第四章 政争勃発
第10話
≪太陽暦:三〇五六年 十一月二十日 〇九:〇五 廃殻¨大羿¨開発区≫
あれから一か月後。開発は本格的に着手される――はずだった。
気持ちよく響く撥弦音。窓を開いてみれば、そこには宿舎の影の下、アコースティックギターを弾く蛮風が居た。
「どうだい嬢ちゃん。やっぱロックって奴は水より染みるだろ……?」
その、件の贈り物を心底気に入っている様子にアルナは微笑ましさを通り越し、可笑しさを覚え思わず笑ってしまった。
無論そのギターは炉那が亜粋のガレージからもらってきたものだ。受け取って以来尋常じゃない程気に入ってしまい、今じゃ四六時中持ち歩き工員相手に弾き語りまでしている。余談だが、天邪鬼な炉那は大いに照れて、一週間ほど話さない期間が続いたこともあった。
仲を戻すための口実であったのに、これでは本末転倒。でもそのいじらしい――師と弟子を越えて、もう父と息子のような――二人の間柄は、今ではアルナの心の慰みですらある。
計画始動からほぼ二か月。休む間もない激務の中、心を摩耗させることが無く順調にここまで来ることができたのは、この可笑しな二人のお陰だろう。
「ごめんなさい。あんまりその……ろっく?っていうものはわかんないの」
「そりゃぁいけえねえ!どれ一つ、ボブ・ディランから聞かせてやろうじゃねえか」
「ま、またの機会にー」
人の話を聞かぬ蛮風は、一曲引こうと
「北辰、もう時間だ。馬鹿はほっとけ」
「オブラートに包んでくれよな炉那くん!」
「あっ……それではすみません蛮風さん、失礼します」
一つ弦をかき鳴らし、蛮風は首を傾げた。
「あーそういや今日なんかあったんだっけ?」
「ええ……いよいよ電力インフラ整備計画の着工日なんです」
そう言うアルナの面は正しく喜色に満ちていた。
莫琉珂による大羿研究の結果、やはり発射には莫大なエネルギーが必要と判明した。ともすれば、周辺都市からこの大羿まで、太陽光発電プラントからの電力エネルギー移送は必要条件だ。
そのための電力ケーブル開設。そのために、この一か月は周辺都市から月都まで、行ったり来たりで参画する工務事業者集めに執心。その結果始動するに十分なほどの参画者が得られたのだから、計画は前進しているに違いない。アルナが年相応の少女らしい顔で喜ぶのも無理ないことだ。
再びギターの嘶き。蛮風がふっと笑い手を振る。
「そりゃめでたいこった。だが浮かれすぎんなよ?悪いことは追い風と共に来るもんだ」
「もちろんですよ。ここからが本番なんだから」
「はは、頭の後ろの寝ぐせを見落としてちゃあ、説得力がねえな」
え!?すぐにそばにあった卓上の鏡を以て、苦心してなんとか後頭部を見ようとする。だが上手く見えるはずもなく、代わりに炉那が呆れる顔が映る。
「……北辰。このオッサンに簡単に騙されるな、お前」
「え!?ええー!?」
「がはははははははは」
腹を抱えギターをかき鳴らす蛮風に、温厚なアルナもむっと頬を膨らます。
「悪い悪い。ほれ、気を付けていってこい」
「言われなくても!」
憤慨して出ていったアルナの後には、ぽつんと執務室の中に炉那が残る。その顔を、窓枠越しに蛮風が興味深そうに眺めていた。
「…………なに」
「いやぁ?なんつーかお前、あの嬢ちゃんに結構協力的になったなーって」
炉那は多脚の気味悪い蟲でも見たような、心底嫌そうな顔をし、えくぼを作って笑みを浮かべる下世話な中年から顔を背ける。
「……別に」
「いやー!?前は言われないと仕事もしなかったが今は自主的に動いてるし、なんであれば嬢ちゃんに付いてってるし、ていうかプライベートでも嬢ちゃんと過ごす時間増えてねえか!?まさか!?まさかお前」
左の指が弦を抑え、右の指がピックを挟み、天高く上がると、そのまま驟雨か暴風の如く、絶え間なき激しいビートを奏でる。熱気の中、蛮風は汗露を宙に飛ばしながらかき鳴らし続けると、唐突にミュートして、言った。
「あの嬢ちゃんに……惚れたな」
窓は静かに閉じられた。
*
指で髪の一房を梳き、その感触に集中する。髪も、荒れてきちゃったな、そんな他愛もない考えに、むしろ心を傾ける。
大勢の前に立つ機会など、もはや数えるのもやめた。しかし今でもアルナは、人前に出るときは緊張する。昔よりは酷くないが、動悸は高鳴るし、要らない思考が頭を埋める。
だから、ネガティブな思考に走るよりは他愛もないことで頭を満たしたほうがいいのだ。そう思い考えるのは、あの灰色髪の少年のこと。
炉那とは少しだけ距離が縮まっているように感じる。もっともそう思うのはこちらだけかもしれないが。だがあの夜から、少なくとも自分の中の、彼への先入観は崩れた。もう物おじせず、もっともっと近づきたいと思う。
――――ただ一つ、二人の間に、越えられない壁があるとするならば、それは彼の過去のこと。頑なに、それだけは語らない。蛮風との旅の話はするが――彼の出生、それだけは、絶対。
宿舎の前、“大羿”の膝元に出でる。僅かに湾曲して起立する巨影の下、立ち並ぶ重機の群と三角テントの隊列、その下のつなぎ姿の技術者たち。その過半数は赤茶けた肌、廃殻の技術者達だ。
ここ数日、周辺の全七都を駆け巡り、協力を仰いだ各地の有力者たちだ。あの後、開発主任を承った亜粋をはじめとして、皆致死の強光の下鉄を打ち溶接機の火花を浴びる、本物の熟練工たちだ。この青二才に力を貸してくれるのが不思議に思えるくらいの大物たち。
だからこそこうして向かうと少し緊張してしまう。何かの弾みで粗相をし、このつたない信用が解けてしまうのではないかと。
彼らの層理のような深い皺から、思わず目を逸らせば――大羿の黒壁に、ちょうど炉那がもたれていた。
目と目が合い、彼がそっけなく「行け」と壇上を顎で指した瞬間に、全ては細事に思えてきたのだ。
一歩進んで熟練工たちの前に出る。挨拶の第一声を交わそうとし口を開いたが、彼らの喜色を見て止まる。そこにあったのは、技術者たちの困惑の顔だった。
「……その、どうか致しましたか?」
「おお、北辰さん。聞きたいことがあるのだがの」
技術者たちの群の中から亜粋が姿を出し、髭を擦りながら語眉を上げる。その語気にはこちらを慮るようでありながらも、どこかに落胆が滲んでいた。
悪い予感が、アルナの背をさっと撫でる。
「
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