#29 Дэшафэл 《炎》


 赤く燃え盛る家に消防隊員が水を掛けている。無線による避難指示が鳴り響いていた。家の上には黒煙が螺旋状に立ち上っていた。消防車両や警察車両がサイレンを鳴らし続けて、警官や消防の指揮隊員が駆け巡っていた。立ち上る煙は空高く青白い昼の空を汚していった。


 目の前で起きている状況が完全に分からなかった。何か声を出そうとすれば、叫びだしてしまいそうな状況だった。ただ力無く立ち尽くしたまま、俺はその状況を見ていることしか出来なかった。あの家の中には姉の研究ノート、家族との思い出、大切なものがいっぱいある。それが今、山火事で燃え上がる木々のように燃えていた。何一つ、救うことは出来なかった。


「もっと早く気づくべきだったんだ……」


 目の前で燃える家が、これは警告に過ぎないと囁くように朽ちていく。取り返しのつかないことになる前に手を引けと人ならぬ声で囁く。そんな状況を見ながら、隣りにいるクリャラフは言っていた。家族のような存在がいない自分が生きてこれたのは親と姉が残してくれた遺産があったからだった。だが、もう何も手元には残っていない。思い出も、誇りも、生きるための元手も燃えていく。

 無意識に足が動いていた。燃える家が、目には見えているのにそちらへと向かっていく。クリャラフに片手を掴まれて静止された。


「しっかりするんじゃ!死ぬ気か!」

「先生……俺はこれから、これからどう生きていけば……」


 クリャラフは苦い顔をした。教師の立場上、彼女が俺を家に泊めることは問題になるだろう。俺の家族同然の存在として彼女は学校での教師としての務めを中断してまで付いてきた。しかし結局のところ、火事も何もかも手に負えない状態になってしまっていた。


「知り合いは、おらんのか?」

「知ってる家族は……皆死んだ」


 中途半端に正気を取り戻して、そう答える。それを聞いたクリャラフは更に眉間に深くしわを寄せ、顔を伏せた。

 自分の活動は誰にも害を与えないから、自分も害されることが無いだろうと思っていた。しかし、それは大きな間違いだった。俺には誰がどう考えるかなんて、操作する力はなかった。誰も強く望んでいないことにひたすらすがって、自分のために自分を滅ぼした。


「俺の帰る場所なんて最初から無かった。シェオタル人・・・・・・は滅びる運命だったんだ」

「ヴェル……」


 クリャラフは沈痛な面持ちで顔を背けた。

 失火はありえなかった。姉との暮らしで火元を毎日病的とも言えるほどに確認する自分にとってありえないことだった。そして、今一人の警官が自分の前に出した写真で大抵のことを察した。警官は目を細めてこちらを見続けていた。白い四人乗り乗用車がその写真には写っていた。


「この車に見覚えは?」

「……いいえ」

「放火犯が逃走に利用したものらしいんだが……」


 乗用車などこの家には無かった。姉も俺も自動車免許など取ることはなかったし、それで生活するのに困らなかったからだ。湧いた怒りと共にその車とナンバーが脳裏に焼き付く。その数字の列が思考の邪魔になるほどに頭の中で復唱された。それでも思い当たるものは無かった。

 警官はクリップボードに留めた紙にメモを取りながら、真面目で感情の介入しない表情のまま質問を続けていた。


「身寄りは無いんだっけか……今日はどこに泊まる予定ですか?」

「それは……」


 警官の質問には答えられなかった。下唇を噛みながら自分の苦境を悔やむ。悔しくて、仕方がなかった。

 そんななか、後ろから走ってくる足音が聞こえた。振り向くと、潤んだ目に見覚えのある人影が見えた。ツインテールで自分に会いに来る人間と言えば彼女しか居ない。


「三良坂……」

「クラン君はボクの家に泊まって!」


 警官はいきなり走り寄ってきた少女と俺の関係が良く理解できず、疑問の表情を浮かべた。三良坂は制服のままだった。自分に会いに来るために授業を抜け出して来たのだろう。言い方はぶっきらぼうだが、彼女の顔は本気だった。彼女は困惑している警官に紙切れを渡す。そこには住所が書かれていた。警官は無言で頷き、警察車両の方へと戻っていった。


「何でこんなところに……」

「助けてあげないとと思ってさ。家が火事なんてことになったら、助けが一人でも欲しいでしょ?家に泊めてあげるくらいなんてこと無いよ」


 優しい声と表情で三良坂は言った。三良坂の好意は純粋に嬉しかった。だが、今感じる喪失と変化の大きな濁流にその感情はすぐに消された。

 自分の脇に立っていたクリャラフ、彼女はほっと胸をなでおろすような表情になっていた。あらかた鎮火が終わりそうな家は黒々と殆どが焼け焦げてしまっていた。三良坂は俺の手を引っ張った。柔らかく温かい手が凍えた俺の手を掴んでいた。

 引っ張られて遠ざかる家が気になって、どうしても顔をそちらに向けてしまう。三良坂はそんな俺に何か言葉を言うことは無かった。ただただ、俺は三良坂に手を引かれて燃え残った家の残骸から引き離されていった。

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