カフェオレのつくりかた
生玉遠間
1
「かんじんなことは、目に見えないんだよ」 ――サン・テグジュペリ
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※※※
生まれも育ちも下町・根津、俗に言う谷根千を庭としてきた多摩先生の事務所は、ややこしいことに八王子にある。
やもめのがさつな生活だから、さしてひつようなものも高価なものも無く、めっぽうかるい足取りで、先生は風来坊さながらすみかをあちこち変えてきた。
東京のウエストエンドを治めんとしたためでもないが、この地に足を踏み入れたのが二年前。
どういうわけか空気が合ったらしく、もう長いことこの、屋根があるだけと揶揄されるオンボロ事務所に居をなしている。
先生はおおきく伸びをして、口元のひげをつめで梳いた。
「どうかね、くもゆきは。風のたよりとやらはきたかい」
「……きてない、ですねえ」
がっくりした国分寺とはうらはらに、先生はどこ吹く顔で、
「まあ、趣味みたいなものだから。私はいっこうにかまわないよ」
「……ぼくが困るんですけど」
「私は困らない」
ひどく乾いた空気が流れた。
「きみときたら、人生をいかにいろどりゆたかに、みたいな広告代理店みたいなことばかりで、まるでゆとりがないじゃないか。たまには何もない平和をありがたがって、ただ無為に寝ることと食べることだけをゆくあてにしてみたほうが良いと思うね」
長広舌をひといきに言い切って、先生は寝転んでしまう。きっとあごが疲れたのだ。
国分寺が黙っていると、気をよくしたのかふたたび口を開く。
「こんな生活を続けているとね、生きていくことじたいはけして難しくないことを悟るんだ。難しいのは、生きていくことはけして楽しくもない、無理やり参加させられたバスツアーみたいなものだと、あきらめることだね」
先生はそれが一番たいせつなことのように、ゆっくりと語っているが、どこまでがまじめに考えたことか、国分寺は知らない。先生はいつだって適当なのだ。
国分寺はもはや何を言ってもむだだと悟り、つづける言葉をあきらめた。
国分寺と先生は、少し遅いモーニングをとっていた。ほこりっぽい事務所であじわうコーヒーの奥深い苦味が、鼻腔の奥にかすみがかって消えていく。
まあ、たしかに、こんなふうにゆっくりと流れるまったりとした時間も悪くはない。
「なにがそんなにうまいかね」
何のことかと思ったら、コーヒーの話である。
先生は苦いのがにがてらしく、もっぱらミルクをなめていた。それだって多く飲んだら腹を下すのだ。難儀である。
「苦味って味覚は、生存本能にもとるじゃないか。生物はうまいものを良性、まずいものを悪性として取り込むものの取捨選択をくりかえし、みずからの命を永らえてきたんだぜ。そのまま食えばいいものを、なんだってわざわざ空炒って煮出してまで、真っ黒くろけな液体にしなきゃいかんのだ」
「だからこそ、本能の利害をこえた、理性と知性の奇跡、とぼくは思っていますよ」
まったく、でたらめだった。
「うまいものをうまいという、そんな単純なことでいいじゃないか。苦いのはもうたくさんだよ」
二つの思想は平行線で、地平のかなたまで行き交うことはない。
コーヒーにミルクを混ぜ込むと、それがカフェオレという飲み物になることは、誰もが知っていることだ。けれど器は二つしかなくて、その器がそれぞれの液体で満たされているのなら、テーブルにこぼさないで二つを混ぜ合わすことはできないのだ。
しかし、対立はまったく別の因子でもって打ち切られることになる。
「……あ」
「お……」
風の便りが来た。待ちに待った「依頼人」の登場である。
「……きたのか?」
「きましたね。いきましょうか」
先生は不承不承、
「場所はどこだ? まさかこの前みたいに、二時間も歩かないだろうね」
「安心してください。ほんの一時間ほど歩いたらお茶をして、もうあと半分歩けば辿り着きますよ」
先生はあきらめともつかない悟ったような顔をして、
「きみに背負ってもらうとしよう」
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