オムライスセット

 冷房の利いた雑居ビルを出たとたん、重たい空気と鋭い日差しが、青木の身体を貫いた。

 去年の夏は、ここまで暑くなかったよな、と思いながら、青木は陽炎に揺れる小さな路地を歩いていった。この会社には何度も通っているが、特別同じ道を通るということはない。単に路地の構造が複雑ということもあるが、もともと同じ道を歩くことが性に合わないのだ。だから、ルート営業という今の仕事も、あまり気に入っているわけではない。飛び込みの方が自分の性に合うような気がしていた。

 午後二時。最も気温が高くなる時間だ、と彼は小学校の理科の授業を思い出した。今日の最高気温は三十六度。ほとんど体温と同じくらいである。思わず額から流れる汗をハンカチで拭く。まだ昼食をとっていない。このままでは暑さで倒れてしまうだろうなと、辺りを見回した。

 ふと、真新しい木の看板が目に入る。

「おっ」

 青木は思わず声をあげた。開店して間もないのだろう、「喫茶 ぴろしき」と毛筆で書かれた看板や、モダンな煉瓦づくりをイメージした外装が、夏の空気に溶け込むことなくぴっしりとした存在感を出していた。

 しかし、新装開店にありがちな花束などは見あたらない。外装だけ新しくしたのかもしれないと思いながら、青木は店に近づいて、入り口のすぐそばに置いてある小綺麗な黒板を眺めた。コーヒーが三〇〇円だのケーキが二〇〇円だの並んでいる中で、青木は思わず心躍る文字列を見つけた。

「オムライス、八〇〇円。飲み物つき、か……」

 いかにも喫茶店らしいな。

 青木は意を決して喫茶店のドアを開けた。

 さっき訪れた会社と同じくらいにひんやりとした空気が、歓迎の言葉の代わりに彼を迎え入れた。

 カウンターの前にぼんやりと座っていた、給仕の女性は、青木を見ると目を丸くして表情を固めた。しかしそれは一瞬のことで、次の瞬間にはとびきりの笑顔を浮かべて、

「い、いらっしゃいませ!」

 とぎこちない様子を見せながら言った。

「お客様おひとりですか?」

「はい」

「では、こちらのお席にどうぞ!」

 僅かな緊張は見て取れるものの、女給は溌剌とした表情で青木に席を勧めた。部屋の奥、冷房が利いた少し暗めの席で、彼の好みに偶然にも合致した。

「メニューをお持ちしますので、少々お待ちください」

 女給は、ぽんぽんと弾んだ足取りでカウンターに向かっていった。すらりとした長身と、赤いチェックのバンダナからのぞく焦げ茶色のうねりがある髪、そして白いシャツと黒いズボンというシンプルな服装だからこそ目立つ、長い手足。顔をよく見ていなかったのが悔しいな、と青木は思った。

 席に座って辺りを見回すと、どうやらほかの客はいないらしいことがわかった。非常に遠くの方からジャズピアノの曲が聞こえる。最近寄った喫茶店の中でダントツに静かな店だった。

 やがて、先ほどの女給が右手にメニューらしき黒い冊子を持って青木のもとにやってきた。彫りの深い顔と、緑色の瞳が印象的な彼女を見て、もしかしたらロシア人なのかもしれない。「ぴろしき」という名前からの単純な連想だった。スーツを着ていれば、敏腕秘書としてドラマに出てきそうだ、と青木はすこし下品な想像をした。

「こちらがメニューです。それと、あの……」

 クールな瞳を少し泳がせながら、彼女は少し言葉をためらった。

「お客さま、甘いものは……お好きでしょうか?」

「はい?」

 予想外の質問に、青木は思わず訝しげな声を出してしまった。

「あの、実は、お客さまが、当店のお客さま第一号でして……」

「記念のケーキをご用意しております」

 と、女給の言葉を拾って奥から出てきたのは、女給と同じ服装をしたずんぐりとした体型の中年男性だった。この喫茶店のマスターだろう。

「改めてお礼させてください。当店にいらっしゃっていただき、ありがとうございます」

 マスターは大きな身体を折り畳んで、青木に深々とお辞儀した。

「私が、お客さま第一号なんですか?」

 ということは、今日が開店日だったのか。

 しかし、もう二時だぞ。青木はただただ驚いた。

「はい。こんな路地に開いてしまったせいか、なかなかいらっしゃらなくて……」

 マスターは苦笑いした。まん丸の輪郭に愛嬌のある優しそうな顔をしているが、どう見ても喫茶店というよりは洋食屋にいそうだ、と青木は率直に思った。

「というわけなんです。パウンドケーキなんですが、いかがでしょうか? もちろん、記念なのでサービスさせていただきます」

 女給は恥ずかしそうにうつむいている。見た目はクールだけど、かわいらしいところもあるじゃないかと、青木は心の中で思わず呟いた。

「ぜひいただきたいです」

「ありがとうございます」

「あと、オムライスってありますか? 表の黒板にあったのですが」

「ええもちろんありますよ」

 マスターは笑顔でうなずいた。

「じゃあそれを先にお願いしていいですか?」

「かしこまりました。お飲物は……」

「アイスコーヒーで」

「かしこまりました。すぐにお作りします」

 マスターは女給に軽く指示すると、厨房に消えていった。オムライスは彼の持ち分らしい。洋食屋のにこにこ店主。青木のイメージはそれで固まってしまった。

 スマートフォンがメールの着信を知らせた。開いてみれば先ほど寄った会社から、質問に対する詳細な回答だった。案の定コピー用紙が予想よりもかなり減っていたらしい。早速発注しておきますと返信した。まだこのルート営業に入って日が浅いからだろうか、どうも取引先の男に少し軽く見られているような気がして、青木は苦い顔をした。年齢より若く見られるのかもなあ、とスマートフォンが黒い画面に戻った時に映る自分の顔を見てため息をつく。

 店内は依然として静かで落ち着いた空気が流れている。内装も外装と同じように煉瓦が基調で、ところどころにあしらわれている木はやっぱり真新しく、まだ材木独特の匂いがしてきそうだった。時が経つにつれて、この木や煉瓦や、あのカウンターの奥にある大きなコーヒーマシンなんかが馴れ合うように一体化して、「喫茶 ぴろしき」を作っていくのだろうなあと、なんだかよくわからない感想が、彼の中で言葉にかわった。

 じゅうじゅうと奥でものを炒めている音がする。青木の注文したオムライスだ。彼の腹がたまらずぎゅうと音を立てた。

「お先にアイスコーヒーです。オムライスはもう少しお待ちくださいね」

 日本人離れした見た目とは裏腹に完璧ともいえる日本語とともに、女給はアイスコーヒーのグラスを置いた。なんだか自分の心を見透かされたようで、青木は思わず苦笑いした。

「おいしいですよ、主人のオムライス」

 女給は涼やかな微笑を浮かべてそう言った。

 青木の目が丸くなる。

「ご夫婦なんですね……」

 彼は率直な感想をもらした。考えてみれば、女給をひとりだけアルバイトで雇うというのも変ではあったのだが、マスターと彼女との間にそんな関係があることは想像できなかった。マスターはどう若く見積もっても四十を超えていそうだし、雰囲気こそ落ち着いてはいるものの、目の前にいる彼女だってどう見ても二十代くらいにしか見えない。

「はい!」

 青木ですらも幸せな気分になれるような、幸福に満ち満ちた笑顔で、女給、もとい奥さんはそう答えた。

 あのマスター、なかなかやるな。

 自然と青木の中にマスターを慕う気持ちが現れた。

「アンナ、ちょっと手伝って」

 厨房からマスターの声が聞こえる。

 アンナはきびきびした足取りで厨房に向かっていった。

 バターのおいしそうな匂いが漂ってきた。


「お待たせしました。オムライスです」

 アンナは白くてぴかぴかの皿をテーブルに置いた。その上には、薄い黄色をしたふわふわの玉子焼きが、奥にいるケチャップ色のチキンライスの上で激しい自己主張をしながら乗っている。湯気とともに運ばれるバターとケチャップの匂いが、青木の胃を直撃した。

「ケチャップはこちらですので、好きなだけおかけください」

 そう言ってアンナはケチャップと小さなスプーンが入った小皿を置いた。青木はケチャップを掬って無造作にかけると、テーブルの隅に置かれた食器入れからスプーンを取って、いただきますと言うのも忘れてオムライスを口の中に運んだ。

 ケチャップとバター、そしてとろとろの玉子の濃厚な味わいが口の中に広がった。一足遅れてご飯とタマネギ、グリンピースの食感がやってくる。素材の味が複雑に絡み合い、その上にバターやケチャップが包み込むように全体をあるべき方向に一列に並べていく。これがオムライスの味だ。俺が食べたかったのはこれだ、と青木は気づいた。ザ・オムライス。高級なわけでもない、かといって冷凍食品のような画一化されすぎた規格でもない、しかし普遍的な、イメージどおりのオムライス。青木の口の中に放り込まれていくのは、まさにそれだった。

 いい飯にありつけた。

 すっかりオムライスを平らげてしまった青木は、紙ナプキンで口を拭うと、ため息をついて椅子によりかかった。

「どうでしたか? なんて、聞くまでもなさそうですね」

 アイスコーヒーの涼やかな苦みを味わう青木に、パウンドケーキを出したアンナは微笑んだ。

「本当に、いいオムライスですね」

「そうでしょう。私も、あれが好きなんです」

 アンナの目がふわっとしたのを見て、本当に好きなんだなと青木は苦笑いをした。

「もっといろんな人に、主人の料理とコーヒーを楽しんでいただきたいんです」

「すると、このお店は奥さんが?」

「はい。説得するのにすごく時間かかりました……」

 アンナはカウンターの椅子に腰掛けながらうふふと微笑んだ。ポーズとしても本人のスタイルからしてもセクシーな印象がもっとあっていいはずなのに、不思議と子供らしい無邪気な様子に、青木には映った。

「あっすみません、パウンドケーキ、私が焼いたんで、どうぞ」

 アンナに促され、青木はパウンドケーキにありつく。スポンジ生地のところどころにドライフルーツやナッツが入っている。皿の片隅にはフォークとクリームが乗せられていた。

「では、お言葉に甘えて、いただきます」

 彼は一度アンナに軽く礼をしてから、生地にフォークをいれた。見た目以上にみっちりとした生地で、フォークにかかる手応えが重たい。ゆっくりと切り分けて、欠片を食べた。

 青木の口の中に優しい甘さが広がる。しっとりとした生地の中に、イチジクとクルミの食感がアクセントになっていて彼の舌と歯を楽しませた。

 ふと見上げると、カウンターの奥でマスターがコーヒー豆を小さなミルで挽いていた。大きな業務用のメーカーとは別の、自分用のコーヒーなのだろう、挽いた豆の薫りがふわっと店じゅうに広がる。青木の視線をよそに、マスターはサイフォン式のコーヒーメーカーを取り出して、粉になったコーヒー豆を入れる。アンナはそんなマスターのもとにとことこと近寄ると、カウンターに座ってコーヒーが出来ていくさまを楽しそうに眺めている。その姿はまるで小さな娘のように純真な印象を青木に与えた。マスターは、サイフォンの上の容器にぶくぶくと上っていくお湯と目を輝かせている妻を交互に眺めながら、表情も変えずに黙々と細かい作業をしている。青木には彼がどことなく満足そうな表情をしているように見えた。


「おいしかったです」

「ありがとうございました」

 青木がゆっくりと昼食をとっている間、ほかの客が入ってくることはなかった。

「また来ますね」

 お会計を済ませ、青木はアンナに微笑んだ。背が高くきりりとした顔にきらきらとした子供らしい、いたずらっぽいような溌剌とした笑みが浮かんだ。

 のそのそと熊のように出てきたマスターもゆっくりとお辞儀をする。二人が並んでいると、夫婦というよりは父娘のように見えるなあ、と青木は心の中でつぶやいて、真新しい店の扉をあけた。

 生ぬるい風が吹き込んできて、青木は現実に戻されたような気分になった。しかし、振り向くとそこに「喫茶 ぴろしき」はある。いつも違う道を通るけれど、ここだけは通おうかなと、彼は次の営業先へ向かう。うだるような暑さであるが、不思議と足取りは軽い。

「あっ、こんなところに喫茶店があるよ」

「……ほう」

「私、甘いもの食べたい」

「わかった」

 大学生らしいカップルが喫茶店に入っていくのを横目に見ながら、繁盛すればいいなと青木は願った。

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