休息の時
廊下の内装は、私達が暮らしていた県営住宅のものとは随分違い、かなり古びた雰囲気となっていました。少し色褪せた木材の壁に、輝きを失った金具達。しかしそれらは汚れていると言った意味合いは持たず、しっかりと清潔さを保っています。それもこれも女将であるお初さんが、この心紡ぎの宿を大切にしている証拠なんでしょう。ーー旅館の切り盛りって色々と大変なんですね。
「ところでまだお二人の名前、聞いてなかったわね」
階段を上がり長い廊下を歩いている途中、ふとお初さんは思い出したかのように、私達の方を見て微笑み掛けてきました。
「言われてみれば……確かに言った覚えがねぇわ」
そう言えばそうでしたね。お初さんの事は天狐さんから紹介されていたので名前も知っていましたが、その逆はまだ話していませんでした。これから宿に泊まろうとしている人間がその女将に名前を言わないなんて、礼儀知らずにもいいところです。
「アタシの名は轆轤首だ。こう見えても、結構首が伸びる妖怪なんだぜ」
「私はツクモノって言います。見ての通り市松人形です」
私は自分の存在がまだわかっていませんから、轆轤首さんみたいに自虐を交えた自己紹介は出来ませんでした。よって彼女とは違いつまらない自己紹介にはなってしまいましたが、ここは気にしないでおきます。
「轆轤首さんにツクモノちゃんね。しっかりと覚えておくわ」
お初さんは満面の笑みでこちらに顔を向けました。
そうこうしている内にお初さんの足は、何の前触れも無く止まりました。少し関係無い話をしますけど、急にその場で立ち止まられると困る時ってありませんか。お陰で私、前を歩いていた轆轤首さんの足に頭をぶつけちゃいました。ーー少し舌を噛んでしまったので痛かったです。
「ここが轆轤首さんとツクモノちゃんのお部屋ね。鍵の方は轆轤首さんに渡しておくわ」
どうやらこの部屋が今日私達が泊まる事となる部屋らしいですね。このドアも建物と同じように木材で出来ており、ドアノブも少しばかり銀塗装が剥がれた、独特な金属光沢を放っています。
そして何より驚いたのが部屋の番号です。なんと私達の部屋の番号は【
彼女、こう言う語呂合わせも好きそうですからね。とは言え私としても、正直覚えやすい数字でよかったです。
するとまたしてもお初さんは、気まずそうな顔でこう言いました。
「予約の方が無かったから、実を言うと貴方方の夕食は用意出来てないの。本当に申し訳ない限りだわ」
予約を取っていなかった分、私達の夕食が存在していないのは当たり前です。ーーだからお初さんも、あまり気にはしないで欲しいなぁ。第一私は妖怪として生まれ変わってから一度も、食事には口をつけていませんし。
「大丈夫だって。妖怪の食事なんてもんは単なる嗜みに過ぎねえから」
轆轤首さんの方もそれは重々承知の上だったようです。妖怪は人間とは違い食事を摂らなくても生きていけます。故に彼女も、本意ではないにしてもその超自然的体質にあやかるつもりだったのでしょう。私達にとって食事なんてものは言わば娯楽、人間のそれと大差無いのですから。
すると後ろにいた天狐さんはそんな私達を哀れんだのか、轆轤首さんがそう答えた後にすぐさま口を開きました。
「ならワシと
無論加胡川さんは何も言い返しませんでした、もう今日の天狐さんに反論するのは、無駄な労力を消費するだけだと悟ったんですかね。ーーご愁傷様です。
「わかりました。じゃあ轆轤首さん、ツクモノちゃん、お食事を持ってくるから、しばらくこの部屋で待っててね」
「おう、楽しみにしてるぜ」
お初さんは轆轤首さんに部屋の鍵を渡すと、一礼してからその場を去っていきました。すると天狐さん、急に私に目線を合わせてきて言いました。
「ツクモノよ、飯の後で構わんから後でワシの部屋に来てくれんか? そこで大切な話がある」
あら意外、天狐さんってば思ってた以上に積極的な方みたいなんですねら。勿論答えはオッケーですよ。断る理由もありませんし、彼女と話したい事も山程ありますからね。
「はい。では後で天狐さんのお部屋、伺いに行きますね」
こうして一旦、私達は解散と言う形となりました。まだ私は食事を摂った事が無いので美味しいとかどうかはわかりませんけど、轆轤首さんが喜ぶものが出るといいですね。
*
まさか今日と言う日で本当に気が休まる時が来るとは、加胡川さんに私達がイジメられた時には想像も出来ませんでした。
「では、ごゆっくりどうぞ」
ここ、心紡ぎの宿にある【六六】の部屋は床が全て畳が敷かれており、少し洋風な雰囲気を漂わせていた廊下とはまた違った空気をしています。少し大きめの長机に深緑の座布団、景色に関しては外が一面森なのであまり良いものとは言い難いですけど、それでも自然を楽しむ空間としてみればまた一興でした。
「うっひゃー! こりゃあまた豪華な食事だな」
額の皺が目立つお婆さんが部屋を立ち去ると、同時に轆轤首さんは嬉しさのあまり大声で叫びました。
机の上に並べられた料理の数々。これらはもう私は食べないにしても素晴らしいの一言に尽きます。特にまだ鮮度を保っているからか、光を反射させているお刺身は綺麗ですね。それに箸をさっと入れるだけでほろっと柔らかく切れそうな煮物なども、料理番組で見たものより一層美味しそうに見えました。
「んじゃあアタシはもう食うからな」
「ど、どうぞ」
ゴクリーー。何故か私の口の中は、目の前のご馳走を見て唾を飲み込み過ぎて渇き切っていました。無論私はまだ食事を摂れるかもわかりませんから、これらの料理はただ眺める事しか出来ません。なのになんなんでしょうか、この諦めきれない感じは。
ですがその理由はすぐにわかりました。私が意識せずとも体自体は、食事と言う行為自体を渇望していたのです。じっと眺めていても私の湧いてこない空腹感とは裏腹に、食欲は抑えられないぐらいに荒ぶっていました。いいえ、正確に言えば食欲ではなく食べてみたいと言う好奇心でしょうか。
もはやこの場にはもう留まっていられないーー。そう考えると居ても立っても居られなくなり、未だ食事を眺めていた轆轤首に問い掛けました。
「あの轆轤首さん、私天狐さんのところに行ってきてもいいですか?」
「おう。今ドア開けるから待っとけ」
するとまだ箸に手をつけていなかったからか、轆轤首さんは私の要望をすんなりと聞き入れてくれました。もしかすれば今のは、私が食事が出来ない事を気遣っての事なのかも知れません。ーー今そう言った気遣いは逆効果ですよぉ。
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