#32 си'д свицлатй 《本当の彼女》


 三良坂の家まで帰るのにはさほど時間は要さなかった。空を見ると既に美しい夕焼けのグラデーションが描かれている。時間的には、もう既に彼女が帰っているかもしれない。オレンジ色と青黒い空を見ていると、それを単純に見れない自分が何だか壊れてしまっているような気がした。頭を振って、変な考えを振り払う。

 朝はあれほど怒鳴り合ってしまった。どんな顔で向き合えば良いのかさっぱり分からない。俺も彼女もお互いの立場を譲れなかったのだからしょうがない。だが、当分彼女には俺を放っといてもらいたかった。


 家につくと、窓に光が灯っているのが分かった。三良坂が帰ってきているのだろう。はっきりと分かるほど、鼓動が早くなった。

 玄関の銀色のドアに手をかける。どう挨拶しようかと脳内で迷いが生じた。だが、頭を振って何時も通りの自分でいようと言い聞かせた。何も気負う必要は無い。これまでに俺が間違っていたことなどあっただろうか。


 ドアを開いて、洗面所で手を洗う。制服のまま、光の灯っている上の階へと階段を上っていった。普通に挨拶しようと思って、リビングに続くドアを開いた。


「ただい……ま?」


 リビングの薄緑色のソファに座っていたのは四十過ぎくらいの男性だった。落ち着いた顔元は眼鏡も合わせて理知的なものを感じた。男性は読んでいた本を閉じて横に置くと、こちらにゆっくりと目を合わせた。


「君は?」

「ヴェ、ヴェルガナフ・クランです」

「ああ、君がクラン君か。とりあえず、座って。理沙は今ちょっと買い物に行っているんだよ」


 男性はチャイムも鳴らさずに入ってきた自分を咎める様子もなかった。きっと彼は三良坂の父親なのだろう。彼女はひっきり無しに俺に関わってきていた。彼女のことだし、きっと俺のことも父親に話していたに違いない。

 彼はシェオタル人としての俺の名前を聞いても、顔をしかめることすらしなかった。落ち着いた感じがとても伝わってくる。俺が適当な椅子に座ると、彼はダイニングテーブルの横の棚から箱とガラスのティーポットを取り出した。


「カモミールティー、苦手だったりしないかな」

「……いえ、別に」


 その答えを訊くと彼は瞑目して笑みを浮かべた。いつの間にか、目の前にはカモミールティーが用意されていた。ティーカップに入った黄緑の液体から立つ香りで気分が落ち着いた。それはともかくとして、彼があのお転婆娘の父親とは微塵も思えなかった。


「合鍵が一つ無くなっていると思ったら、理沙は君に渡していたんだね。今日はどうしたんだい?」

「それは……家が火事になって、それで理沙さんに連れられて当分はこの家に居させてもらうことになったんです。いきなりだとは思いますけど、少しの間お世話になります」


 頭を下げる。放火犯の真相は分かっていない。今住める場所から追い出されると、その真相に迫るのも難しくなってしまう。ティーカップがプレートとこすれることが聞こえた。


「それにしても、家族の人はどうしたんだい?」


 頭を上げると、彼は不思議そうにこちらを見ていた。過去のことはあまり言いたくなかったが、こればかりはしょうがないと考えて言うことにした。


「家族は大戦争の際に死にました。頼れる親族も居ないんです」

「そう……か。なら、ここを実家だと思ってもらって構わないよ」


 悲しそうな顔から、優しい微笑みになるのを見て、俺は安心した。彼が優しそうな人で良かった。三良坂の父は微笑みながら目を細める。さらに納得したように瞑目して頭を縦に振った。


「理沙も似た者だったから君に引かれたんだろうなあ」


 その小さな声を俺の耳は逃さなかった。はっきり聞こえた「似た者」という言葉に疑問を持つ。好奇心が勝手に言葉を紡いで、俺は訊かずには居られなかった。


「似た者……ですか?」

「……まあ、彼女のために話しておいてもいいだろう」


 彼は立ち上がると、後ろの引き出しから何かを取り出して俺に渡した。小さな額縁に入った写真だった。撮影日は大戦争の一年後、俺の誕生年の二年後の三月十四日。綺麗な銀髪の女性、髪はくるぶしまで伸びていて、こちらを振り返って両手には極東風の産着を着せられた赤ちゃんが抱かれていた。シェオタル人女性が赤ちゃんを抱いている写真をいきなり見せられて、俺はその意図を汲み取ることが出来なかった。


「この女性は……?」

「ぼくの妻だよ。抱いているのが、理沙さ」


 彼は回り込むようにゆっくりと俺の後ろにやってきた。俺の肩に手を置くと、懐かしそうにその写真を覗き込むようにしてみていた。

 俺は心の中が衝撃で満たされていた。極東人がシェオタル人と結婚するなんてことは自分は聞いたことがない。伝統的な考え方を支持する本土の人間はシェオタル人と結婚することを忌避しがちだ。それも、大戦争から一年しか経っていない。丁度、シェオタル独立地下組織が動きを強め、一番極東人の反感を買っていた時期である。


「大体……分かりました」


 彼は少し悲しそうな顔で頷いた。俺には話さなくても分かる。結婚した末に起こったことは、極東人からの排斥だったはずだ。極東社会に馴染めず、孤立していったことだろう。最終的に、何らかの原因で死んでしまった。『似た者』の真意はそれだろう。


「ぼくが間違ったんだ。彼女を本土に連れ出すべきじゃなかった。言葉も文化もわからない彼女に一から教えることも怠けていた。社会から疎外されて、ぼく以外には誰にも認められず。だから、彼女は……首を吊って死んだ。それがぼくたちが引っ越すことになった理由だ」


 俺は大して驚かなかった。シェオタル人の末路はいつもそんな感じだったからだ。姉も、“シェオタル”も、三良坂の母親も同じことだっただけだ。だが、俺は三良坂に言ってしまったことを後悔し始めていた。

 彼女は『極東人様』なんかではなかった。平和ボケになっているのでもなかった。本土に戻れば、母親の死を思い出すだけだっただろう。完全に俺は彼女の心を土足で踏み荒らしていたのだ。


「母親の死体を最初に発見したのは、理沙だった。それ以来、彼女は中期記憶障害を負うようになった。地図などが覚えられないのが特徴だったけど、彼女の病状は君にあってから改善していっていたんだ」

「それは……」

「あと、記憶障害を負って以来、彼女は母の好物だったミューズリーバーしか食べなくなってしまったんだ。栄養失調気味になって体も成長しなくてね。他の子より小さいのは分かるだろ?身長も体つきも平均以下で心配だった。でも、最近は他の食べ物も食べるようになってきたんだ。君のおかげだ」


 続けて話す彼の言葉には思い当たるふしがあった。瀬小樽県の地図を首っ引きで参照し、彼女は地名を覚えようとしていた。彼女は、記憶力が無いなりに頑張っていたと言っていた。あれは本当だった。彼女は本気でシェオタルに向き合っていたということだった。

 彼女の記憶障害も、異常なほどまでのミューズリーバーへの執着心も改善させたのは自分だったらしい。そんなことは全く知らなかった。もはや、目の前のカモミールティーは気分を落ち着ける何の効果も為さなかった。鼓動が早くなっている。彼女がそこまでして瀬小樽県に来ることを選んだ理由は一体何だったのだろうか。彼女は全てを忘れて、極東人として生きていくことも出来たはずだ。片親を大戦争で失ったというのも何ら珍しくもない。なのに何故。


「彼女は……選ぶことが出来たと言っていました。何で彼女は瀬小樽県を選んだんでしょう」


 俺の質問を聞いて、彼は俺から目を逸らした。目を細めて、何か奇妙な物を見るような目になっていた。彼は片手に持ったカモミールティーを一口飲むと深く息を吐いた。


「他の県にしようとぼくも説得したさ。それでも彼女はしつこくここを選んだ。でも、理沙は母親のことを忘れられなかったんだと思う。忘れられなかったからこそ、変えたかったんだろう。極東の親族には民族の血を穢したと囁かれ、シェオタルの親族には生まれるべからざる子供Фэ лэшиф мол зэлунと言われるこの社会を、自分の存在が認められる社会にね」


 俺にはその気持ちが痛いほど分かった。シェオタル人と極東人に殺された姉、消されようとしている言語にひたすらすがって双方を恨み続けていた自分の姿は彼女とほぼ変わらない。目が潤んでくる。心の痛みが、鼓動に変わって胸を打っている。


 彼女は自分が認められる社会を目指して、瀬小樽県に来た。しかし、この地もほとんど極東に侵されていた。本土とほぼ変わらないこの地を見て、彼女は失望した。だが、その時にシェオタル語を守ろうとする俺にあってしまった。似たような存在を見て、自分が認められ、二度と自分たちと同じような存在が生まれないようにと極東とシェオタルの融和を訴えてきた。そして、彼女にとっては、ブラーイェであるはずのあれを止めることがその目的の達成へと近づく道であるはずであった。それを俺自身が否定してしまった。彼女を、見捨ててしまったのだ。

 三良坂の父は何かを懐かしむような目でこちらを見ていた。


「どうか理沙に優しくしてあげて欲しい。大戦争の時に極東人達がしたことはすまないと思っている。でも、彼女には君たちの血が半分混ざっているんだ」

「……」


 はいとも、いいえとも答えられなかった。既に自分が間違いを犯してしまっていたから。あの時の三良坂を責めることは出来なかった。彼女は見誤っていただけだった。いつだって、彼女は自分自身や俺、そして全てを救うために考えて動いていた。それが噛み合わなかっただけだった。

 暗い空気の静寂の中、いきなり大きなインターホンが鳴った。鼓動が更に速くなるのが感じられた。きっと三良坂が帰ってきたのだろう。


「少し手伝ってきますね」


 嘘だった。今すぐ彼女に謝りたい。自分の本当の心を示したい。そんな自分の心を見透かすように彼は微笑みで快諾してくれた。言葉はそれ以上要らなかった。

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