第9話

≪太陽暦:三〇五六年 十月十三日 二〇:〇七 廃殻 至“大羿”開発区大道≫


「妙なヤツ」

 帰りの車内。車輪の軋みに掻き消えそうな呟きが、それでも耳に届いた。アルナが、顔を上げれば炉那がこちらに目を向けている。

「はい?」

「よく、わからないな。あんたのこと。向こう見ずな奴なのか……計算高いのか」

 車窓の外は既に日が墜ちて、群青の空と停止した¨タイヨウ¨の黒い影が彼方に見える。この時間帯の主役は冷気と月だ。急速に熱を失っていく砂丘を、月光が白銀に彩る。

「それは私からは何とも言えません。正直、慎重さに欠いている自覚はあります」

「その癖何か起こったら、その落とし前は自分が引き受ける気でいる。軽率にそういう事を言うくせに、先の先まで見て行動してるフシもある……いや、違うな」

 がしがしと頭を掻いたのち、炉那は視線を車外に向けた。難解な問いを前に苦心する哲学者のように、その眉間には皺が寄っている。

「本当にわからないのはなんでアンタがそこまでするってことだ。哀れで貧しい生活を送っている廃殻民のため、滅私奉公……なんてとこか?本当に?」

 そして炉那は日中の熱を吐き出すように一つ、息を漏らした。車窓に白い雲が結露する。

アルナはその様をしばし驚いていたように見ていた後――申し訳なさそうに、顔を落とした。その手が髪の一房を梳く。

「……純粋な献身、と言えればよかったのですが、残念ながらそう言い切れる程私は真摯な人間じゃないんです。これは私のためでもあります」

「へえ?」

 炉那が興味深そうに声色を変える。だがわからなかった。太陽官として功績を上げれば次に繋がる、という理屈ならわかる。だが彼女が実際やっているのは成功しようがしまいが敵が増える、昇進には最悪な手段だ。波風立てずその任を終えたほうが千倍次につながる。

 なら、彼女の目指す先とはそこではないらしい。

「……実は月都は繁栄しているようでありながら、限界が近いのです。地下空間の偏狭な世界に見合わぬ人口増加。それに伴う経済の停滞」

 廃殻民からすれば信じられないようなことだ。だが、すぐに納得できることでもある。風が吹けば繁栄など終わることは彼らが一番わかっている。

「増え続ける人口に対し月都の規模は小さすぎた。生産物も福利厚生も絶対数が決まっている、ともすれば、ここから先何が起こるかは明白です。貧しき者たちの排斥。一部のものだけが繁栄に預かり、それ以外の者は切り捨てられる。事実、20年もしないうちに月都の生活水準は急落するというデータも出ています」

「……よくある話だ」

「でしょうね。ですが許容されるべき話ではありません。ですから私は……考えたのです。現状は¨タイヨウ¨の下にある廃殻が、人類がより生存しやすい環境となれば、この困窮した状況を打破できるんじゃないかと」

「……何をする気だ?月都の貧乏人をこっちに送り込むのか?廃殻の資源を取りつくすのか?」

「いいえ。廃殻を月都と同程度の規模まで発展させます」

 懐疑を滲ませた炉那の表情が一点、真っ白な驚愕に染まる。

「今回のプロジェクトはそのために、月都の技術や資本を廃殻に流入させるという意図もあるのです。そのための月都からの技術提供も確約しています」

「……待て。それが何を意味するかわかっているはずだ」

 月都が今廃殻に対し圧倒的な優位性を持ち内政への干渉権まで持っているのは、その技術力の差だ。だが“タイヨウ”が落ちたらばまず無線通信が使用可能となるし、それ以外の精密機械も使えるようになる。そしてその技術を積極的に廃殻へ流出させ、優位性を瓦解させようというのだ。

「何が月都のためなんだ?結局は月都が亡びるぞ」

「いいえ、亡びません。月都がパンク状態なのは相互補助する相手がいないから。足りない生産物や富を交換する先が存在しないから、いわば絶海の孤島の集落のようなものなのです。島の中で飢え死にしないためには、他の島と交易を始めるしかない」

 アルナは瞑目する。月都という国は絶対的な優位性を持つ代わりに、同程度の相手が存在しない――きっと別の大陸にはいるだろう。だがタイヨウの太陽風で通信も行えない今、その存在は確認できない。故に人口増加や災害、経済停滞などで月都が崩れた時、頼るに足る相手がこの大陸の廃殻にいないのだ。そしてそも、月都という資本主義経済都市自体、交易を拡大し続けていかないとやがて衰退するシステムなのである。

 アルナが廃殻を変えた結果、やがて月都の優位性はきっと崩れるだろう。廃殻の集落がそれを越える大都に代わり、月都は隷属するかもしれない。だが、壊死しかけの月都は足を切らずにすむ。

 炉那の目の前にいる少女は、タイヨウを墜とし焦熱を排する、それだけを目指しているわけではない。隻眼となった日輪の下、変わっていく廃殻と月都、その光景まで睨みつけ、目を逸らさないでいる。

「だから結局のところ月都の……いいえ、私のためなんです。だって私がこんなことを考えたのは、暗い未来を見たくないから」

 ふらと視線が炉那からそれ、車窓の外、死人の如き白面の月が映る。暗澹たる群青の中、ぽつんと浮かぶ孤独な衛星。

「未来は暗い、いつかは破綻する、月都は廃殻を喰って存在している――そう何度も何度も言われてうんざりしてた。そう言われて、尚目を逸らして生きるのも嫌だった。世界が残酷で苛烈なことは知っている。でも少しは明るく綺麗なものが見たい――この世界を肯定したい」

 告白と共に、自嘲するような笑みが一つ零れた。

「だからこれは、私がこの世界を好きになるために世界を巻き込んでいる、それだけのことなんです」

 月都と廃殻の格差も、迫る終末も、タイヨウの起こす悲劇も、変えてしまえたら、その時こそこの世を好きだと言えるはずだ。

 細やかな月光、車窓の向こうに流れていく星雲、茫洋と続く荒野、軌道上に浮かぶ“タイヨウ”の真球系の影――――アルナのその瞼がじっくりと閉じられた。目に映るそのすべてを呑み込んで、噛みしめるように。


 その様を見て、炉那はじっと止まっていた後、小さく口を開いた。

「……それ、大したことじゃないよ」

 いつもの突き放すような乾いた語気。されど気のせいだろうか、この時だけは少しだけ配慮のようなものも垣間見えた。

「そんな巻き込んでるだとか、自分のためだとか、当然のことだ。人間である以上自利に走るのは自然な感情だ……だからそんな申し訳なさそうに言うことはない」

 えっ――意外なる言葉に少し衝撃を受けたアルナに、炉那はちろと舌を出す。

「そんなこと、馬鹿みたいってことだよ。綺麗面するな」

 そう言って顔を背ける様すらもなんだか不思議で、アルナは呆気にとられてしまった。ここまで彼が長い言葉で話してくれたのすらも、初めてのように感じる。

 単調な駆動音のみが数分ほど続いていた。真っ白な頭じゃ返すべき言葉がわからなくて、咄嗟に思ったことが口から出てしまう。

「炉那さんは……亜粋さんから何を、もらったのですか?」

 今度は炉那が目を丸くした。当然だ。アルナ自身突飛で唐突な言葉だったと思っている。そんな言葉が出たのは、亜粋のガレージにて、炉那が何かを包みをもらっていた光景が、なぜか記憶に残っていたからだった。彼が欲しがるものとは一体何なんだろうか?それが気になったからというのもあるだろう。

 だが当の本人は大変困ったような顔をしていた。触られたくないところを触られたような。

「いいだろ、なんでも」

 彼がそう言うならここは抑えるべきなのだろう。なのだろうが、それでも気になってしまう。むしろ気になってしまう。なぜなら彼のことが少し知れるかもしれないのだから。故に、アルナの狡知がちょっと顔をのぞかせた。

「……でも炉那さんは私に質問して、私は答えましたよね?」

 炉那は目に見えて驚愕し、そして言葉に詰まった。しばし歯噛みした後、彼はトランクに閉まっていたそれを引っ張り出す。

 それは縦長の大きなケースに仕舞われていた。炉那がそれを膝に横たえると、どうしてもアルナの膝の上にも一端が乗るくらいの大きさだ。まるで洋ナシのような形――アルナがまじまじと見ていると、留め金が外され中身が露わとなる。

「!これって……!」

 それはギターだった。この時世においてもはや珍しいアコースティック・ギター。これを炉那が使う?そんなアルナの思考を読んだように、炉那は首を振る。

「……蛮風が好きなんだ。こういう類のもの」

 そのしりすぼみになっていく言葉を聞いて、ああと妙に納得してしまった。

「そっか……これを、蛮風さんのために」

「その言い方やめろ」

 仲違いしてしまった間柄をなんとか戻そうとしていたのは、何も師匠だけでは無かったということだ。

 その、食い気味に答え、苦々しく――いや、これは照れだ――顔を歪める炉那が、初めて15の少年として見えて、そして余りに健気で。

 気づけば、アルナの繊手が、炉那の堅い短髪を、愛おしむように撫でていた。

「…………っ!!?!?」

「あ、ご、ごめんなさいっ!つい……」

 怪奇現象を目撃したような炉那は、常なるその起伏の乏しい表情ももはや完全に崩している。そこまでの衝撃だったのだろう。この女、何を。

 当のアルナは恥ずかしそうに、その繊手の指と指を重ね合わせた後、ほろっと顔を赤らめる。

「つい……ちょっとその、可愛く感じてしまって」

 この女、本当に、何を。

「…………ふざけるなよ。それって完全に子ども扱いだろ」

「そ、そんな!ほら、炉那さんは15で私は17ですから、どちらかと言えば弟扱いで!」

「それも厭だ!」

 だがそういわれると、始めは幼気に見えた彼女も、確かに、少しだけ年上の女性に思えてくる。自分の幼さと、彼女の成長した部分をどうしても意識してしまう。


 巨塔の影が近づくジープの中、炉那はこれまでに覚えのない感情を抱いた。

 それは、アルナという少女に対する――興味と、それと同じくらい湧きあがる気恥ずかしさだった。

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