一気に死ぬんだぜ。いなくなっちまうんだぜ。」
部屋の中の誰かが言う。
「死にたくない、母さんのもとへ帰りたい。今すぐここから逃げ出したい。」
「みんなで逃げ出そうか、みんなで家へ帰ろう。」
「そうだ、そうしよう。」
「そうだ、そうだ。」
大勢の心から振り絞った震える声達を静めたのは川田だった。
「帰る場所なんてねぇんだよ。」
一瞬で空気が凍る。
「お前らの故郷はきっと逃げているうちに焼野原だ。お前らだけ、誰もいない何もない故郷に取り残されるんだ。考えたことあるか?目の前で母が、妹が燃えて死んで行くのを。
か細い声で『お兄、助けて、熱いよ、痛いよ、助けて。』と目の前で死んでいくんだぞ。生き残っていたやつには『逃げた腰抜け』と言われ続ける。一生だ。この程度で逃げているお前らに耐えられるわけがないだろ。どうせ自殺ではい終わり、だ。それこそ命の無駄使いも甚だしい。そんなことならお国のためにでも死ねばどうだ。」
辛辣に言い放った彼は扉を乱暴に閉め、部屋から出て行った。急いで僕は彼を追いかける。部屋の中には鳴き声がこだまして、泣き崩れたものもいたのが横目で見えた。
彼は宿舎にいた。宿舎の奥にある誰もいない階段で一人震え泣いていた。
「川田、大丈夫か。」
あの明るい彼のこんな姿を見たのは初めてだった。
「大丈夫に見えたなら頭がいかれてるぜ。」
声が震えている。僕は彼より少し下の段に腰掛けた。
「さっきのあの話、お前の実体験、だろ?」
「ああ…もう俺に帰る家はない。」
静かな階段に彼の言葉が反響する。
「妹や母を助けられなかった。まだ徴兵される前の話さ。俺の住んでいた街に爆撃があった時、俺は母さんの使いで隣町に行っていたんだ。サイレンが鳴り、急いで近くの防空壕に入れてもらった。出た時には町の方向の空は真っ赤に染まっていたんだ。無我夢中で走って帰ったころにはもうあたり一面が燃えていた。足元には知ってる顔のやつが転がっていたよ。黒い塊になってな。恐ろしすぎて嗚咽も、ましてや声すら出なかった。ここが地獄か、とな。あまりの恐ろしさに逃げ出そうとした時、熱いものに足を捉まれたんだ。
『お兄、私を助けて、体がとても熱いの、痛いよ。』ってさ。
思い出したくもないほどひどい有様の妹がいたんだ。6つになったばかりの妹が、ずっと俺の名前を呼んで助けを求めてさ。手当したところで絶対に助からないのは明白だったんだ。足をつかんでいる手が次第に熱くなっていって、もう最後は手まで燃えていたんだろうよ。でも助けを求める声が耳から放れなくて俺はそのままそこに突っ立って動けなかった。
これがその時の傷さ。」
彼は裾をめくり足首を見せた。そこには小さな手のやけどの型がくっきりと残っていた。
もう僕は呆然としていた。
「そうそう、お前には嘘をついてしまったな。大学に行って海洋学者ー…だなんて嘘だ。大学に行く金なんてないし、この隊に入った理由も全く違うものなんだ。」
「この隊に入った、理由…」
喉から辛うじて声を出し、彼の顔を見る。彼の目は真っ赤に腫れて涙がとめどなく流れていた。でも今は彼の目を見なくてはいけないと心から思った。
「この隊にはさ、死ぬために入ったんだ。特攻ならすぐ死ねるし何よりお国のために死んだ英雄だからな。でもお前のまっすぐな目、見てたらさ、死ぬためだなんて言えなくて。ごめんな、嘘言って。ごめんな…
でもさ、お前を見ていたら考えすぎていた事とか、ばかばかしくなってなんだかすごく助かったような気がする。ありがとう…なんておかしいかこんな時に。」
彼は無理に笑顔を作って見せた。見ているこっちが泣きそうになるくらい、切なく苦しい笑みだった。宿舎に戻り僕は彼と背を合わせて座って、ずっと話し続けた。僕の妹がドジをしてみんなで笑ったこと、お母さんが料理を失敗して家が燃えかけたこと、たくさん話して、たくさん笑った。二人にはそれが今一番するべきことだと思った。
「三村、俺さ、生きたくなっちまった。お前と、仲間と一緒にいるのがあんまり楽しくて楽しくて、生きたくなっちまったんだ…でもあの棺桶に乗ると決めた以上逃げられないんだよな、わかっているんだけどさ…」
「それにみんなの前であんな啖呵切ってしまったしもう逃げられないしな、それは僕も同じだけどさ。みんなで死んで行くんだ、一人じゃないだけまだましさ。」
「そうだな。」
運よく次の日は休みだったのを思い出し、二人はそのまま目を閉じた。
次の日、目が覚めたのは午後のことだった。
「昼まで寝るなんて何年振りだろう…
ああ、そうだ食堂に手帳を忘れてきたんだった。取りに行ってこようか…」
寝ぼけた眼をこすりながら重い腰を上げる。
食堂に行くには上官の執務室前を通らなければならないからだ。どうも執務室前では緊張してしまうのだ。
廊下をどんどん進んでいく。僕たちの部屋は宿舎の中で端の方なので歩く距離が長い。背中にぞくっとくるような嫌な緊張感が広がっている廊下は、誰もおらず僕の足音だけが響いていた。
とある上官の部屋の前を通った時だった。部屋の中から突然、怒鳴り声が聞こえてきて体がびくんと跳ねる。心臓が止まったかと錯覚するほどの大きな声だった。立ち聞きの趣味はないがどうしてか気になってしまって廊下で立ち止まると、二人の声が聞こえてきた。
「お前は!あちら側の味方に付くのか!我々が負けてもよいというのか!」
「そんなことは言っていないだろ!私はただあの桜花がどれだけ惨いものかを、あれが辿るであろう悲惨な結末をわかっていながら出撃させるのかと聞いているのだ!」
二人の口論の内容が桜花だとわかり体がこわばっていく
「わかっているさ、分かっているとも!十分理解もしている!」
「じゃあなぜ!じゃあなぜ止めてやらない!あの大勢の若い青年たちの未来を奪うようなことをする!」
「簡単だ、指令がご命令なさったからだ。指令は出撃を望んでおられる。
よって我々は…」
「我々はじゃないだろ!そうなればその我々は大勢の青年たちの未来を奪った殺人者ではないか!」
「そうだ、お前は何も知らずにこの職に就いたのか?俺たちは鉛筆一本で人間を殺す殺人犯なのだぞ。誰だってわかってるさ、あんなものぶっ潰してしまった方がいいってな。」
扉の外の僕は愕然としていた。
思考が停止して、顔から血の気が引いていった。いつだったかの川田の言葉を思い出していた。
『意味なんてあるわけがない、無駄死にだ。』
上官の皆も、分かっているのだ。
胸が苦しくなって急いで食堂へ走り出していた。食堂には午後の微妙な時間だったため誰もいなかった。椅子に座って息を整える。過呼吸のようになった息はすぐには治ってはくれなかった。
しばらくそこで休んで、手帳を持ってその日は急いで帰っていったのだった。
▽▽▽
桜花の戦線出撃が正式に決まり、隊員たちは家族への面会が許されていた。
それは僕や、川田も同様だった。
「川田、お前僕の面会についてきてくれないか?」
「どうしたんだ、お前らしくない、何かあったか?」
「い、いや何も、なんか怖くて。」
「ほう?何かあったんだろうがまあいい、俺も行くよ。」
「ありがとう川田、恩にきる。」
何もなく日々は過ぎていった。刻一刻と近づく出撃。隊員たちは精神を擦り減らしていったのは言うまでもない。
ただ、今までと少し変わったのは皆が笑顔になったという事だ。
死ぬまで泣くよりだったら笑って過ごした方が気持ちが楽だ、と誰かが言ったからだった。
それは宿舎全体に広がっていき、皆は活気づいていた。皆は明るく、何もこれから起きないかのように振舞った。朝、仲間たちと顔を合わせると目が腫れていて何とも言えない気分になる。それでも、みんな人前だけでは明るく振舞った。
そういう『お芝居』は親たちに通用するはずもなく、面会から帰ってくる隊員は皆泣きじゃくっていた。僕もそうなるだろうと思った。思ったから川田を誘ったのだ。川田がいれば心強いし、きっと何かうまくいく気がして。恐怖心を分け合うようにできる気がした。
そうして何もない日常は過ぎて行き、ついに面会当日となった。
面会は近くの旅館で行われた。
部屋に入ると母と妹一人がそこにいた。
「正幸!もう会えないかと思ったよ、会えて嬉しい、嬉しいよ。」
「お兄ちゃん、久しぶり、会えて嬉しい。」
「母さん、幸子、久しぶり。元気だったかい?ああ、こちらは僕の親友の川田だ。心細いと言ったらついてきてくれた。優しいやつなんだ。」
「か、川田と申します。三村君とは同室でありまして、仲良くさせてもらっております。」
川田の言葉を聞き終わらないうちに母は僕に詰め寄ってくる。
「正幸。正直に答えなさい。」
母の目が険しく、苦しそうになっていく。
「お前、特攻隊員じゃあないだろうね?」
心臓が止まりそうになる。どうしよう、真実を答えるべきか否か。桜花は国家機密のため言えないことはわかっていた。でも、考えはぐるぐると頭の中をめぐって、ぐちゃぐちゃになっていく。言葉が出なかった。怖かった。
母の目は悲痛なものへと変わっていた。
「私ね、見たんだよ。ぶら下がって飛んでいる見たことのない機体をさ。宿のおかみさんに聞いたんだ『あれはなんですか?』って。そしたらおかみさん顔を暗くして
『あれは神様です。』って言ったんだ。なあ、アレはなんだい?お前はあれに乗るのか?」
母の言葉が心を突き刺していった。
母に口止めをして言ってしまおうか、そう思った時だった。
「彼は私と同じ隊で第七二一航空隊という隊に所属している隊員です。特攻ではなく航空機での援助を主としている隊です。お母様、ご安心ください。」
そうだよな、三村?優しい目で川田は言った。
「正幸、本当なの?特攻ではないのよね?信じていいのよね?」
僕の服を握りしめて母は今にも泣いてしまいそうであった。
「うん、そうだよ。僕たちは、援助部隊なんだ。」
僕は初めて母に嘘をついた。
帰り道は静かなものだった。
川田と並んで宿舎へ歩く。
「三村、言いそうになっていたろ。」
「…うん。あの時は助かった。本当に言ってしまいそうになった。」
「だと思った。いいお袋さんじゃないか。あんないいお袋さん、そうそういないぞ?」
「知ってる。」
「のろけやがって。」
「間違った言葉使うなよ。」
「えー?変わらないじゃないか。」
「変わるよ、何を言っているんだ。」
皆が泣きじゃくる中、僕ら二人は笑顔で帰っていく。
空は暖かく僕らを見守っているような気がした。
次の日もその次の日も、毎日同じ訓練が続いた。もうすぐこれに乗って命を捨てるのだという実感が心を圧迫する。息が詰まるような日々もみんな笑顔で過ごした。どんなに苦しくても、どんなに泣きたくても、誰も逃げだすことなく一生懸命に励んでいた。
それは家族との面会で芽生えたある思いによるものだった。国のために死ぬのかと考えていた人々が、訓練に本腰を入れて取り組むようになったのも、その思いによるものだった。
それは
『お国なんかの為ではなく、愛する家族のために死のう。』
というものだ。愛する家族を守れるなら自分の命など進んで差し出そう、と。みんなの目が輝いて、真剣になる。これしかもう親孝行みたいなものは、残されてはいなかった。
笑って過ごしてはいるもののどこか暗い雰囲気が漂っていた。目が腫れている隊員も少なくない。布団の中で家族の名前を呼び泣いているのだ。その声が時々夜に聞こえてくる。そのたびに胸が痛くなり泣いた時もあった。精神的負担は、限界をとっくの昔に超えていたのだ。
そんな中、僕と川田は毎晩のように宿舎を抜け出し、近くの土手で残り少ない親友との時間を過ごしていた。ずっと話していたり、泣いていたり、過ごし方は様々だったが精神的にとても楽になっていた。いつしか二人だけではなくほかの隊員も来るようになって、隊の愚痴やら上官の悪口などを言い合ってみんなで盛り上がった夜もあった。心から笑って、心から泣けたのはここだけであった。
出撃前夜
みんなで宿舎を抜け出していつもの土手に行った。
「なあ、明日俺たちみんな死ぬんだぜ。こうしてここに来ることも、家族のところに帰ることもできなくなるんだ。もう、会えなくなるな、川田。」
「そうだな…じゃあ今日は思いっきり何かしよう。悔いがなかったと言えるように生きよう。今日だけ、今日だけは自分たちの為だけに生きよう。死んでも忘れられない夜にしよう。そうすれば気も楽になる。きっと、楽しいぞ。」
久しぶりに彼のいたずらな笑みを見た。
そうだな、と言って僕は前振りもなく一歩前に出た。皆が僕を見る。僕は大きく息を吸って叫んだ。
「お母様!こんな親孝行もできない息子を許してください!せっかくいただいた命を精いっぱい生きたかった!ごめんなさい!妹たち!お母さんに苦労かけるんじゃないぞ!僕みたいになるな!僕の分まで孝行してくれ!みんなの分まで生きてくれ!」
喉が枯れるかと思うほどの大声を初めて出して、思っていたことをすべて吐き出した。遠くの地に届くはずもない叫びがこだまする。
皆は笑って僕に続いて叫んでいく。全員が叫び終えるのを呆然と見守っていた川田が、最後にふっと微笑んで一歩前に出た。
「母さん、妹よ!ここに来てから絶望から救ってくれた友を見つけた!信頼できる仲間もできた!死にたいとしか思わなかった俺に希望をくれた!その仲間と、明日行って参ります!
晴天に散るは桜の花、必ず見事に散って見せましょうぞ!」
皆の目に覚悟が宿る。行って参ります、口々にそう言って帰っていった。
当日
空は青く晴れていた。晴天だ。
「川田、また会おうな。」
そう言って二人は別々の機体に乗り込んでいった。
一九四五年、三月二十一日
九州沖航空戦にて母機ごと全機撃墜。戦果なし。桜の花はただ、晴天に散ったのであった。
晴天に散るは桜の花 夏織リオン @Rhodanthe_ka
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