熟女ウォーズ エルマの野望

@nanaisann

第1話 住めば愉快だ、うつのみや


     『プロローグ』


「栃木県と聞いて、あなたは何を連想しますか?」

 たとえば何気なく手にした小説の冒頭でいきなりそう問われたとしたら、脳天にハンマーの一撃を喰らったような衝撃が走り、「あぁっ、あれでしょ、えっと・・・」と、とりあえず言ってはみたものの具体的には何ひとつ思いつかず、ページを閉じて見なかったことにしようとしてしまう、そこのあなた!

 世界遺産・日光二社一寺を筆頭に、生産量日本一を誇る甘~いイチゴ。かんぴょう、ゴボウ、大根とナス。国民的アイドルに芸達者なサル軍団。特別天然記念物指定の野生動植物。スキーに温泉、ゴルフに乗馬。ブランド牛をはじめとする絶品グルメ。歴史的な観光名所に巨大テーマパーク。緑あふれる豊かな大自然と神秘のパワースポット。

 こんなにも話題には事欠かないのに、栃木県がいまいちメジャーになれないのは何故なのか? 栃木県を含む北関東三県が互いに足を引っ張り合い、全国の都道府県魅力度ランキングで常に最下位争いをしているのは何故か? そこにはこの土地に暮らす者のみが知っている信じがたい秘密があるのだ。謎のベールに包まれた栃木県。今宵あなたは、その本当の姿を目撃するのであるっ! では地球上のどこかにあるという、住めば愉快なその街から物語を始めよう。


     『大都界・宇都宮』


 JR宇都宮駅西口。

 不気味なギョウザ像の隣に立ってあたりを見回せば、地方都市特有の哀愁に満ちた光景を目にすることになるだろう。林立するギョウザ店の看板や観光案内図がそれぞれの個性を主張し、他の都市にはない独特の世界観を感じとることが出来るはずだ。

 だが今夜は少しばかり様子が違っていた。市の観光課が主催するイブの夜を彩る恒例のイベント、『ウインターイルミネイション・冬の宮まつり』が開催されているのである。駅前の大通りに目をやれば電飾で飾り立てられた山車が何台も連なり、陽気な音楽にのってパレードしているのが見えるはずだ。連チャン大フィーバー中のパチンコ台にも見劣りしないド派手な光の乱舞は、ここが栃木県であることを一瞬忘れてしまうほどであり、北関東随一の大都界は完全に異次元空間へと様変わりしているのであった。

 神社の山門前に設置された特設ステージではチャリティーコンサートが行われていた。ママさん聖歌隊のコーラスや有志によって結成されたジャズバンドによる生演奏が次々と披露され、冬物の上着やコートを着た沢山の見物客は足を止めてその音色に聞き入っている。簡易テントがズラリと立ち並ぶ区画では婦人会による炊き出しやリサイクル品のバザー、お楽しみ抽選会、年末恒例の献血の呼びかけなど、様々な催しが行われていた。焼きギョウザの試食会が行われているブースからは威勢のいい掛け声と、ギョウザの焼ける香ばしい香りが漂ってくる。

 熱気に沸き返る祭り会場。そのイベント広場中央には巨大なツリーが設置されていた。今夜そのメインツリーに一夜限りの特別な明かりが灯されるのである。その美しい姿をひと目見ようと県の内外から大勢の見物人が集まり、寒さを忘れてその瞬間を待ちわびていた。人々は今年一年を振り返り、感謝の祈りを捧げるのだ。もちろんこの街だけではない、今夜は世界中が愛と喜びに満ちあふれるのである。

 だが輝きに目を奪われるあまり忘れてしまってはいないだろうか? 光は必ず影をもたらすことを。イルミネーションの輝きが増せば増すほど漆黒の闇はその色をより深めてゆく。たとえ聖なる光でも決して届くことのない、果てなき暗黒無明の世界。耳を澄ませば聞こえてくるはずだ、呪文のように繰り返される女の物悲しい歌声が・・・

「シングルベ~ル♪ シングルベ~ル♪ 鈴が鳴るぅ~♪ うぅぅっ」

 ぐっと涙をこらえ、聞いているこちらの胸が張り裂けてしまいそうになる切ないバラードを歌っているのは、今回の主人公、小林由紀(永遠の二十代)である。彼女は恋人とツリーを見に行く約束をしていた。しかし彼が迎えに来ると言った約束の時間はとうに過ぎてしまっていた。つまり彼女は年の瀬も押し迫るこの土壇場において、たった独りでイブを過ごすという途方もない試練に直面してしまったのである。

 イブを迎える準備は滞りなく完了していた。玄関にはリースが飾られ窓辺には小さなツリーとメッセージを添えたプレゼントの包み。天井に飾り付けた金銀のモール。もしかしたら今夜プロポーズがあるかもしれない。数日前まで彼女はそんな期待に胸をふくらませていたのである。ところがこの現実はどうであろうか?

 すっかり冷たくなったターキーはテーブルの上で無残な姿をさらし、足元には空になったワインのボトルが何本も転がっていた。テーブルに立てられたキャンドルの炎が魂の抜けた蝋人形さながら、泣き腫らした赤い目をスマートフォンの画面に落とす由紀の表情を闇に浮かび上がらせていた。彼女は挫けてしまいそうになる心を奮い立たせ、闇に飲み込まれまいと孤独な戦いを続けていたのである。

「き~ぃよし~♪ や~ぁすし~♪ なんでやねん・・・」

 歌えば少しは気持ちも晴れ、普段の明るい自分を取り戻せるかと思ったが全く効果はなかった。むしろ歌えば歌うほど悲しみは更に深まり、渾身のギャグもいたずらに時を凍りつかせるばかりである。シャンパングラスの中で次々に生まれては消えてゆく小さな気泡。その一つ一つは由紀の過ごしてきた孤独な日々と重なった。職場の後輩に奪われたA男。浮気をしていたB夫。ゲイだったC太郎。ギャンブルで借金まみれになったD之助・・・ 琥珀色の液体の中でロクでもない男たちの顔がゆらゆらと思い浮かんでは弾けて消えてゆく。ハズレ男ばかりを引き続け、その度に神経をすり減らす。彼女はつまらない男に人生を翻弄されながら生きてきたのである。

 子供の頃から楽天的で不器用。それでいて誰よりも頑張り屋さんだったという彼女。学生時代を通じてずっと級長を務めたほどの面倒見がよい性格は、長じてダメな男を見ると放っておけないという特異な体質へと転じてしまったのであった。逃げた男の作った借金の連帯保証人になっていたのが人生を大きく狂わせる原因となり、気が付けば胸元の大きく開いたナイトドレスに身を包み、口元には魅惑的な真紅のルージュを引き、巧みな話術と行き届いた心配りで男を酔わせる夜の蝶へと華麗なる変身を遂げていたのである。

 借金返済のために始めた夜の仕事ではあったが、新しい職場の水は由紀に合っていた。決して美人ではないが持ち前の明るい性格を発揮して客からの評判は上々であり、指名は常に上位をキープしていた。由紀がかなりの酒豪であることが知られるようになると、客たちは面白がって酒の飲み比べ勝負を挑むようになった。毎日が命がけの真剣勝負に変わったのである。由紀は勝ち取ったブランド物のバックや宝石・貴金属などの戦利品を質に流して現金化し、すべてを借金の返済にあてた。時代はバブル全盛期。今では信じられないくらいの現金が毎晩のように飛び交い、人々は童話のキリギリスを彷彿とさせる享楽的な生活に明け暮れたいた。同世代の若者は毎晩ディスコに繰り出して青春を謳歌していたが彼女は涙ぐましい倹約生活をコツコツと続け、五年前に借金の全額完済に成功したのだった。そればかりか最近では蓄える余裕さえ生まれてきた。彼女はたった一人で夜の世界に飛び込み、アルコールの大海原を力強く泳ぎ切ってみせたのである。

 やっと自由になれる、新しい人生が始まる。

 陽の差し込まぬ薄暗い牢獄から眩い太陽の元へ釈放されたような解放感が、由紀の全身を満たした。彼女の目の前には、希望に満ちたバラ色の人生が果てしなく広がっているのである。しかしそれは単なる幻想であった。皮肉なことに由紀の周りを取り巻く環境は大きく様変わりしていたのである。平成の大不況がこの街にも訪れたのだ。

 相次ぐ連鎖倒産、吹き荒れるリストラの嵐にキリギリスはことごとく凍え死んでしまった。由紀の店にも職を失ったОLや就職浪人となった女子大生などが続々と入店を果たし、わずかに生き残った客を奪い合うという女の修羅場と化してしまったのだ。特にこの数年は男もボトルもキープできない、つらい状況が続いていた。彼女の残した数々の伝説や酒量レコードは夜の街に知れ渡り、誰も勝負を挑まなくなってしまったのである。

 もちろん指名ゼロという日が続いた原因はそれが全てではない。主たる理由は実は別のところにあったのだ。決っして触れてはいけないタブーであり、誰もが恐れて語ることのない真実、それは・・・

 ハッキリ言ってしまおう。

 もっとも激しい変貌を遂げていたのは、由紀の容貌そのものだったのである。

 長年にわたり肉体を酷使してきたことによるダメージが目元口元に如実に現れ、どう取り繕おうとも隠しきれない最終局面に到達してしまったのである。年を追うごとに由紀の化粧は濃くなり地層のように厚みを増していった。若い頃こそ尊敬と畏怖の念を込めて不沈艦の二つ名を頂戴していた彼女であったが、かつてを知らない最近の客に付けられた現在のアダ名は地縛霊である。

 引退して田舎に帰ろう、そう考えたこともあった。けれども彼女の実家は実の妹によって事実上占領されてしまっており、由紀が帰還を果たすのは非常に困難な状況となっているのである。十年ほど前のこと、東京で暮らしていた妹夫婦が突如脱サラし、家族になんの相談もなく実家の酒蔵を継ぐと宣言して故郷に帰ってきやがったのだ。両親や祖父母とも良好な関係を築き、子宝にも恵まれ、立派な後継ぎとして着々と地盤を固めてゆく妹夫婦。帰る場所を奪われてしまった由紀には、世の中を自力で生き抜く道しか残されていなかったのである。

 彼女はすがるような思いでハローワークに新天地を求めた。だが、やはりそこでも厳しい現実と向き合うことになってしまうのである。なんど企業の採用試験に行っても、面接官に冷たく鼻であしらわれてしまうのだ。履歴書に書けるような資格や華々しい経歴が一つも無い、そんな中途採用のアラサー女には、保障もボーナスも退職金も残業代も交通費も有給もまったく無い、クビを切られても文句さえ言えない。そんなパートや派遣の仕事しか残されていなかったのである。由紀が身に付けた宴会芸の数々を生かせるような職場は思うように見つからなかったのだ。

 モテない、金ない、もう若くもない。いいとこ無しの独身中年女、小林由紀(推定35才)。だがそんな彼女にも、その境遇に理解を示し温かく見守ってくれる味方がいた。現在の勤め先の女性オーナーである。由紀がまだ新人だったころに、なにかと面倒を見てくれた先輩キャバ嬢であった人物だ。店を持つのが夢だった彼女は現役時代に培ったノウハウや人脈を駆使し、今ではやり手の経営者となって手広く商いを営んでいた。彼女との縁で由紀は県内現役最年長ホステスとして仕事を続けることが出来ているのである。

 由紀の主な仕事は皿洗い、床磨き、トイレ掃除、おしぼり配りなどの雑用全般と、ベテランならではの客あしらいを期待され、みんなが嫌がる泥酔客への応対などである。ときにはボックス席に呼ばれて一発芸を披露し、場の雰囲気を盛り上げるのに貢献することもあった。けれども、若い嬢たちに居場所を奪われてしまった疎外感を拭うことはどうしても出来ず、心の闇は大きく広がっていったのである。

 由紀に残された最後にして唯一の希望。一発逆転のさよならホームラン。それは玉の輿という名のゴールであった。終わり良ければすべて良しではないが、セレブ妻という栄冠を勝ち取ることが出来れば今までの苦労も報われるというものである。結婚への想いは日増しに強まっていった。もちろん、ただ手をこまねいて白馬の王子の登場を待っているような性格ではない。彼女は出会いを求めて積極的に出かけることにしたのである。

 まず最初に向かったのは海であった。とにかくどこかへ出かけるとなると、卵から孵化したばかりの子ガメのように一直線に海を目指してしまうのは、海なし県に生きる栃木県民の持って生まれた本能なのであろう。

 照りつける灼熱の太陽の下、海は眩しく輝いていた。由紀は新調したピンクの紐ビキニを見せつけながら一人ビーチバレーで時間を潰してみたのであるが、どういう訳か、しばらく待っても誰も現れなかった。一人スイカ割り。一人浮き輪あそび。一人シンクロ&犬神家。一人潮干狩り。一人砂城づくり。炎天下で敢行された地獄の一人おバカンス。ついには熱中症で倒れてしまい、彼女はたまたま通りかかった地元の住民に助けられる事態となってしまうのであった。そして彼女は搬送先の病院で衝撃的な事実を知らされることになるのだ。彼女が海だと信じていた霞ケ浦は淡水の巨大な湖であり、本物の海はまだまだず~っと遠方だったのである。ショックを引きずったままひと夏を安静に過ごし、秋になって体力を取り戻した由紀は、今度こそはと懲りもせずに様々な観光地を訪れてみた。しかしどこへ行っても、元気がいいのは高齢者と外国人旅行者ばかり。県内に住む若者の多くは職を求めて東京へ出稼ぎに行っており、レジャーどころではなかったのである。

 そんな空回りを続ける由紀に、やがて転機が訪れた。様子を見るに見かねたオーナーが宇都宮市が主催する大規模な婚活イベント『宮コン』に、こっそりと由紀をエントリーしていたのである。今となっては珍しくはないが、当時においてこの催しは時代を先駆ける画期的な取り組みであり、のちに『街コン』として全国の自治体に広がる婚活イベントの記念すべき第一弾となるものであった。ところが、肝心の由紀はお見合いパーティーの類には絶対に行きたくないと頑なに言い張った。合コンの類に出席することは自分の負けを認めるようでイヤだったのである。変なところが頑固で、妙なところで意地を張る。実に女の三十代とは扱いにくいお年頃であり、下手に触れると周囲を巻き込んで大爆発を起こす危険なダイナマイトなのである。

 由紀が思い描くのは昔見たドラマのような運命的な出会いである。そして燃えるような大恋愛を経て二人は永遠の愛によって結ばれるのだ。そんな夢を周囲に語っていた彼女であるが、実際にそのチャンスが訪れることは一度もなかった。職場とアパートの往復をしていただけで『あっ』と言う間に三十代は通り過ぎてしまったのだ。後輩たちは次々と幸せを手に入れてバージンロードを歩んでゆく。彼女たちの後姿を指をくわえて羨ましげに見送る生活はもう耐えられそうもない。思案のあげく、由紀はついに参加を表明するに至ったのである。

「大丈夫、まだまだイケてるわっ」

 あんなに参加することに抵抗を示していた由紀であったが、宮コンに着ていく洋服を選ぶとき少し浮かれている自分に気づいてハッとした。そして彼女は鏡の中の自分に向かって言い聞かせるように小さな声で呟いた。

「いい、貴方にはもう後がないのよ」

 今度こそ、今度こそ、今度こそっ、ぜったいに幸せ行きの片道キップを手に入れてみせるっ! 彼女はそう固く心に誓って宮コンに臨むのであった。

 さて、宮コン当日。天使をイメージした純白の衣装に身を包み、小道具の弓矢を携えた由紀は少々の不安を胸に抱きながら会場入りを果たした。しかし会場内の雰囲気は緊張していたのが恥ずかしくなるほど和やかであり、今までどこに隠れていたのかと思うほど、たくさんの若者たちであふれ返っていた。これだけいれば理想の相手が見つかるかもしれない。由紀は期待に大きく胸をふくらませた。ただ彼女のバイオリズムは深夜にマックスを迎えるようにセットされているために日中は調子が上がらず、若者との会話にまったく付いていけなかった。ジェネレーションギャップという大きなミゾが埋められないのだ。景気づけの一杯、そしてもう一杯。提供された無料カクテルを空にするたび徐々に体が温まってくる。由紀はキリリと弓を引き絞り、物陰から獲物たちを物色する。そんな時だった。

「素敵なドレスですね。ちよっとお話しさせてもらってもいいですか?」

 運命だと思った。由紀の脳内では教会の鐘が鳴り響き、白いハトの群れが舞った。酒のせいで実際より何割増しか良く見えたのかもしれないが、そこで知り合った男性はなかなかの男前だったのである。彼は市の職員だと名乗った。あとで自分の首を絞めることになると知りながら、由紀は資産家のひとり娘だと身分を偽ってしまう。何の取り得もない劣等感が彼女にそう言わせてしまうのである。

 とんとん拍子に会話が弾み、二人の交際がスタートすることになった。由紀は彼に気に入られようと、ファッション誌を片っ端から読み漁って最近の流行を猛勉強した。引き締まった美しいスタイルを手に入れるために毎朝20キロのランニングを開始。彼の好みに合わせて女優を意識した髪形にイメージチェンジ。精一杯の若作りは一緒にいる彼が惨めな思いをしないようにとの、いじらしい女心の表れである。ただ彼女の場合はその思いがあまりにも強すぎるために、一般人の目には奇抜で珍妙な一人仮装大会と映ってしまうのであった。

 愛する彼のために涙ぐましい努力を続ける独身王、小林由紀。しかし例えどんなに会いたくともデートは月に一度と決めていた。結婚を焦った寂しい女と思われたくない、そんな妙なプライドがここでも邪魔をするのである。ずっと彼の側に居たいのにどうしても素直にはなれず、ヤセ我慢を貫いてしまうのだ。会えない夜は切ない思いで胸が一杯になり心が張り裂けてしまいそうになる。深夜のゴミ出しも皿洗いも、彼の笑顔を思い浮かべれば耐えることが出来た。彼のためならばどんな苦労も惜しまない。彼の望みはすべて叶えてあげたい。ブランド服も高級腕時計も、由紀は言われるがままに買い与えた。次第に彼の欲求はエスカレートし、ついに彼女は彼の誕生日に高級外国車をプレゼントしてしまうのであった。生まれ持っての貢ぎ体質はDNAに深く刻み込まれたものであり、死ぬまで治らないのかもしれない。

「いいんですね? 本当にいいんですね?」

 来たるべき老後に備えて蓄えていた介護付き有料老人ホームへの入所資金を解約して、新たにローンを組んだとき、借金の完済を一緒に泣いて喜んでくれた馴染みの銀行員は何度も何度も念を押したが、由紀の固い意志を曲げることは出来なかった。彼がそれを望むなら、彼の心が手に入るのなら、そして愛の深さを証明できるのであれば、大切な老後の資金が尽きようと構わなかったのである。昭和の女はみな一途なところがあるが由紀のバックボーンは典型的なそれだ。周囲になんと言われようともヤルと決めたらトコトン突き進む。座右の銘は努力と根性と忍耐である。だがその行動はやはり予想通りの結末を迎えてしまうのであった。車が納車された日を境に彼からの連絡がパタリと途絶えてしまい、なんど携帯にかけてもつながらないのである。

 まさか? 由紀の脳裏を一抹の不安がかすめた。慌てて市役所に問い合わせてみると、そんな名前の職員はいないという残念な返答。由紀はお約束を地で行く展開に立っていられないほどの目まいに襲われた。彼の素性に疑問を持ったことなど一度も無い、といえばウソになる。肩にかかるくらいに長い髪を金色に染めていた。ピアスを開けていた。いつもサンダル履きだった。市役所職員のドレスコードはそんなに緩いのかと疑ったのは確かだ。けれど最近はこれくらい普通なのだと自分に言い聞かせ、見て見ぬフリを続けた結果が今日という結末を招いてしまったのである。由紀は思い出したようにスマホを操作して彼の番号にかけてみた。

「・・・・・・」 繋がらない。

 今年も残すところあと数日。酒を愛し、孤独を友とし、仕事に人生を捧げてきた由紀にとって、一人で夜を過ごすことなどすっかり慣れっこになっているハズなのだが、今夜はヤケに身に染みた。闇はすぐそこにまで迫っていたのである。

「飲み足りないっ!」

 消し去ってしまいたい過去や思い出ばかりが取りとめも無く脳裏をかすめ、後悔のリフレインが涙を誘う。こんな夜は飲んで飲んで飲んで飲んで、意識がなくなるまで徹底的に飲みまくって全てをスコーンっと忘れてしまうに限る。由紀は今までずっとそうやって一人で生きてきたのである。

 彼女は立ち上がって一息にキャンドルの炎を吹き消すと、冷めたターキーをゴミ箱に投げ捨てた。手早く身支度を整え、ニット帽を目深に被って部屋を出る。外出の際、多くのキャバ嬢が客との不意の遭遇に備えて変装に気を配るものだが、由紀の場合は少々違った。化粧を落とせば全くの別人に生まれ変わるため、気付かれる心配など無用なのである。師走の大寒波が容赦なく独り身をさいなむ。乾燥が肌から潤いを奪う。カラッ風と呼ばれる北関東特有の乾燥した冷たい風が、合わせた襟元を吹き抜けていった。寒い。痛い。鼻水がでる。こんなとき愛し合う者たちならば、体を寄せ合ってお互いの温もりを分かち合うことも出来よう。しかし独り者は己の両手で震える我が身を抱きしめ、じっと寒さに耐えるしかないのだ。どんな時も頼れるのは自分だけなのである。

『独身』 それは精一杯の虚勢を張って凍れる大地を踏破する冒険者。誰からも必要とされず家庭のぬくもりにも背を向け、たった一人で社会に立ち向かう、悲しい十字架を背負った旅人。強い心を持つ者だけが春の光に溢れた約束の地に辿りつくことが出来るのである。雑踏の中で由紀はプレゼントの大きな包みを抱えた人たちとすれ違った。待つ者のいる家へ帰る人たちはみな急ぎ足だ。あたたかい笑顔が彼らの帰りを待っているのであろう。商店から流れるクリスマスソングに混じって、遠くから救急車とパトカーのサイレンが聞こえてくる。由紀には分かっていた、きっとどこかで独り者が死んだのだ。賑わう街に背を向けながら、由紀は一度も立ち止まることなく狭い路地を通りぬけた。奇跡的に開発から取り残されたこの地区は、一歩進むごとに昭和の香りが色濃くなってゆく。

 やがて由紀は一軒の小さな店の前で足を止めた。真鍮製のドアノブに手をかけて軋む扉を開けると、わずかに開いたその隙間からむせび泣くようなトランペットの音色が聞こえてきた。ここは由紀の行きつけのバーである。古びたカウンターとテーブル席が三つ。店の奥に小さなステージが設えてあるのは、カラオケ喫茶だった昔の名残である。アンティークのバックバーに並ぶ様々な形をしたリキュールの小瓶。間接照明に照らされた薄暗い店内は今流行りの都会的な造りとは全く対照的であり、隠れ家と呼ぶにふさわしい趣を醸し出していた。人生を旅とするならばここは旅人の渇きを癒し、つかの間の休息を与えるオアシスなのである。イブだというのに店内は飾り付けなどされておらず、客はまばらだ。その代わり慣れぬ者であれば一呼吸で死んでしまうほどの濃密な哀愁に満たされていた。


「いらっしゃいませ」

 由紀がベージュのコートを脱いでカウンター席に腰を下ろすと、口髭を蓄えた初老の男が声をかけてきた。

 哀愁のジャズバー『サンレイ』のマスター(のちに伝説のヒーローと知る)である。

 今はメタボ気味だが若い頃は体を鍛えたのだろう。ガッシリとした広い肩幅や頑丈そうな腰回り。冷蔵庫みたいに重量感ある四角い背中は空手か何かの有段者のように見える。太い猪首には窮屈そうに蝶タイが貼りついていた。トレードマークのサングラスは薄暗い店内でも決して外さないのがマスターの深いコダワリだという。たっぷりのポマードで固められた白髪交じりのオールバックは、どんなに激しいシェイクにも決して乱れることはない。人生を知り尽くした大人の男だけが醸し出すことのできる本物のダンディズムを身に纏っていた。普段となにも変わらぬその姿に由紀はホッと安堵の息を吐いた。

「マスター、いつものヤツお願いね」

「はい、かしこまりました」

 マスターは落ち着いた声色で答えると、武骨な太い指を器用に使ってシェイカーを構えた。グラスに注ぐ淀みのない一連の動作。由紀は冷たくなった指先に息を吹きかけながら、その流れるような熟練の手さばきに見とれていた。

「今夜は冷えるわね」

「ええ、予報では雪になるそうです。どうやら荒れるみたいですよ」

 いつもと変わらぬマスターの様子に接するだけで由紀の心は落ち着きを取り戻してきた。会話をするとなんだか心が落ち着く。一人ぼっちで部屋にこもっていると、自分だけが社会から取り残されてしまっているような、不安や恐怖を感じるときがある。昔からよく知っている顔馴染みの笑顔はそんな感情を一時的に紛らわせてくれる。マスターはコースターの上に毒々しい色合いの液体で満たされたグラスを置いた。

『キラーショット・ギャラクシー』

 それは可愛らしい見た目とは裏腹に驚異的なアルコール度数を誇り、客を死へと誘うマスターオリジナルの殺人カクテルである。由紀は閉じた瞼の裏に恋人の顔を思い浮かべながら魔法のカクテルを一息に飲み干した。カッと目の前が真っ赤に燃えあがる。灼熱感がノドを駆け抜ける。まるで太陽を飲み込んだようだ。由紀の精神は肉体という牢獄から宇宙空間へと飛び出し、無重力の銀河を漂った。マスターの作るカクテルはどれも魔法がかけられているに違いない。由紀の魂が無事に肉体への帰還を果たしたとき、涙はもうすっかり消し飛んでしまっていた。

 店内には情熱的なジャズ演奏が流れていた。アルトサックスが紡ぎだす千変万化する旋律に身を委ねると、凍りついた由紀の心はゆっくりと溶けていった。ハスキーな女性ボーカルが明日への希望を歌い上げる。『明日はきっと、今日より素晴らしい一日が訪れるぅ♪ まばゆい太陽の輝きが雲間から差し込むぅん、ラララァ~♪』 由紀はマスター自慢の手作りミニ餃子を頬張りながら、その歌詞を噛みしめていた。カクテルとジャズ、そしてこだわりの焼き餃子。宇都宮を語る上で欠かすことのできない三点セット。最初はちぐはぐに思えた組み合わせも、今ではすっかり愉快な思い出である。

 地デジ化によりしぶしぶ買い換えたという、この店には不似合いな壁掛けの大型液晶テレビに目を向けると、イベント会場からの中継が映し出されていた。いよいよメインツリーに明かりが灯されるようだ。市長の点灯式開会の挨拶が終わるとファンファーレが鳴り響き、進行役の女性司会者の音頭でカウントダウンが始まった。

「皆さま準備はよろしいでしょうか? それでは参ります」

 オーロラビジョンに大きく映し出される数字に合わせ、見物人たちは老いも若きも一斉に声をそろえた。

『5,4,3,2,1,点灯~っ』

 ツリーの一番上、星を模った装飾にひときわ華やかな明かりが灯った。何発ものストロボ光が宝石のようにキラキラと瞬き、点灯と同時に打ち上げられた花火が冬の夜空を鮮やかに彩る。会場は今日一番の大きな歓声につつみこまれた。最高潮の盛り上がりを迎えるイベント広場。由紀の目にはその様子が、華やかな舞踏会のように映っていた。自分は参加することすら出来ず、去年もこうして一人で酒を飲みながら中継を眺めていた。テレビが報じる世間のお祭り騒ぎも浮かれた人々の嬌声も、自分とは無縁の遠い国の出来事のように感じられた。誰もかれもが他人である。疎外された寂しさが、視界がじんわりとにじませた。と、そのとき、打ち上げ花火の微かな光がビルの隙間に差し込んだ。

『クリスマス反対!』『クリスマス反対!』『クリスマス反対!』

 目を凝らして夜の闇を透かせば、プラカードを掲げながら会場に突入を試みる反クリスマス同盟軍と、それを阻止する観光課職員が、会場前のバリケードを挟んで一進一退の攻防を繰り広げている様子が見てとれるのであった。

 由紀は一息にグラスを飲み干した。独りの夜はまだまだ長い。店を変えて飲み直そうと席を立ち会計を済ませたとき、由紀はマスターに呼び止められた。彼は来年度の日めくりカレンダーを手渡したのだ。そのページの一枚一枚には、本県出身の詩人によるメッセージが印刷されている。彼の紡いだ言葉の数々は多くの人に勇気を与え、心を励まし、今も背中を押し続けている。

「ありがとう」

 由紀も少しだけ微笑みを取り戻すことができた。


 店を出た由紀はさっそく携帯を確認した。やはり返信は無い。今日は彼の携帯に三度かけていた。これ以上コールして、しつこい女と思われたくはない。

 彼を信じよう。

 由紀は無理に自分を納得させようとしていた。市の職員ならば今夜はきっと携帯に出られないほど忙しいのだと。だがひとつの疑問が解決すると、すぐに次の疑問が浮かんでくる。それなら何故、忙しいと分かっている今夜に会う約束をしたのか?

 やはり彼は・・・

 由紀は大きく頭を振って悪い考えを追い出そうとした。連絡がつかないくらいの事でクヨクヨするなんてバカげている。きっと携帯を無くしたか壊したか、誤って駐車場の水溜りに沈没させてしまったに違いない。由紀はスマホをバックの中に仕舞った。しかし三歩と進まないうちに再び取り出して、何か見落としている事は無いかと目を皿にしてメールの着信履歴を読み返した。実はこのとき、彼女は一つ重大なミスを犯してしまっていた。歩きスマホが危険な行為であることを、すっかり忘れていたのである。酔っていればなおさらだ。小さな画面に気を取られるあまり、由紀は交通量の多い車道の真ん中をフラフラと歩いていたのである。悲鳴のようなブレーキ音にハッとして酔眼を上げると、真正面から一台の乗用車が猛スピードで突っ込んでくるのが見えた。時間を止めることのできる特殊な能力者であれば、このような危機も難なく回避できたかもしれない。しかし彼女はごく普通のおばさんである。もう完全にアウトである。由紀はヘッドライトの刺すような眩しさに思わず目をつぶった。

『ドンッ!』

 突き飛ばされる鈍い衝撃に続き、宙を舞うような浮遊感が彼女を襲った。凍てつくアスファルトの上を転がりながら由紀は思った。自分の歩んできた人生とは一体何だったのだろうかと。苦労ばかりを重ね、何ひとつ良いことが無いまま死を迎えようとしている。明日になれば新聞の片隅に小さく名前が載るだろう。そんなんでいいのか?

『このままで死ねっかっ!』

 由紀はバチッと目を見開いて路上から半身を起き上がらせた。不思議なことに彼女はあれだけの衝撃を受けながら、全くの無傷で歩道に尻餅をついていたのである。

『???』

「だっ、大丈夫ですか? うぐっ」

 由紀のお尻の下から苦しげな男の声がした。どうやら間一髪のところを通りすがりの男性に救われたようだ。彼がクッションとなり衝撃を吸収してくれたお蔭で、由紀は奇跡的に助かったのである。だが命の恩人ともいえる彼の声は、腹立ちまぎれに鳴らされたクラクションのせいで由紀の耳には届かなかった。急停止した車の運転席からトナカイの着ぐるみを着た金髪男が顔を覗かせ、歩道に座り込む由紀を怒鳴りつけたのである。

「危ねぇぞ、くそババァ。どこ見てんだっ」

 由紀は反射的に顔を向けた。その声に聞き覚えがあったからだ。行方をくらましていた由紀の待ち人のものである。

「ナカイくんっ!」

 視線が交錯すること数瞬、金髪トナカイ男は相手が何者であるかを認識すると、サッと顔色を変えて首を引っ込めた。

「だれなの、知り合い?」

「ちっ、違う違う、ヤベェ」

 車内から微かに漏れる女の声を由紀の耳は聞き逃さなかった。開け放たれた車窓にむかって頭から勢いよく飛び込み、由紀は上半身を車内にすべり込ませた。

「キャァァァ~」

 やはり助手席には女がいた。しかも若い。ミニスカサンタのコスプレ服だとっ。アイドルといっても通用する女の目鼻立ちには、もう殺意しか沸かない。

「この女、誰よっ!」

 鬼のような形相で声を荒げる由紀に、男は情けないくらい慌てていた。視線はキョロキョロと落ちつかず、声は完全に裏返っている。

「あぁぁっ、いいぃっ、妹だ」

「嘘よっ、ぜんぜん似てないじゃない。どういう事なの、ちゃんと説明して」

「ひぃぃ~ぃ」

「誰なの、このオバサン? 怖いょ~」

「あんた、降りなさいっ」

 由紀は酒臭い息で喚き散らしながら女の髪をつかむと、力任せに引っ張った。車外に引きずり降ろしてブチのめすつもりだ。

「いいっ、痛ったぁぃぃ」

「やっ、止めろって」

 男はなんの躊躇もなく若い女に加勢した。その態度が燃えさかる由紀のアドレナリンに油を注ぐ。居合わせた人々は何事かと足を止めて車を取り囲んだ。窓際で繰り広げられる三つ巴の激しい攻防戦。由紀は野次馬の見ている前で車窓から突き落とされ、パンツ丸出しで再び冷たいアスファルトの上を転がった。

「ち、ちょっと待ちなさいよっ」

 熟女の生態に詳しい専門家によると、彼女たちは加齢による筋肉量の低下や関節のこわばりなどによって非常に転倒しやすく、また一度転んでしまうとすぐには起き上がることが出来ないと指摘されている。由紀の場合はどうだったかといえば、水面に落ちた昆虫のように路上で溺れていた。そのスキをついて車は急発進する。なんとか立ち上がった由紀は逃げ去る車を追って懸命に走った。いまさら追いかけても無駄なこととは分かっていたが、それでも追わずにはいられなかったのだ。毎朝のランニングで鍛えた自慢の脚力も高級車が相手では敵うはずもない。遠ざかる車のテールランプはみるみるうちに小さくなって、街のイルミネーションと混ざり合うようにして消えていった。

「はぁはぁはぁはぁ・・・ どうしてよっ」

 荒い呼吸を繰り返しながら由紀はつぶやいた。去っていく男の後ろ姿を見送るのはこれで何度目になるだろう。二股かけられていた。それだけでも十分にショッキングな出来事だったが、悔しいのは誰がどう見ても本命は向こうという事実。今や淡い期待は完全に裏切られ、由紀の手元には多額のローンだけが残されてしまったのである。

「バッカやろ~っ、金かえせぇ~~~」

 由紀は夜空に向かって吠た。込み上げる感情を必死にこらえる。泣くもんか、泣いたら負けだ。ギュっと唇を噛みしめる。

「見てんじゃねぇ~」

 由紀は声をひそめながら好奇の視線を送る通行人に当たり散らした。彼女にとってあの車はカボチャの馬車なのであった。華やかな舞踏会へこの身を運んでくれると信じ、無理して購入したのである。それなのに馬車に乗っているのは若くて美しい別の女だ。どうして男は若い女に弱いのだろう?

 三十過ぎた女に世間は冷たすぎる。

 三十過ぎた女に世間は冷たすぎる。

 三十過ぎた女に世間は冷たすぎる。

「バカヤロー」

 夜もだいぶ更けてきた。子供連れの姿は減ってきたが、それと入れ替わるように若いカップルばかりが目立つようになっていた。楽しげに会話をしながら腕を組み、肩を並べて目の前を通りすぎて行く。一人歩きをする者など誰もいない。腹の底から得体のしれない腐の感情が込み上げ、ドス黒い奔流となって渦を巻いた。クリスマスは嫌いだ。誕生日も嫌いだ。新年なんか大っ嫌いだ。要領いい者が笑い、真面目に働き続けた者がバカを見る。こんな不条理なことが世の中にあっていいのか。春の柔らかな日差しを浴びるのは働き者のアリと童話では教えていたはずだ。いつになったらこんな生活から抜け出せるのだろう? いつまで待てば白馬の王子は迎えに来るのだろう?

「バカやろぅぅ・・・ おぇぷっ」

 由紀は喉元に込み上げてきた熱い塊を懸命に飲み込んでこらえた。いかに無敵の不沈戦艦といえど飲酒あとの全力疾走はあまりにも無謀である。一気に酔いが回り、真っ直ぐ立っていることが出来なくなってしまった。天地が逆さまになってぐるぐると回り、真冬のベーリング海の如き荒波が幾度も幾度も襲いかかってくる。並みの船ならとうに沈没しているであろう。由紀は郵便ポストを相手に不思議なダンスステップを踏みながら、倒れまいと必死にこらえていた。三十過ぎた女が路上に倒れていたらどうなるか? もちろん救いの手が差し伸べられることはない。通行人に容赦なく背中を踏まれ、ツマ先の強烈な一撃をこめかみに喰らい、生きたまま玄関マットと化したアラサー女を由紀は何人も見てきた。深夜零時を知らせる鐘が冷たい夜空に鳴り響く。今年も奇跡は起こらぬまま舞踏会は終わってしまったのである。ガラスの靴を手に入れるどころではない。いつの間にか由紀は自分で履いてきたハイヒールを無くして素足で歩いていた。

 もうどれくらい歩いただろう、由紀はふと足を止めた。明かりの消えた店舗のショーウインドウに、薄ぼんやりと映り込む人影が目に入ったからだ。ボサボサに乱れた髪、血走った赤い目。着崩れた服に破れたストッキング。疲れ切った酔いどれ女。それが自分の姿だと分かったとき、彼女は今度こそハッキリと自覚せざるをえなかった。確かに客の言う通りだ、こんなババァに惚れる男などいないだろう。

「あぁぁぁっ」

 幸せになりたい。幸せになりたい。幸せになりたい。

 由紀はカボチャの馬車に乗り損ねたシンデレラだ。思いっきり泣いたら少しは気が楽になるかもしれないが、彼女は決して人前で涙を流したりはしない。泣けば気持ち悪がられ、笑えば怖がられることを重々承知しているからである。山から吹き降ろす身を切るような冷たい風が火照った体から急速に体温を奪っていった。由紀はダウン寸前のボクサーみたいな足取りで風裏になる雑居ビルの狭い隙間に逃げ込んだ。だが生憎とそこには先客の姿があったのだ。腹いっぱいにゴミを溜めこんだ業務用の大きなゴミバケツがずらりと立ちはだかっていたのである。

「邪魔だぁぁぁ~~っ」

 大声で叫びながら思いっきり蹴飛ばすとブリキ製のゴミ入れはベコンッと大きな音をたてて横倒しになり、溜めこんだ紙屑やビニール袋を吐き出しながら転がった。酔った由紀の目にその様子は、別れた元カレが腹を押さえながら転げる姿に映っていた。

「くっそぉぉぅ~、お前らのせいだっ、お前らのせいだっ、全部お前らのせいだ~っ」

 あらん限りの力と積もりに積もった恨みを込めて、由紀は男たちを何度も蹴飛ばし、踏みつけ、投げ飛ばした。


 数十分後・・・

 全員を蹴り倒し地獄に送り届けたのを確認した由紀は、落書きだらけの汚れた壁に背中をあずけて荒い息を整えていた。暴れたら少し気持ちが落ち着いた。それに疲れた。

 今夜はここでビバークしよう。

 由紀は散らかっていたダンボールの空き箱を器用に組み合わせると、夜露をしのぐための簡易シェルターを組み立てた。年齢を重ねるごとに驚くほどの逞しさと適応力が身についてゆく。もちろん今夜が初めてではない。慣れた手つきを見ても分かる通り、こうやってしばしば夜を明かすことがあるのだ。由紀は完成したシェルターに潜り込むと仰向けに身を横たえた。視線の先、手の届かぬ高い所にはビルによって四角に切り取られた夜空があった。その光景を見るたびいつも思う。自分は深い深い墓穴の底にいるのだと。そんな彼女を埋葬するかのように、大粒の綿雪が音も立てず舞い落ちてきた。恋人たちにとってはロマンチックな気分を盛り上げる神様からの贈り物であっても、独り身にはただただ寒さが増すばかりである。自分の仲間だとでも思ったのだろうか、横たわる由紀の元へ薄汚れた一匹の野良犬が近づいてきた。

「お前も独りぼっちなの?」

 痩せこけた老犬は由紀が差し出した手に鼻をすり寄せてきた。込み上げる感情をこらえようと由紀は固くまぶたを閉じた、しかし頬を伝う熱涙を止めることはどうしても出来なかった。もしシンデレラが馬車に乗り損ねたとしたら、彼女のその後の人生はどうだったのであろうか? 意地悪な継母に一生コキ使われたのではないか? そんな人生を送るくらいなら、死んでしまった方がマシなのでは? 由紀は自分の歩んできた半生を振り返った。高度経済成長の真っただ中に育ち、科学万能と教え込まれて生きてきた。万博で見た、あの輝くような未来が現実になると本気で信じていたのである。夢と希望にあふれていた21世紀はどこへ行ってしまったのだろう? 今の由紀には自分の将来に明るい希望を描きだすことなどまったく出来ないのである。無遅刻・無欠勤でまじめに働き続けた、けれども自分が望んだものは何ひとつ手に入れることが出来なかった。

 今までの人生がすべて夢であったなら・・・

 路地裏の悪臭立ち込めるゴミ置き場。そこは都界で不要になった物が最後に行きつく場所である。誰からも必要とされず、社会的に無価値な者の死に場所にこれほど相応しい場所は他にあるまい。

 もう考えるのは止そう。

 由紀はひとつ大きく息を吐いた。荒い呼吸もいつしか治まり心臓の鼓動がゆっくりと時を刻む。世界から置き去りにされてしまったような、深い孤独感がじわじわと胸の奥に染みてゆく。眠気が襲ってきた。寒さはまったく感じられない。

 なにも聞こえない。

 静かだ。

 燃え尽きんとするロウソクがその炎を細めるように、由紀のまぶたは自然に下がり意識が深い闇の底へと沈んでゆく。

 もう限界だった。

 見栄を張って生きることに疲れ果て、将来への希望を失ってしまった由紀の元へ死が忍び寄っていた。孤独という魔物が由紀を飲み込もうとしていたのである。

 そこへ・・・


 ロングブーツの踵をカッカッと忙しなく鳴らしながら、祭りの熱気にごった返す人ごみの中を闊歩する女がいた。シルバーフォックスを贅沢にあしらったミラノの最新コレクションを身に纏い、季節感など無用とばかりミニのタイトスカートから自慢の美脚を見せつけている。男どもの好奇の視線をものともせずピンと背筋を伸ばし、浮かれた街の空気に感染することなく自分を貫き通すその姿は、難攻不落の移動要塞を連想させた。いかなる逆風にも揺るがない、どんなに叩かれようとも決して折れない鋼鉄の女サムライ。それが二人目の主人公、福田エルマ・インターパークである。

 そろそろ目の覚めるようなセクシー美女の登場に期待が高まるところであろう。確かに若い頃に限って言えばエルマの容姿は美人の形容詞に恥じぬものであった。しかし年齢を重ねた現在はあらゆる意味において『怖っ』という印象のみを周囲に与え、まだ人の温もりを欲する幼児でさえ、決して寄り付こうとはしないのである。彼女は祖父の代から三代続く保険の効かない治療専門の闇医者を生業としていた。その技量は他を圧倒して抜きん出ており、闇の世界ではその名を知らぬ者のない存在であった。

「ちっ、どいつもこいつもっ」

 エルマは毒づいた。どこを見渡しても浮かれたバカップルが人目もはばからずイチャついているからだ。バカの度合いは年々酷くなってゆく一方である。本気でこの国の行く末が心配になってくる。彼女の双眸には世の中が病んでいるように映っていた。大きな矛盾と不平等を抱える末期的な世相に苛立ちが募る。誰かが早急に治療をしなければ、いずれこの国は亡びるであろう。その予兆はそこかしこに現れ始めているではないか。

 エルマは雑居ビルの狭い隙間の前でピタリと足を止めた。視界の端にうっすらと雪を被った奇妙なオブジェを捉えたからだ。彼女は探るような慎重な足取りで暗がりに潜むナゾの物体に近づいていった。そして得体のしれないその彫像の正体が、頭からゴミバケツをすっぽり被った女の姿だと分かった瞬間、エルマは全ての事情を了解することが出来た。なぜならば過去にまったく同じ状況を自らも経験していたからなのである。


 忘れもしない、あれは十代最後の夏だった。信じていた男に裏切られてしまったエルマは生きることに夢も希望も見いだせず、心は深い闇に囚われてしまっていた。表情から笑みが消え、後悔と嫌悪、そして圧倒的な虚無感に支配されてしまったのである。

 なぜ生まれてきたのか? なぜ生きるのか?

 なぜ? なぜ? なぜ?

 自分の居場所を失い、生きる目的を見失ってしまった彼女は、人生に何の価値も見出すことができなくなってしまった。そして答えを探して自問自答の日々を送っていたエルマは、ある日、その後の生き方を決定づける強烈な光景を目撃することになった。彼女の双眸が捉えたのは、寂しげに目を伏せて歩く女性たちの姿であった。世の中には自分と同じ悲しい境遇の女性がたくさん居るという事実を知ったのである。それは幸せな時には目に入らなかった、不幸になって初めて知った社会の闇であった。そうだ、いつの時代も力を持たぬ弱き女性は男たちに虐げられ、世の中の犠牲にされてきたではないかっ。

 エルマはついに自分の生きる意味を見出したのである。それは不幸な目に遭う女性たちを救い、すべての女性が笑顔で暮らせる女の城を作り上げるという壮大なプロジェクトであった。自分自身をゴミ箱へ投げ捨てたこの女を救うことは、自らに課せられた使命なのである。エルマはゴミ箱を払いのけると酒くさい由紀の体を乱暴に抱え起こした。

「バカ野郎っ、こんな夜に独りで出歩く奴があるかっ」

 エルマは現場の状況及び総合的な見地から急性クリスマス中毒と診断を下した。重度の恋愛機能不全患者に多く見られる典型的な症例である。あと少し発見が遅ければ取り返しのつかない事態になっていたかもしれない。エルマは自分のコートを脱いで、冷え切った由紀の体に着せかけた。だが彼女は何も答えようとはしなかった。まるでエルマの好意を拒むかのように眉をよせ、迷惑そうに顔をそむけるばかりである。むろんその理由もエルマには痛いほど理解できた。

「安心しろっ」

 エルマは急いで黒革の手袋を外すと由紀の目の前に手をかざした。エルマの左手薬指には、既婚者の証しである結婚指輪の聖なる輝きが無かった。そうなのだ、彼女もまた半世紀にも及ぶ人生の大半を誰に頼ることも無く、たった独りで生き抜いてきたサバイバーだったのである。こんな時間こんな場所にいることが何よりの証拠といえよう。独り者にとって既婚者に情けをかけられることは耐えがたい屈辱であることを、エルマはよく知っていたのだ。そして案の定、指輪が無いことを確認した由紀の表情からはウソのように警戒の色が薄れ、きつく結んでいた紫色の唇を震わせたのである。

「わわっ、私、わたし・・・ うぅっ」

 胸に仕舞い込んでいた思いが一気にあふれて、うまく言葉に出来ないようだ。エルマはそんな由紀の震える肩をしっかりと抱きしめた。

「いいんだ、泣きたいなら泣けばいい。だがな悲しいのはお前だけではないぞ。思っても見よ、今宵、一体どれほどの女がハンカチを噛んで悔しがり、マクラを濡らして眠れない夜を過ごしているのだろうか?」

「うぁぁぁぁ~」

 由紀の瞳から懸命にこらえていたものが堰を切ったようにあふれ出した。今まで人前では決して見せなかった弱い本当の自分をさらけ出し、出会ったばかりの他人の胸にすがりつきながら赤子のように泣きじゃくった。その様子はただの泥酔中年女とそれを介抱する世話焼き中年女の図であり、胸を打つ感動のシーンにはほど遠いばかりか、あまり目に入れたくない類のものであった。教育上の観点からも決して好ましいものではない。由紀はしゃくり上げる嗚咽を懸命にこらえて切れ切れに問いかけた。

「どどどっ、どうして? どうして、あなたは平気なんですか?」

 その問いに対するエルマの答えは、由紀にとって思いもよらぬものであった。キレ長の瞳に深い哀愁を宿したエルマは寂しげにこうつぶやいたのである。

「平気なように見えるのか?」

『!!!』

 その一言で全てを察することが出来よう。彼女も心の中に寂しさを抱え、深い孤独と戦うソルジャーだったのである。自分の寒さをこらえて見ず知らずの他人に温もりを与えるなど、どれだけの哀しみを乗り越えてきたら出来ると言うのであろう。エルマは重くなってしまった空気に気が付くと、それを誤魔化すようにあわてて立ち上がった。

「さぁ立つんだ、こんな所でビバークなんてイイ女が台無しじゃないか。飲み直すぞっ」

「はい」

 由紀はエルマの差し出した手をしっかりと掴んで立ち上がった。

 気まぐれな運命のいたずらか、あるいは何者かによって仕組まれた巧妙な策略か? のちに宇都宮を揺るがすことになる運命の歯車は力強くダイレクトに噛みあい、本人たちには何も知らされぬまま、物語は次のステージへと幕を開けるのであった。


     『ドクター・インパ』


「ぷっはぁ~、沁みるるるぅぅぅ~」

 酒が入ると由紀は見事に息を吹き返した。赤ちょうちんが灯された小さな居酒屋。その店先には肩を並べながら熱燗を酌み交わす二匹のサバイバーの姿があった。似た者同士の彼女たちはまるで十年来の友のように意気投合し、人生の境遇や不平不満を思う存分語り合っていた。

「ねぇ、どう思います? ねぇねぇねぇ?」

 金髪男との出会いとその顛末。男運がないことを切々と訴える由紀に、エルマはこんな質問をした。

「なぜシンデレラがチャンスをものに出来たのか分かるか?」

「そんなの若くて美人だったからに決まってますっ」

 忌々しさを滲ませながら由紀が即答するとエルマは小さく首を横に振った。

「違うな、あの舞踏会には国中からたくさんの女性が集まっていたのだ、シンデレラよりも若い女や美しい女はいたはずだ。彼女には他の誰にも負けないものが一つだけあった、それが王子を引き付けたのだ」

 エルマは熱燗をグイッと一息に煽ってからこう断言した。

「いいか、つまり彼女が幸せをつかむことが出来た一番の理由は、他の誰よりも真面目に働いたことだっ」

『ドドォォーン』

 その言葉は霞ケ浦のコンクリート護岸に打ち付けていたあの波飛沫のように、由紀の心を激しく揺さぶった。シンデレラをただのラッキーガールだと思っていたのは誤りである。彼女とて来る日も来る日も雑用にコキ使われ、希望の見いだせない将来を悲観して人知れず泣き明かしたこともあったであろう。それでも人生を諦めずに精一杯の努力を続けたことが魔法使いの登場を呼び、奇跡の逆転劇を演じることに繋がったのである。大切なのは、どんな逆境に遭遇しても諦めずに努力を続けることだとエルマは言っているのである。由紀は気兼ねしてずっと言い出せずにいた疑問を思い切ってぶつけてみた。

「先生はあんな所で何をしていたんですか?」

「私か?」

 エルマは再び熱燗を煽ると、熱い息とともに苛立ちを吐き出した。

「ふんっ、下らない点灯式を妨害してやろうと思ったのだがな・・・ 毎年繰り返されるこの愚かしい行事を、私は黙って見過ごす事ができないのだ」

 由紀はテレビ中継の映像を思い出していた。なんど叩きのめされても立ち上がり、バリケードに突入を繰り返す反クリスマス同盟軍。あの人ごみの中にエルマはいたというのだ。彼女は独り者の傷口に粗塩をすり込むようなマネは断じて許さんと、人知れず社会と戦っていたのである。エルマの口調や態度には少々高圧的なキツイものを感じることもあるが、その心の中は弱者を思いやる優しさに満ちあふれているのだ。

 もしエルマが男だったら恋に落ちてしまうのに・・・

 由紀はついそんな想像を巡らせてしまった。そして男運には本当に見放されているのだと、改めて自分の運命を呪うのであった。


 鋭く汽笛を響かせながら貨物列車が北へと向かう。そのガード下では酔いつぶれたオヤジ達が体に新聞紙を巻きつけて震えていた。彼らにも帰りたくても帰れない複雑な事情があるのかも知れぬが、そこはあえて触れずにおこう。イブの夜にいい歳した女が連れ立って闊歩する姿に、オヤジ達は何かを察したようだ。彼らは不意に起き上がると、戦地へ赴く兵士を見送るような熱い眼差しで二人にエールを送ったのである。

「お~い姉ちゃん、がんばれよ~」

「うっせぇ、余計なお世話だっ」

 二人を姉ちゃんと呼んだ辺りにオヤジ達の優しい気遣いと思いやりが感じられ、不覚にも涙がこぼれそうになってしまう。強がりなセリフを口にするのは、そんな弱気な自分を叱咤するためである。二人は我が物顔で通りを闊歩した。流行のイケメン俳優やモデルの名前を次々と挙げては、理想の男性像や結婚について熱く語った。つまらぬ男のせいで一度きりの人生を無駄にしたくはない。

「泣くのが嫌なら、さ~ぁ歩けぇ~♪」

「あははははっ」

「上を向い~て、歩こぉ~ぅ♪ 涙がぁ、こぼれないよ~ぅに♪」

「こらっ、ついて来るんじゃねぇ」

 いつの間にか酔っ払いオヤジをゾロゾロと従えての大行進になっていた。エルマになんど追い払われようともオヤジ達はしつこく二人の後を追い、コーラスに参加しようとするのである。本当は彼らも寂しかったのかもしれないが、面倒くさくなるのでもう止めにする。突如として始まった酔っ払いたちのパレードに通行人はあわてて道を譲った。

「幸せはぁ~ 歩いて来ない~♪」

「あはははははっ、だから歩いて行くんだね~♪」

 昭和歌謡の世界にどっぷりと浸かりながら二人は肩を組んで大きな声で歌った。自然と笑みがこぼれる。歌えば勇気があふれ出し、不思議と力が湧いてくるのだ。あとになって考えてみれば、これもエルマ流の闇治療だったのかもしれない。由紀はいつの間にか、普段の明るく陽気な自分をすっかり取り戻していたのである。

「いいかっ、魔法使いは精一杯の努力を続けた者の前にのみ現れるっ」

「はいっ」

「ネバー」

「ギブアップ」

「レッツゴー」

「三匹ぃ~」

「おやじ~」

「酒もってこ~い」

 さんざん飲み食いしているにも関わらず、さらに二人は宇都宮カクテル協会加盟店の全店制覇に挑んでいた。今夜はブイブイ言わせてやるぅぅと息巻いていた。改めて言うまでもないが二人の行為は相当危険なものであり、決してマネなどしないようにお願いする。

 目標達成まであと数店舗に迫ったときだった。気勢を上げる彼女たちの背中に二人組の若い男の声が投げかけられたのである。

「楽しそうだねベイベー、僕らも交ぜてくれよ」

「これからカラオケに行くんだけど、一緒にどう?」

 獲物が喰らいついてきたっ! それは久しく待ち望んでいた瞬間の訪れだった。チラリと後ろに目をやってその姿を確認すると、なかなか生きの良さそうなイマドキの若者たちである。美味そうだ、ヨダレが止まらない。二人は目で頷き合うと指先で髪をすくい上げながら、ハリウッド女優もかくやという最高のキメポーズで振り返った。ところが二人の顔を見たとたん、若者たちの態度は一変したのである。

「うわっ! なんだよ、ババァじゃねぇかっ」

「えぇぃ紛らわしい、このっ背中美人めっ。騙しやがって」

「イヤぁぁぁーーーーーー」

 由紀の悲しい絶叫が深夜の街に響き渡った。全身をガタガタと震わせながら、自らの手で両耳を塞いでしゃがみ込んだ。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。寒い。

 それはエルマが最も危惧していた事態であった。免疫力が極端に低下しているいま、彼らの心無い一言がトリガーとなって由紀の脳内では過去の失恋シーンがフラッシュバックしているのである。別れた男たちの捨てゼリフが無限リピートして由紀を攻め立てる。このままでは恋愛中枢が臨界に達し、深刻な事態に立ち至るであろう。エルマは瀕死の重傷を負ってしまった兵士の隣にしゃがみ込むと、肩を抱きかかえて手早く処置を開始した。

「落ち着け、落ち着いて息をしろ。大きく鼻から吸って口から吐く。ほらっ」

「うぅっ、も、もうほっといて下さい。どうせ私なんか生きていても・・・」

 由紀の様子に死の影を見てとったエルマは、俯いた由紀の顔を両手でしっかりと挟んで強引に上を向かせると、目を怒らせながら大声で叱りつけた。

「まだ諦めるなっ! 大丈夫だ、私の見るところお前は結構イケてるぞっ」

 その言葉は暗闇に閉ざされた心に差し込んだ一筋の光であった。由紀は全能神にすがる子羊のごとく、必死の形相でエルマを見つめ返した。

「それ、本当ですか?」

「ハっクシュン!」

「・・・・・・・・・・・・・」

「いっ、いや済まん、悪気はないんだ」

「・・・・・・・・・・・・・」

「ななっ、なんだその疑いの眼は、本当だって」

「・・・・・・・・・・・・・」

 エルマはあわててハンカチを取り出すと、飛沫をモロに浴びてしまった由紀の顔を拭った。だがこの行動が新たなる惨事を引き起こす原因になってしまうのである。ハンカチで擦れば擦るほど、由紀の顔面は複雑な色彩のカオスで混ざり合っていったのだ。もはや修復は不可能。いかに闇世界の神医といわれたエルマでも手の施しようがない。ハンカチにはカラー魚拓さながら由紀の顔がキレイに転写されていたのである。

「はぅっ・・・」

 エルマは底知れぬ恐怖に慄いた。

 とまぁこう書けば、大抵の人はエルマが恐怖したその原因を、由紀の素顔を見てしまった事にあると考えてしまうであろう。だがさにあらず。エルマは毎朝起きて鏡を覗き込むたびに、もっと恐ろしいものと遭遇していることを忘れてはならない。エルマは無言で見上げる由紀のジト目に恐怖したのである。瞳の奥底には乾燥しきった無限の荒野が、僅かな灯火さえない真の闇が広がっていたのだ。『お前、いい加減にしとけよ』という声なき声に追い立てられるようにエルマは立ち上がり、背中を向ける若者たちを呼び止めた。

「おいコラっ、お前らちょっと待て」

 若者たちは迂闊にも足を止めてしまった。経験不足が招いてしまった致命的なミスである。彼らは死よりも恐ろしい瞬間がすぐ間近に迫っていることに、全く気付いてはいなかったのだ。エルマはずいっと一歩を踏み出してこう言った。

「イケてるお姉さんに向かって随分な挨拶じゃないか? 世間知らずの坊やたちに成熟した大人の女を、小娘にはマネのできない真の女の魅力を教えてやる。とくと見るがよい」

 そう言うが早いか、エルマはブラウスの胸元を限界まではだけ、グラビアアイドル顔負けの大胆なセクシーポーズを披露したのである。

「どうだ?」

『うげぇぇーーー』

 若者たちの悲しい絶叫が深夜の街に響き渡った。雷に撃たれたような衝撃が彼らの脳天を貫いた。カッと見開いた眼は己の意志に反して閉じようとはせず、戦慄の恐怖映像は視神経を侵し、視床下部にまで達した。このままでは脳に何らかの障害が残り、毎晩悪夢にうなされることになるのは確実である。彼らはこの場からなんとか逃れようと、自由のきかなくなった体を懸命に動かして後ずさろうとする。エルマはそんな若者たちの様子を見て首を捻った。

「ふむ、気に入らぬか? ならばこれでどうだっ」

 自信ありげにエルマが披露したのは、まだ見ぬ未来の旦那さまのために開発した究極の悩殺ポーズ。その名も『エルマー・バッハスペシャル!』

 当局の指導および読者諸氏の精神面に配慮して詳しい描写は割愛させて頂くが、それは口にすることも活字にすることも憚られる。映像化などはまったくもって問題外。警察に見つかれば即御用のとんでもなくヤバイやつであった。そんな劇物を薄暗い夜道で目撃してしまった彼らにもう明日は来ない。

「うぉぉぉー、目がっ、目がぁぁっ」

「頼む、もう止めてくれっ。死ぬるぅぅぅ」

「うがぁぁぁっーーー、それどういう意味じゃぁぁぁーーーっ」

 するどい犬歯を剥き出しにしてエルマが怒りを爆発させると、その全身から旋風を巻いて暗黒のオーラが出現した。稲妻を走らせながら解放される濃密な瘴気の中で、エルマの姿は驚くべき変貌を遂げていったのである。その身に纏うのは毒蛇感のある深い艶と光沢を放つバトルスーツ。動きやすさと露出願望を追求した結果、法律ギリギリの大胆なカッティングが施されている。長い黒髪に戴くのは、黄金のドクロを連ねて作った髪飾り。漆喰で塗り固めたような顔は、地獄からやって来た暗黒女王と呼ぶに相応しい。泣く子も黙るその姿は栃木県民に恐怖をもって語られていた。

「まっ、まさか、ドクター・インパっ」

 由紀の上げた驚嘆の声は爆発音によってかき消されてしまった。エルマは暗黒瘴気でバズーカ砲を生み出すと、ダークパワーを凝縮した腐のエネルギー弾を発射したのである。

『どォォっかぁぁーーーん!』

 女王の怒りを買った愚かな若者たちは何処かへ吹き飛んで消えてしまった。


     『魅力ある街づくり運動』


 栃木県では県民の生活水準の向上と豊かな暮らしの実現をはかるため、大胆な規制緩和をはじめとする様々な制度が取り入れられている。市民ボランティアの自由で活発な活動を支援するために、県から助成金が支給されることなどもその政策の一環である。

 この制度が始まると、目論み通りに前出のママさんコーラスやジャズバンドのようなサークルや同好会が各地に次々と結成されるようになっていった。それぞれが県民のために良かれと信じる活動を実践するのである。ボランティアに支給される助成金の額は一般からの評価によって決定されるため、各チームは必然的に市民と寄り添った活動を行うこととなり、市民はより豊かなサービスを享受することができるのである。

 しかしながら規制緩和は良い効果ばかりを生み出している訳ではなかった。ときには思わぬ事態を引き起こすこともあったのだ。活動内容や意見が激しく対立した場合、それぞれの信念に従って行動する彼らは互いに譲るということをせず、たびたび武力による衝突が発生したのである。その争いに一層の拍車をかけたのが超人戦士と称される者たちの存在であった。詳しくは後述するが、県が独自に行った大胆な規制緩和が医学・機械工学・人工頭脳・バイオなど様々な分野に飛躍的な進歩をもたらした結果、超人ウォリアー、あるいはアンドロヒーローと呼ばれる人類を超越した存在を誕生させるに至ったのである。今や県内は彼らがガチでぶつかり合うカオスワールドと化しているのであった。


 県内に大小あわせて数百存在すると云われているボランティア団体。それがどのようなものであるか。ここではその一例として人気・実力ともに県内トップクラスの実績を誇るチーム、『国際恋盟』をご紹介しよう。

 宇都宮市内の本部と各地の支部を合わせれば、登録者数は数千人を下らないという大規模な組織である。彼らの主な活動は、恋愛によって生じる様々な紛争を解決することにあった。具体的には離婚調停、恋愛維持活動、DVへの武力介入、慰謝料や養育費の取り立て代行業務、浮気監視団の派遣などである。また人道的支援の一環として行われている非モテ市民との一日デート(有料)は予約が取れないほどの人気を誇っている。

 そんな彼らの活動の中で忘れてはならない重要な柱の一つが、出会いの場を提供することであった。活動そのものが男女の出会いの場としての役割を果たし、これまでに数多くのカップルを誕生させることに成功してきたのである。理想のパートナーを見つけた男女は、やがて郷土を支える大きな力となるであろう。

 その発足以来、国恋の活動は万事順調であった。ところが数年も経つと思いもよらぬ状況に直面したのである。度重なるカップリングにもかかわらず、どうしてもパートナーを見つけることができない女性たちの存在。いわゆる売れ残り問題である。

 恋人の斡旋にことごとく失敗を続けた国恋は彼女たちへの支援を打ち切り、紛争地から撤退することになった。受け入れ先が見つからず恋愛難民と化した熟女たちは国境近くのキャンプ地で自力の生活を強いられるか、あるいはボートピープルと化して人生の荒波を漂流する運命となっていったのである。まぁどちらを選んだにせよ、将来に明るい希望が無いことは一緒であろう。

 このような熟女の危機的状況を憂い、いよいよ彼女たちを救済するべく新たな組織が誕生することになった。それがエルマを首魁とする非公認のPKОボランティア、『独立愚恋隊』である。国恋と世の男性諸氏に見放されてしまった独身熟女や再婚を望むシングルマザーたちにとって、エルマの出現はまさに神であった。熟女たちは救世主エルマの元へ次々と集い、その人数を増やしていった。ときにはエルマ自らが路上や街角でスカウトすることさえあったという。メンバーの平均年齢は48・48歳。結婚を女の花道とするならば、日の当たらぬダークサイドを歩んできた修羅といえよう。

 エルマが立ち上げた恋愛難民救済組織。現代版ノアの箱舟。

 ところが気になる男性からの評判は、必ずしも彼女たちの期待するものではなかった。恋愛成就のためならば男性の誘拐や洗脳をも辞さない、過激なテロリスト集団と誤解されてしまっていたのである。そのため県からはボランティア団体としての認可が下りず、活動はすべて自費で賄われていた。


「ふんっ、私の魅力を理解できんとは・・・ 美しすぎるというのも困ったものだな」

 エルマがバズーカから立ち昇る燻煙を吹き消すと、彼女の体を覆っていた戦闘スーツも煙になって消えて行った。

「あなたがダークドクター・インパっ? あわわわっ」

「なぜ逃げる?」

 由紀はお尻を引きずって後ずさりしながら、たびたび耳にしていた熟女軍団の噂を思い出していた。あるときは鼻が曲がるほどの強烈なフレグランスをまき散らし、またあるときは有毒生物を思わせるド派手な服とケバケバしい化粧で周囲の者を震え上がらせる。過剰に肌を露出させ、見る者から生きる気力を根こそぎ奪い去ったかと思えば、女子トイレの混雑時に堂々と男子トイレに乱入する。終いには男女共用のトイレで鍵もかけずに用を足す。熟女たちのその傍若無人な振る舞いの数々が県民を恐怖のどん底に突き落としているのである。邪悪な笑みを浮かべたエルマは怯える由紀に歩み寄ると、そっと右手を差し出した。

「我がサークルへようこそ?」

「うぁぁっ、私は間に合ってますからっ」

 壁際まで追い詰められられた由紀は壁を掻きむしらんばかりに後ずさった。往生際の悪いその態度に、エルマは目を怒らせながら怒鳴りつけた。

「ちっ、この期に及んでまだ言うかっ。今のを見て分かっただろう、世の中にはバカな男どもが多すぎる。若い女に鼻の下を伸ばした愚かな奴らに、女の真の美しさと魅力を認識させなければならない。誰かがやらねばならぬのだっ!」

「ひぃぃぃ~ぃぃっ」

 苛立ちを隠さず声を荒げるエルマの迫力に由紀はすっかり抵抗する気力奪われてしまった。その後、寒空の下でエルマの説教はみっちり三時間ほど続き、根負けした由紀がしぶしぶサークルの入会書にサインをした頃には、白々と夜が明けようとしていたという。


     『神技』


 由紀の運命を変えた、あの衝撃的な出会いから数日。東北自動車道・宇都宮インター周辺は年末恒例の大渋滞に見舞われていた。正月を故郷で過ごそうとする帰省客が都心から大挙して押し寄せたためである。栃木県のキャパを大幅に超える自動車の襲来に、県内の交通機関は一時的にマヒ状態に陥ってしまったのである。

 基本的には素通りされる運命にある栃木県。しかし続々とインターを下りて山へと向かう四輪駆動車の一団があった。長期休暇を利用して大勢のスキーヤーが訪れたのだ。彼らのお目当ては最高のパウダースノーに覆われた白銀のゲレンデである。小さなスイスを思わせる山並みの中を粉雪を散らしながら滑走する爽快感は、決して都会で味わうことの出来ないものだ。雪化粧をほどこした木々と青空がみせるコントラストの美しさはあえて記すまでもあるまい。そんな景色を観ながら入る露天風呂はまた格別である。県内には様々な泉質の名湯秘湯があり、都会の喧騒を離れてコンコンと湧き出でる源泉かけ流しの湯船に身を沈めれば、仕事のストレスも辛い神経痛もみんな湯に溶けて消えてしまうのである。都心から日帰りで訪れることができる射程圏内でもあるので、お疲れの方はぜひ一度足を運んでいただきたい。皆様方のご来訪を心よりお待ち申し上げております。

                (栃木県観光課HPより一部抜粋)


 その夜、最低級のおもてなし、が謳い文句のぼったくりナイトパブ『吊り天井』は異様な熱気を放ちながら、にわかに活気づいていた。忘年会を兼ねて、東京から温泉宿へ宿泊に来ていたIT企業の役員たちが、偶然にも立ち寄ったためである。年収が数千万を下らないという超セレブ。しかも年齢はおどろくほど若く、みな三十才前後である。ゆえに競争は激しかった。若い嬢たちはブランドバッグの一つも買ってもらおうという野心を剥き出しにして、いつも以上に気合の入った出で立ちで積極的に自分の売り込みを始めていた。欲望うず巻くその様は現代の舞踏会さながらであった。もちろんセレブ妻になる絶好の機会を前にして、由紀もただ黙って見てはいない。満を持して体得した宴会芸の数々を披露したのである。

 食べた素麺を鼻から一気に噴射する『ナイアガラ』 口から逆流『マーライオン』 ロケット花火を肛もっ、、、 いやいやっ、校門に花火を突っ込んで点火する『人間ロケット』 あらかじめ仕込んでおいたピンポン玉を○○○から出す『海ガメの産卵』

 これら一歩間違えば命さえ落としかねない危険な宴会芸の数々は、日光東照宮参詣のためにこの地を訪れた歴代の将軍や、参勤交代の際に立ち寄った諸大名をもてなすために考案されたものである。ところがどうしたことか、由紀の芸は全く受けず、客はみなドン引きだった。初めて本物の芸を目の当たりにした若い嬢など、ショックのあまり泣き出す始末である。涙の効果は絶大であった。泣いた女に男はめっぽう弱かったのである。

「誰かっ、警察を呼んでくれっ」

 怒号が飛び交い、騒然となった店内を後にした由紀は、トイレに駆け込むと声を殺して泣いた。命を削って習得した座敷芸が、若い女が流す涙の前にあっさりと敗れてしまったのである。

「あんなのウソ泣きに決まってるじゃないのっ、うぅぅっ」

 真相はどうであれ、負けたという事実が今後の生活に大きな影を落とすことに間違いはない。かつては大奥入りを果たした者や大名の側室を数多く輩出してきた由緒正しい芸が、現代人にはまったく通じないのである。この先、どうやって生きていけばいいのか?

 ようやく気持ちが落ち着いてきたころ、彼女の携帯にエルマからの緊急メールが入った。画面には集合場所と日時が記載されている。戦を告げる狼煙だ。こんな自分にも力を必要としてくれる者がいる。そして誰かの役に立つことができる。由紀は覚悟を決めた。ここにとどまっていても明日への希望が見いだせないのであれば、勇気を持って前へ進み、自らの手で新たな人生を切り開くしかない。誰も助けてはくれないのである。あらゆる困難に打ち勝ち、失った青春を取り戻すんだ。幸運は努力した者の前にのみ訪れるっ!

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