その力は全能にあらず

 その瞬間、彼の返答の重さを痛感しました。同時に、それは部外者が安易にし踏み入ってはいけなかった領域である事も察します。だからあの時彼は私に問い掛けてきたのです、果たして私が自分の事を話すのに値する者であるのか、と言う事をーー。友達として信頼出来る存在なのか、をーー。


「僕が地狐になってまだ間も無い頃、日本は戦争をしていた」


 戦争ーー。私も聞いた事があります。お婆ちゃんがよく掛けていたNHKと言うチャンネルで、その特集を取り扱っていた程のものの事ですよね。けれどその言葉の意味を問われるならば、大きな争いである事以外は正直わかりません。ショウイダンやセントウキ、ゲンシバクタンなどの聞き覚えの無かった言葉に、あの時の私は全く興味が湧きませんでしたから。


「おっと、君には戦争はまだわからないかも知れないね。戦争と言うのは、簡単に言えば人間達が集団になって争う事さ。そしてこの国での戦争と言うのは、全く罪の無い人でも簡単に殺していくものだった。妖怪もその一部だったよ」


 一部だったーー。発言から、妖怪達も人間達が総力をあげた争いには、点で無力であった事は明白でした。

 確かに妖怪の多くは、特殊な力を持っています。しかしそんな彼らの力を持ってしても、その戦争と言うものは防ぐ事は出来なかった。現に妖怪と言う存在自体、世間的には実在しないものとして扱われている時点で、その話は真実味が帯びています。

 要するに妖怪が恐れられていた昔の時代とは違って、戦時中の妖怪の人間への影響力は、皆無だったのです。


「ツクモノ、君は妖怪でも死ぬ事を知っているかい?」

「はい。心紡ぎの宿で、お初さんと轆轤首さんに聞きました。確か外傷が大きければ他の生物同様死に至る、と」


 横目で私を見ながら、加胡川さんは微笑みます。「そうかい。なら話が早いね」


「無論僕も逃げる事しか出来なかった。地狐にはなっていたと言え、当時は力をコントロール出来なかったしね。そして逃げた先には、またセントウキが飛んで来た。もはやイタチごっこさ」


 彼のセントウキと言う言葉には、何故かリアリティを掻き立てられました。事実、彼が戦争体験者である事も要因の一つとして考えられるんでしょうけど、やはりテレビ番組でやっていた事と同じ話をされると、仕方がないです。

 いまいちセントウキについては、私も実態が知り得ないので何とも言えませんが、加胡川さんの話からとても恐ろしいものである事は想像出来ました。


「そんな中、僕は師匠と出会った。僕は元々街で人間達に紛れて生活していたんだけど、『ワシと一緒に来い。そもそも人間達と共に生活しているのが間違いだ』って言われたよ。階級的には当然地狐である僕より、天狐である師匠の方が上だった。でもその時の僕は、まるで自分の考えが全て否定されたような気がして、彼女に言い放ったんだ。『お前に何がわかる!』ってね」

「なんでまたそんな事を……」


 すると加胡川さんは、少し困ったような表情で苦笑いしました。それもさっきみたいな柔らかさを感じさせる微笑みとは違って、一点して強張ったものでした。ーーそれも自分が本当に自分だったのかを、心の何処かで迷っているかのように。


「多分、多くの人間との繋がりを、僕は断ち切りたくなかったんだと思う」


 加胡川さんは自分の過去の考えを、まるで他人の事のように言いました。それはおそらく、私の感じた通り彼には、あまりの逃亡生活から他人との繋がりに飢えていたが故、無心になってしまったんだと思います。

 だから彼は都会と言う人が密集した環境から、意地でも離れようとしなかったんじゃないでしょうか。そして今でも、彼は人間と繋がろうと悪戯を繰り返しているんだと思います。


「それでも師匠は、僕を無理矢理田舎の方へと疎開させた。勿論初めの方は僕も、いつ逃げ出すかの計画を練りまくっていたよ。けれどある出来事をきっかけに、その考えは消え去った」


 一拍置いてから加胡川さんは続けました。「トウキョウダイクウシュウさ」


「トウキョウ……ダイクウシュウ?」


 当然言葉の意味はわかりません。ですがとても嫌な響きのするワードでした。


「空に襲うと書いて空襲くうしゅうと言うんだ。意味はセントウキなどの乗り物から、爆弾やキカンジュウで攻撃するって事さ。僕が田舎へと疎開する前、最後に住んでいた街がその空襲にあってね。もしあのまま僕がそこへ留まっていれば……今の僕は存在しなかったかも知れない」


 空襲と言うものを、彼の話と過去のテレビ番組の映像から頭の中で想像してみました。空から大量に降ってくる爆弾、燃え盛る建物、逃げ惑う人々、どう考えてもこの世の地獄としか考えられないものがイメージされてきます。人間は悪い事をすれば地獄に落ちると言いますが、当時からすれば生きているのも死ぬのも、おそらく地獄だったに違いありません。

 私は胸の中がぎゅうっと苦しくなりました。それは人間に対する失望か、はたまた妖怪の無力さへの空虚心か、よくわからなかったです。


「それからと言うもの、僕は師匠への恩返しがしたくなった。確かに住む環境はガラリと変わってしまったけど、生き抜く事が出来たのは師匠のおかげだったからね。多分それは、彼女が旅先で保護した妖怪達も同じ考えだったんじゃないのかな」


 また聞いた事のある「恩返し」と言う言葉。轆轤首さんはその事について、「妖怪は恩返しの概念を大切にしている」とおっしゃていましたっけ。


「恩返し……ですか」

「そう、だから僕は今でも師匠についていっている。いつも僕は助けてもらってばかりだけど、彼女についていけば必ず、何処かで恩返しが出来る日が見つかると思うんだ」


 それが彼の、加胡川さんの答えでした。彼にとって天狐さんの存在は、正しく命の恩人そのもの。だからその恩を返すべく、加胡川さんは彼女について回っているのです。悪戯好きでかまってちゃんでもある彼でも、そんな信念は折り曲げる事は無かったのです。


 私はふと天狐さんの顔を見上げてみました。彼が彼女に尽くしているのなら、恩を返そうとしているのなら、私は轆轤首さんにどのような形で恩を返せば良いのかな。

 少し複雑に考え込んでしまいました。今の私に出来る事と言えば、せいぜいインターネットで調べ物をする程度の事です。おそらく私には、彼のように轆轤首さんの手となり足となる事は、到底出来ません。であればこれから先、彼女に恩を返すとすれば、私は何をすれば良いのか、全く思い浮かびませんでした。


「私も、轆轤首さんや天狐さん、そして加胡川さんに恩返しは出来るでしょうか?」


 答えが考えつかなければすぐ他人に訊ねてしまう、それは私の悪い癖ですね。すると加胡川さんは鏡を使って後ろを確認しながら、少し笑みを零しました。「僕は別に対象として含めなくてもいいよ」


「そうだねぇ……。君が轆轤首や師匠に恩返しをするとなると、中々に難しいと思うよ」

「ですよね。私なんて、市松人形に取り憑いたただの霊ですもの。出来る事なんてこれっぽっちも……」


 自分で言うと、正直言ってあまり実感が湧かないのですが、他の人に言われるとやはり結構来るものがあります。中々に恩返しをする事は難しい、であれば私は彼女達に何を返せば良いのでしょうか。


 信号が目の前で赤になり、車が停車しました。見覚えのある街並みが並んできましたので、そろそろ自宅の方に着きそうですね。

 そんな中、加胡川さんは少しの間待つ事を悟ったのか、私の方に顔を向けて言いました。


「でもきっと、君にも恩返しが出来る日は来るさ。何せ恩返しは、返せる形で返せばいいんだからね。君がその人の為を思うように考え、それを実行する。それもある種の恩返しの形だと、僕は思うよ」


 少し苦笑いした様子で、加胡川さんは続けました。「それでも最近の師匠の、僕に対する扱いは酷いと思うけどね」


 自分がその人の為と思った事を実行する。確かにそれであれば、私にも出来る事なのかも知れません。こんなちっぽけな私でも、それで皆さんのお役に立てるのであれば嬉しいですし。まさか加胡川さんからそんな答えが聞けるとは、思ってもみませんでした。


「加胡川さん。色々と聞かせてもらい、ありがとうございました」


 今回で加胡川さんの事、結構見直しちゃいました。初めは鬱陶しい程のかまってちゃんで、その為なら、他人の事なんか全く考えない人物としてしか見えていませんでしたけど、彼なりの理念があり、意思があると知った時、私は深く感銘しました。それもこれからの加胡川さんを見る目が、大幅に変わりそうなくらいです。

 彼とは気が合うって事も、次第に悪くない気もしてきていました。寧ろ友達となった今では、意見が合う友達が出来た事への安心感と、幸福感が同時に押し寄せてきています。


「そしてこれからも、よろしくお願いします」


 その言葉に、加胡川さんは細い目をより一層細く曲げて、私に微笑みかけてきました。おそらくそれは、彼なりの気持ちを受け取った合図だったのかも知れません。ーーいいえ、私はそう受け取っておく事にします。


「馬鹿狐、信号が青に変わっておるぞ」

「し、師匠、いつから起きてたんですか!?」


 糸のように細い目を精一杯見開いて、加胡川さんは驚きの声を上げました。これこそ鳩が豆鉄砲を食ったよう、と言った比喩が似合います。

 どうやらその口振りから想像するに、目が覚めたばかり、と言うわけでもなさそうです。もしかして私達の会話も初めから聞いていたのかもーー。だとすれば加胡川さん、結構恥ずかしいんじゃないですか。


「全く、嬉しい事言ってくれるのう」慌てた様子で車を発進させた加胡川さんは気付かなかったようですが、天狐さんの口からはそんな言葉が漏れていました。

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