染井由乃の夢

染井由乃

第1話 2018.1.27の夢

 深い夜。ひっそりと静まり返った邸宅街とは対照的に、煌々と光る街の明かりが目に痛い。初夏の風に、眠らない街の喧騒が溶け込んでいた。


 古い木造の屋敷。それが彼女の居場所。何年も前から彼女はここで1人暮らしている。時折訪れる友人がせめてもの慰めだった。


  仕立て直した袴を纏い、彼女は初夏の夜の三日月を見上げている。ぼんやりと思い出すのは、かつて恋い慕っていたはずの人だった。だが、その影はぼんやりと霞んでおり、果たして恋人同士であったのかどうかも、彼女には思い出せなかった。


 ただ、とても、愛していたような気がする。


 彼女はそんなことを思いながら、縁側を去るべく立ち上がる。月が高い。いつの間にか夜が更けて行くのも、もう慣れたことだった。


―― 最後にお日様を見たのは、いつだったかしら。


 それは、遠い昔のような気もした。この街には夜明けなど訪れない。そう言われたところで、左様ですか、と受け入れるだけの非現実があの街にはあった。


  ふと、廊下の向こうで床の軋む音がする。夜明けにも街にも執着を持たぬ彼女が、どうしてか身構えてしまう。初夏に似合わぬ、ヒヤリとした空気が屋敷を支配したように思えた。


「そこにいらっしゃるのはどなた」


 言葉は帰ってこなかった。代わりに、何かおどろおどろしいものがこちらに近づいていることがわかった。


  彼女は後ずさり、やがて屋敷の中を駆け出した。このままでは得体の知れぬ何かに飲み込まれてしまうような気がしたのだ。彼女は夢中でブーツを履くと、深い夜の中を走り出した。


 次第に煌びやかな明かりが近づいて来る。宝石箱をひっくり返したようなきらめきだ。酒の匂いと嬌声に満ちた大通りに辿り着くまでに、そう時間は要さなかった。


  だが、屋敷の中よりも随分と速度を上げてその何かが近づいていることを悟る。彼女は全力で街を駆け抜けた。女学生が夜の街を駆け抜けていても、誰一人咎めるものはなく、ブーツの音が喧騒に加わる。


 口の中が血生臭い気がして、どうも胸が痛んだが彼女は走り続けた。それでも着実にそれは彼女に近づいている。


  だが一方で、彼女はそれに惹かれ始めていることに気づいた。無論、恐ろしいことに変わりはないのだが、一片の愛しさのようなものをそのものに感じているのだ。


 大通りの隅では、花を売る少女たちが群がっていた。その毒々しい花畑に彼女は飛び込むと、なんとか紛れるべく地に落ちた一輪の百合を拾った。少女たちは特別彼女に視線をくれるでもなく、道行く人々を絡め取っているようだった。


  彼女はその花畑の中で、息を潜めた。或いは、逃げ切れるかも知れぬと、荒い息を必死に封じ込めた。だがそれはいとも簡単に花畑の中に混じりこみ、ゆっくりとこちらとの間を詰めて来る。彼女は観念してその少女たちの群れを飛び出した。


  最早、それから逃げ切ることは到底不可能であるように思えた。だんだんと彼女は走る力を弱めていく。とうに限界は超えており、両足が棒のようだった。


  このひとひらの愛しさに身を任せ、捕らえられるのも手かも知れぬと、彼女は思い始めた。それを怖いとは思いつつも、強く惹かれ続けているのもまた確かであった。


  街の喧騒が遠ざかり、寂れた丘にたどり着いた彼女は、不意に背後から長い髪を掴まれるのを感じ取った。いよいよ飲み込まれるのかと、覚悟を決める。


 そのままそれは、彼女の首に、肩に腕を伸ばしてきた。彼女にはもう、抗う力など残されてはいない。ただ、飲み込まれていくその感触を、遠い昔に知っていたような気がして、ぽつりと涙が零れ落ちた。何かが帰ってきたように、彼女は彼の日を懐かしんだ。


  ああ、君は戻ってきたのだ、と彼女は思った。恐怖と愛しさに包まれていくこの瞬間に震えながら、彼女は数百年ぶりに微笑んでみせた。


  一陣の風が吹き、握りつぶされた白百合が散った。やがて月が沈み、目に焼きつくような朝焼けが街を包む。


 その丘の上に、彼女の姿を見ることは、もう、在りはしなかった。

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