第7話~出汁巻き玉子~
~新宿・歌舞伎町~
~居酒屋「陽羽南」~
水曜日。陽羽南開店前の、午後3時。
僕はフライ返しを手に、厨房でフライパンと向き合っていた。
目の前のフライパンでは、中心に生卵を落とされたグスターシュが、ふつふつと音を立てて焼かれている。
卵の白身が細切りにされたジャガイモの隙間に行き渡り、下側の表面がパリッとしてきたのを確認して。
「よっと……!」
ひっくり返し、卵の面を焼き始める。返されて上側になった、ジャガイモの表面はいい焼き加減だ。
「マウロ、ピクルスの仕込みと唐揚げの下ごしらえは完了した。あとは何をすればいい?」
「そうだな、お通しの煮込みを作っちゃおう。ゴボウのささがきを頼む」
まな板を洗い終わったシフェールが、振り向いて声をかけてくる。
今日と明日は澄乃が休み、厨房は僕とシフェールの二人体制だ。
店長である澄乃がいない状況での仕事は今日が初めてだが、元の世界の食堂でもこういう状況は頻繁にあった。何とか出来るだろう。
そうこうするうちに卵が焼けて、ジリジリといい音がしてきた。
「さっきから作っているそれは、グスターシュか?」
「そう、ジャガイモのグスターシュ。一昨日の研修で瀧さんと社長からアドバイスをもらったんで、メニュー化に向けて色々試してみているんだ」
フライパンから引き揚げたグスターシュをまな板に移し、包丁を入れると、程よく火が通った卵の黄身が、とろりと溢れ出す。
いつの間にか背後に立っていたシフェールの藍色の瞳が輝き、おぉっと声が漏れた。
「よし。お通しの仕込みはちょっと後に回そう。味見がてら休憩だ」
ホールの掃除をしていたエティとアンバスにも声をかけ、四人でテーブルを囲む。テーブルの中央には八等分に切られ、皿に盛られたグスターシュ。
「「いただきます」」
四人が一斉に箸を伸ばし、ひと切れずつ取って、口に含む。その後に。
「美味しい!」
「私が作るものよりコクがあるな、これはいい」
「昨日作ったやつよりも美味ぇんじゃねぇか? 塩気があっていいな」
よかった、絶賛だ。グスターシュを食みながらほっと肩を撫で下ろす。
「昨日、店長とパスティータにも食べてもらって、いい反応だった。これなら出せるんじゃないかな。
シフェールには後でレシピを教える。明日練習しよう」
「あぁ、分かった」
頷きつつも皿に箸を伸ばすシフェール。だいぶ好感触だ。作る側としてはこれほど嬉しい反応もない。
僕は両手をパンと叩くと、三人に先を促した。
「さぁ、これを食べたら準備を再開するぞ。急いで食べてくれ」
そして滞りなく準備は進み、開店時間の午後5時を回った……が。
一人二人とちらほら人がやってくる程度で、実に平穏な時間が過ぎていった。
「開店して間もないというのもあるのだろうが、こんなものなのか?」
ピクルスを皿に盛り付けるシフェールに、僕は首を振った。
「店長が言うに、この世界の一般的な仕事は6時や7時に終わるんだそうだ。だからもう暫くしたら、忙しくなると思うよ。
開店初日がやたらと忙しかったのも、大抵の人が仕事が休みの日だったかららしい」
四角く細長い専用のパンに溶き卵を流し入れながら、僕はそう言った。
世の中の仕事と言っても色々な仕事があるし、色々な働き方がある、と教えられてはいるが、それでもやはり「標準となる働き方」はあるものだ。
そして世の中の店というものは、大概がその「標準となる働き方」に合わせて開店したり人を雇ったりしている。
そうしないとニーズを満たせないのだ。
パンの中で溶き卵を丁寧に巻いていく。
この「玉子焼き」の作り方もこちらに来て初めて知ったが、研修期間中に何度も練習させられた。
オムレツのようにかき混ぜてまとめるのとは、全くもって訳が違う。
巻いて、パンの端に寄せて、空いたスペースに溶き卵を流し込む。その繰り返しなのだが、綺麗に、かつ厚みを持って焼くためにはスピードと繊細さを両立させないといけない。
溶き卵を使い切り、最後まで巻き終えたそこには、程よい厚みの出汁巻き玉子がホカホカと湯気を立てていた。
「(今日のはなかなかうまく行ったが……もうちょっと早く巻けるようにならないとな)」
玉子に包丁を入れ、皿に盛り付け、形を整えて。
そして忘れてはいけない、冷蔵庫から大根を取り出す。
粗めにすりおろして、皿の端に盛り付ける。これでよし。
「A卓様、出汁巻き玉子どうぞー!」
運ぶ際、ぷるぷると揺れる玉子に慌てつつも、形を崩すことなくカウンターの上に。
その皿はさっとエティが席まで運んでいった。よしよし。
「B卓様、出汁巻き玉子1、ごぼう天1入りましたー!」
「ありがとうございまーす!」
そして入ってくる次の注文。こちらも出汁巻き玉子だ。
僕は返事を返すと、鮪の刺身を器に盛っているシフェールに声をかけた。
「シフェール、出汁巻き玉子、焼いてみるか? 僕ばかりが焼くのもあれだしな」
「えっ……!? じ、自信はないが、やってみよう。
あ、A卓様マグロどうぞー!」
マグロの刺身の器をカウンターに置いたシフェールがこちらに足を向けてくる。
僕は冷蔵庫から卵と白出汁を取り出すと、シフェールの前に置いてその目をしっかと見つめた。
「レシピは分かっているよな。とにかく、素早く丁寧に、だ。いいな?」
「大丈夫だ」
シフェールが真剣な眼差しで見つめ返してくるのを見て、僕の目元が自然と綻ぶのが分かる。
「よし、任せたぞ」
パンの前をシフェールに譲り、僕はまな板の前に立つ。午後6時になろうとしている店内は、徐々に活気を見せ始めていた。
~第8話へ~
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