第十六幕『魔術』



 悪魔の姿をした男は、姫に術をかけた。

 それは忘却魔術と言われるものだろう。

 この世界にはそういった魔術、魔法が存在する。


 この世界で忘却魔術とは、戦争時の医療から生まれた概念だ。

 戦場で傷つくのは身体ばかりではなく、精神も深い傷を負わされた。

 それは生涯消えない傷となり、その記憶はその人物を一生苦しめ続ける。

 そこで忘却魔術というものが生まれた。


 しかし、高度な技術を要することもあり、忘却魔術を使える者は限られていた。

 全ての魔術師が忘却魔術を正しく使えるというわけではなく、

 また、別の目的で悪用しようと考える者も少なからず存在した。


 そういった悪徳魔術師は、当然裁かれるのであるが、忘却魔術を使う場合は綿密な計画を要する。

 それからその計画を国に報告し、許可を得ることが必至だった。


 どんな理由があろうと人の記憶を消すものなのだから、それは当然と言えば当然だ。

 術を私利私欲のために使う者は悪魔とされた。


 しかしながら厄介なもので、それを判断する事が難しい場合もある。

 いかにも誠実そうな見かけをしている者、厚い信頼を得ている者もおり、悪事を企てる者の思考は読めない。


 しかしあの男が邪悪なのは、何も見た目に限った事ではなかったという事だ。

「しっかし、参ったぜ。まさか一国の姫に“見える”とはな」

 男は劇場を慌てて飛び出し、その上空に浮かんでいた。


「あ。どうせやんなら、さらった方が面白かったか。姫がいないとなったら国中大騒ぎだろ」

 不敵な笑みと独り言をするその姿は、なんとも異様だ。


「う……さすがに術を使いすぎた、な……」

 突然男は顔をしかめ、何やら頭を抱え始めた。

 術を使ったのと引き換えに、副作用をもたらすようだ。


 ふらふらと下降して行き、そのまま城の傍ら、木の茂みの中に落ちていく。

 そのまま気を失ってしまったらしい。

 男はその中で、少女の記憶の夢を見た。



――



 先ほどの憂いが晴れたのか、姫は観劇へ没頭していた。

 観客と共に、復讐の鬼と化し黒の甲冑に身を包んだ、悪魔の騎士≪ダークナイト≫となったエリオを憐れんでいる。


 怪物、悪魔と叫ぶ民衆の声が響く。

 黒い馬にまたがった騎士は黒の槍を振りかざし、人の声を一瞬にして掻き消す。


 民はそれを恐れ、憎み、怨んだ。

 しかし憎悪の感情や怨念は、怪物の中で増幅していき、さらに凶悪な悪魔となるだけだった。

 悪魔に魂を奪われたエリオは、その身を悪魔の騎士(ダークナイト)へと堕落させた。


 しかし、ジュリエッタは生きていた。

 姫という地位を捨て、衣服も脱ぎ姿を変え、独り国を逃げだしたのだ。


 エリオはそれを知らない。

 いや、今のエリオにはそれを知ることはできなかった。

 自我を失い、人の言葉をきく事のできる耳は、もはや残ってない。

 心というものや愛というものは、昔のように純潔なものには戻らないだろう。


 エリオを染めてしまった黒という色は、何色であっても塗り替えることはできないのだ。


 そんなエリオの姿を、レナ姫は心配そうに見つめる。


 そしてそれを安心したように見つめる、一人の騎士がいた。

(姫様、あんなに楽しそうにお芝居を観られて……)

 この青年はやや鈍感だが、姫に豊かな表情が戻ったことを心から喜んでいる。

 おそろしく単純だ。


 舞台の時は進み、『ダークナイト』に対抗する存在として一人の聖なる騎士が立ち上がる。

――聖なる騎士(ホーリーナイト)。

 これはエリオの微かに残っていた良心の表れだと、この演目の熱狂的なファンの間で一考として囁かれていた。


 聖なる騎士は、暗黒と化してしまったその上空、邪悪な騎士と一騎打ちを繰り広げる。

 黒い槍と白い槍。

 それらは何度も火花を散らす。

 ぶつかっては離れ、槍の先が互いの体をかすめては通り過ぎる。


 互いが互いをただ、滅ぼそうとする存在。

 そしてそれ自体が互いの存在する理由となっていた。


 国を陥れ、ただの暴徒と化した邪悪な騎士『エリオ』を止める方法は、ただ一つ。

 それは、ホーリーナイトの槍によって心臓を一突きにすることだ。


 それができなければダークナイトは、更なる惨劇を起こす。

 そして殺戮を繰り返すであろう。

 もはやその死を持ってしか止めることはできなくなってしまったのだ。


 ダークナイト――黒馬にまたがる暗黒の鎧の騎士。


 それに対するホーリーナイトは、白馬にまたがる白銀の鎧の騎士。

 その騎士は背中に聖女を乗せていた。

 尼寺にいるその恰好をした聖女は、きらびやかな衣装を身に付けてこそいないが間違いなくジュリエッタだった。

 しかしエリオにその姿は見えていない。


 ジュリエッタはエリオに対し、何度も声を投げかけた。

「ああ、エリオ……どうか聞いて。あなたはエリオなのですね?」

 兜と甲冑にその身の全てを蔽い尽された、男のその表情は少しも変わらない。


 それでもジュリエッタは言葉を投げかける。

「エリオ? エリオ! 私の声が聞こえないの?」

 ジュリエッタはひたすらエリオの名前を呼ぶ。

「私です! ジュリエッタなのです! あなたの事を愛するジュリエッタは生きて、ここにいます!」

 脳を侵食する兜に憑りつかれ、男のその表情は微塵もわからない。


「私の愛しいエリオ。あなたの事を想わなかった日はありません。今でもこんなに、あなたの事を……愛しているのです!」

 ジュリエッタは震えながらも、エリオに想いを伝える。

 エリオを救いたい――昔のエリオに戻って欲しい。その一心だった。


――私の事を思い出して。


 意を決し、ジュリエッタはそこから身を投じた。

 その瞬間にバランスを崩し、聖なる騎士も降下していった。

 ダークナイトはただ一進に槍を構え、急降下していく。


 ホーリーナイトとダークナイト。そのどちらもジュリエッタを目がけ、走った。

 ジュリエッタの命を救えるのは、果たしてどちらか。


 観客は皆、息を飲んだ。

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