アウトレットパレス

@nekonohige_37

アウトレットパレス

 稲葉がこのぼろアパートを新しい根城として選んだのには幾つか理由があるのだが、その理由の中で『大家が美人だった』を抜いて決定打になった理由は、単にアパートの家賃が極端に安かったからだ。

 確かにアパート自体は若干古く、少しだけ大通りから入り組んだ場所にあるとは言え、それでも最寄りの駅から徒歩十分圏内。

 近くにはコンビニに本屋があり、少しだけ歩けば二十四時間経営のスーパーマーケットなどもあり、鋲の跡が残る黄ばんだ壁紙や若干立てつけの悪い窓を減点対象に入れたとしても家賃が安い事には変わりない。

 確かに家の壁紙が黄色いのは若干癪に障るが、積もりたての雪の様に白かった処で、稲葉は普段からヤニのきつい煙草を締め切った部屋で吹かす為に対して壁の白さは重要じゃ無かった。

 窓の立てつけの悪さも同じで、ちょっと暑ければクーラーを回し換気なんて習慣を持たず、温室で栽培されるマッシュルームの様な生態を持つ彼にはさしたる問題でも無い。

 ただ、目の前でガタガタとやかましく音を立てる窓を見つめ、この一点に限っては計算外な問題だったと再度彼は考えつつ、口元でちりちりと音を立てながら煙の尾を引く煙草を見つめて稲葉は鼻を鳴らす。

 「煩せえな……相変わらず……」

 稲葉は一言ぼやき、紫煙を吸い込むと、フィルター付近まで炎が迫っていたそれを空になっていた空き缶にねじ込み、咳き込みながら煙を吐き出す。

 今日はバイトのシフトが入っていない為に一日自由に過ごせるのだが、給料日前だと言う事もあってパチンコに出掛ける軍資金は無く。

 かとってそれ以外に趣味を持っていない彼は、一日やる事も無く、一人ふてくされた様に古く黄ばんだ中古の漫画本を読んでいたのだ。

 そうしてこれとって体を動かす必要も無くなると、今度は手持無沙汰と口寂しさが呼んでもいないのに自己主張を始めるものであり、彼はそんな個性豊かな頭の中の友人を黙らせる為、これまでに五回も禁煙に成功した煙草に火を付けたのだ。

 だが、そんな彼の行動に嫌気がさしたのか、自分一人しか居ない筈の家の窓ガラスが音を立てて震える。

 勿論、稲葉は窓を開けようとしておらず、ただくしゃくしゃになった寝巻のまま、ガタガタと音を立てる窓を見つめるだけだ。

 「不器用だな……」

 彼のそんなぼやきに反応してか、窓ガラスはひときわ大きな音を立て揺れ、つっかえが外れたのか一気に開かれる。

 本来は換気と採光様に設置されていた大穴からは、新鮮な空気が入り込み、白っぽく濁った室内の空気を、四角く切り取りスポットライトの様に稲葉の爪が伸びた足を照らす。

 窓の立てつけが悪かったとしても、仮に大地震が起きたとしてもこうして窓が一人でい開く事はありえないのだが、幾ら目を凝らして見ても、窓を開けた人間の影は何処にも見当たらない。

 だが、稲葉はその犯人は、目に見えないとは言え目の前に居る事を知っている。

 「あれか? 線香みたいな感じで、こういう煙吸ってると成仏するのか?」

 彼は小さく、まるで目の前に誰かが立ってるかの様に小さくぼやく。

 傍から見たら一人言に見えるかも知れない動きだが、稲葉は目の前に、目には見えないがそれが居る事を知っていた。

 「って……何で自縛霊に話かけてんだよ俺は……」

 もう存在自体が対して珍しくも無くなった奇妙な同居人、その存在がこの部屋の家賃が安い理由だった。

 元々、この家には別の人間が住んでいたという。

 だが、何かしらの理由があり、この家に住んでいた人間は早すぎる死を迎えたと。

 とはいえ、根拠の無い怪談話など信じる暇があれば、時折来る迷惑メールに刻まれた胡散臭い情報を信じる彼にとって、人が昔死んだ部屋だという情報など、大して気にならない事だった。

 元の家主の荷物は全て業者の手で取り払われた室内に引っ越してくるなり、稲葉は小さな冷蔵庫と中古の家具を部屋に並べ、一人暮らし用の冷蔵庫の中にはコンビニ弁当と缶ビールを突っ込み。

 中古で買ったカラーボックスの中には、幾つかの雑誌と中古の漫画、それと子供には見せられない成人向けの本数点を並べ、傷の浮いた卓袱台の上には灰皿と幾つかの煙草を置いた訳だが、それから少し経っての事、彼が何時もの様子で寝起きの一服を楽しんでいた際最初の異変が起きたのだ。

 その異変はごくごく些細な物だった。

 朝食を食べる代わりに煙草の煙を口へと運びつつ、ニュース番組と呼ぶにはいささか粗雑なバラエティ番組を見るのが日課だったのだが。

 不意に、彼が見ていたテレビの画面が切り替わり、面白みがない代わりに信頼性に長けたニュース番組が再生されたのだ。

 当初はテレビの異常か、もしくは部屋にうずたかく生まれたごみ袋の影響でリモコンのボタンが押されたのだろう、そう結論付けていたのだが、次の日には別の変化が起きていた。






 「……ん?」

 稲葉は寝起き早々、欠伸を噛み殺しながら部屋の中で起きたその変化に目を丸くする。

 部屋の中に明らかな違和感が転がっていたのだ。

 部屋中にゴミ袋が散乱しており、テレビの上には埃が積り、広げられたままの雑誌の一面は、過激なグラビア写真を表にして沈黙している。

 室内の空気はじめじめと淀み、少し吸い込んだだけで濃厚なヤニの匂いが鼻の中を駆け抜け、脱ぎ散らされたパンツが彼の汗の影響からか、この世の物とは思えない悪臭を放っていた。

 決して過ごしやすいとは言えない環境だが、そのあり様は寧ろ彼の日常の中ではごくごく普通の事である。

 だが、やはり部屋の中に違和感があったのだ。

 その違和感を探しながらも、とりあえずと座イスに座った彼は、その変化に気が付き首を捻った。

 彼の目線が止まった先、そこは一本のバナナが置かれた卓袱台だった。

 なんてことの無い光景だ、バナナ自体も夜食用に自分で買ってきた物だ……だが、稲葉はそのバナナを卓袱台の上に置いた記憶など無かったのだ。

 それどころか……

 「……冷蔵庫の中に突っ込んでた気が……それになんか――」

 卓袱台が妙に綺麗だったのだ。

 普段は煙草の灰とカップラーメンのスープが落ち、得体の知れない色彩を放っていたその机上は、今はつやつやと輝き、その光の奥に木目を描いているのだ。

 誰かが朝食代わりにこのバナナを食べろと催促したようで、しかもその人物は食べ物を置く台が汚い事が気にくわなかったのか、丁寧に卓袱台の掃除まで済ませてくれた様だ。

 だが、絶賛独身海道疾走中の彼にとってその様な事をしてくれる相手など清掃会社以外心当たりが無かった。

 しかし、基本的に無頓着な彼は、六十センチ四方の台の上で起きた怪奇現象にはこれと言って関心を示さず、とりあえずと誰かが用意したバナナを食べ、バイト先へと足を進めたのだった。

 その日の夕方、彼は帰宅するなり更なる異変に気が付いた。

 「米の匂い……?」

 盗まれる様な物など無いのだが一応施錠されていた戸を開き、その中を覗くなり彼の鼻孔を美味しそうな米の匂いが刺激した。

 確かに彼の家には安い炊飯器の一つくらいは備わっており、タイマーを掛けておけば帰宅するタイミングでこうして米を炊く事も可能だろう。

 だが、問題は彼は家を出る前に米を仕込んだ記憶が無い事だ。

 そしてもう一つ、彼は卓袱台の上で発生した奇跡に目を丸くする。

 「……おいおい……」

 彼が目を丸くしてみた先、そこには晩飯が鎮座していた。

 しかも、全て出来たてらしく暖かな湯気を発し、同時に美味しそうな匂いで稲葉の胃袋を刺激している。

 その料理を作った本人は、あくまでも家にある食材しか使ってないのか、酒のつまみとして買ったシーチキンと安いもやしと卵に玉ねぎが主だってはいたのだが、普段滅多にキッチンに立たない彼にとって、それは至極真っ当な晩飯だった。

 「誰が作ったんだよ……」

 怪しむよりも先に食欲を満たすべく、箸を手に取った彼は、炊きたてのご飯に端を突きたてつつもそう呟いた。

 その時、彼の声に反応してか、家の壁がノックされた様に音を立てた。

 彼の部屋はアパート内でも角部屋であり、本来その先は人が居る訳無い場所だったのだが、その個所から不意に響いた音。

 それに気が付いた彼は、薄々見当がついていた仮説を口に出してみた。

 「あんたが作ったのか?」

 返事は一回のノックだった。

 恐らくイエスと言う事なのだろう、一瞬面食らいつつも、稲葉は軽く深呼吸してから更に質問を重ねる。

 「あんた……幽霊か?」

 再び一回ノックが鳴り響く。

 「昔この部屋に住んでたのか?」

 僅かな逡巡の後に続く短いノックの音。

 「成仏する気は無いのか?」

 少しだけ長い空白の後、力強いノックの音が鳴り響いた。

 不思議と恐怖心は湧かず、湧くとしたら心の底から湧き出る呆れに眉を寄せた彼は、大きく溜息を吐いてから食事にありつくのだった。

 傍から見たら、そして一部の霊能力を売りにした詐欺師からしてみたら嬉しすぎる一連の出来事だったが。

 そんな事はどうでもよく、とりあえず家賃が高くならないのならどうでもいいと考えていた稲葉は、何やら面倒な事になったと思いつつ、やたらと絶妙な味付けを施されていたオムレツを口に運び下鼓を打つのだった。






 その翌日の朝には、その命の無い同居人が残した買い物リストに溜息で応じ。

 更に次の日の夕方には、家の中にあったゴミが全て分別されていた事に驚き。

 昨日の夕方には、うず高く積まれていたエロ本がロープで一つに結ばれていた事に激怒した彼だが、棚の奥に仕舞っていた煙草の類は処分されていない事に安堵した。

 ゆっくりでは無く、寧ろ駆け足でその影が濃くなっていく幽霊の存在。

 そんな超常現象を見て見ぬふりなど出来無いのは当たり前だが、不思議とそんな状況に置かれても嫌悪感を覚えず寧ろ次はどんな変化を見せるのか、その事が気になる様になっていた。

 そして、ふと気が付いた時、薬にも毒にもならない様なバライティ番組位しか関心を示さなかった稲葉は、幽霊に関して少しだけ関心を示し始めていた。

 何かと細かな気配りが出来る事、そして買い物リストに書かれた文字が、やたらと丸っこく可愛らしい物だった事。

 それらを踏まえ、稲葉は家の中に居る幽霊が女ではないかと検討を付け始め、行動を開始したのはついさっきの事だ。

 『お客様がご利用いただいてる物件が事故物件である事は予めご了承を頂いた筈ですが』

 「いや、そんな事判ってるんだ、俺が聞きたいのは――」

 電話越しに疲れた様な管理会社の声が響く。

 管理会社としては、予め物件が事故物件だと伝えたのにも関わらず、稲葉が何かしらのいちゃもんを付けて電話したのだと勘違いしている様だ。

 『契約を切るにしても、退去の一月前に連絡を頂かなくては我々としても――」

 「だから、別に俺は今のアパートを出てく予定なんて無いんだよ!」

 『……ではどの様な御要件で……?』

 電話越しにも判る大きな溜息の後、担当の人間の呆れに歪んだ疑問符がスピーカーから聞こえて初めて稲葉は本題を口にした。

 「俺が住んでる部屋で起きた事故、その事について教えてほしいんだ」

 稲葉は仕事の休憩時間、反射材が張りついたベストにヘルメット、そして左手には電源の落とされた誘導棒を持ったまま、自分が住むアパートの管理会社の方へ電話をしたのだ。

 理由は簡単である、自分が今現在住まうボロアパート、その部屋の特徴に『事故物件』という謳い文句が追加された経緯を知りたかったからだ。

 勿論、そんな事わざわざ仕事の合間にしなくとも家でゴロゴロしてる時に済ませばいいだけなのだが、それをするには僅かに気が引けた。

 その理由こそ、今現在家で留守番をしている自縛霊の存在だ。

 幽霊だから悲しむのかも判らない、だが、自分が彼女を襲った不幸な事故について調べてる様子を見せるのは、少しだけ気が引けた。

 そして何より、そんな事をして彼女に嫌われるのが怖かった、それは怒り狂った自縛霊の報復が怖いのでは無く、辛い過去を穿り回され悲しむ彼女を見る……もとい気配を感じるのが怖かったのだ。

 『事件の事でしょうか?』

 「ああ、そうだよ、色々判ってるんだろ?」

 『はぁ……少々おまちください、記録を持ってきますね――』

 そんな大家の声に続き安っぽい音で再現されたクラシック音楽が流れ出し、稲葉は大きく溜息を吐くと、左手に持っていた誘導棒を舗装されたばかりの道に置き、代わりにボロボロになったメモ帳を取り出す。

 『――お待たせしました――」

 丁度その動きに合わせた様に、鳴り響いていた音楽が止まると、状況が判らず呆れかえっている管理会社の声が響いた。

 そして、小さく息を吐くと、稲葉はそれから続く説明を持っていたメモ帳に書き込み始める。

 仕事とは全く関係の無い事を業者にお願いした訳だが、その分色々な事を知る事が出来た。

 先ず、彼女の名前は『ウサミ ナツキ』と言う事、そして年齢は二十代半ばだった事。

 次に、近隣の住人の話によれば彼女は、夜型の生活をしており、日が暮れてから職場に向かい、日が昇る頃に帰宅をしていたとの事だ。

 それ以上の事は管理会社も知らなかったらしく、色々と質問を投げかけたところで彼女がどの様な仕事をしていたのかまでは判らないと言う。

 だがそれとは別に、稲葉はあまり聞きたくない情報を耳にしてしまった。

 「ウサミナツキは――」

 事故死では無く他殺によって命を落としていた。

 確かにアパートで火事が発生し、その結果として彼女が火に飲まれ命を落としたのなら、このアパートが残っている事自体が不自然だ。

 それに彼女の年齢からしても、心臓麻痺やクモ膜下出血などと言った有体な病を突然発症するとも思えず、仮に耐えがたい不幸に見舞われたとしても、見ず知らずの相手の為に部屋掃除をする様な世話焼きの傍に相談できる相手が居ない方がおかしい。

 彼女の様な人間なら、たとえ自ら命を落とそうとしてもそれを止めてくれる大切な仲間が居るのは間違いが無い。

 だったら、おのずと答えは見ていたのだ。

 だが、実際にその死因を耳にすると胸の奥深くに重い物が落ちる感覚を覚えざるを得ない。

 「……」

 仕事が終わり、家に帰る前に一服していた稲葉は、ふと足物に転がって来た新聞紙を拾い上げる。

 「『誰でも良かった』……っか」

 手に持ったくしゃくしゃの新聞紙。

 今となっては時代遅れな記事が書かれたそのゴミの文字を目で読み上げ、稲葉は小さく紫煙を吐く。

 「『むしゃくしゃして』『誰でも良かった』『後悔していない』そんなテンプレ文句で刺された側は、迷惑千万だろ」

 彼が持つ新聞紙には、今はもうとっくに解決し、犯人の顔や名前も忘れられ始めた事件の一部始終が書かれていた。

 ストロボで照らされた若い男の顔、その横に書かれていたタイトルは、良くは無いのだが、良くある話だった。

 理由なんて無い、ただ殺してみたかったから目についた相手を包丁で刺した。

 定期的に耳にはするが、実際に目の当たりにした事の無い宝くじの様な事件。

 数は少なくその情報はまたたくまに広がり、直ぐに皆から忘れられる出来事、違うとすれば、落ちるのが幸運の女神では無く大切な命である事位だ。

 「ナツキもこうして……」

 この事件とは関係ないのだろうが、良く似た事件は稲葉の住むアパートでも起きた。

 ある日の昼下がり、不審なチャイムの音に反応し、不用心にも扉を開けた彼女はドアチェーンの間隙をぬって差し込まれた包丁に下腹部を刺され倒れた。

 下腹部を真っ赤に染める血を手で押さえながら、ナツキは必死に救急車を呼んだのだが、救急隊が彼女の家に訪れる頃には彼女は力尽き意識を失った。

 まだこの時に的確な処置が行えていたのなら、彼女はまだ生きていたかもしれない。

 だが、彼女が丁寧に掛けたキーチェーンのせいで救急隊員は彼女の部屋に入るのをてこずり、やっと鍵を破壊して彼らが部屋に駆けこんだ時には、ナツキは命をとっくに落とし、冷たくなっていたという。

 その後、現場に残されていた指紋から犯人の身元が判明し、直ぐに逮捕されたのだが、肝心の犯人は何時通りの文句を吐いたと言う。

 昼食のメニューが浮かばず、『腹が減ってるからどれでもいい』と言いながらカップ麺をすするのと同じ感覚で。

 ナツキの命を奪った犯人は、『むしゃくしゃしてたから誰でもよかった』と言い訳をして、ウサミナツキと言う人物の人生を奪ったのだ。

 そう思うと、無所に苛立ちが重なるのを覚えていた。

 だが、犯人はとっくに捕まり刑務所生活を送っているのだ。

 これ以上何かをやれと言うのもおかしな話であり、だからこそ犯人に罰を与えるのではないのだと直ぐに判った、そして、ナツキが代わりに何を求めているのか、それが何なのか、何となくだが見当がついていた。






 その日の夜、稲葉は帰宅するや否や、家の中に起きた予想通りの変化に溜息を吐いた。

 「一瞬部屋を間違えたかと思ったぞ……」

 扉を閉め、内側から施錠された部屋の中は、彼が家を出た時とは全く違う空間へと様変わりしていた。

 文字通り足の踏み場も無い程散乱していた衣服は全て洗濯されたのか、今は丹念に畳まれ衣装ケースの中に詰められて、鼻から息を吸い込むと、清潔感に溢れた柔軟剤の香りが鼻孔を抜けた。

 床に落ちていた細かな屑も全て箒で取り除かれており、わざわざワックスがけまで施してくれたのか、古びていたフローリング地は綺麗に磨かれ、今は水で濡れた様に輝いている。

 そして、何より驚いたのは、家の中の空気が違った事だ。

 恐らく、稲葉が外出してる間中ずっと窓を開け換気扇を回し、服以外の布製品も手当たり次第洗濯して更には壁紙なども拭きあげた結果だろう。

 煙草を吸わない人間は例外だろうが、稲葉の嗅覚では煙草の匂いを感じ取る事が出来無い程部屋の中の空気が磨かれていたのだ。

 その変化こそ、稲葉が帰宅するや否や感じ取った空気の違いであり、そんな室内の空気を吸い込むや否や、稲葉は火を点けるようと咥えていた煙草を箱に戻してしまう。 

 今現在この家の借主は稲葉だが、折角ここまで綺麗に掃除してくれた部屋で煙草を吸うのは何かと気が引けた。

 今は実態すらない上、呼んだ覚えの無い同居人だが、そんな相手を気遣い、稲葉は居間を横切ると、そのまま乾き切っていない洗濯物がぶら下げられたベランダへ足を進めると。

 そこで初めて煙草に火を点けた。

 「……ふぅ」

 ふと室内を振り返ってみたが、やはり家の中に人の姿は見えない。

 だが、姿は見えない半面自分が今現在見ている先に、その相手は間違いなく居る気配だけははっきりと捉える事が出来た。

 「居るんだよな?」

 そう呟いてみる。

 傍から見たら、そんな稲葉の行動は一人言にしか見えないだろう、だが明確に意思を込めて声を放った先。

 そこには相変わらずの虚空が広がっている。

 勿論、そこに居る幽霊の姿をちゃんと捉えた訳でも無い。

 だが、視線を向けたごく一瞬の泡が爆ぜるよりも短い瞬間だけ、自らの鼻をつまみ、心底嫌そうに稲葉が咥えていた煙草を指さすナツキの姿が見えた気がした。

 「煙草の匂い、嫌いなのか?」

 深く吸い込んだ煙を吐き出し、稲葉はそう問いかける。

 勿論相手は幽霊だ、稲葉の言葉を理解していた処で声を上げる事なんて出来る訳が無く、案の定帰って来たのは隣の家から響く『ただいま』の一言だった。

 そんな言葉、稲葉はもう随分と口にした事が無かった。

 それもその筈だ、稲葉自身この家ではまだ日が浅いが、一人暮らしその物を始めたのはずっと前だ。

 誰かが待っている訳でも無く、好き放題散らかしたところで文句の一つも言われない自由気ままな一人暮らし。

 単純に住みやすいと言う点においてはこの上ない好条件だが、そんな生活故に半ば忘れかけていた言葉、それは酷く懐かしく、妙な口さみしさを覚えさせた。

 「そういや……煙草を部屋の中で吸う様になったのも一人暮らし始めてからか」

 自分は今までどれだけの間一人で居たのだろうか?

 仕事と呼べるかも怪しい旗振りのバイトで生活費を稼ぎ、これとった趣味も持たず。

 誰の為でも無く自分一人の為に時間を消費し、誰も守る人の居ない日常を延々と続けて来た。

 だからこそ、その言葉はふと口を突いて飛び出していた。

 「ただいま」

 勿論返事があるわけ無い。

 煙草の匂いが嫌いで世話焼きな同居人の耳にその声が届いたとも限らない。

 自分でもらしくない事をやってしまった事を恥じ、耳を赤くしながら稲葉は家の外へ振り返ると、感情を誤魔化す為に煙草に口を付ける。

 それでも、ふとそう言葉を紡いでみると、少しだけ胸の奥に温かいものが広がった気がした。

 だが、そんな稲葉の感じたぬくもりは、突然頭上から降り注いだ水によって取り払われる。

 「ぶわっ! おい!! 何やってんだ!」

 短い悲鳴の後、少しだけ強めに抗議をした稲葉は、水に濡れ、火が消えた煙草を吐き捨てると、背後を振りかえる。

 遅れて足元に空になったペットボトルが落ち、一連の事件を起こした犯人が直ぐ傍に居る事を告げ、怒りを通り越してあきれにも近い表情でその相手に言葉を投げる。

 「どうしてくれんだ? ったくびしょぬれじゃねぇか……」

 そう言いつつも、ベランダに落ちた煙草を拾い上げると、顔を上げた途端降り注いだタオルを開いてる方の腕で掴み頭を拭く。

 犯人は間違いなくナツキであり、そんな彼女にとって今の行動はあくまでも悪戯のつもりなのだろう。

 怒鳴る気になれず、稲葉は持っていた煙草を見つめて頭の中で湧いた仮定を口にする。

 「もしかして、煙草を吸わないでほしかったのか?」

 勿論返事は無い。

 代わりに、背後でナツキがけらけらと子供の様に笑い、少し遅れて肯定する気配がした。

 だからといって気にする必要は無い、この体は自分の物であり、煙草を買ってきたのも、煙草代を稼いだのも自分自身だ。

 とっくの昔に命を落とした幽霊の気分に合わせて、煙草を我慢する筋合いなんて何処にも無い。

 だが、稲葉は大きく溜息を吐くと。

 胸ポケットに入っていた残りの煙草を握り潰して、キッチン傍に置かれていたゴミ箱の中に投げ捨てた。

 「しゃあねえな、我慢すればいいんだろ?」

 やはり返事は無い。

 だが、自分の直ぐ傍でナツキが嬉しそうに笑っている気がした。






 ナツキとの生活が始まって、かれこれ四カ月が過ぎた。

 これまでインスタントメイン、時折納豆にツナ缶だった食生活は、いつの間にか野菜メイン健康的な物へと置き換えられ。

 食事の後、テーブルを拭く習慣が生まれた。

 時折気が向いたときは、自らキッチンに立つ事も増えた。

 Tシャツなどといった物は別として、滅多に洗う事の無かったジャケットの類も、定期的にクリーニングに出す様になり、基本伸ばし放題だった髭を毎朝剃る様になった。

 そうなると、今度は髪型も気になり始め、ある程度髪が伸びたら床屋へ足を運ぶ様になった。

 人との会話を続けるために、不思議とバラエティだけでは無く、ちゃんとしたニュース番組にも目を通す様になり、必然的とは言え経済に対しても興味を持つ様になった。

 そして、ついこの間は人生初めてに選挙にも足を運んでみた、慣れない選挙会場に最初は臆したものだが、実際にやってみると何て事の無い簡単な作業だった。

 そうして周りと同じ速度で流れる時間の中で生活していくと、不思議と早寝早起きも苦痛じゃ無くなっていた。

 ナツキに説教されるよりも早く、ごみを分別して捨てに行く習慣も身に付き、辞めた煙草代はパチンコと言う滅多に引き落とせない預金通帳では無く、銀行が管理する口座へと振り込む様にした。

 そうして、ある程度安定した生活が送れる様になると、ただ工事現場で旗を振るだけの日常に嫌気が差し始めた。

 家の中に転がっていたゲームソフトやビデオ、漫画本を全て売り払いそのお金で安いスーツと履歴書用紙を買って家に帰った。

 やる事は一つだ。

 安定した仕事に就きたい、そして、今の自分を形成してくれた同居人を安心させたい。

 ただそれだけの願いで、稲葉は苦手だった長文を履歴書に書き込み、手当たり次第面接を受ける生活を始めた。

 勿論、絵に描いた程判りやすい不景気の昨今だ、まともな仕事に就いた事の無い稲葉を良く思う企業など無く、ことごとく面接には落ちたが、それでも稲葉は諦めずに就職活動を続けた。

 来る日も来る日も、バイトを早めに切り上げては面接へと足を進め、夕暮れ時には肩を落として帰宅する。

 そんな彼の姿を見てか、彼の周りに住んでいた人間は彼に対する認識を改め、朝のごみ出しや帰宅の際には軽く挨拶をしてくれる様になっていた。

 勿論、稲葉も慣れないながら自分から挨拶を返す様になっていた。

 そして、その主婦から不意に離し掛けられたのは、そんな日常が始まってから二カ月程経過した時だった。

 子供を二人育て、夕暮れ時にはスーパーのタイムセールに遅れまいと、履き慣れたサンダルをちゃかちゃかと鳴らせ家の前を走り抜ける姿が印象的だった彼女は。

 通算二十回目の面接から帰宅途中だった稲葉を捕まえると、何て事の無い雑談を始めるのだった。

 稲葉自身、この主婦はあまり得意では無かったと言え、他人から行為を向けられる事に嫌な思いはせず、適当に相槌を打っていたのだが。

 ふとそんな彼の耳に興味深い一言が突き刺さった。

 「そういえば、稲葉さんが住んでいる部屋って?」

 この付近に昔から住んでる人にとっては、それは有名な話だったのだろう。

 稲葉はこれと言って驚くでもなく、自分が住んでいる場所が去年に殺人事件が起きた現場だと認めると、曖昧に笑ってアパートの方向に目線を向ける。

 「やっぱりそうなの!? でもすごいわねぇ、私なら怖くて絶対住めないわー」

 「まぁ俺自身良くその事知らないで住んだ訳ですし……」

 「あら!? そうなの? でも大家さんとか説明してくれる筈でしょ?」

 「いや、まぁ説明をしてくれはくれてたみたいなんですけど、俺自身良く説明を聞いて無かったんですよね……っとは言っても、説明聞いてたところで多分あの部屋に引っ越してたとは思いますけど」

 本心を述べただけなのだが、彼女にとって稲葉の一言はそれなりにユーモラスだったのだろう、大袈裟に笑ってみせると口を開いた。

 「あらあら、そんなにお化けが好きなの?」

 少々デリカシーに欠けてはいるが、嫌みでは無く単純なユーモアから紡がれた疑問符。

 それに対し、稲葉は傍からは冗談として聞こえる様に、明るく嘘を吐いてみせた。

 「お化けが好きと言うより、お化けに好かれてる感じですね」

 「まぁまぁ、仲が良いのね」

 「ええ、姿は見えないけど、なかなか可愛気のある奴なんです」

 まぎれも無い事実、だが案の定彼女の耳にはちゃめっけのある冗談だと聞きとれたのだろう。

 夕暮れ時の住宅街にひときわ大きな笑い声を上げた後、ふと稲葉が持っている買い物袋に反応する。

 「そう言えば、そのレジ袋……あの駅前のスーパーのかしら?」

 「ええ、あの直ぐ傍の店の面接に行って来た帰りなんで……って言うか、それがどうかしましたか?」

 稲葉の手の中で揺れる買い物袋、中には数種類の野菜と肉類が詰まったそれに印刷されていた柄から、稲葉が先ほど寄っていた店を探り当てた様だ。

 だが、だからと言って困る事も無いので軽く肯定して見せたのだが、彼女は何か意味あり気に首を傾げる。

 「不思議ねぇ……」

 「不思議? 一体何がですか?」

 稲葉の言葉に、彼女はぼそりと口を開いた。

 「そのね、貴方の家の幽霊さん、あの人あのスーパーの隣の建物で働いてたのよ……だから不思議な事あるなぁって」

 何故かは判らない、だが、ふと胸がぞわついた。

 今日面接に行った会社、そこは小さな印刷会社であり、求人を出している事からして明らかに人手不足の様だ。

 その理由が何となく理解出来た、恐らくはナツキの不在である。

 時期から考えてもそれは十二分にあり得る話であり、稲葉はそんな憶測を頭の隅へ追いやるために質問を投げかけた。

 「あの、その店って印刷会社の事ですか?」

 「……ん? 印刷会社?……そんなのあったかしらねぇ……そういうお店じゃ無かったみたいだけどねぇ」

 そんな言葉を聞き、稲葉は頭の中で駅前の町並みを再現する。

 今会話をしているスーパーマーケットの隣には稲葉が向かった印刷会社、そして、その反対側にも何か建物があった気がしたのは事実だ。

 彼女の言葉から想像するに、ナツキが働いていたのは印刷会社の方では無く、スーパーマーケットを挟んで反対側に立っていた建物の方だろう。

 何故かは判らないが少しだけ残念な気がした、それはナツキと同じ職場で働けなかった事か、それともナツキの知る相手と会話をする事が出来無いと知ったからか。

 だが、少なくとも謎が多いナツキの過去を知る上で、最も大きな情報を手に入れる事が出来た。

 あの建物が何の会社なのかは不明だが、その位明日足を踏み入れてみれば直ぐに判る。

 そして、その上でナツキの元同僚に話を聞けば良いだけなのだ、それをナツキが望んでいるかは不明だが、それでも何もしないよりもずっと気分が軽くなる気がした。

 「――ってまぁ大変! タイムセールに遅れちゃう!」

 ふと何の為に家を出たのかを思い出したのか、不意も彼女はエコバックを揺らして駆けだした。

 オレンジ色に染まったアスファルトの上をサンダルが駆け抜け、騒々しかった名前も知らない主婦の後ろ姿が直ぐに見えなくなる。

 「明日、行ってみるか……」

 それから稲葉は部屋に帰ると、直ぐにその事をナツキに告げた。

 温かな緑茶が湯気を立てる室内で紡がれた一人言、だがその言葉は確実にそのお茶を用意してくれたナツキの元へと届いた様で、部屋の中の空気が少しだけ変化した。

 最初は嫌がるかもと思っていたのだが、等の本人はその事が嬉しかったのか、稲葉の腰に手を回す感触だけを残し、直ぐに気配が消えた。

 感謝の意味を込めたハグの後、気恥かしさを感じての逃走と言った処だろう。

 細かな理由は不明だが、最近のナツキは何かと人懐っこくそして何かとこういった動作を取りたがる様になっていた。

 そして、今回の様に彼女の過去を知ろうとした稲葉に対し、コップの水をぶちまけるでも棚の上の本を投げ付けるでもしなかった辺り、それは彼女なりに稲葉に心を許したと言う事なのだろう。

 「ありがとな……」

 その一言は、『自分の行動を許してくれた』ナツキに対する感謝の意味があった。

 だがそれと同時に、『自分をここまで変えてくれた』ナツキに対する感謝の言葉でもあった。

 その言葉の意味が理解出来なかったのか、それとも単に聞こえていないだけなのか、もしくは聞こえたけれど恥ずかしかったのか。

 稲葉の声に反応する気配は無く、水道の蛇口から落ちた滴が跳ねる音だけが返事をした。






 「ここか……」

 次の日の夜、稲葉は駅前を歩いていた。

 繁華街と呼ぶにはいまいちではあるが、それでも娯楽に飢えたこの町にとって駅前は貴重な『夜の町』である。

 シャッターが下ろされた昼間の町の代わりに、夜だけ開かれる飲み屋の類は各々明るいネオン管の輝きを点滅させ、必死に客寄せに勤しんでいる。

 そんな街中において、稲葉が昨日足を運んだスーパーや印刷会社の建物は今は静かに沈黙しており、気配すら消してひっそりと風景として機能していた。

 そんな中、稲葉は目的の物に目を付ける。

 スーパーのシャッターと、その奥の煙草屋の間に挟まれる様に設置された小さな扉。

 何の建物なのかは不明だが、その扉の先にはそれなりに広い空間が用意されているらしく、摺りガラス越しの明かりを石畳に放っていた。

 恐らく今現在もこの建物の中で人は活動している、ならば好都合である、相手が何者かは判らないがどんな相手でも言葉は通じる。

 「ここ……だよな?」

 だが、一度扉を開けようとしてその手を止めてしまう。

 扉の先が見えない事もあるのだが、それ以上にこの戸の先に何か恐ろしいものが待っている気がしたのだ。

 稲葉は急に喉の奥が乾燥するのに気が付き、息を飲み込み後ずさる。

 だが、不意に背中に何か硬い物がぶつかる感触がして背筋を硬直させた。

 「何の用だ?」

 続いて聞こえて来たのは、同性である稲葉ですら驚く程低くドスの利いた声だった。

 「え……えっとその……」

 「ああ? 誰だてめぇ?」

 虎に睨まれた蛙とはまさにこういう状況を指すのだろう。

 稲葉は全身の筋肉が強張り、同時に関節を支える力が一気に抜けるのを覚えて小さくよろけながらも必死に声を振り絞り、なるべく相手を刺激しない様に声を出す。

 「えっと、お……俺は稲葉って言います」

 「聞いた事無い名前だな?」

 それはそうだ、稲葉自身こんなに恐ろしい声を持つ相手の事を知らない、その声の低さと声のする位置の高さから察するに、相手はよっぽどの大男なのだろう。

 ガタガタと震えながらもゆっくりと振り返ると、その相手の姿が目に映る。

 「良いか、ここはあんたみたいなやつが来る処じゃねぇんだよ」

 その相手は予想通り、かなりの大男だった。

 自分よりも頭二つ程高い処からこちらを見下ろす彼は、顔をフードで隠してはいるが、そのフードの隙間から血走った目が輝いているのが判った。

 全身を覆った分厚い筋肉のせいで、同じ人間として認識する方が困難なその姿は、人と言うよりもヒグマか何かを思わせた。

 「えっと……そ、そそ、そのお」

 「あん? まだ何か文句あるのか!?」

 ぐっと視線を下ろし、息が届く程の距離で紡がれた男の声に思わず震えるが、それでも稲葉は必死に言葉を紡いだ。

 「その……ウ……ウサミナツキって人を御存じでしょうか……?」

 妙な沈黙が生まれた。

 そして、何か品定めをする様に稲葉の肩に手を回すとゆっくりと言葉を紡ぐ。

 「宇佐美夏樹を知ってるのか?」

 「え……ええ」

 震えながらも答えた稲葉は、不意に肩に回された手に力が込められることに気が付き、短く女の様に悲鳴を上げる。

 だが、必死に助けを呼ぶよりも早く扉が開かれ、その中に連れ去られていた。

 「ああああぁ!! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい! なんでも無いんです! だから命だけは!!」

 必死に詫びた稲葉だったが、自分が放り込まれた先の景色を見回し、愕然とする。

 「そんな物騒な事する気ないから安心しな」

 稲葉の元にそんな声が投げかけられる。

 勿論、それは先ほどの男の声だ。

 彼は尻もちをついたままの稲葉にのしかかる様歩み寄ると、不意に身に纏っていた上着を脱ぎ捨てる。

 「まさか、夏樹の友人がここに来るなんてな」

 「どういう……っていうかなんですかその格好は……」

 震える稲葉の声を受けた男は、小さく笑うと全身に纏った鋼の様な筋肉をしならせ、小さく笑うが、その仕草に敵意は込められておらず、これと言った危機は感じ取れなかった。

 勿論、それはその男が身に纏っている服が、ピンク色のドレスで無く、彼の顔が分厚いファンデーションで覆われていなければの話だが。

 「あーらー、夏樹ちゃんのお友達だなんて知らなかったものだから、ごめんなさいねぇさっきは怖がらせちゃって♡」

 男は笑う、分厚いファンデーションの隙間から伸びたばかりの針金の様に太い髭を揺らして。

 「あらまぁ、夏樹ちゃんのお友達なの?」

 更に、稲葉が倒れたソファーの背後から、メイド服姿の大男が姿を現し、そっと稲葉の頬に指を這わせる。

 「あーらー、怯える顔もなかなかキュートじゃない、私こういうのす・き・か・も♡」

 男達は笑う、フリルの下から覗く黒光りする筋肉を揺らして。

 「夏樹ちゃんの大切なお友達なら、沢山サービスしなくちゃね♡」

 更に、うす暗い店内の奥からリーダー格らしい男が姿を現す、ぴっちぴちのチャイナドレスの裾を揺らして。

 「あ……あのここって……」

 「もう、知っててここに来たんでしょ?」

 三人の男達は壮大に笑い、ゆっくりと包囲網を縮めていく、丸太の様に太い両腕を広げて。

 「えっとその……」

 「ここは知っての通りオカマバー、『リップス』、名前の通りチューはサービスよ」

 男達はそれぞれ口紅を取り出すと、己の口に塗りたくる。

 直後、狭いオカマバーの店内に稲葉の悲鳴が響き、その声に反応してか、店の奥に飾られていた宇佐美夏樹(男)の遺影が音を立てて倒れるのだった。

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