#19 Дэрар 《知事》


 その朝は非常に静かに始まった。生徒たち皆が設営の最終段階に校内を走る中、既に全ての準備を終えた俺と三良坂はサルニャフと共に最後の確認を進めていた。

 教室の飾り付けや地名語源の掲示物の設営は既に終了していた。教室が広いだけあって、二分して使うことになっていた。前方はブラーイェ伝承の部屋でカーテンなどを閉めて暗くしていた。雰囲気は完璧であった。変わって後方は俺が作った地名語源を説明する掲示物が並んでいた。シェオタル語を学んでいたのを形にするのは初めてで興奮していた。

 そんな自分を見て、三良坂もサルニャフも成功させるために意気を高めていた。


「そういえば、知事っていつ来るんだろう?」

「確かに、いつ来るかは聞いていなかったな」


 知事が文化祭に来ることを教えてくれた当の本人クリャラフは教室には居なかった。半分開いた戸から顔を出してみる。教室の扉の間には三良坂が手配した別の部活のポップコーンの設営が進んでいた。彼らは知事が来ることなど全く興味が無いようだった。普通の生徒は知事が来ようが来まいがどうでもいいのだろう。だが、自分たちはこれを知っておく必要がある。本来の目的を達成するためには知事が来ることが必要だからだ。


「ヴェル! もう知事が来ているらしいのじゃ」


 背けていた顔を真っ直ぐ向けるとそこにはクリャラフが居た。息が整わない様子で、喋るのも辛そうだ。毎度のことだが、フリフリのゴスロリファッションで全力疾走して毎度の通り息を切らしているのは意味が分からなかった。そんなに走るのであればジャージでも着てれば良いのにと思う。


「幾ら何でも早すぎないか?」


 見たところこの時間帯に設営が終わっている部やクラスは少ない。いま来てもほぼほぼ設営途中の様子を観察するくらいで終わってしまうだろう。

 クリャラフは腰に手を当てて息を整えると、俺をしっかりと見据えて話し始めた。


「多分、知事自身もパフォーマンスに過ぎないと考えているのじゃろうな。あまり時間を取らないように設営済みでない場所が多い今を選んだと考えるのが自然じゃ。早めに終わらせる気じゃの」

「まあ、俺らが時間泥棒になるがな」


 俺の返答を聞いて、彼女は片側の広角を上げていたずらっぽい笑みを浮かべた。とりあえずショータイムというわけだが、まずは知事を呼ぶ必要がある。


「三良坂、とりあえず字幕動画とサルニャフさんにいつでも始められるように準備を」

「分かった!」


 三良坂は俺の指示を聞いて、教室の中へと戻っていった。いつの間にかクリャラフの後ろ、教室のドアの先にある階段の踊り場には人だかりが出来ていた。中央の一人と数名が政治家らしいスーツを着ている。胸には県議会議員のバッジを付けていた。彼らを取り巻くのはメモパッドを持った記者と抱えている頭より大きそうなカメラを肩に追ったカメラマンやマイクを持つ音声のテレビクルーたちだった。

 政治家たちは階段から上ってくるやいなや、こちらに気づいて興味深そうに近づいてきた。そのなかの一人、前に電車の中のCMで見覚えのある顔が見えた。のっぺりした極東人らしい顔に対抗心が高ぶった。まずは彼に興味を持ってもらわなければ。


「ここは何の出店かな? ポップコーンかい?」

「ポップコーンもありますが、本題は異なります」


 ポップコーンの入った大きめの紙コップを一つ、知事に渡す。出来るだけ知的な笑顔を意識して、微笑みかけると知事はポップコーンを一つつまんで、別の県議会議員に渡した。

 代金無しで取っていったのをポップコーン担当の生徒に睨みつけられたが、ポケットから適当な額の小銭を叩きつけると急に文句のなさそうな顔になって黙っていてくれた。一体いくら払ったのかはよく分からなかったが、シェオタルのためを思えば痛い出費ではあるまい。


「こちらです」


 サルニャフと字幕動画の準備が出来ていないことを鑑みて、地名語源の展示へと知事たちを迎え入れる。一教室の入り口にマスコミが殺到して入りづらそうにしていたのは見ていて面白かったが、教室が広いのが幸いして、皆入ることに成功したらしかった。

 知事たち一行は展示物を興味深く眺めていた。


「ここの地名にこんな歴史が?」

「はい、極東統治前は広い地域でシェオタル語と呼ばれる言語が話されていたのをご存知ですか?」


 俺の問に知事は後ろについてきていた県議会議員の二人に首を傾げて無言で問いかけた。二人ともさっぱり知らないという様子で困惑していた。顔を俺の方に戻して、小笑いしながら眉を上げる。どうやら彼のプライドは「知らない」の言葉を言うことを拒んでいるように見える。

 だが、彼は掲示物に書かれたシェオタル語の表記を指で突いて顔を明るくして答えた。


「それは極東語の瀬小樽方言のことかい?」


 初めて言われた言葉に俺は困惑した。どう答えればいいのか分からなかった上に、何を言ったのかも理解できないほどに衝撃的だった。

 もちろんシェオタル語は極東語の方言でも何でも無い。文法から単語、発音まで極東語とはさっぱり違う。シェオタルの固有の言語であるというのに、政治家すらその存在を知らない。シェオタル文化の酷い扱いは最初は故意から始まり、今は無知に基づいているということになるのだろう。


 怒りで足元から血液が煮えたぎるようであった。出来るものなら、その無知を怒鳴りつけて教育したいほどだ。しかし、そんな感情は喉元で押さえた。暴力で変わることは、その程度のことだ。一過性の感情を発散させる代わりに、シェオタルの未来が無知な政治家にめちゃくちゃにされるなんて認められない。

 怒りを飲み込んで、知的な微笑のまま知事に向き合う。俺はゆっくりと語りかけるように説明を始めた。


「瀬小樽は、極東による統治以前ほぼ全域でシェオタル語と呼ばれる言語が話されていたことがはっきりしています。極東語で不可解な瀬小樽の地名はシェオタル語が元になっているものが多いのです」

「それは……知らなかったな」


 県議会議員のうちの一人がうわ言のように呟いた。知事はそれを一瞥して、興味深そうに展示物をなぞるように見ていった。


「この言語が実在したとは思えないな」

「それなら実在していたことを証明いたしましょう」


 知事は怪訝な顔でこちらを見た。自分には三良坂とサルニャフが準備を完了させたことが直感に感じ取れていた。知事一行を展示物の部屋から出して、教室前方に案内する。暗くて雰囲気が一変した部屋を一行は不思議がっていた。三良坂が壇上の横に立ってマイクを持つ。いつの間に彼女の着ている服は白と赤を基調にしたシェオタルの伝統衣装になっていた。程よい緊張が血を回しているのか、彼女は非常に血色の良い顔をしていた。


「これからご覧いただくのは倍良月村に住んでおられるサルニャフさんによるブラーイェ伝承を語っていただきます。ブラーイェ伝承はシェオタルの各地域に伝わる国を守る守護者の伝統的な伝承です」


 三良坂が手元のノートパソコンのキーを叩く音が教室に響く。その瞬間プロジェクターを通して、射影幕に字幕動画が映し出された。同時に三良坂は壇上に座っているサルニャフとお互いにアイコンタクトを取った。すると、サルニャフは村で始めたのと同じようにブラーイェ伝承を語り始めた。

 朗々と、そして力強い言語が独特のリズムと共に語られる。その詠唱の端々からは生き生きとした人の言葉の息遣いが感じられた。


 知事たちは驚きを隠せないようであった。カメラマンはカメラをサルニャフに向けて、暗唱している様子を撮影している。一通り暗唱が終わるとサルニャフに向けて大きな拍手と共に、フラッシュが何度も焚かれた。


「本当にこの言語があったとは」

「まだ、疑っているようであれば倍良月村へ行ってみると良いでしょう」


 知事はかぶりを振った。


「いや、もう十分この言語が存在するということは分かったよ。しっかりとした口承もあるとはね」

「知事、シェオタル語と伝承は大戦争以来危機に陥っています。ここは一つ、この悲惨な言語状況を変えるためにお力を貸していただきたいんです。お願いします」


 三良坂やクリャラフが向ける顔は息が詰まるほどの緊張を表していた。俺は頭を下げた。それを見た知事は考え込む様子で瞑目して深く息をついた。

 顔には出さないが、内心にやけ顔になってしまう。この問には勝算があった。テレビクルーや記者、県議の手前、県民の願いに彼ははっきりとした否定の意を表すことは出来ないはずだ。賛成するにしろ、うやむやにするにしろ、その態度は報道されれば極東で広く議論の対象になる。どっちみちこの問をした時点で俺らの目的は達成したも同然だ。


「勿論だよ、頭を上げてくれ」


 予想通りの曖昧な返答、テレビクルーや記者たちもあまり盛り上がっている様子もなかったが、この様子を逃しているものは一人としていなかった。計画通り、この様子は報道される。

 三良坂は曖昧な返答を見て、それでも体中から滲み出る嬉しさを抑えきれず諸手を上げて喜んでいた。実に人を疑うことを知らなさそうな彼女らしい喜び方だった。

 しかし、知事は顔を近付けて俺の耳元で小声で囁いた。


「瀬小樽の文化教育は何故か、本土政府に凍結されていた。私もできるのであれば、力を貸したい。表沙汰には出来ないが、少しずつ変えていこう。後日、人間を送る」


 いつものような外向きでない冷ややかな声に体が硬直する。知事が言ったことが完全には理解できなかった。彼は完全にこちらに協力を示していた。それが彼の真意だと言うことになる。表向きには曖昧な返答を繕い、裏では自分たちと協力しようという事実。一体誰に伝えるべきか戸惑ったが、これを伝えることはクリャラフの心配を増幅させるだろう。今は黙っておくべきなのかもしれない。


「それじゃあ、次に行こうか」


 知事は県議にそういうと教室を出ていった。彼は出ていく前に一瞬だけこちらを見て、念を押すような顔をした。その一瞬には微笑みも三良坂のような人懐っこさも一欠片もない。剥き出しの政治心が自分に向けられていた。

 テレビクルーと記者たちはぞろぞろとそれについていくようにして、出ていってしまった。教室の中は再び非常に寂しくなってしまった。


「行ってしまったのう……」

「まあ、これはこれで一応成功したという事にならないか?」


 名残惜しそうに一行が出ていくのを眺めていたクリャラフは俺の言葉に静かに頷いた。

 サルニャフを除いて、部員の全員は緊張の糸が切れたかのように疲れ切った表情になっている。俺は体を伸ばしてリフレッシュすると、三良坂も同じように体を伸ばした。彼女と顔を見合わせると、お互いに微笑した。文化祭は始まったばかりだった。

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