#34 Агсэллэ 《韻律》
目の前に広がるのは現代的に繋がり合うガラスの空中回廊だった。一体何処から何処へと繋がっているのか、外見ではさっぱりわからない。理沙はそんなガラスと光の芸術を珍しそうに見上げていた。
瀬小樽大学――大戦争の後に設立された瀬小樽県の最高学府である。そのキャンパスの設計と建設には極東人の近代アーティストが招かれ、極東から大量の研究者が教授として就任した。初期は極東政府からの干渉もあったというこの大学も、今は朗らかな陽光に包まれて道脇の芝生が輝いている。
俺と理沙は授業を休んでこの大学にまで来ていた。口実は学校感染症に対する出席停止。理沙の父親を通して、クリャラフに連絡をしてもらった。彼自身は何故か俺たちのことを咎めることはなかった。
「それで、瀬戸川教授ってのはどこにいるの?」
教育棟の外壁に設置されている設備名称の掲示を見ていた俺を理沙は肘で小突く。
そう、目的は姉の昔の共同研究者である瀬戸川教授に会うことだった。神薙は俺にヒントをくれていた。瀬戸川教授が研究ノートのコピーを持っている可能性、研究ノートを焼失させたい人間への心当たり、今はブラーイェが先だが、いずれも訊くことが出来るだろう。
そんなことを考えている間に隣から理沙が見えなくなっているのに気づいた。周りを見回すと、学生の一人を捕まえて何かを訊いていた。ややもすれば、彼女は嬉嬉とした様子でこちらに戻ってくる。
「この先の棟にその教授の研究室があるんだって!」
「でかした」
褒めると彼女は満面の笑みで頷いた。
理沙を前に大学の構内を進んでいくと、目当ての教育棟が見つかった。過去に来たことがあるのかは良く覚えていないがその出入り口には何か懐かしいものを感じた。自動ドアを抜けて、階段を上がっていく。
すれ違う学生たちは理沙を見ながら、不思議な表情を浮かべていた。彼女の身長は確かに高校生とは思えない。良く言って、中学二年生レベルだ。大学に居ることが不思議なのだろう。そこで理沙の父が言っていたミューズリーバーの話を思い出した。先を進む理沙の背を見上げる。
「なあ、理沙。砂像が止められたら、お前に手作り料理を作ってやるよ」
理沙は足を止めた。いきなり何を言うのかと驚いた表情のままこちらに振り向く。彼女は困惑して、何を言っていいのか分らない様子だった。だが、少しすると嬉しいような恥ずかしいような顔をしてこちらに近づいてきた。
「何を作ってくれるの?定番のオムライスとか?ケチャップで名前とか書いちゃう?」
「そんなんじゃない。伝承に残ってるシェオタル料理の実験台だよ」
我ながらそんな答え方をする自分が素直じゃないと思った。理沙はその答えを聞いて、少し頬を膨らませていた。
「それ今言うこと?まあ、いいや。教授のところに行こ?」
教育棟に入ってから、教授の研究室にたどり着くまで時間は掛からなかった。ドア横にある教室標識に研究室の名前が随一書かれていたのが幸いした。
理沙はおそるおそるそのドアをノックした。彼女のアホ毛は小刻みに震えていた。あれは緊張を示しているのだろう。俺も緊張している。なにせこれから会う人物は姉を知っていて、覚えているはずの人物だからだ。理沙がドアを開けると、椅子に座って居る中年の男性が見えた。その髪は緑っぽく、ウェーブが掛かっていた。
俺は理沙と共に研究室の中へと踏み込んでいく。
「瀬戸川教授ですね?」
「……そうだが、君は誰だ。学生では……無さそうだな?」
瀬戸川は俺と理沙を怪しげに見ていた。読んでいた書類を机の引き出しに入れて、椅子から立ち上がった。
「俺の名前はヴェルガナフ・クラン。こっちは三良坂理沙です」
俺の名前を聞いた瞬間、瀬戸川は震えた。文字通り、瘧にでも掛かったように震えた。調子悪げな顔で、視線をこちらから逸した。シェードに手を掛けて外の様子を伺っている。
「お姉さんのことは残念だった。だが、吾は何も協力出来ない。吾はもう『活動』からは手を引いた」
「活動……ですか?」
外の様子を伺っていた瀬戸川は俺の問を聞いて、何かに気づいたかのように頭を上げた。シェードを離して、こちらに近づいてくる。その表情からは何かを危惧している感情が感じられた。
「君が活動に関わっていようが、いまいが彼女関連のことは全部断っているんだよ」
「何故ですか?」
俺よりも早く疑問の声を上げたのは理沙だった。その瞳は真相を知ろうと真っ直ぐ瀬戸川を見つめていた。
「瀬小樽独立地下組織だよ。ユリヤ――君の姉は独立地下組織の運動に関わってから死んだんだ」
「詳しく話を聞かせてください」
瀬戸川は、大きなため息をつく。話すことをとても忌避しているという感情が強く伝わってきた。静寂が研究室を包む。聞こえる時計の秒針の音に俺は何か急かされている気がしていた。生まれた疑問をそのまま瀬戸川にぶつけようとした。
「姉の死は、ただの交通事故だったはずです。都会に出てきて失敗した薬物中毒者の若者が、車で暴走してそれに巻き込まれて轢かれた。それだけだったはずです」
瀬戸川は俺の訴えに目を丸くして驚いていた。寂しげな目でこちらを見つめていた。ややあって、彼は口を開いた。
「独立地下組織は吾等の研究で得た知識を利用しようと、吾と彼女に接触してきた。吾は彼らに協力してやったが、彼女は拒否した。奴らは若者を雇って殺しを委託していた。彼女は標的になって殺されたが、若者は違法薬物を吸っていたからそれで暴走したのだと処理された。地下組織の存在も世間に知られずに万々歳で人を殺せたのさ、奴らは」
「そんな……地下組織が……俺の姉を?」
信じることが出来なかった。シェオタル人の最後の力による抵抗であった独立地下組織、その存在は自分にとってある意味聖別されていた。シェオタル人が独立できなかったのは反骨精神が無くなったから、同胞と手を取り合って共闘した彼らがそんなことをするなど信じることが出来なかった。
だが、瀬戸川の顔は至って真面目だった。
「だから、彼女関連のことにはもう協力しない。裏に誰が居るのかさっぱり分からないからな。シェオタル人なのか、極東人なのかさえ」
「……でも、独立地下組織は壊滅したはずです!」
理沙が自分の後ろから声を上げる。
「そうだな、だが。少なくとも極東政府からはマークされる。独立地下組織関連に関われば、いつ命の危険が及ぶか分からない。吾だけならまだしも、吾の周りには家族や学生、教員たちに研究者たちが居る。申し訳ないが、何度頼み込まれても協力は――」
「先日、俺の家が燃やされました」
「……それはご愁傷様だったな」
瀬戸川は興味なさげに答えた。自分の話を中断されたのに少し苛ついている様子だった。
「研究ノートが大量に燃え、残ったのはブラーイェ伝承の研究のノート一つだけでした。今極東で猛威を奮っている砂像、俺らはあれがブラーイェではないかと踏んでいます」
「非科学的だ」
「普通はそうでしょうね。ですがいきなり現れて、シェオタルを滅ぼそうとする民族のみが破壊され、攻撃してもその傷はすぐに癒えるという砂像の特徴はブラーイェ伝承の内容と大差ないのです。そもそも、異世界から瀬小樽がいきなり現れたというのも非科学的でしょう。でも、それでは同胞をも殺す冷酷な独立地下組織というテロ組織が、何故俺の姉の研究成果を利用しようとしたのか説明が付きません」
後ろにいる理沙の小さな相槌が聞こえた。瀬戸川が苛ついた表情のままこちらを睨みつける。
「はっきり言え、何が言いたい」
「もし、教授が研究ノートのコピーをお持ちであればそれを全て頂きたいだけです。それ以上の協力は必要ありません」
静寂が訪れた。俺の提案に瀬戸川は目を逸らして考える様子になっていた。顎に手を当てて、完全に思考モードに入っていた。
「分かった。だが、一日待って欲しい」
「砂像は一日でも早く破壊しなければならないんですよ?」
理沙の問に瀬戸川は答えなかった。少し歩いて、デスクの上についたボタンのうちの一つを押す。すると、デスクの後ろの壁が二つに開いた。メタリックに輝く壁の中心には暗証コードを入力するようなキーが配置されていた。
「研究ノートは全てそこに入っている。無論、開けるにはパスワードが必要だ」
「知らないんですか?」
俺の質問に彼は首を振った。
「暗証コードは君の姉のみが知っていた。暗証コードを間違えれば三ヶ月は入力を受け入れなくなるから、適当な試行も駄目だ」
「それじゃあ、壊しちゃえばいいのかな……?」
「研究ノートを覆う部分は超高質合金で作られている。しかも、暗証コード入力システムを物理的に破壊すれば自己消滅プログラムが起動して、中にはいっているノートは全て火が付いて全滅だ」
理沙は頭の上に疑問符を浮かべたような顔をしていた。
「じゃあ、どうやって研究ノートを取り出すんですか」
瀬戸川はメタリックな表面を手のひらで撫で付けた。その顔はまるで何かを懐かしんでいるかのようだった。
「作ったのが随分前だからよく覚えてないが、外部からプログラムを書き換えるほかないだろう。自己消滅プログラムに気付かれないようにな。彼女は命に危険が及ぶことが分かっていた。情報安全管理が専門の吾に、研究の保全のためにこれの製作を依頼し、そして完成したのがこれだ。この酷いあやとりを解くのは吾以外には出来ない。」
俺と理沙はお互いの顔を見合わせた。本当にこの科学者を信用して良いのだろうかと互いに心配になっていた。
「一日あれば、必ず解ける。明日また来てくれ、作業を始めるには誰もいないほうが良い」
そう言いながら瀬戸川はデスクから工具やノートパソコンを取り出して、必要そうなものを揃えていた。これ以上、彼を疑っていてもどうにもならないだろう。俺と理沙はもう一回お互いを見合わせると、無言で彼の研究室から出た。
その瞬間、銃が発砲されるような音が響いた。これで理沙と顔を合わせるのは三回目となった。
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