第4話 存在肯定

 一カ月後。私は早めに移動図書館に到着していた。学校はテスト期間中のため午前中で終わり、正午には家に着く。普段は放課後立ち寄るけれど、一旦家に帰って着替えられるので、外に制服で行くのも妙だ。それに今回は人に会うことが分かっている。少しだけ、いつもより服装に気を使った。

 といっても、雑誌のスナップとか、服屋のマネキンが着ているようなものでは決してない。そもそも私は普段ファッション誌を見ないし、服にも気を使っていなかった。トータルコーディネートなんて無理。やるしかないけれど。

 焦りながらプラスチック製の衣類入れを引っかきまわした経験は初めてだった。シンプルなシャツに、色の褪せていないジーパン。白いパーカー。そして、真新しいナイロン性のかばんと、借りた黒いかばん。手持ちの服で一番ましなものを着て、変にどきどきしながら家を出た。

 限度数まで借りた本をどさどさ返却し、適当に本を見繕いながら、かばんの持ち主を待つ。間違っても黒いほうには本を突っ込まないように注意した。

 先月柑橘広場で会ってから、私と佐井くんは一言も言葉を交わしていない。クラスは一緒だけれど、部活も委員会も違う。席だって離れている。私はいつも一人で本を読んでいて、佐井くんは多くの人に囲まれている。話す機会も必要性もやってこない。

 心臓がばくばくする。会うと分かっていても、人と会うのは怖い。いつも目を合わせられなくて、声が震える。

 多分向こうは、よっぽどじゃない限り、相手に話をあわせられる。

 けれど、こんな人間と話をやってられないと思われて、かばんを返して、ハイさよなら、とか。そんなのは十分あり得ることだ。

「羽瀬川さん」

 背後からの声に、思わず持っていたものを落としてしまった。

 ハードカバーの児童文学をなめてはいけない。私が持っていた海外原作の児童書、『バーティミアス』は、小学生向けの辞書くらいの厚さがある。重力に従った本の角が爪先に当たる。間の悪いことに、今日はいているのはキャンパス地のスニーカーだ。

 つまり、防御力は期待できない。

「いたっ」

 思わずつぶやくと、またも誰かが本を拾い上げる。

 先月もあったデジャヴ。

「ごめん!びっくりさせちゃったみたい」

 顔をあげると、待っていた人がそこにいた。

「待った?」

「ううん、そんなに……」

 やっとのことでそう言うと、佐井くんはあちゃーという顔をした。

 私の言葉は、『少しは待った』と言ったのと同じだから。

 気を使わせてしまった。

「あの、これ」

 早いほうがいい。私はずいっとかばんを差し出す。佐井くんの黒いスニーカーが目に入った。

「この前は、かばん、貸してくれてありがとう」

「あ、いいよいいよ、このくらい」

「…………それじゃ」

 私はくるりと背を向けて、バスの車内へと小走りに進んだ。痛みをこらえ、さよならは自分から。

 そうしたらあまり傷つかないですむ。

「羽瀬川さん!」

 やや張った声が私を追いかける。次いで肩を優しくたたかれる。バスへと入るのを諦め、ゆっくりと振り返った。

「これ、借りるんじゃなかった?」

 佐井くんが持っていたのは、さっき私が落とした本だ。

 なんておっちょこちょい。これですっぱりサヨナラするはずだったのに。

「……ありがとう」

 目を伏せて、顔を見ないようにして、本に手をのばす。受け取ろうとして、それを佐井くんは離してくれなかった。

 本は私と佐井くん、二人の手に収まったまま、どちらのものでもない状態が続いている。

 なぜ?

 疑問に思って顔をあげる。佐井くんと目が合う。本にかかっていた手が離され、ハードカバーは私の手に抱えられる格好になった。ちょっとふざけた、という意味合いの表情は浮かんでいない。

「怖い?」

「……?」

 唐突に発せられた言葉を受け止めるのに時間がかかった。

「あんまり僕と話したくなさそうだったから、僕のこと、怖いのかなって」

 少しだけ下がった眉は、悲しみなのかもしれない。

 そんな顔をしてほしいわけじゃないのに。

「違う……!」

「じゃあもしかして、僕のこと苦手だったり嫌いだったり?」

 努めて明るい調子の佐井くんは、私の態度でこんなふうになっている。間違いなく私が傷つけた。

 思いきり首を横にする。

 怖々と見ると、ややほっとした顔になった。

「それならよかった。って、なんか無理矢理言わせたみたいだけどさ」

「違う……」

 絞り出すように、声と勇気を振り絞った。

 そうしないと、なにかが取り返しがつかなくなると本能が察知して。

「私と話しているの、佐井くんは嫌かなって、思った……から」

 盗み見ると、同級生は、眉間にシワを寄せている。無言で道のはしっこに誘導されて、私はそれに流されるまま従った。横に立った佐井くんの顔を、私は見ずに済んだ。

「…………どうして?」

 その問いかけは詰問ではなかった。だからか言ってもいいと思えた。

「かばん、来月でいいって、言ったでしょ?学校で返されるのとかが嫌なのかな、って。キャラ、違うし」

 つっかえつっかえながらも伝える。横の人は黙ったまま。

「――ちょっとは当たってるかもしれない」

 おもむろに言われた言葉は、思いの外私の心に突き刺さった。

 どこかでそんなことはないと信じていた。

「確かに、学校では返してほしくなかった」

 やっぱり。私と話しているところを見られると、佐井くんは、恥ずかしいと思うんだ。予想の範囲内ではあるけど、苦しい。

 弾かれていると感じるよりも、直球でいらないという意味合いをぶつけられている。そのほうが、息をするのが苦しくなる。

「…………こういうこと言うの恥ずかしいんだけどさ」

「……うん」

「羽瀬川さんとまた本の話をしたかった、っていうのは、理由になる?」

 寒くないのに、全身が震えるのを感じた。

 吸いこんだ空気は新鮮だった。

 期待しても、いいのだろうかと。

「学校で返してもらってもいいけど、そしたらもう終わっちゃうかもって。本の話できないかもなって。そんな計算したら、口が勝手に来月でいいよって」

 ちらりと横を見ると、佐井くんも視線に気づいた。

 まともに顔を見て、また伏せた。

「私でも、いいの?」

「なにを?」

「本の話をするの」

 横から正面に、立ち位置が変わった。

 佐井くんは少しかがんで、私の顔を覗き込む。

「うん、羽瀬川さんがいい」

 息が苦しいのなんていつのまにかなくなっていた。

 認められた気がした。救われた気がした。

 私はいてもいいよと許された気がした。

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