毒人魚
如月 由一朗
第1話
毒人魚
日光が差し込んだ、水色の海。
そこを一人の人魚と、一匹のウミヘビが泳いでいた。人魚は美しく、金に輝く髪をゆらゆらさせている。下半身の、緑がかった青色の尾ひれを動かし、舞うように泳ぐ。ウミヘビは、深い青と白の横縞を持ち、平べったい尾をくねらせて泳いでいた。
「お、見えてきた」
ウミヘビが、海の先を見て言った。
「ねぇ、まだつかないの?」
疲れの混ざった声で、後ろの人魚が言ってくる。ウミヘビは顔を下に向け、言う。
「着いたよ。あそこだ」
人魚は、ウミヘビの隣で止まり、下を見た。
「あった!」
人魚は、海の下へ向かう。尾ひれをゆらゆら動かし、泳ぐ。徐々に、周りが暗くなる。ウミヘビも後をついて行った。
「あれが、なんだっけ、ジャ、ジャ、ジャペェン? だっけ」
下にある街並みを見て、ウミヘビが人魚に聞いた。
「ジャパンよ。あの街に、汚染海域があるわ」
「へぇ。……さすが、汚染海域前。海水がきたねえ」
「ウイルスで汚くなる前も、この国の海は十分汚かったわよ」
海に沈んだその国を、人魚とウミヘビは見ていく。緑色の、濁った海。その中で水没し、ボロボロになった学校や商店、民家がある。ここはもともと、港町だった場所だ。
人魚とウミヘビは、街中を泳いで進む。しばらくして、元は海岸だった場所が見えた。防波堤だった所まで向かって、下を見る。
「ここが、汚染海域……」
下はさらに暗く、濃い緑色の海があった。
「本当に、ここ行くの?」
「ああ」
人魚が、ウミヘビに聞く。ウミヘビはコクリと頷いて、街の方にいく。
「汚染海域のウイルスの濃度は、こっちの海に比べれば、倍以上。ここにある海藻とか生き物を食べて、ウイルスに慣れから行くぞ」
人間がいて、世界が海に沈む前、かつて地上だった場所。『上の海』
今も昔も、海だった場所。『下の海』
上の海には、人間たちがかつて作った建物がある。世界が水没する前にあった場所だ。今ではもう、全てが海に沈んでいる。
下の海には、昔と同じ、海の生き物、地形がある。
上の下。二つの海の絶対的な違い。
ウイルスの濃度。
死んだ生き物を死してもなお泳がせるという、死魚ウイルス。生きているときは何ともないこのウイルスに感染し、死を迎えれば、生物を殺すだけの生き物、死魚となってしまう。
上の海は、ウイルスの濃度が薄い。多少体に入っても、綺麗な海で呼吸すれば体外に排出され、ウイルスは抜ける。比較的安全な場所だ。
が、下の海はそうはいかない。ウイルスの濃度が高く、一度でもそこに足を踏み入れれば、死魚になることは逃れられない。ウイルスの濃度が高すぎて、呼吸することすらつらい。中には、下の海に入って、海水を吸っただけで死んだ生き物もいるくらいだ。
下の海には、生物を食べるでもなく、殺して海の底に沈める、危険な死魚がいる。
それを知っていても、人魚とウミヘビには、下の海に入り、汚染海域を越えなければならない理由がある。
人魚は街に戻り、建物などにくっついている海藻を食べた。ウミヘビとは別行動をしている。
「うえ」
食べ終えたところで、人魚は嫌な顔をした。あまりおいしくなかったようだ。それもそう。海水が汚れていれば、ここで育つ生き物の、味が落ちてしまう。
数回海藻を食したところで、ウミヘビが戻ってきた。
「サラー」
ウミヘビが、人魚の名を呼んだ。人魚の名は、サラ。とある王国の、王族人魚。訳あって王国からイカと逃げ出し、探しているものがある。
「あ、カドリ―」
サラも、ウミヘビの名を呼んだ。ウミヘビの名前は、カドリ。人魚の王国にいた時は、番号で呼ばれていた。カドリという名は、サラがつけた。サラとは、一緒に王国を抜け出し、同じものを探している。
「何か食べた?」
「ああ。小魚が建物の中にいたよ。味は最悪だった。こんな海水だから、しょうがないけど」
ウミヘビは、身体を丸めて、答えた。
「じゃあ、もう大丈夫ね。だいぶ海水にもウイルスにも慣れてきたし、そろそろ行きましょう」
サラが、さっきの防波堤のあった場所に向かう。カドリも、尾をくねくねさせて、海中を進む。
下の海が見えてきた。サラたちは覚悟を決めて、下の海に入った。汚染海域を越えて、『楽園』を探すために。
その日リッペルは、下の海にいた。一メートルと少しくらいしかない、小さなサメ。それがリッペル。生まれた時から汚染海域におり、下の海のウイルスは、なんともない。死んだあと、死魚になることは確定だろう。
リッペルがいつも食べるタコや甲殻類は、下の海にしかいない。死魚は、ウイルス感染の可能性と、そのひどい味を我慢すれば、食べてもさほど問題はない。リッペルは細く小さい体を使って毎日、死魚となったタコなどを捕食していた。減少していく死魚には、いつか限界くる。が、今のところ、毎日捕食しても問題ないほど、下の海には死魚がいた。
下の海を越えようとして死んだ生き物たちが、多数いたから。
下の海の向こうにあるものを求めて、潜る魚や、イカとタコ、クラゲなどがいた。リッペルは、そうして下の海に挑戦し、死魚となった生き物たちを、捕食していた。
いつものように死魚のタコを食べると、リッペルは危険な死魚に注意して、上の海に帰る。
下の海には、リッペルを殺そうとする死魚がいる。
死魚が他の生物を襲う基準は、いたって単純。
体に触れたものを、逃がさず攻撃する。我を失い、攻撃性だけを出して、かみつくなどして襲ってくる。相手を選ぶようなことはしない。ぶつかった死魚たちが、殺し合うようなこともある。
すべては、リッペルの父が教えてくれたことだった。
リッペルは小さな体を活かして、自分が敵わないような大型魚を避ける。慎重に、上の海に帰ろうとした。
帰る前に、変な連中を見つけた。一人と、一匹。下の海に入ってすぐの、浅いところ。そこに、人魚とウミヘビが倒れていた。
下の海を乗り越えて、どこかに行こうとしていた連中か。こんな浅いところで、倒れた連中を見たのは、初めてだった。
「う~ん」
リッペルは、人魚の下半身を軽く噛んで、砂浜だった場所まで戻した。ウミヘビも体を軽く噛んで、同じように上に持っていく。
リッペルは、人魚たちをほっといて、近くを探索した。近隣の街には、誰もいない。この一人と一匹だけで、汚染海域に来たみたいだ。
リッペルには、友も家族もいない。
全員、海の魔物が食べてしまった。
リッペルは、出会った死魚ではないその一匹と一人の目覚めを待った。
久しぶりに、話し相手が見つかった。リッペルは、心を躍らせた。ここにきて、下の海に挑戦する生き物たちの話は、いつも面白いから。
次の日。
「うぅん……」
サラは目覚めた。
寝ぼけ眼で、朝方の海をサラは見回した。何も変わらない。緑色に濁った海と、海に沈んだ町が広がっているだけだった。
なぜ、砂浜にいる?
たしか、下の海に入って、それから……。
サラは頭を抱えた。うまく思い出せない。確実なのは、サラたちは下の海に入って、気が付いたら、防波堤に戻っていたということだけだ。
誰かが、この海にいるのだろうか。
「カドリ」
となりに横たわる、カドリ。サラはカドリの体を揺らした。起きる気配はなく、縞々の体がゆらゆらしただけだった。
「カドリ、起きて」
カドリの体を揺らす。やはり起きそうにない。サラは離れた。
毒を、カドリに与えないように。
サラは、王族の人魚として生まれた。もって生まれた力は、毒だった。髪には小さな針がついており、触れただけで、気を失うほどの毒を持つ。他にも、歯、爪、体毛、肉体のほぼすべてに、有害な毒が仕込まれている。人魚たちからは、毒人魚と呼ばれていた。
皮膚に、毒はない。が、万が一のためにも、カドリには触れず、かつ離れて、サラは起きるのを待った。
リッペルが防波堤に戻ってくると、人魚は起きていた。さっきまでリッペルは寝ていた。速度を落として、障害物の少ない場所で体を休ませた。
適度に休息したところで、人魚たちの様子を見に来た。
「おはようございます」
背後からリッペルは話しかけた。人魚は、びくっと体を反応させた。こちらを振り向く。恐ろしいモノでも見たかのような顔をして、ものすごいスピードで離れた。
「安心してください、死魚ではありません」
リッペルは優しく言った。しまった。つい、獲物に近づくように、背後から話しかけてしまった。
「あなた……誰?」
人魚が、恐る恐る聞いてきた。
「サメの、リッペルといいます」
「……サラよ。もしかして、あなたが私たちを助けてくれたの?」
「ええ、まぁ」
リッペルは、昨日のことを話した。
サラは、リッペルの話を聞いた。下の海で気を失ったサラたちを助けたのは、リッペルだった。後ろから話しかけられたときは、毒殺してやろうかと思った。あやうく、命の恩人? 恩サメ? を殺すところだった。
「助かったわ。ありがとう」
サラは、リッペルにお礼を言った。リッペルがいなければ、死魚に殺されたかも。ウイルスで死ぬところだった。
「いえいえ。ここの食べ物を食べるというのはいい方法でしたが、ウイルスに慣れたければ、ここの海水にあと数日いたほうがよかったですね。サラさんは、ここに来たのはいつですか?」
「昨日よ」
「それじゃあ、ウイルスで気絶するわけだ。今ならここの海水ですら、少しきついのではないですか?」
リッペルは、ウイルスに詳しかった。言われてみると、多少のだるさ、疲れを感じる。
「あと数日、こっちの海水でウイルスへの耐性を付けたほうがいいですよ」
「あなたは、下の海は大丈夫なの?」
「ええ。生まれた時からここにいましたから」
「それじゃ、家族は?」
「食べられました。海の魔物に。仲間も、家族も。……私だけが、生き残りました」
リッペルは、さらっと言った。
独りぼっち。サラはそれが、ひどく悲しいものだと知っていた。
「その、海の魔物って――」
「サラ!」
さっきまで意識がなかったはずの、カドリが目覚めた。カドリはサラの前に出て、リッペルをにらむ。
「誰だ、お前?」
威圧的に、カドリは言う。
「サメの、リッペルです。昨日、あなたたちが下の海に沈んでいたので、ここまで連れてきました」
「え?」
カドリは、キョロキョロと周りを見た。やっと、状況を理解した。
「助けて、くれたのか?」
「助けた、というほどのものでもありません。私はただ、あなたたちを砂浜まで運んだだけ、ですから」
リッペルは、自分は何もしていない、というかのように言った。カドリは長い尾をリッペルに出した。
「嫌な態度を取って悪かった。ウミヘビのカドリだ。よろしくな」
リッペルは、前に出されたカドリの尾を、食べようとした。口を開いて。
カドリは尾を動かし、避ける。
「あぶねえな! 何しやがる⁈」
カドリは、リッペルから離れた。びっくりした。
「食べていいのかと」
キョトンとした顔で、リッペルは言った。
「そういう意味で尾を出したわけじゃねえよ!」
カドリはサラに、さっきまでリッペルがしていた話を聞いた。
「――というわけ。あと数日、ここで海水とウイルスの耐性を付けましょう」
サラが疲れ気味に言う。カドリも、ここの海水のだるさを感じていた。なんだか、体全体がもやもやして、うまく動かせない感じ。昨日はなかった。このだるさは、しばらくしてから発症するものだったようだ。
なんともないリッペルは、サラたちに言う。
「ここは、私一人だけで、とても退屈です。上の海にいる数日間だけ、私と話をしてくれませんか?」
「話?」
「ええ。ウイルスや、死魚についての情報を渡します。その代わり、面白い話をしてください?」
ありがたい提案だった。
「本当に、面白い話をするだけでいいの?」
「ええ。私は、ここに来る生き物たちの話が好きです。こんなところより、とってもいい場所の話。それが私は、好きなんです」
リッペルは、どこか寂しそうに言った。
「分かった。たくさん面白い話をしてやるよ」
カドリは言った。リッペルが汚染海域を離れない理由は、聞かないでおこう。ある程度親しくなってから、聞こうと思った。
「ありがとうございます。話すのにいい場所があります。そこまで、泳いでいきましょうか」
リッペルは言って、どこかに泳いでいく。カドリたちは、リッペルについて行った。
それから数日間、とても楽しい日々だった。
リッペルは、サラとカドリの話を聞いた。どうやらサラたちは、とある人魚の王国から抜け出して、『楽園』、とやらを探しているらしい。
『楽園』は、イカ大王が治める国で、そこにはたくさんの魚、エビ、カニ、タコやイカが、自由に暮らしているらしい。サラたちは、そこを探して旅をしている。カドリは、生き物としての自由を得るために。サラは、人魚が治めない自由な国をみて、自分の国を変えるために。
人魚の王国は、人魚のためだけの国らしい。魚たちを檻などにとらえ、餌だけを与える。住処を変えることもせず、魚たちに自由はない。はるか昔、地上と人間があった頃に存在した、家畜という制度に似ていると、サラは言った。
「生態系を守るためにも、人魚が魚たちを、食べるためにとらえるようなことをするのはよくない」
サラはそう言っていた。自身がもつ毒のせいでサラも窮屈な生活をしていた。サラが求めるのは、自由な海の国だ。サラは、国を変えるか、自分でそんな国を作ろうとしている。『楽園』は、話に聞くとサラの理想の国だった。生き物が、自由に生きる世界。イカ大王に国造りの方法を聞くため、サラはイカの楽園を探している。
サラの話は面白かった。カドリとの出会い、国の脱出、汚染海域までに出会った出来事。今まで出会った生き物が話してくれた内容の中で、サラとカドリの話は、特別危険で、スリルのある冒険の話だった。
リッペルは、サラとカドリと打ち解けていった。仲良くなるのに、時間は多く必要なかった。
リッペルに聞いた。なぜ、汚染海域を離れないのか。カドリは気になっていた。
リッペルは、自身の過去を話した。
昔ここには、リッペル以外にも数匹の魚たちがいた。リッペルは、友達や父と一緒に生活していた。
リッペルがある程度成長したある日、リッペルの父が汚染海域を出よう、といった。
が、どこにも行く当てはなかった。汚染海域で育った、ウイルスにまみれた魚など、どこの海域にも受け入れられることはなかった。汚染海域の魚は、汚染海域で死ぬしかない。言わずとも、リッペルやほかの魚たちは分かっていた。
が、汚染海域を離れて、帰ってきた一匹の魚が教えてくれた。
「汚染海域の向こうには、未知の海域がある」
海域の仲間に加えることはできない代わりとして、聞いたらしい。そんな信憑性のない話を、リッペルたちは信じた。そうすることで、生きたいと思うようにした。
リッペルと仲間たちは、未知の海域に行くことにした。未知の海域の入り口は、下の海の底にある。小さなその入り口を通ると、汚染されていない、綺麗な海水に出る。そこが、ゴール。そこはまだ、誰のものでもない。自分たちが先に住んで、そこで暮らそう、そこで生活しようと思った。
汚染海域を、リッペルたちは出た。下の海に潜って、未知の海域に通じるという入り口を見つけるために。
が、死魚のことをあまり知らなかったリッペルたちは、死魚の餌食になった。気が付いたときには、死魚に襲われていた。噛まれた怪我のせいか、リッペルは血の匂いとともに、気を失った。
目を覚ますと、上の海にいた。
生き残ったのは、父とリッペルだけだった。仲間たちは全員、食われた。
「仲間たちを食ったのは、海の魔物だ」
リッペルの父は、そう説明した。大きな海の魔物が、仲間たちを食べた、と。父は怪物から離れていたから、助かったらしい。魔物はウイルスの濃度に苦しんで、海の底に沈んでいったとのこと。その後、気を失ったリッペルを運んで、上の海まで戻った、といった。
父は、ウイルスにやられたのか、すぐに死んでしまった。寿命もあったのだろう。ある日父は何も言わず下の海に消え、死んで死魚となった。死魚となった父を見たリッペルは、父の元を離れず、汚染海域に残ることにした。あっという間に、リッペルは独りぼっちになった。
リッペルは、汚染海域を離れようとは思わなくなった。みんなで一緒に、未知の海域に行くことが目的だった。が、その仲間は、いなくなってしまった。一人で未知の海域に行く理由など、なかった。
下の海に、挑戦する魚たちが増えてきた。リッペルは、汚染海域の情報を魚たちに与えた。最初は、情報を与えた後に、一緒に連れていってくれと、魚たちに頼んでいた。が、小さな魚に何ができる、と仲間に入れてもらえなかった。
リッペルはただの、汚染海域に関する情報提供者でしかなかった。
その代わり、面白い話を聞かせてもらうことにした。仲間に入れてくれとは、それ以来頼まなくなった。
リッペルは、自由を求めなくなった。ここにしか、居場所がないような気がしたから。ここしか、自分を受け入れてくれない気がしたから。
リッペルは自ら、ここに残った。
数日後。
「なあ、リッペル」
カドリが、リッペルに話しかける。リッペルは、街中を泳ぎながら、返事をする。サラはいない。一人になりたいといって、どこかに行った。
「どうしました?」
「俺達は明日、下の海に行こうと思う」
「……そうですか」
カドリたちは、いつまでも汚染海域にいることはできない。海水にも慣れてきた。明日には出発しようと、サラと話し合って決めた。
「リッペル……一緒に来ないか?」
カドリが、尾を出す。リッペルは、食べることなくカドリの尾から目を反らした。
「ダメですよ。私は。ここにいないと」
暗い声で、リッペルは言った。カドリにはわかった。
リッペルは、外を怖がっている。
下の海に行った、たくさんの魚の死を見てきた。下の海に行って、仲間も失った。父も失った。リッペルは下の海を恐れ、自由になることをあきらめている。仲間も、もう欲しがっていない。もう何にも、期待しなくなってしまった。
「俺だって、王国から出るのは怖かった。エサは自分で見つけなきゃいけねえし、いつか自分は捕食されるんじゃないかとおびえてた。大丈夫だ。俺が、外での生き方を教えてやる」
カドリはリッペルを見て言った。リッペルは、黙った。
「誰も、お前がここに残ることを望んじゃいないさ。ここにお前を縛り付けているのは、お前自身だ」
「……そうですか、ね」
「そうさ。お前の父さんだって、望んでない。こんなこと」
カドリは、もう一度尾を出した。
「リッペル、俺達と一緒に行こう。俺は、お前と一緒に旅がしたい」
――ずっと、その言葉を待っていた気がずる。
そう、感じた。いつしか、自分を必要としてくれる仲間ができる日が来ると信じていた。憐れむでもなく、気を遣うでもなく、ただ単純に、一緒にいたいから。それだけで、自分の隣にいてくれる仲間。それはずっと、欲しかったもの。
「……カドリさん」
「ん?」
「私を、海の向こうに連れていってくれますか?」
「任せろ!」
リッペルは、カドリの尾を握るように、ひれで触れた。リッペルは、カドリたちに心を許した。
次の日。
今日は、下の海に向かう日。
深く潜って、『楽園』に通じる、未知の海域へのトンネルを見つけに行く。
「では、行きましょう」
リッペルが言った。後ろには、サラとカドリがいる。サラは、リッペルを受け入れてくれた。仲間として。何の反論もしなかった。むしろ喜んで、旅に誘ってくれた。
リッペルを先頭に今日、ここを出る。
大丈夫。こっちのメンバーは全員、体が小さい。強いて言うなら、人魚のサラが心配だ。一番泳ぐのが遅く、一番体が大きい。
昔とは違う。死魚のこともよく知っている。死魚にも、ウイルスにも慣れている。分からないのは、海の魔物くらいだ。が、その海の魔物も今は、死魚になっているはずだ。死魚と同じように注意すれば、どうってことないはず。
行こう。
リッペルは、暗く濃い緑色の海に入った。サラたちも、後に続く。
カドリは、下の海に入った。下の海は、やはり息苦しいような感覚がした。なんだか、全身に異物が入ってくるような感覚。視界も悪い。リッペルの後にしっかりついて、海を進む。
途中、視界の隅に尾ひれのようなものが、ちらっと見えた。
「カドリ、あれ……」
「ああ」
あれが、死魚。カドリは尾ひれの見えたほうから離れた。おびえた顔をして、サラもついてくる。
「カドリ、リッペルは?」
「え?」
しまった。
リッペルが、見当たらない。一瞬目を離したすきに、見えなくなってしまった。
「あれ、リッペルかな?」
何かが、前から来ていた。魚のシルエットをしている。
「いや、リッペルにしちゃ、大きくないか?」
気づいた時には遅かった。目の前に、死魚が来ていた。
サラが、それにぶつかってしまった。
「サラ!」
死魚は、一瞬でサラを認識すると、かみついた。抵抗する暇もなかった。サラの体から、血が流れた。
リッペルは、まっすぐ海を進んでいた。順調に、海を進んでいる。
「今のところ、死魚はいませんね」
リッペルはやっと、口を開いた。
……返事が、聞こえてこない。リッペルは、後ろを向いた。
「……カドリさん? サラさん?」
さっきまで後ろにいた仲間が、いない。リッペルは焦った。慎重に来た道を戻って、サラたちを探した。
血の匂いが、してきた。
…………、ハッ!
一瞬、気を失っていた。リッペルは意識を戻すと、急いで海を戻った。
「サラ!」
カドリの叫びが聞こえた。見た時には、サラが血を出し、死魚が襲っていた。リッペルは勢いよく、死魚に体当たりした。
ドンッ。
死魚が体勢を崩し、向こうに消えていく。が、ただの時間稼ぎだ。
「カドリさん! 戻りましょう!」
リッペルはサラの尾ひれにかみつくと、急いで引っ張っていく。カドリがついてきているかは確認しなかった。サラのことを優先して、リッペルは最大速度で、上の海まで戻った。
サラはまだ血を流している。が、ここにいるのは危ない。上の海まで、まれに死魚は追ってくる。街のほうまで、リッペルは泳いだ。
近くの民家に入り、サラの体を置く。お腹と尾ひれから、血が出てしまっている。
「サラは⁈」
間もなく、カドリが家の中に入ってきた。どうやら、逃げ切れたようだ。
「出血が、ひどい」
「海藻を持ってくる!」
カドリが、外に出る。海藻で、傷をふさぐためだ。
……なんだ? この気持ち。
リッペルは、変な気分になっていた。心地の良い、頭がくらくらするような感覚。気分が、ふわふわしていた。何かが、欲しい。
一度だけ、これと似たような体験をした事がある。
海から出ようとした日。
仲間がみつかれて、血を出した時だ。あの時も、血の匂いでこうなった。
血の匂いの心地よさと共に、なにか、渇きのようなものを感じる。何かを得たい。
もっと、血を。
リッペルがそう感じた時、サラが目を覚ました。サラは、毒人魚。傷口にある血が毒で固まって、出血が止まった。身体にある毒を薬として使用し、肉体を修復する。毒人魚の体は、そういう風にできていた。故に、王国でもサラは殺せなかった。
なんとか意識を取り戻したサラは、様子のおかしいリッペルを見た。
家の中に充満する、血の匂い。リッペルは、うなり声のようなものを上げる。のたうち回ったあと、ゆっくりとサラを見た。
「リッ……ペル?」
それは、リッペルではなかった。真っ赤な目をして、ひれや体の色が、ほんの少し変化していた。鋭くなった歯を見せつけて、リッペルはサラに向かって突進してきた。
サラはそれを避けて、家の外に出た。
「サラ! 傷は大丈夫なのか?」
家を出たところで、カドリに会った。サラはカドリの身体をもって、引っ張った。
「おい! どうしたんだよ!」
「リッペルの様子がおかしいの!」
カドリは、後ろを見た。
血に飢えた魔物の目をした、リッペルがいた。リッペルはものすごい勢いでこちらに向かってきている。
「……なあ、まさかあいつが、海の魔物、なんじゃないのか?」
カドリが、小さく言った。今のリッペルの姿は、まさに魔物。欲に飢えた、化け物。カドリには、そうとしか見えなかった。リッペルの面影が、見えなかった。
「まさか、そんなわけ……」
「あり得るだろ! リッペルの親父が、仲間を食ったのはお前だ、なんて言うと思うのか?」
サラは、何も言えなかった。顔だけが、徐々に青ざめていく。
「さらに言えば、リッペルは毎日、下の海に行ってた。なのに、死魚となったはずの海の魔物と、一度として出会っていない」
カドリは、ピンと来ていた。リッペルは、海の魔物に出会っていない。運よくリッペルと、たまたま遠くにいた父だけが、残った。カドリはその話に、違和感を感じた。リッペルが生き残った理由が、いくら考えても分からなかった。
今、分かった。リッペルが、海の魔物に食われなかった理由。
――リッペルが、海の魔物だから。
認めたくはないものの、今のリッペルの状態と、リッペルの話のおかしな点を繋げれば、納得はいく。
「下の海に行くぞ。リッペルの父の、魔物の話なら、ウイルスでやられたら、正気に戻るはずだ」
サラの手を離れ、カドリが下の海に向かう。サラも、カドリの後を追った。リッペルはもうそこまで来ている。街を壊しながら、リッペルはサラを追いかけている。その姿に、リッペルの影はない。ただの、血に飢えた怪物の動きだ。
カドリとサラは、下の海に着いた。
が、そこには一匹の、死魚がいた。
「ひっ」
サラが声を上げて、死魚から遠のく。
シュン!
カドリの後ろを、何かが通った。見ると、リッペルだった。リッペルは、死魚にかみついた。死魚は抵抗することもできず、動けなくなった。リッペルは、死魚を捕食していく。死魚は体を食われ、残ったのは、リッペルの残した肉片だけとなった。
遠くから、カドリはそれを見ていた。
リッペルは、下の海に入っていった。下の海の海面に、肉片が上がってくる。
死魚を食い尽くす化け物に、リッペルはなっていた。
「サラ、なるべく離れろ。隠れるぞ」
カドリが、サラに言う。サラは、力なく頷いた後、急いで下の海から離れ、街にある民家の中に入った。
その間も、バラバラになった死魚の肉片が、上の海に見え隠れしていた。
魔物はもう、ウイルスごときで止められはしなかった。
どうしよう。
サラとカドリは、考えた。
「おそらくリッペルは、下の海のウイルスじゃ、やられなくなっている」
つぶやくように、カドリは言った。
「リッペルがウイルスに慣れていなかったから、前の暴走は止まった。今回は違う。あの怪物はウイルスを克服して、下の海を荒らすまでになった」
カドリは、結論を出した。
「リッペルは、もう止められない」
サラは、部屋の隅でうずくまっていた。顔は伏せ、見えない。
「リッペルを、殺そう」
カドリの判断は、早かった。その言葉に、サラは顔を上げた。
「そんなのだめよ!」
「じゃあどうすんだ⁈ 下の海の魚が全員食われて、自分たちの番が回ってくるのを待てってのか!」
「でも仲間よ!」
「あんな怪物がリッペルなわけねえだろ! リッペルはもっと優しくて、意味もなく魚を食い殺さない奴だ!」
……しんと、部屋が静かになった。落ち着いたカドリは、言った。
「すぐに殺そうとは思わない。……三日たってリッペルが正気に戻らなかったら、あいつを殺そう」
「……どうしても?」
「ああ。あの暴れようだと、野放しにすればほかの海域に被害が出る。俺達で、あいつをここで止める」
「……分かった」
サラは、納得した。三日たって、リッペルの様子が戻らなかったら、あきらめがつくと思った。
「なんで、リッペルはあんなふうになっちゃったのかな」
悲しみにも満ちた声で、サラは聞いた。
「あいつはここで生まれた時から、ウイルスといた。もしかしたら、ウイルスの影響で、ああなっちまったのかも。血で反応する、突然変異、とでもいえばいいのか……」
悲しそうな声で、カドリは言った。カドリは、自分の言葉を今になって重く感じた。せっかく仲間になれたリッペルを、殺さなければならない。カドリだって、できるならそうしたくはなかった。三日後、正気に戻ったリッペルの顔が見たかった。
「あのウイルスは、昔人間が生んだって言われてる。昔の人間は、自分たちのことばっか考えてた。自分さえよければ、魚はどうなってもいいって。あのウイルスも、人間たちが誤って、海に流してしまったものだって……」
サラが、カドリに言った。人魚で王族だったサラは、昔地上にいたといわれる、人間たちの文化や、歴史には詳しかった。
「その話が本当なら、リッペルと死魚たちは、人間のせいでああなったってことか……」
リッペルたちは、人間たちの作ったウイルスの、人為的突然変異の被害者、ということだ。
カドリは急に、人間たちが恨めしくなった。
が、ずいぶん前にいなくなった人間たちを恨んだところで、何も変わらない。
リッペルが正気に戻ることを祈って、サラとカドリは、静かに三日待った。
三日後。
カドリは、下の海に来ていた。
「……なんだ、これは」
そこで見たのは、たくさんの魚の、肉片。この間の比にならないほどに、食い荒らされた形跡がある。カドリは、近くを見た。何も、見えない。リッペルの姿はない。もし正気に戻っていれば、上の海に戻ってくるはずなのに。
カドリは、覚悟を決めた。
リッペルを、殺す。この荒れようでは、ほかの海域の被害は、尋常でなくなる。あの怪物は、野放しにしちゃいけない。
カドリは、サラの元に向かった。
サラは、カドリの帰りを待った。
相変わらず、民家にあった部屋の隅に、うずくまっていた。
真実を知ることが、怖かった。カドリと一緒に、リッペルが来てくれるのを期待していた。
「サラ」
カドリの声。サラは、ゆっくり顔を上げた。
カドリが、いるだけだった。カドリは、首を振った。
「そっか……」
サラは、理解した。目に、涙が浮かんだ。が、涙は海の中に消えていく。
「俺が、リッペルを殺す。サラは、できないだろ?」
リッペルを殺したくない。それは、サラも同じだ。が、もう、あのリッペルは戻ってこない。ほかの海域へ被害が拡大する前に、サラたちで片を付ける方がいい。頭で分かっていても、うまく体が動いてくれない。いまサラがリッペルの元に行っても、殺すことはできずケガをするだけだ。戦闘能力が高くても、情に弱いサラ。カドリは、覚悟を決めた。
「サラ、これを」
カドリが、袋の形をした海藻を持ってきた。
「毒の球を作って、これで包んでくれ」
サラは、受け取った。サラは、魚一匹を余裕で殺せるほどの毒を、体の中から出す。髪の毛から毒液を抽出し、唾液をと混ぜる。気持ちの悪い作業だが、仕方ない。
サラの体からつくられた、毒の塊を、海藻の中に入れる。
「あとこれを」
カドリが、瓶と刃物のようなものをくわえて渡してきた。
「リッペルは、血に反応した。これで、おびき寄せる」
サラは頷くと、瓶の中で指を切って、血を出す。ある程度たまったところで、ふたを閉め、カドリに渡す。
「じゃ、行ってくる」
カドリが、窓を通って、外に出ていった。見送ると、サラはまた、部屋でうずくまった。
カドリは、下の海からまっすぐ伸びる道路の真ん中に、サラの毒袋を置いた。瓶を転がして、下の海まで運んでいく。
作戦はシンプル。下の海からサラの血で、リッペルをおびき寄せる。リッペルを上の海におびき寄せたら、一直線に走って毒袋のところまで行く。毒袋を持ったら、リッペルめがけて投げるだけ。袋がはじければ、確実に殺せる。
殺せば後は、死魚になるだけだ。ウイルス濃度の高い下の海に行って、リッペルは死魚として、下の海を漂うだけの存在になる。
そうすれば、リッペルはもう、むやみに魚を襲わなくなる。それで、カドリたちの勝ちだ。リッペルは殺す。が、肉体を滅ぼす必要はない。死魚にしてしまえば、十分だ。
「よし」
準備ができた。カドリは、瓶のふたを開けて、徐々に後ろへいく。血の匂いにつられて、リッペルが来るのを待つ。
数秒後、海から怪物が現れた。
ものすごい速さで、リッペルが来た。リッペルは、大きくなっていた。強靭な体に変化し、目が真っ黒に変色している。牙はより鋭く、本数も増えている。リッペルのスピードに負けず、瓶を投げてカドリは毒袋に向かって泳ぐ。
リッペルは、カドリを追った。新しい獲物を見つけたかのように、牙を出して追いかけてくる。カドリは夢中で、毒袋まで向かった。数センチ後ろには、リッペルが来ていた。
間に合った! カドリは、毒袋を尾でもって、後ろに投げた。
が、気が付いたらカドリは、真っ暗闇の中にいた。
リッペルに、飲み込まれた。毒袋は破れ、リッペルの口に、毒が広がる。カドリがいくら頑張っても、リッペルの口は開かない。
カドリは、意識を失った。サラの毒が、体中に入ってきた。痺れるような、苦しいような感覚と一緒に、カドリは、死んだ。
カドリが、帰ってこない。
サラは、不安になっていた。カドリは、成功したのだろうか。
もしカドリが、死んじゃったら……。
耐えられなくなったサラは、家の外に出た。カドリを、探しに行った。作戦のことは聞いていた。サラは、下の海からまっすぐ伸びる、道を見に行った。
「カドリー」
道に顔を出して、カドリを探す。道路の奥に、リッペルらしきサメの姿を見つける。サラは急いで駆け寄り、カドリを探した。
倒れた、リッペルの体があった。血を吐いている。サラの毒で、死んだのだろう。
肝心のカドリの姿が、見えない。
「カドリー、カドリ―」
周りを見ても、大きな声で呼んでも、カドリはいない。サラは、不安になってきた。
カドリは、いつもどうにかしてくれた。いつも、助けてくれた。今回も、助けてくれると思った。カドリなら大丈夫。そう、思っていた。
が、今回は違う。
「サラ……さん」
リッペルの、声が聞こえた。横たわるリッペルの体に近づく。
「サラさん……」
血を吐くリッペルが、そこにいた。
「リッペル……」
サラは、不思議そうに言った。リッペルが正気を取り戻したことが、意味不明だった。
「ウイルスが、抜けたからでしょうか。少しだけ、意識が戻ったみたいです。でもすぐ、死魚になって、意識はなくなるでしょうが……」
自嘲するように、リッペルは言った。
「まさか自分が、海の魔物だったなんて……仲間を食い殺したのは、わたしだったんですね」
悲しみの声が、漏れていた。リッペルは、父の嘘で守られていた。が、嘘はばれた。
リッペルが、海の魔物だった。ウイルスと血液で突然変異を起こす、サメ。それが、リッペル。
「サラ、さん……」
意識がなくなりかけている。伝えなければ。
「お願いです。私を、死魚にしないでください。私は、あんなふうになりたくない。どうか死んだ後の私を、バラバラにしてもう一度、殺してください」
死んだ後も海をさまようなど、したくない。死魚を毎日見ていたからこそ、ああはなりたくないという気持ちは、強かった。
自分の願いは、伝えた。あと、一つだけ……。
「サラさん。カドリさんは、私の口の中にいます。私をバラバラにした後、体の中を探してみてください」
申し訳なさそうに、リッペルは言った。
「サラさん、本当にすみません。カドリさんを、殺してしまった。こんなことになってしまった。私は、ただ、あなたたちと一緒に……」
リッペルは最後に血を吐き出して、眠るように意識を失った。毒が全身に回って、死んだ。
サラだけが、残ってしまった。
サラだけが、取り残された。
汚染海域にいるから、こんなに苦しいの?
胸のあたりが、刺されたように痛い。死んでしまいそう。いっそ死んだ方が、楽かもしれない。
リッペルは、悪くない。
悪いことが、連続して起きただけだった。リッペルはたまたま突然変異種で、カドリはたまたましくじって、サラの毒で死んでしまった。
――毒人魚。
まさに、そうだった。仲間を殺してしまった。カドリの代わりにサラが行けば、カドリは助かったかもしれないのに。サラが噛まれなければ、リッペルは暴れずに済んだのに。
全部、私のせいだ。
サラは、胸の痛みに耐えられなくなってきていた。気づいたら、涙がこぼれ出ていた。
とめどなく、涙は流れる。それは、緑色の海に、溶けるように消えていく。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
サラは、リッペルとカドリに、謝った。その声は、届かない。どちらも、毒で死んだ。私が、殺した。
突然、リッペルの体が動き出した。身体をぶるぶるっと振るわせた後、下の海の方に向かって、ゆっくり泳いでいく。
リッペルは完全に死魚となった。口の中にカドリを含んだまま、戻っていこうとする。
サラは、それを眺めていた。
――私を、もう一度殺してください。私を、死魚にしないでください。
リッペルの、声が聞こえた。サラは、涙を拭いた。
願いを、叶えなければならない。リッペルの、最後の願いを。
もうカドリはいない。サラにしか、できないことだ。リッペルをバラバラにするのは、怖い。それに、とても悲しい。
が、それが最後の願いなら。
そう思って、サラは前に踏み出した。私の責任だ。私が、とらなければならないんだ。
それからは、すぐだった。サラは、爪にある毒で、リッペルの体を動けなくした。痺れ毒だ。死体にも効いた。途中、何度も噛まれた。あまり、痛くなかった。身体が動かなくなった後は、かんたん。
錆びきった包丁を持ってきて、リッペルを切った。頭を切り落とし、体を開く。ぴくぴくと動いていたが、バラバラにしていく途中で、完全に止まった。
一回切るたびに、心がえぐられていくようだった。
勇気さえ出せば、カドリは死ななかった。
サラの心の弱さが原因で、カドリは死んだ。サラは後悔に押しつぶされそうになりながら、リッペルを楽にしてあげた。
……リッペルの中から、カドリが出てきた。毒で死んでいるだけだった。丸のみだったから、死体は綺麗だった。
「カドリ……」
私のせいで。私のせいで。私のせいで。私のせいで。私のせいで。
ぜんぶ、私のせい。
サラは、カドリの死体を抱きしめた。一緒に、『楽園』を探そうと約束した。が、その約束は、果たされない。カドリはもう、いない。
「カドリ! カドリ! カドリ!」
「……何だよ、うるさいな」
突然、声が聞こえた。カドリのものだ。サラはカドリを離して、見た。
カドリが、身体を元気に動かしている。
奇跡だ。サラはそう思った。
「カドリ!」
サラはもう一度、カドリを抱きしめた。
「いてえって。はなせはなせ」
カドリは抵抗した。が、サラの泣き声を聞くと、サラの体に巻き付いた。抱き返しているようだった。
「なんで、生きてるの?」
ある程度泣き終え、落ち着いたサラは、カドリに聞く。
「生きてない、と思う。多分生きてるけど、死んでる」
カドリは、あいまいな答えを返した。
「どういうこと?」
「俺は今、死魚状態だと思う。なんでか、意識がある状態だ。なんか、不思議な感じ。脳だけが、生き返ったみたいな」
「もしかして……」
サラは、一つの可能性が浮かんだ。が、それはあまりに確率の低い現象だった。
「どうした?」
「もしかしたら、私の毒の効果かも」
「……あぁ」
カドリも、納得した。
サラの持つ毒は、組合せや化学反応によっては、治癒を早めたり、有害な菌を殺すことができる薬となる。リッペルに噛まれたときも、サラは自然と、その力を使っていた。
カドリの死体に入り込んだ、たくさんの毒。それが、汚染海域のウイルスと合わさって、カドリの脳だけを生き返らせたのかもしれない。あの時カドリが取り込んだ毒の種類は、かなりの量があった。組合せによっては、サラの毒が、薬に変化してもおかしくはない。
二人は、そう判断した。
「サラに、助けられるとはな」
カドリは、驚いたように言った。サラ自身も、予想していなかった出来事だった。
「よかったぁ」
サラはもう一度、カドリを抱きしめた。カドリは、抵抗しなかった。
「リッペルは、死んだのか」
海中にある、肉片。リッペルのものだと思って、カドリは聞いた。
「あいつに感謝しなきゃな。あいつが丸呑みしなかったら、身体が真っ二つになった状態で、生き返るところだった」
サラとカドリは、バラバラになったリッペルのかけらを見た。
バラバラになったリッペルは、死魚となり海をさまようことなく、一生を終えた。その破片は、バラバラに、浮かび上がっていった。
「サラ」
カドリは、頭を下げて目をつむっている。
「なにそれ?」
「昔、人間たちがしていた儀式みたいなもんだ。リッペルに、さよならを伝えよう」
サラも、カドリと同じように、目をつむる。
――さようなら、リッペル。
心の中で、そういった。
「さて、行くか」
「……うん」
もう、ここには用はない。二人はリッペルの冥福を祈った後、下の海に入った。たくさんの死魚の肉片が浮いており、視界がさらに悪くなっていた。が、リッペルのおかげで、死魚には出会うことなく、下の海を進むことができた。
下の海を、潜っていく。しばらくして、真っ黒な穴を見つけた。
トンネルだ。
サラとカドリは、目を見合わせた。やっと見つけた。
トンネルをくぐる前、サラとカドリは最後に、上の海がある方を見た。
「……行くぞ」
サラは、トンネルの方に視線を戻した。一呼吸置いた後、カドリがトンネルをくぐり、奥に進んでいく。
サラがトンネルをくぐる前だった。声が聞こえた。
――ありがとう。サラさん。カドリさん。
ハッとしてサラが振り返っても、そこには、誰もいない。
気のせいかと思ったサラは、カドリの後を追い、トンネルの向こうに消えていった。
緑色の海から、魚がすべて、いなくなった瞬間だった。
毒人魚 如月 由一朗 @hahaha555
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