まんまるだましい

ひざのうらはやお/新津意次

2012~2014

ふるさと

 うららかな春の日差しで、深月は目を覚ました。

 バスが長いトンネルの続く山中を抜けて、山あいに静かに佇む小さな村落に近づいたのだ。

 都会では考えられないような古びたデザインのバスは、急な坂道を登るたびにうおんうおんと唸り声をあげていたが、それも最後のトンネルを抜けてしまってからはほとんどなくなって、車内はごとんごとんと心地のよい揺れと、都会のバスよりもほんの少しだけ大きなエンジン音でいっぱいになった。麓の駅前を出発したころにはほとんどの席が埋まるほどであった乗客は、駅から少し離れた大型の商業施設で大半が降り、残った高齢者たちも、そこから数分ほどの市民病院ですべて降りてしまった。病院から山道にさしかかり、実に一時間弱の行程の果てに、深月の目指す村はあった。


 うさぎおいし、かのやま。

 こぶなつりし、かのかわ。

 ゆめはいまも、めぐりて。

 わすれがたき、ふるさと。


 周りに広がるのどかな風景に、思わず深月は「ふるさと」の歌を口ずさんだ。どうせ運転士を除けば聴いている者などいないし、運転士にはエンジン音に紛れて聞こえないだろう。


 いかにいます、ちちはは。

 つつがなしや、ともがき。

 あめにかぜに、つけても。

 おもいいずる、ふるさと。


 小学校で習う「ふるさと」の歌はたいてい一番だけであるが、深月はこの歌をすべて歌うことが出来た。

 深月はこの歌が好きだった。祖母が好きであったということも、もちろんあるのだろうが、都会に生まれた深月にとってまったく故郷とはいえないその歌詞の新鮮さ、そしてそののどかで郷愁を誘う旋律が好きなのだろうと、友達にそう語ったこともあった。


 こころざしを、はたして。

 いつのひにか、かえらん。

 やまはあおき、ふるさと。

 みずはしろき、ふるさと。


 今初めての場所に向かっているのに、この歌を歌うのはなんか変だな。歌い終わってからそのことに気づいた深月はおかしくなってひとりでくすりと笑った。

 しかし、聴いていた通り、いや、聴いていた以上の田舎だなと深月は少し困った顔をした。

 四方を山に囲まれた中で、だだっ広く田畑が広がっているだけの景色を見て、今日中に帰れなかったらどうしようと深月は思った。

 祖母がこの村で生まれ育ったということ以外に、この村での地縁はないのだ。当然こんなところに旅館などあるはずもないだろう。このバスだって、日に三往復しかないと聞いた。おそらく、夕方のバスに間に合わなければ、この村から帰るすべはなくなるだろう。

 深月は思わず身につけていたイヤリングを握りしめた。


 バスは段々とそのスピードをゆるめ、やがて村の役場前にぽつんと立っているバス停に止まった。

 これまた今はほとんど聞かなくなったレトロでけたたましいブザーが鳴り、深月はナップサックのひもを肩にかけながら「ありがとうございましたっ」と運転士に礼を言って飛び降りた。日差しが思ったより強くて、深月はおととい買ったばかりの春物のコートのボタンをかけるのをやめた。

 バス停には備え付けのベンチがあり、そこにはひとりの老人が腰をおろしていた。ひどく背筋が曲がっており、からだはぶくぶくと肥ってはいたものの、服装はみすぼらしくもなく田舎くさくもないためにどことなくこの村の雰囲気とズレている。洒落た帽子をかぶり、ピンク色のシャツに紺色のブレザーを着て、すこしだぼっとしてだらしのなくなったチノパンを履き、高そうな木を使っていそうな質素なデザインの豪奢なステッキをついているその姿は、みすぼらしい老人というよりは、老紳士とも言うべきいでたちであった。

 しかし、なぜだかバスを待つその雰囲気が、どことなく紳士にあるまじき不思議な、どこか哀れむべきものを醸し出しており、深月は変なおじいさんだ、と率直に思った。

 どうやらバスの出発を待っているようだった。きっと昼のバスで、麓の町か、あるいはもっと遠くの家まで帰るのだろう。そう思って、深月はたいして気にもとめなかった。


 祖母の言葉を思い出しながら、深月は村をぶらついた。

「ほんの少しでいい、故郷に帰りたい」

 死に際に深月を見て言ったこの一言が、彼女をここまで連れてきたのであった。

 深月はナップサックから小箱を取り出した。それは透明で、中にはくすんだ白色の、粒の粗い粉が入っていた。

 遺言通り、祖母を故郷の風の中に葬るために、その遺灰をほんの少しだけもらい受けたのである。

 しかし、いくらなんでも村の中でまくわけにもいかない。深月は灰をナップサックにしまうと、我にかえって役場の方へと引き返した。

 役場に戻ると、さっきの老人がまだバス停のところに座っていた。

 すでにお昼のバスは出ている。

 老人は少し疲れたような表情をしており、その瞳は近くにそびえたつ丘の上を見つめていた。そこには、場違いな風車がぽつんと建っていた。

 あそこに行けば、祖母も満足するだろうか。

「すみません、あの風車への道、知りませんか?」

 気がつけば、深月は老人に声をかけていた。

 老人は深月を見て、はっと呆けたような顔をしたが、やがて何事もなかったかのように柔和な表情で、

「すまんが、私は口で説明するのが苦手なものでね、ゆっくりでいいならあそこまで案内してあげるが、どうかな? 時間は、片道で一時間弱、といったところだ」

 と言った。

 思っていたよりも口調が若かったことに、深月は驚いた。しかし、顔をよく見れば、それほど歳を取っているわけでもないようにも思える。

 深月は左腕の時計を見た。夕方のバスまでは四時間ほどある。

「それなら夕方のバスに間に合いますね」

「そうだろうとも」

「では、お願いしてもいいですか?」

「いいとも」

 老人はにっこりと笑った。口元のしわが、かなりの年齢を経ていることを想像させた。

「では、早速行こうか」

 老人は杖にもたれながら立ち上がると、ゆっくりと深月の方に歩いてきた。

「若いころから、腰が悪くてね。そのせいか、最近足が弱ってしまって、早く歩けないのだよ。昔はこの村の中で一番、歩くのが早かったのになあ」

 老人は誰にでもなくそうぼやきながら、風車のある丘へと歩き始めた。


「あの風車は、ほんの何年か前に建てられてね。当時の村長がなにを面白がったのか、余ったお金で作らせたんだよ。そのころは景気がよかったみたいでね。今では滅多に呼ばれないが、『そよかぜの塔』なんつう大層な名前までついている」

 老人は杖をつきながら、深月にそう言った。

 その足取りはゆっくりではあるものの、非常にしっかりとしている。それが、運動不足そうな見た目とズレていた。深月はこの老人が不思議でならなかった。

 背格好や服装、その杖の様子から考えて、明らかに八十代くらいの、村の有力者のような印象を受けるのだが、声や話し方は四十代と言っても通用するくらいしっかりとしていて、大学の先生のような印象を受けた。また、その身なりは非常に整ってはいるものの、姿勢や立ち姿がどこかだらしなく下品に見えた。

 いったいこの老人が何者であるのか、深月は非常に興味を持っていた。ただひとつ、老人についてわかることは、非常に人がいい、ということだけだった。

「時にお嬢さん、生まれは東京かな?」

 老人はそう言いながら立ち止まって、ブレザーのポケットからハンカチを取り出して額の汗をぬぐった。

「はい。お爺さんは、この村の人なんですか?」

「ああ、この村で生まれ、育ち、そしてやがては死んでいく予定だ」

 老人はふたたび歩きだした。

「して、なにゆえ、このような田舎にやってきたのかね? まさか、観光というわけではあるまい」

「実は、祖母がこの村の生まれなのです」

「なるほど……」

 老人は急に振り返って深月を見て、深々とうなづいた。

「きっと、お祖母さんは、素敵な人だったのだろうね」

 老人の柔和な微笑みから、なぜだか深月は悲しみのような、寂しさのような、そんな雰囲気を感じた。その微笑みそのものは、聖人のような柔らかい輝きを放っているのにもかかわらず。

「はい、私の尊敬するひとでした」

「ひとでした、ということは……もう?」

「先月、亡くなりました」

「そうか……それは、残念だ」

 老人は、淡々と歩いている。遊歩道とはいえ、あまり整備されているとはいえず、レンガで舗装された道のあちこちに、枯れ草がのぞいている。

 深月は、枯れ草を踏みながら老人の後をゆっくりとついていく。閑散とした山道に、老人の杖の音と深月の足音が響いていた。


 明るい林の中の少し急な勾配を登ると、不意に風景が開けてきた。丘の上にたどりついたのだ。深月の顔が少し明るくなった。

「もう少しで、風車だ」

 老人は息を弾ませながら言った。

 「そよかぜの塔」という名の風車は、ほどなくして深月たちの前に現れた。大きな古めかしい風車と、レンガ作りの風車塔がいかにものどかな西欧の田園地帯を想起させる。塔全体は思ったよりも小さかったが、この村のトレードマークくらいにはなるかな、と深月は思った。

「どうだい、もっと大きいものを想像していただろう?」

 そう言って老人は笑った。

「はい。でも、いいところですね」

 深月は率直に言った。

 風車塔の近くに、木で出来ている小さなベンチがあった。これも少し古びていて、田園風景にとけ込むような風合いを持っていた。

 深月は老人に勧められて、ベンチに座った。彼女の目に、村の風景が飛び込んできた。のどかな田園風景が、手作りのジオラマのように広がっている。風車の周りは、それなりに整備されていて、行政が余ったお金をかけただけのものにしては大切にされていた。

「まだまだ、夕方のバスには時間があるだろう」

 隣に座っている老人が、村の風景を見ながら言った。

「私の昔話を、聞いてくれないか?」

 深月は思わず老人を見た。老人は、真剣な目で深月を見つめていた。まるで、恋人にプロポーズをするかのように。

 深月はだまって頷いた。

「ありがとう。君に会ったのも何かの縁だ、少し長い話だが、こんな老人の戯言だと思って聞いてくれ」

 そう言うと老人はゆっくりと話しはじめた。



 私がまだほんの若者で、この塔も建っていなかった頃のことだ。

 私には好きな娘がいた。幼なじみで、小さい頃から一緒に遊んでいた。真っ白な肌をした、ふんわりとした一重まぶたの娘だった。そう、お嬢さん、ちょうど君を少しおしとやかにした感じの娘だったよ。

 彼女とよくこの丘に登って、村の景色を見ながらいろいろなことを話したものだった。とくに、彼女はよく「ふるさと」の歌を歌ったものだった。彼女の歌声は澄んだ氷のような響きで、聞いていてとても心地よかった。


 あれは、忘れもしない流星雨の日だ。私が彼女と流れ星を見ていた時、彼女が急に悲しそうな顔をしてね。わけを訊くと、東京の大学に進学することが決まったから、もうこの村には戻ってこないかもしれない、と言うんだ。家族がいるじゃないかと私が返すと、家族も一緒に引っ越すのだと彼女は言った。確かに、彼女の成績は、運動以外はとてもよかった。運動は、まだ私の方が成績がよかったがね。

 悲しそうな顔をする彼女を、私はただ、黙って見ていることしかできなかった。


 次の日の朝一番のバスで、彼女たちの家族は、誰にもさよならを告げずに去っていった。後から村の人に聞いた話だが、どうやら彼女が朝一番に起とうと言ったらしい。名残惜しくなるからと。



「今も彼女の『ふるさと』の歌が、耳に残っているよ。これが、私の最初で最後の恋だ」

 老人は話を終えると、杖にもたれかかってバス停の方を見た。深月には、その瞬間、老人が急に歳を取ったように感じられた。

「私がなぜ、この話を君にしたか、わかるかね?」

 老人は、ゆっくりと深月を見た。

「はい、なんとなくは」

 深月は、老人が何を言いたいのか、よくわかっていた。そして、それに答える方法も、悟っていた。


 うさぎおいし、かのやま。

 こぶなつりし、かのかわ。

 ゆめはいまも、めぐりて。

 わすれがたき、ふるさと。


 深月は自然と、この歌を口ずさんでいた。

 老人の視線が、何かを探るように深月をとらえた。


 いかにいます、ちちはは。

 つつがなしや、ともがき。

 あめにかぜに、つけても。

 おもいいずる、ふるさと。


 不意に祖母の姿が浮かび、深月と声を合わせるように重なった。

 そして、歌はとめどなく、流れるように続く。


 こころざしを、はたして。

 いつのひにか、かえらん。

 やまはあおき、ふるさと。

 みずはしろき、ふるさと。


 最後の行を歌ったとたん、老人の目から涙がこぼれ落ち始めた。老人は感動のあまりそのことに気がつくのにいくばくかの時間を要し、それに気がつくと手ぬぐいで顔を拭った。

「やはり、そうなのだな……君のお祖母さまの名前は」

「和泉と、いいます」

「君が、やはり……和泉さんの孫、なのか」

「はい」

「死んでしまったのか」

「はい」

「死んでしまったのか……」

 老人は手ぬぐいで目を覆ったが、涙があとからあとから溢れてきているようで、あまり意味がなかった。


「あの、どうして、私が祖母……和泉の孫だって、わかったのですか?」

 深月はようやく落ち着いた老人に向かってそう訊いた。

「バスから降りてきた時点で、不思議に思った。この村を訪ねる若い者なんて、今時そういるもんじゃない」

「でも、たったそれだけで……」

「君の姿に、どうにも和泉さんの面影があってな」

「なるほど……」

 バスの中の「ふるさと」を聞かれていた訳ではなかったのだと、深月は密かに胸をなで下ろした。

 深月は、おもむろにナップサックから和泉の遺灰を取り出した。

「それは……和泉さんなのか?」

 老人は、おそるおそる、といった感じで訊いた。

「はい。故郷に帰りたいと、言っていたので。それが訪れた理由です」

 深月は遺灰の入ったケースの蓋をゆっくりとあける。

 その瞬間。


 ひゅううううううううん。


 強い風が吹いた。

 祖母、和泉の遺灰は丘を舞い上がり、日が傾きかけた天空に消えていった。

「和泉さん……ずっとこの村に帰りたかったのか」

 老人は深くうなだれていた。

「私はずっと、彼女は村を、私を捨てたのだと、そう思っていた」

 老人の若々しい声が、次第に老けてしわがれていき、どんどん見た目と同じように、年老いた老人のようになってしまった。見た目通りと言ってしまえばそれまでだが、深月はそれがなにか、とんでもないことのように思えて、少し怖かった。

「いえ、祖母は、大学に入ってすぐに祖父と結婚して、母を産んだのです。そして苦労して母を育てていたら、あっと言う間に歳を取って、村に帰るどころではなくなってしまった、みたいなんです」

 深月は、ほんの少しだけ嘘をついたことを天国の祖母にわびた。しかし、帰りたくても帰れなかった、ということはだいたい合っているので、まあいいか、とも思った。

「そうか……」

 そう言って老人は、そよかぜの塔に目を向けた。

「彼女が好きだと言ってくれた、オランダの風車をまねて、ここに建てたのだが……見てほしかった……」

 老人は、塔を見上げた。

「運命というのは、皮肉なものだね。私も、つい先月まで、この村の村長だった」

 老人はゆっくりと視線を麓の村に戻した。

「きっと、見ていますよ」

 深月は、浅黄色になった空を見上げながら言った。

「だって、たった今、祖母はこの風車のあたりを舞っているのですもの、風とともに」

 今の言葉の口調が祖母そっくりだったことに気づいて、深月は驚いた。

「きっと、和泉さんもそう言うのだろうなあ……」

 老人の老いた声が、ぼそりと響いた。


 帰り道は、ふたりとも無言だった。

 特に何かを話すようなこともないし、お互い、口を開くにはあまりにも重たい言葉が胸を満たしていた。

 閑散とした遊歩道を、杖をつく音と枯れ草を踏む足音が交互に響きわたっていた。


 太陽もだいぶ傾き、空に赤い色がはっきりと現れるようになった頃、ふたりはバス停まで戻ってきた。

 備え付けのベンチに並んで座った途端、道の向こうから時代遅れのエンジン音を響かせながら、古びた路線バスが現れた。

 中からひとりの老婆が降りてきて、老人に「あら村長さん、こんにちは」と挨拶して、帰っていった。

 バスの前には再び、深月と老人だけになった。

「さあ、これに乗れば、夜中には東京に着くかな? とにかく、今日はどうもありがとう。死ぬ前に、私は出会うべき人に、出会うことができた」

 老人は柔和な笑顔を浮かべながら、深月にバスに乗るように勧めた。

「いえ、こちらこそ、祖母の供養ができてよかったです。ありがとうございました」

 深月は老人に頭を下げた。

 そして、ナップサックを肩にかけると、

「また、この村におじゃましてもいいですか?」

 と訊いた。

 老人は微笑みながら、

「いつでもおいで」

 と言った。

 バスの乗り口のドアが開く。

 深月がバスのステップを上がる時、何かを思い出したように老人が深月を呼び止めた。

「ふるさとの歌詞だけれど」

 みずはきよき、ふるさと。

「が、正しい歌詞だ」

 と言って、老人はにっこりと笑った。

 なるほど、と深月は思った。

「わかりました、今度来た時はちゃんと歌いますね」

 と、深月は笑顔で返した。


 やがてバスは、老人を残してゆっくりと走り出した。

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