#26 Нив фирлэшол 《理解不能状態》
県立病院は自分の家からは駅側とは反対方向にあった。街並みが発展している駅側とは反してのどかでちょうどいい発展具合のこの地域はとても居心地の良い地域だった。トンネルを抜けると、高い木々に囲まれた病院が見えてくる。県立病院はこの地域では一番大きい病院で、大学病院が近くに並立している。俺も何回か掛かったことのある病院を見ながら、過去を懐かしんでいた。
自転車を駐輪場に止めると、ポケットに突っ込んでいた手紙を取り出して行く病棟を確認する。目的地の第三病棟は、駐輪場からは少し歩く必要があるようであった。
病院の周りに高い広葉樹が多く植わっているからか、道には枯れ葉が大量に落ちていた。木々の合間から差し込む朝日は暖かかったが、歩くたびに冷たい空気が肌を指すように感じた。暫く歩くと、目の前に寂れた病棟が現れた。遠目から見ていても出入りする者は居ない。本当にここに知事が居るのかと心配になるほどに静かだった。
報道陣が詰めかけていないこと、人が少ないことはどう考えても怪しい。もし、手紙の内容がフェイクなのであれば、俺を始末しようとする者がこのような誰の目にも触れそうにない場所を選ぶのは当然だ。直感的に向かってはならないと感じて、家へ引き返そうと決意する。しかし、その病棟から出てくる見覚えのある人影が、自分の足を止めた。
冷たい風が地面の枯れ葉を舞い上げると共に、彼女の短めのツインテールを撫でる。それを結う赤いリボンがなびいた。頭に生えたアホ毛はいつもとは異なり大人しげにしていた。ベージュの吊りズボン、キャスケット帽を被った彼女は視線に気づいたのか、こちらに振り向いた。
「三良坂……?なんでここにいるんだよ」
彼女は俺の顔を見ながら、驚いた様子で近づいてきた。
「クラン君こそ、なんでここに?もしかして、手紙を入れたのはクラン君?」
「いや、違う。というか、お前の家にも手紙が来てたんだな」
「その様子だとキミの家にも来てたみたいだね」
三良坂はポシェットから白い封筒を取り出す。家に来たものと同じで、飾りっ気のない封筒から手紙が出てくる。クリャラフが言っていた「仲良し」というのは彼女が休んでいたのを暗示していたのかもしれない。
彼女はそのまま手紙を俺に手渡した。
「……ほとんど内容は同じだが、病室の番号だけ違う……?」
自分の手紙に書いてあったのはCI12、三良坂の手紙にあったのはNQ12だった。そもそもこの病院の病室の番号にラテン文字から始まるものはない。三良坂も不思議そうに頭を傾げていた。
「見てみたけど、中にNQ12なんて病室は無いんだよね……」
「CIとNQ……か。CINQ……cinq、あっ……!」
瞬間、頭の中に電撃のようなひらめきが走った。目を細めて手紙を睨みつける。
「三良坂、512って病室はあるのか?」
「500番台なら……確かあった気がするけど、
「
「凄いじゃん!さすが、クラン君!」
無邪気にひらめきにはしゃぐ子供のような褒め言葉と表情が見えた。彼女は純粋すぎて、この先に罠があるかもしれないなどとは思っていないのだろう。
「三良坂、お前は帰れ」
「え?なんでさ、知事が呼んでるんだからボクも……」
「本当に知事だという確証は何処にある。もし知事を襲った人間が俺たちを狙っているなら、絶好の狩り場だぞ」
三良坂は俺の言葉を聞いて不機嫌に顔を歪ませた。
「それだったら、クラン君こそ行く必要ないよ。ボクが行く」
「いいか、シェオタル語を守るのは俺が始めたことだ。他人を危険に晒したかったから始めたんじゃない。俺が始めたことは俺が始末をつける」
「ボクが居なければ何も出来なかったくせに」
ため息を付いた。
「……ついて来てもいいが、俺の前には出るな」
これ以上話していても埒が明かないと思い、そこで妥協することにした。三良坂はそれに無言で頷く。彼女が前にさえ出なければ、犠牲者は少なくとも時間を稼ぐ役目の俺一人になる。もっとも、襲われて無駄死にするつもりもないが。
病棟に入ると中には誰も居なかった。一回の電気のブレーカーは落とされているようで、受付にも誰も居ない。そのテーブルは埃で覆われていた。階段の横にある地図を見ると、病室の番号と階数の対応が書いてあった。
「500番台の病室は地下階じゃないか」
「二人の手紙がないと分からないようにしてあるんだったら、階数もデタラメになっているのかもね」
三良坂が適当に言った言葉に頷く。
確かにここまで来れば階数は病室の番号が分かれば簡単にわかることだ。片方の手紙が奪われたりした時、それでは階数は分らないような構造に元よりなっているのだろう。
約束通り、俺を前にして三良坂と階段を下っていった。地下階は一応電灯の光があったが、それでも光に乏しかった。ある程度進んでいくと、腕を組んだ男二人が自分たちを止めた。
「この先は立ち入り禁止だ」
二人組のうちの一人が手を出して制止する。透明な耳掛けチューブイヤホンを付けていて、黒いサングラスを掛けている。ドラマで良く見るシークレットサービスの姿だ。
俺は手紙を取り出して、その二人に見せた。
「通してくれ、知事から手紙をもらっている」
「そうか、行け」
そう言いながらも、シークレットサービスの二人は見合わせて、銃を取り出す。横を通り過ぎると俺と三良坂の後を付いてきた。彼らは知事の護衛なのだろう。
道の突き当りにある病室の前にもう二人のシークレットサービスが居た。一人は埃落としのようなものを手に持っている。三良坂と俺のことを見ると二人とも後ろをついてくる男に目配せした。
「ボディーチェックだ」
三良坂も、俺も体の隅々まで調べられた。バッグを取られ、中になにかないか調べられる。その手が俺のポケットに手を触れた。硬い金属の感触に訝しむ顔をして、その中にあるものを取り出した。冷や汗が背中に流れる。後ろに立っているのは拳銃を抜いたシークレットサービス二人。そうならばいいが、もしかしたら自分たちを殺すためにおびき出した張本人たちかもしれない。何故相手が複数人で来ないと思ってしまったのだろうか。三良坂の方を見ると、彼女は恐怖で完全に無言になってしまっていた。
護身用に持っていた折りたたみナイフがポケットから取り出され、黒いサングラスの男たちの目の前に出される。彼らの口元は一直線に横に引かれた。ボディーチェックを行っていた前の男二人は即座に拳銃を取り出して、スライドを引いた。初弾が薬室に入る音が、銃を突きつけられたという現実を強く感じさせた。
「何処の人間だ、答えの如何によっては公開裁判で裁かれるようにしてやる」
「何を言ってるのかさっぱりだ!俺たちは知事の手紙を受け取って――
「しらばっくれるな、手紙の入手先も全て言ってもらうぞ」
「やめてよ、こんなの何の意味もないよ!」
三良坂の叫びに男たちは全く動じなかった。折りたたみナイフをポケットに入れたのは完全な失敗だった。そんな時、後ろの病室のドアが開いた音がした。
「そこまでにしろ、私が呼んだのは彼らだ」
振り向く、そこに立っていたのは神薙知事の姿であった。いつもとは違う緑色の病衣を来て、杖をついて立っていた。その横に書いてある病室の番号は512だから彼で間違いなかった。シークレットサービスたちはその声とともに拳銃を下ろす。
「神薙知事……」
「部屋に入ってくれ、話をしよう」
病室は味気のない部屋であった。普通の他の病室とは違い、壁に絵などが掛かっていない。何のために付けられているのかわからない窓の外は地下のために真っ暗であった。神薙はベッドに座って、俺と三良坂を仰ぎ見た。俺は彼を無表情で見下ろした。
「報道ではあなたはICUに入っていると報じていたはずですが。政府や警察も情報を出さないので、報道陣がうちの学校に集まっていますよ。知事を襲ったのは一体誰だったんですか?」
早速の俺の質問を、神薙は鼻で笑った。視線は病室の白いリノリウムの床を見たまま、その顔は疲れ果てたようにも見えた。
「それが、分からないんだよ。」
「分からないって……刺し傷も負ったのにですか?」
三良坂は目を細めて神薙を見る。神薙は顔を上げて、皮肉じみた微笑みと共に彼女に視線を向けた。古い電灯の青白い光が彼の顔を照らす。
「私は極東の秘匿した情報を裏ルートで手に入れた。極東の言語政策と反対方向を行く発言を報道陣の目の前でもやった。極東政府の目の敵になるのは当然だ。だが、私を襲ったのは銀髪蒼眼の女性だった」
三良坂はその答えを聞いて驚いた様子で目を見開いた。銀髪蒼眼の姿といえばシェオタル人の特徴だった。極東政府が知事を始末しようとするのであれば、シェオタル人を使うのは筋が通らない。
「奴は喋っていたシェオタル語のはずだ。私を撃つ前にあの殺し屋が言った言葉は少なくとも意味のわからない外国語だった。確か、ファヴ、メルス、ニヴ、ファル、ソ――」
「
無意識に復唱すると、やはりかと言わんばかりに神薙はこちらを仰ぎ見た。彼の極東語に完全に影響された発音でも、はっきり分かる。それはシェオタル語の文章であった。無意識に口から出た言葉に、後からはっとした。
「始末したいのは極東政府のはずだ。だが、立派な護衛まで付けて病室に詰め込んでいる。わざわざ外部には別病院のICUに居るとまで嘘の情報を流してな。つまり、中央政府も警察も誰が私を狙ったのかさっぱり掴めてない」
「それはつまり……極東政府の組織的犯行ではないということですか?」
神薙は首を横に振る。
「私には何もわからない。中央政府の中での分派が私を憎んだのかもしれない。非政府的な地域の退役軍人組合が裏で絡んでるのかもしれない」
俺は頷く。地方の退役軍人組合といえばごろつきの集まりとして有名だ。政府の言ってもないことを地方の住民に強要し、もはやヤクザと対して変わらないと聞いたこともある。彼らが関わっているのであれば、銃などが襲ってきた人間の手にあったのも頷ける。
しかし、神薙はそんな考えを否定するように瞑目して顔を白い床に向けた。
「だが、私を襲ったのは瀬小樽人だ。伝統的に凝り固まった考えの退役軍人組合の人間が瀬小樽人を雇うとは思えない。中央政府内の分派も同じだ。瀬小樽人が私を恨んで、殺害しに来るのも理解できない。犯行声明もない。証拠も少なすぎる。本当に誰が私を襲ったのか分からないんだ」
病室に居た三人は完全に押し黙ってしまった。神薙は顔を床に向けたまま、三良坂は何を考えているのか全く分からない表情のまま、俺は知事が何を伝えたかったのか分らないまま完全に黙っていた。しばらくの静寂ののち、俺は聞きたいことを聞こうと神薙に詰め寄った。
「結局俺たちを連れてきて伝えたかったことは何なんですか。こんな危険なところに連れてきて、何も分からなかったってだけなんですか?」
俺の影が神薙を古い電灯の青白い光から遮っていた。グレーの影が彼の病衣に落ちる。半分怒り、半分呆れの混ざった俺の口調に威されることもなく、彼は真面目な顔でこちらを見上げた。
「これ以上、この件と関わるな。襲ってきた人間は君たちにも敵意を持っているかもしれない。それに首都警察庁や公安が既にこの件を嗅ぎ回り始めている。変に勘違いされれば、奴らは何でもやるだろう。その上、退役軍人組合や国内の伝統派が瀬小樽に乗り込むかもしれない。今やっている部活動は……暫く止めたほうが良い」
「で、でも……!」
三良坂が俺の後ろから反駁しようとするが、その先が出てこないようでで「でも」を繰り返していた。
「病室からでは、私は君たちの安全を保証できない。しかも、私はたかが一地方自治体の首長だ。大ごとは出来ない。だから、忠告だけはしておく。命と言語・文化、どっちが大切かなんて簡単な問いだ。トレードオフで得るものを良く考えろ」
俺は知事から目を背け、後ろを向く。三良坂は反論できず下唇を噛み締めていた。俺は何かが抜け落ちたような、感情が喉で詰まっているような気がして頭を振った。精一杯の優しい顔で彼女を見る。
「帰ろう、三良坂。今日は帰って休もう」
三良坂は黙って頷く。
病室を出ていく俺たちを神薙は静かに見ていたが、ドアに手を書けるとぼそぼそと小声が聞こえた。
「お前には関係ない……か」
神薙もシークレットサービスも病院を出ていく俺たちを止めなかった。
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