第16話 宿屋にも人にも歴史があるものです

 クリック氏が手配した馬車に乗り案内されたのは、豪勢、というほどでもない、けれどきれいに剪定されているブラームという常緑樹の植木に囲まれた白壁の宿屋。

「白影の青葉亭」という、何色なんだか良く分からない名前は、春から夏にかけて建物を囲む植木に白い花が咲く様子を、開業当時の有名詩人が「白き影が覆いし青葉の宿」とか何とか歌い上げたことから名付けられたらしい。


(いや春から夏にかけてって、年の半分もないし。他の季節にきても意味わかんないし)

『ブラームの木に咲くのは白い花だってことはお決まりの様式美だからね』

(はいはい、上流階級や知識階級の常識なんデスヨネ)

『そういうことです。ややこしいかも知れないけど、その手の言い回しは慣れていかないとね』


 元日本人なのに、婉曲表現が苦手なレミには、この世界の詩的な言い回しは、なかなかハードルが高い。


 さて。そんな勿体ぶった格式ある名前を冠したこの宿は、その名に劣らず格式ある宿だった。

 場所は港からそう遠くない、街の中央部。馬車の必要があったのか疑問なのだが、ほとんどの客が馬車で乗り付け、徒歩で入ってくるのは荷物を持った従者だけの様子で。


(馬車で来るのがお客の条件なのかな?)

『というか、旅客協会所属の事務所紹介であることを示すのが馬車なんだと思うよ。飛び込みの客は基本的には受け付けていないんじゃないかな、ここ』


 一見さんお断り、ということなのかな。

 確かに港から直接来たってたどり着ける近さなのに、わざわざクリック氏の事務所に寄ったのは仲介してもらうためだったのか。でも、退魔師の定宿って聞いていたけどなあ。

「お待ちしておりました! 銀笛のカーマ様!」

 馬車を降りると、すぐさま駆け寄ってきた宿の従業員がカーマさんに敬礼する。

 さっきのクリック氏の事務所でもそうだったけど、二つ名で呼び掛けられるのってデフォルトなのかな。

 そうならなるべくカッコ悪い二つ名は避けたい。「ザルのレーミ」なんて論外だ!

 絶対、酒は飲まないぞ! と心に誓うレミだった。


「こちらは新しい退魔師様でございますか? 昔のカーマ様に劣らず愛くるしいお嬢様で。きっとカーマ様に負けない麗しい女性になられることでしょう!」

 ……いや、それは無理があるから。

 美辞麗句でみえみえのお世辞を並べられて、レミは気持ち顔がひきつる。

 ただ、退魔師の定宿、と言うのは間違っていないらしい。新人の頃のカーマを知っている、と言うことは……この人いくつ?

 年かさ、というより中年飛び越して老年に見える従業員? いやもう、管理職?


「このガワディ、カーマ様に一目お会いして、直接お別れを申し上げたく」

「あら? もう隠居するの? まだまだ若い者には任せられないっていつも言っていたのに」

「いやはや、そうは言ってもそろそろ体も利かなくなって来ておりまして。気力だけではなんとも。しかしカーマ様は相変わらず若々しくお美しい。このガワディ、誠心誠意心を込めておもてなしさせていただきますぞ」

 そう言って宿の奥まった客室に案内された。ガワディ氏は手ぶらで、馬車に乗せていた荷物はすべて他の従業員が運んでくれた。

 他の客は案内する従業員が荷物を運んでいたので、何となく特別待遇な気がしたが。


「悪いわね。総支配人のガワディに案内までさせちゃって」

「いえいえ。わたくしが客室見習いを終えて初めて一人で担当させていただいたカーマ様のおもてなしを、引退前にわたくし自らさせていただくのが本望でございます」


 ……特別待遇はガワディ氏だったらしい。

 だいたい50歳後半から60歳くらいで引退するって聞いたので(一般的には)、19か20歳で一人立ちしたとして、カーマさんに出会ったのが40年前くらい?

(てことは、カーマさんとほとんど同じ年くらいなのかな、この人。はあ、カーマさんもやっぱり美魔女だったのね)

『何を今さら』


 成人前から修行していて成人して一年で一人立ちする退魔師と違って、成人してから見習いを始める一般の職種はだいたい3~5年くらいで一人立ちするのが通例だ。

 レミの過去世で考えると遅い気もするけど、専門学校に入る代わりに技能を教わる、と考えると、適切な期間だと思う。


 15歳で成人して見習いを終えるのが20歳くらい。見習い中でも給料はもらえるし、結婚して世帯を持つことは可能だと聞いた。

 夫婦とも見習いでも二人の給料で生活は可能だけど、妊娠出産で女性の収入は途絶えるため、男性の収入に頼ることになる。そのため、ほとんどの男性は見習いの期間を終えてから結婚するという。

 一方で女性の選ぶ職種はほとんどが裁縫や細工物、食品加工など家庭内でも手仕事として行なうことが可能な(つまり内職だ)ため、家庭に入っても技能さえ向上すれば(売り物になるものを作ることができれば)見習いを終えられる。育児の傍ら、それらの仕事を受注して収入源とする。その他の職種としては、例えばこういう宿や富裕層の屋敷の下働きやメイドもあるが、住み込みが基本となるため同業者以外と結婚する場合は仕事を辞めることが多いという。


 富裕層になると、そこに学術や芸術分野の職種も加わるようだが。あと、農村部では、農業一本、裁縫や食品加工は家庭で使えればいいレベルを皆が習得するという。


 ……うーん、女性の職種の幅、狭くない?

 別に家庭内手工業が悪いとは言わないが、それしか選びようがないのは、なんだかな……。


 ちなみに、看護は教会で女性神官が基本技術を教えてくれる。結婚する女性の必須スキルだが、専門職種にはなっていない(あえて言うなら女性神官が兼任?)。教会や家庭内看護が基本の辺りは、過去世の中世の頃と似たような扱いらしい。


「さて、夕食まで時間もあるし、お風呂に行きましょうか? レミは浴場は初めてでしょう?」

「はい、初めてです! (この世では)」


 バスタブに湯を張って入ることはできていたが、複数で入浴する大浴場はカロナー島にはなかった。大浴場に入浴する習慣はガストリン皇国の東にある古王国ラシクサから入ってきたもので、火山の多いラシクサでは温泉も多いのだという。「古」王国としての権威はとっくに廃れてしまったが、温泉を生かした観光行政に力を入れて、世界有数の避寒地として名を馳せている。その話を聞いて、いつか絶対行く! と心に決めているレミである。


「今日は女性の宿泊客は少ないみたいだから混んでいないとは思うけど」

 帳場で貴重品を預けて(複数立ち会いで目録も作成した念の入れようだが、後でトラブルにならないためには必要な手続きなのだろう)、大浴場に向かう。

 カーマの言った通り他に客はいなかったが、介助の下働きの女性達が一人ずつあてがわれた。


(ロー)

『了解。何かあったら強く呼んで』

 全て言わないうちに、ローは次元の扉の内側に隠れてしまった。


 この世界の入浴は介助者に洗髪や洗体してもらうのが基本で自分では洗わない。自分でできないわけではないが、そういうことになっている。カロナー島でも、誰かに介助してもらう代わりに、濡れていい服を着て他人の介助することもあった。

 船でもカーマさんとお互いに体を拭いたりしていたので、ここの大浴場でもそのつもりだったのだが、下働きの女性達から仕事を奪わないよう、介助を受けるのが金持ちの礼儀だとカーマさんに言われていたので、素直に体を任せた。

 入浴は好きだが、過去世の記憶から一人で入ることには抵抗があったレミにとっては、必ず誰かと一緒に入浴するこちらの習慣は、ありがたかった。


 ……ローが男性形でなかったらなあ。


 初回の交流時のレミの抵抗がトラウマなのか、ローはレミが肌を見せる行為をする時は気を遣って交流を遮断気味にしてくれている。

 実は最初ほどローに対する抵抗感はないのだが、今さら「見てていいよ」なんて言うのも逆に恥ずかしくて、とりあえず好意に甘えたままになっている。

 そもそも性別のない妖霊に恥ずかしいも何もないようなものだが、ローの声がいけない。

(いや、あのイケボは反則でしょう)

 今日出会ったクリック氏もそうだが、どうも深みのある低めの声にレミは弱いらしい。

 そんなことを考えているうちに体が洗い終わり、レミは広い浴槽に浸かる。

「何だかぼんやりしているけど、今日の出会いでも振り返っているの?」

「え、あ、まあ」

「確かに、悪くはなかったけど。でも本気になったらダメよ」

「いやいや、そこまでは。でも、ああいう声、いいなあって」

 お湯でのぼせてしまったのか、ついつい本音を漏らしてしまう。

「声もだけど、見た目もかなり良かったし、あれは周りが放って置かないでしょうね。でも、冷静にね。相手の方が絶対先に年を取るんだから。ガワディだって、初めて会った時は、笑顔の素敵な好青年だったんだからね」

「分かってますよ……」

 頬の火照りは、お湯のせいだよ。

 自分に言い訳しながら、退魔師が一時の恋に深くのめり込んでしまう理由が少し見えた。


 ……絶対添い遂げられないって分かっているから、なのかな。

 だったら退魔師かせめてブルフェン相手にすれば気が楽なのになあ。

 でも、逆に100年もの長い間、心変わりしないでいられる自信もない。何より、正規婚が許されないのは、きつい。心が離れたら他に縁を繋ぐものもないってことだもの。きちんと結婚したって、心が離れてしまうことはよくあるのに。

 レミは過去世の離婚した記憶から、永遠に愛を誓う難しさを知っている。

 けれど。

 ……分かっていても、誰かを好きになっちゃうことも、あるんだよね。

 

 ほのかに甘いタガ茶の記憶と共に、レミは芽生えたばかりの恋を心の奥深くに、封じ込めた。




『……あの、レミ』

 入浴後、着替えを済ませて部屋に戻ると、ローがおずおずと話しかけてきた。

(なあに?)

『あのさ、これからも、きっといい出会いがあるから』

(へ?)

『あとさ、できれば外見の年代から近い方が、いいと思うよ』

(………………!)


 そういえば、完全遮断じゃなかったんだ!

 あんな風に思い詰めたら、ローに伝わらないわけがなかった……!


 真っ赤に染まったレミの顔を見て、「湯あたりしたの?」とカーマさんが慌てて氷水を持ってきてくれた。理由を説明するのも恥ずかしくて、レミは氷水を一気にあおった。


 もう、本気で妖霊の存在に慣れないと、このままでは恋に浸ることもできない!

 裸を見られるより思考が丸裸にされる方がよっぽど恥ずかしいことを、今更ながら実感したレミだった。

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