ワンダープラネット―やんごとなき姫君と彷徨える星の物語―

遠堂瑠璃

第1話 出会いはほんの小さな偶然

 これは、宇宙のもうひとつの可能性の物語。云うなれば、全く別の宇宙で起こった現象。

  全ての惑星、衛星は等しく大気に満たされ、多種多様な生命に満ち溢れていた。

 例えば超巨大惑星である木星、これも豊かな水や空気を湛え、重力も程好い。

 金星に劇薬の雨が降る事もなければ、水星も太陽と適度な距離を保って公転する。

 太陽系は、生命が棲みやすい条件が整った星ばかりだった。

  惑星同士の交流も盛んで、余程宇宙の外れでもない限り、言語も統一されスムーズに通じる。都合の良い事この上ない。

 もし難点をあげるとすれば、各星々における習慣や文化の違いなどだろうか。

  時は、宇宙歴7001年。

 知能と自我の発達した生命体は、自分の意思でどれ程遠く離れた星までも行く事のできる時代。可能性が、限りなく広がる世界。

  希望や夢を思うがままに翻弄し、誰もが宇宙へと飛び出せる。まさしく夢のような時代だった。



        ☆



 今日もまた、何処かの星から飛び立った宇宙船が、太陽系のど真ん中を突進していた。物質輸送の為の貨物船のようだ。宇宙船には全宇宙共通文字で『ジュピター』と印されている。

  ジュピター。それは、云わずと知れた太陽系一巨大な惑星。ジュピターは太陽系だけでなく、この宇宙全体を統一する様々な経済力やリーダー性を兼ね備えた惑星だった。

 宇宙一、人口の多い星でもある。

  その気にさえなれば、独断で全宇宙支配すら可能だろう。そうならず宇宙がわりと平和に保たれているのは、偏に代々のジュピター王の人柄によるものだろう。

 その貨物船の乗員に、一人の少女が居た。乗員といっても、正式にその資格を持っているわけではない。

  つまり、こっそり忍び込んだのである。

  無賃乗船、といっても、少女は貧しい無一文というわけではない。顔を見られたりしたら、ヤバいのである。

  何故か?

  少女は、ジュピターの姫君なのであった。

  誰にも内緒で城を抜け出し、人に見られぬようにして、ひっそりと貨物用の宇宙船に乗り込んだのだ。

  名前はラオン。

  後ろに束ねた癖のあるワインレッドの髪、翡翠ひすいの硬玉のような瞳、くっきりと縁取られた大きな眼、すっと通った鼻筋、そしてピンと尖った蝶のような形の耳は、れっきとしたジュピター人の印だ。

  ふっくらとした桜色の頬が、まだ十一歳になったばかりの幼さを残している。けれど身長の割りにすらりと伸びた長い脚は、子供ながらにしなやかだ。生まれてからずっと城育ちの為、無駄な脂肪も筋肉もないその肢体は、草食動物のように華奢で繊細な印象を与える。

  陽射しを知らないその素肌は透き通る程に白く、やんごとなき姫君の可憐なまでの美しさを存分に引き立てていた。顔立ちも、美形の両親に恵まれた為、思わず視線を奪われてしまう程に可愛いらしい。身にまとっている衣服は他の子供と変わらぬように見えるが、恐らく布地は高価なものに違いない。ジュピター製の織物というだけで、かなりの高値がつく。

  侍女達により丹念に手入れされたワインレッドの髪に、小窓から射し込んだ星々の輝きが宿る。

  容姿端麗。完璧だった。これぞ、姫君の決定版と断言していい美しさだった。

まさしく、誰もが虜。なのだが……。

  その容姿と中身のギャップは、あまりに激しかったりした。一度言葉を交わしてみると、理想も虚しくかなりイメージが崩れる。

  絹に包まれるように大切に育てられ、世間にも触れた事がないせいか、常識はずれの惚けた性格。おまけに姫君らしからぬ少年のような言葉使い。なかなかに凛々しい印象すら受ける。

  一体誰が教え込んだのか。

  一説には王子が欲しかった王妃がこっそり覚えさせたという噂があるが、定かではない。



  宇宙船に乗り込んで、約二時間。

  さすがに退屈してきたラオンは、腰掛けていた木箱からぴょんと飛び降りた。荷物だらけではあるが、宇宙船の中は結構広い。

 天井に近い処に小さな窓がある。

  ラオンはとんとんと壁際までやってくると、積まれた木箱を踏み台にして崩れないように慎重に上まで登り詰め、背伸びをしながら窓の外を覗いてみた。


「うわあ……」


  思わず、感嘆の声が洩れた。

ラオンにとって、生まれて初めて直に見る宇宙だった。ホログラフィーで何度も眼にした光景ではあったが、実際にたった一枚のガラスの先に広がる宇宙に、ラオンはわくわくと胸が高鳴った。壁に当てた手のひらに、じんわり汗が滲んでくる。

 キラキラと輝く光の帯が、幾筋も船体の外を通り抜けていく。ラオンは感動に浸りながら、しばしその荘厳な光景に見入っていた。

  ジュピターの姫という身分であるラオンは、生まれてこの方一人で自由に外に出た事すらなかった。常に横には、ジイやと護衛の者が付き添う。そんなラオンが城を抜け出し、宇宙に飛び出したのには、ちょっとした理由があった。



―父上、母上。僕はお二人の為に伝説の遊星ミシャにある、永遠の愛を司るという宝石クピトを手に入れる為に旅に出ました。いきなりプレゼントしてびっくりさせたかったのであえて置き手紙はしませんでしたが、健康には気を付けますので心配しないで下さいね。



  そうなのだった。

  ラオンは両親の結婚記念日のプレゼントを手に入れる為、単独で宇宙に出る決心をしたのだ。

  遊星ミシャ。

  それは、伝説に語られる幻の星。その実態は謎に包まれている。宇宙の方式を完全に無視した、不規則な運航の星。

  アンドロメダの辺りで瞬いていたかと思えば、大マゼラン銀河で発見される事もある。かと思えば、数年間その姿を確認されない事もある始末。

  神出鬼没の幻の星。伝説と呼ばれる所以。

 人知を越えた星。常にその位置を把握できない。

  その遊星ミシャにあるというのが、クピトと名付けられた宝石だった。

  愛を司ると云われる宝石。この宝石を手にした恋人同士は、永遠に尽きる事のない愛が約束されるという。

  まるでお伽噺のような宇宙の伝説。

  宇宙七大伝説のひとつである。他の六大伝説については長くなるので、今回は割愛させていただく。

  ラオンがこのクピトをプレゼントしようと思いたったきっかけは、両親のケンカだった。日頃仲が良いだけに、やる時は派手にやってくれるのだ。しかも今回はなかなか質が悪い。二人共、全く折れる気配がない。

  初の長期戦。

  そんな折、ラオンは幼い頃にその父から聞かされた愛の宝石クピトの事を思い出した。

  生まれて初めての一大決心。

  ラオンは両親に仲直りして欲しいが為に、何処にあるとも知れない遊星を探し出し、宝石を手に入れようと決めたのだ。

  きっと長い旅になるだろう。


「どうか、お二人の結婚記念日に間に合いますように」


  ラオンは、窓の外を過ぎていく星々の光に願いを込めて祈った。

  なんだか、とっても気分が高揚していた。

  ラオンは鼻歌混じりに爪先でトントンとリズムを刻んだ。響く木箱の音が、まるでラオンの旅立ちを歓迎する拍手のようにも聞こえてくる。

  間もなく、この宇宙船は何処かの星に到着する。まだ見ぬ冒険の幕開けの地に、ラオンは一人心踊らせた。






「姫様ぁ~! 何処に居られるのです! 悪ふざけが過ぎますよ! 隠れているのなら今すぐ出てきて下さい! でないとこのジイや、困ってしまいますっ!」



 宇宙一広いジュピターの城内を、真っ白な口ヒゲを蓄えたラオン直属のジイやが、汗を掻き掻きあちこち駆けずり回っていた。気の毒に随分と老体に堪えている様子だ。

  やはり、姫君の姿はない。

  ジイやはがくりと肩を落とし、ふーっと大きくため息を吐いた。ハンカチで額の汗を一拭いして、王と王妃の待つ広間の扉を二回ノックした。再びため息を吐いて、ゆっくりと扉を開く。それとほぼ同時に、待ちわびていた王アルスオンと、王妃ミアムのすがるような眼差しが真っ直ぐにジイやにそそがれた。

  非常に、云いにくい。ジイやのみぞおち辺りが、ちくりと痛んだ。



「アルスオン様、ミアム様、城中の者総出でお探ししたのですが……どうやら姫様は、すでにこの城の中や敷地内にはいらっしゃっらないようでございます……」


「ああ~っ! ラオン!!」



 ジイやの言葉が終るか終わらないかのうちに、王アルスオンが悲痛な叫びを上げていた。広い廊下の端まで響くのではないかという声だった。その声に触発され、王妃ミアムが、頭を抱えてがくりと膝をつく。



「あの子は街どころか、この城すら一人で出た事がないのよ! 外の世界は、あの子の知らない危険で溢れ返っているのにっ!!」


  夫婦ゲンカ一時休戦。最早それどころではない事態である。


「おおっラオン! お前にもしもの事があったら、私はどうすればよいというのだぁ!!」


  王アルスオンが、まるでオベラ歌劇のように叫ぶ叫ぶ。両頬を手のひらで覆ったその姿は、さながら有名な絵画のようだ。



「……やっぱり、あの素直なラオンがこんな騒ぎを起こした原因は、私たちのケンカかしら……」



  王妃ミアムが傷心の面持ちで呟く。二人は気まずそうに視線を重ねたまま、しばし沈黙した。そして、そろって大きなため息。本当に息の合った夫婦だ。

  王アルスオンは芝居がかった動作で天を振りあおぐと、再びこれでもかという悲しみの表情を浮かべ、叫んだ。



「父上と母上が悪かった! もうケンカなどしないから、この父の胸へ帰ってきておくれ、ラオンよぉぉぉ~!!」



  王アルスオンの声が装飾品の散りばめられた広間の高い天井に反響し、こだました。

  その数分後、王アルスオンの命令により、ジュピターの使者がラオン姫捜索の為に、全宇宙に乗り出すのだった。





         ☆





 その頃、ラオンはそんな城と両親のパニックも知らずに、初めて降り立った見知らぬ惑星を悠々と散策していた。

 ラオンを乗せた貨物宇宙船が到着したのは、マーズという小さな赤い惑星だった。

  砂漠の多いこの星だが、商業が非常に盛んで太陽系の物質の流通地点となっている。その為流れ者が多く、治安がそれ程良いとは云えない。だが陽気で人の良い商人も多く、街は常に活気に満ち溢れていた。

  ずっと城で育ったラオンにとって、見るもの全てが興味をそそられるものばかりだった。威勢の良い声でかけ合われる値段交渉。怒号を浴びせ合う運び屋の恰幅の良い男たち。少し媚びたように客を呼ぶ壷売りの若い娘。

  全てが新鮮だった。

  ラオンは荒くれ者達の怒鳴り合いにも臆する事なく、きょろきょろと視線を彷徨さまよわせながら街を進んだ。マーズの乾いた風に髪を遊ばせながら、軽くスキップをする。羽織ったマントに砂埃がつくのも気にしない。

  晴れ渡った空に、雲が流れていく。マーズの空は、ジュピターの空よりもほんの少し赤みがかっていた。



―父上と母上は、もう僕が居ない事に気づいただろうか。


  ふいに思い出して、ちくりと胸が痛んだ。



「おやまあお嬢ちゃん、ジュピターの人だね」


 果物屋の店先で声をかけられ、ラオンは立ち止まった。彩りの良い幾つもの果物の真ん中で、果物みたいに丸顔のおばちゃんがにこにこと微笑んでいた。形良く並べられた果物は、どれもラオンが眼にした事もない代物ばかりだった。


「ここは色んな星の人間が訪れる場所だけど、ジュピターの人を見かけたのか初めてだよ」


  おばちゃんは皺だらけのくしゃくしゃな笑顔でそう云った。ジュピターの人間の特徴のある形の耳は、やはり目立つようだ。



「ここは、とても賑やかな星ですね」


  果物の鮮やかさに眼を奪われながら、ラオンが云った。


「そりゃそうさ。この星があって、宇宙の商いが成り立ってるんだからね」


  云いながらおばちゃんは、果物の山から何かを探している。おばちゃんが商品の一角から取り上げたのは、手のひらに乗る程の真っ赤な光沢の果物だった。ラオンも、この果物にはなんとなく見覚えがあった。


「ジュピター人のお嬢ちゃんは、とっても辛い物がお好みだろ? 宇宙一辛~いこの果物、一個500ムーアのところ、特別に300ムーアでいいよ」


  愛嬌のある笑顔でおばちゃんが云った。さすが、マーズの民。なかなかの商売上手だ。

  ラオンは、そういえば今日は朝食を食べたきり、ほとんど何も口にしていない事を思い出した。

  街の人々の暮らしなら、本で読んで知っている。確か紙幣と硬貨というものが、物を手に入れる時に必要になるのだ。これを代価分だけ渡して、物と交換する。

  ゴソゴソと、穿きなれないズボンのポケットをまさぐる。城を抜け出す前、ポケットに入れてきたコインが何枚かある筈だ。

  ラオンが生まれた年に造られた記念コイン。父アルスオンの書斎にあるたくさんの記念コインの内の何枚かを失敬してきたのだ。ラオンは500ムーア相当の記念コインを一枚取り出すと、おばちゃんの厚い手のひらの上に乗せた。


「まあ、これはジュピターの姫君が誕生した記念の限定コインじゃないのかい!」


  おばちゃんは手のひらのコインを見て、つぶらな眼を更に丸くした。


「いいのかい? こんな貴重なもの……」


  おばちゃんは遠慮しながらも少し嬉しそうだ。何せこのおばちゃん、このコイン発売当時、すでに売り切れで手に入れる事ができなかったのだ。


「うん、まだ家にいっぱいあるから」


  ラオンの言葉にちょっと驚きながらも、おばちゃんはおつりと果実をそっと手渡した。


「うんと楽しんで、たんとこの星を好きになっておくれよ。そうして好きになったら、また遊びにおいで」


  おばちゃんは、不器用にウィンクした。

  ラオンはおばちゃんに手を振りお礼を告げると、再びごった返す街を歩き出した。食べ物を手にした途端、思い出したようにグーッとお腹が鳴る。

  ラオンは建物と建物の隙間に入り込むと、煤けた壁に凭れかかった。服の腹の部分できゅっきゅっと果実の表面を擦る。赤い光沢が増した果実に、ラオンはがぶりと齧りついた。瑞々しい果汁が零れる程に溢れ出す。口いっぱいに、突き刺さるような辛さが広がった。

  ジュピターの人間は非常に辛い物を好む。他の星の者がとても食べる事のできないレベルの辛さを、喜んで口にする。

  心地好い辛さが、胃袋の隅々まで染み渡っていく。皮ごと頬張る激辛果実は、城で口にするよりも何倍も美味しかった。



  風が、果実の辛さでほんのりと火照った頬の熱をさらっていく。だいぶ傾いた陽射しが、路地を伝いラオンの影を長く引き伸ばしていた。

  さて、これからどうしようか。

  思い勇んでジュピターを飛び出しては来たものの、偶然辿り着いたこの星に当てがあるわけもない。

  目的は、伝説の遊星ミシャ。

  何処に現れるかも、全く知れない星。まずは情報を集めなければ。

  運び屋を生業とする者たちは、頼りになる情報通だ。そういう点では、運び屋連中が多く集まるマーズへ最初に辿り着いたラオンは、なかなか幸運なのかもしれない。

  夜が訪れる前に、何かひとつでも手がかりを掴みたい。

  考えあぐねながら視線を彷徨わせていたラオンは、向かいの路地の隅の古い扉に気づいた。まるで人目を避けるように佇むその扉は、何かの店の入り口のようだった。

  ラオンは不思議な予感にいざなわれるように、賑わう大通りを横切り路地へ向かった。吸い寄せられるように、奥の扉の前に立つ。


  扉の上に置かれた小さな木製の看板に『ファザリオン』と書かれている。店名だろうか。窓や隙間もない為、外からでは全く中の様子がうかがえない。

  恐い物知らずのラオンは、ためらう事なく扉を押した。手のひらに、扉の重さを感じる。少し、建てつけが悪い。


  ギィィィ


  軋む扉が開くと同時に、酒の臭いがした。そして、陽気な笑い声。薄暗い店内はわりと奥行きが広く、点々と並べられたテーブル席はどれも客で満席だった。

  仕事仲間同士で語らいながら酒を交わす者、大皿の料理に腹を満たす者、カードゲームに熱を上げる者など、皆それぞれに一日の終わりのひとときを楽しんでいる。

  ラオンは、ぐるりと一周店の中を見渡してみた。皆程良く酒が入り、適度にでき上がっている様子の者ばかり。まともに情報が得られるのか、微妙な感じである。

  ラオンは、どうすべきか少し迷った。


「ちっきしょ~! やられたあ~!」


  カードゲームをしていた細身の男が、叫びながら手にしたカードを投げ捨てた。同席の二人のヒゲ男がニタニタと笑いながら、催促するような視線を向けている。細身の男は悔しさに歯軋りしながらも、渋々財布から紙幣を二枚抜き取りテーブルに叩きつけるように置いた。


「毎度あり~!」


  ヒゲ男二人はご機嫌に紙幣をさらうと、懐に仕舞い込んだ。

  ラオンはふと考え、ポケットの記念コインを探った。残り5枚。それにおばちゃんから受け取ったおつりを含めると、全部でコインは7枚。合計2700ムーア。一般の子供の貯金箱の中身程度の金額だ。これから旅をしていくには、明らかに少な過ぎる金額だった。

  ラオンは横目でちらりと、ギャンブラーの男たちを見た。三人はすでに次のゲームを開始しようとしている。

  ラオンはポケットのコインを握り締めると、軽快な足取りでギャンブラーの男たちのテーブルまで向かった。カードを切っていた男たちは、突然にこにこしながら近づいてきた見慣れぬ子供に、珍しい物でも見るような視線を向けた。


「ねえおじさんたち、僕も仲間に入れてよ」


  ラオンはそう云って、手のひらに握っていたコインを見せた。一瞬眼を丸くした男たちは、互いの顔を見合せると、同時にぷーっと吹き出した。

  顔を赤くして大爆笑。酒が入っているせいか、だいぶ陽気だ。


「おいおいお嬢ちゃん、これは子供の遊びじゃないんだぜ」

「そうそう、おこづかいぜ~んぶなくして、泣きべそかくだけだぜ」

 

  笑い過ぎて涙目のまま、男たちが忠告する。


「そんなの、やってみなくちゃ判らないよ」


  ラオンは空いていた椅子を引くと、ポンと腰掛けた。ラオンにはだいぶ高い椅子の上で両足をぶらぶらさせながら、早速手札を催促する。


「おいおい本気かい? 子供だからって、手加減はしねえぜ」


  三人の男は参ったなぁという苦笑いを浮かべると、仕方なくラオンを交えてカードを切り始めた。


  ところが数分後、男たちはすっかり度肝を抜かれる羽目になった。

  圧倒的なラオンの一人勝ちに、三人は次々に持ち金を失い、とうとう全員無一文にされてしまったのだ。

  すっかり酔いも覚めてしまった男たちは、まるで悪い夢でも見たような表情で口をぽっかり開けたまま茫然としている。まあ、無理もないが。


「じゃあね、ありがとうおじさんたち」


  ラオンは椅子からポンと飛び降りると、上機嫌に手を振った。三人の男はまるで疫病神でも見送るような眼差し。

  ラオンは儲けた札束を無理矢理ポケットにねじ込むと、まだ空いていたカウンターの席に飛び乗るように腰掛けた。


「ワインお願い。上等の一番辛口の赤でね」


  気分を良くしたラオンが、グラスを拭いていた白ヒゲのマスターに声をかける。ワインはラオンの大好物だ。ジュピターの人間にとってアルコールは、子供の頃からたしなむ日常の飲料なのだ。

  アフタヌーンティーならぬ、アフタヌーンアルコール。

  頬杖をついて、BGMのジャズのリズムを指先で刻みながら、悠々とワインを待つ。


  そんなラオンの背中を、先程から獲物を狙うような視線でうかがう少年が居た。

  夜の空に星が射したような深い瞳、首筋にかかる程の長さの青い髪、少し汚れた埃っぽい服に身を包んだ少年。生意気そんな顔の鼻の上の辺りには、二本に交差した傷痕。

  少年の名はソモル。ラオンよりもふたつ歳上の十三歳。

  砂漠近くの集積所で日雇いの荷物運びをしているソモルは、仕事終わりにこの酒場に荷物を届け、そのまま夕飯にありつくのが日課だった。ついでに店の掃除なんか手伝えば、ほとんどただ同然で食事にありつける。

  今日もいつものように荷物を届け、食事後のミルクを一杯やっていたところ、先程のラオンの健闘振りを偶然眼にする事になったのだ。


  ソモルの鋭い眼が、ひっそりとした光を宿してラオンを捉える。金儲けに全てを捧げるソモル少年にとっては、ラオンは絶好の獲物なのだ。


『へへっ、すげえゾ、すげえ! あのチビを上手く丸め込んで利用すれば、絶対大儲けできるぜっ! それも、半端じゃないくらいになっ』


  ソモルの腹の内である。

  ラオンがたった今大勝ちしたばかりの所持金を頂戴してしまえば一番手っ取り早いのだが、年寄り子供(この場合、自分より年下の)を大事にする主義のソモルには、それは自らのモットーに反する行為なのだ。

  ソモルは残っていたミルクを一気に飲み干すと、機嫌良く席を立った。そしてカウンターまでやって来ると、さりげなくラオンの隣の椅子に座る。ラオンは相変わらず指先でリズムを奏でながらご満悦の様子。

  ソモルは早速、ラオンの横顔を覗き込むようにして話しかけた。


「俺、ソモルってんだ。君ってば凄いね! 大人相手に完全一人勝ちだったじゃん」

 

  いきなり警戒されてはいけないので、いつものソモルの口調より、少々甘ったるく話す。端から見ると、まるでナンパのような素振りだ。

  ラオンは、たった今その存在に気づいたように、ソモルに視線を向ける。同時にマスターが、注文のワインをカウンターのラオンの前に置いた。


「いつもギャンブルとかで、こんなにツキまくってんの?」


  舌舐めずりする猫のようなソモルの眼が、ラオンの顔色をうかがう。


「ううん、賭け事なんてしたの、今日が初めてだよ」

「……えっ、嘘だろ?」


  ソモルが、想定していたシナリオの何処にもなかった返答に、一瞬調子を狂わす。


「本当だよ。ただ、ジイやたちがいつもやっているカードゲームを見てて、コツを覚えちゃっただけなんだ」


  ラオンが早速注文のワインを飲んで、もうちょっと辛いのにすれば良かったと後悔しながら云った。舌先の刺激が物足りない。


「……へえ、じゃあ君のおじいさんは、カードゲームが相当強いんだね」


  気を取り直してソモルが尋ねる。なんとかしてこちらのペースに乗せなければ、作戦が成り立たない。


「ん? 僕のおじい様は、ギャンブルなんてなさらないよ」

 

  グラスの赤ワインを揺らしながら、ゆったりとラオンが答える。


「……だって今、じいさんがギャンブルいつもやるって……」


  ソモルのシナリオが、どんどん崩されていく。


「それはジイや! 僕のおじい様は、れっきとした紳士なの!」


  ラオンは祖父の不名誉な誤解に少しむっとしたような口調で云うと、もう一口ワインを飲んだ。ソモルは一瞬眼を白黒させていたが、呼吸を整えるように一度唾を呑み込むと、再びラオンに尋ねた。


「あの、失礼だけど、君のお家って……」


  ラオンが、きょとんとして正面からソモルを見た。アルコールのせいか、眼元がほんのり赤い。


「ジュピターの城に決まってるじゃないか」


  当たり前じゃないか、という口調でラオンは云った。ソモル、応える台詞がない。

 ぼんやりと気分が良いせいか、自ら素性をばらしてしまった事も気にせず、ラオンはサービスのナッツを口にしている。

  ソモルは思考も追いつかぬまま、ただ口を開けてラオンを見詰めていた。そんなソモルを気に留めるでもなく、ラオンはグラスのワインをグッと飲み干すと、にっこりと微笑んだ。ソモルも、何故だかつられてにっこりと笑った。

  ラオンは一度満足気にうなづくと、軽やかにスイッとカウンター席から降り立った。鮮やかなマントを揺らしながら、ふらりふらりと仄暗い酒場の店内を歩いていく。


「……なんだ、冗談か……」


  残されたソモルは、一人でそう納得した。

  ラオンの飲み干していった空のワイングラスの縁に、照明の橙の光が美しく輪を描く。


「へへっ、当たり前じゃねえか、あんなの、冗談に決まってるよな」


  ソモルは独りごちると、勝手にそういう事にしてしまった。


「あ、それはそうと、あいつは……」

 

  ソモルがぼんやりしている間に、確か何処かへ歩いていった。ソモルは、キョロキョロとラオンの行方を探した。

  遠目にも目立つ紅の頭は、すぐに見つけられた。ワインのせいですっかり気分を良くしたラオンは、店内の中央の小さなミュージックステージのど真ん中に立っていた。

  颯爽とステップを踏みながらくるりとターンすると、ラオンは頭ひとつ分高いスタンドに差されたマイクを手に取る。そして店内に流れ続けるジャズピアノの音楽に乗せて、調子良くスキャットを歌い始めた。


  酒をかっ食らい豪快に笑っていた者、ゲームに負けてむせび泣いていた者、無心に夕飯を掻き込んでいた者、店に居た者たち全てが、思わず手を止め中央ステージに顔を向ける。


  なんと耳に心地好い、滑らかな声。日々の商いで荒くれ疲れた心のささくれを、柔らかく撫で癒すような、極上のスキャット。普段は滅多に動揺しない酒場のマスターまで、グラスを拭く手を止めてラオンの歌に聞き惚れている。この酒場『ファザリオン』を開いてずいぶん長いが、今までこのステージに立ったとびきりの歌い手たちよりも、格段に素敵な歌声だった。

  ラオンの声の響きに、聞く者全ての心が震えた。感極まって涙する者まで居る。ソモルですら、呼び止めようと伸ばした手が、行き場を忘れて宙を彷徨っている。


  一曲終わり、ラオンの歌声も消えるようにフェードアウトしていく。

  誰も音を立てる者は居ない。

  ラオンは澄まし顔のまま、片手に帽子を持つ真似をして、満員の観衆にペコリとお辞儀をした。あちらこちらからまばらな起こった拍手は、あっという間に激しい雨のような大歓声になっていた。立ち上がり拍手をしながら、アンコールを求める者たちまで居る。

  ラオンはその声に応じる事なく、マントをひるがえしてピョイッとステージから飛び降りた。まだ鳴り止まぬ拍手の中、気紛れな猫のように優雅な歩調でソモルの前までやって来ると、寸分の邪気もない顔でニコリと笑った。


―こいつ、本当にただ者ではないのでは……?


  戸惑いと確信に揺れながら、ソモルはラオンと向かい合ったまま立ち尽くした。



 

  バンッ!


 まだ興奮冷めない酒場に、突然勢い良く扉が開く音が響いた。

  ソモルは、びくりと振り向いた。

  見ると扉の外には、白髪の老人を先頭にして、数人の黒服の男がずらりと構えていた。


「やはり、姫様!」


  それはラオン直属のジイやと、その部下たちだった。ジュピター発の貨物船の行き先からマーズに目星をつけたジイや一行は、繁華街周辺を捜索していた。そして酒場の扉から洩れたラオンの歌声を聞きつけ、ここへ駆けつけたのだ。


「ゲッ! ジイ!」


  ほろ酔い気分も、一気に冷めていく。


「えっ……姫? ジイ?」


  ソモルは少々混乱しながらも、ラオンとジイや一行を交互に見た。

  いきなり現れたこの場に相応しくない仰々しい一行に、酒場の客たちがにわかにざわめく。今夜は一体、何が起こっているのだ。


「姫様、探しましたぞ! どうぞ、お城へお戻り下さい! 王様、王妃様もご心配されております!」


  ジイやが、今にも泣きそうな顔で懇願した。とにかく姫を説得して、なんとしてでも城に連れ帰らなければ。


  ラオンは、視線だけを動かしソモルを見た。


「……ソモル、ここ、裏口はある?」


  悟られないように、ラオンが囁く。


「あっ、ああ……、カウンターの横の出口の先に……」


  ラオンはカウンターの方に視線を動かした。細く、暗い通路が見える。


「よしっ!」


  ラオンは気合いを入れると、突然入口の扉、ジイや一行の後方を指差して叫んだ。


「あ~! 向こうに本物のラオン姫が!!」

「何ですとっ! 本物の姫様!!」


  ジイやたちが仰天して振り向いた隙に、ラオンは裏口通路に向かって駆け出した。


「あっ、待て」


  ソモルは頭がごちゃごちゃのままどうすべきか判らず、とりあえずラオンの後に続いて走り出した。


「あっ、お待ち下さいっ! おいっ、お前たち、姫様が逃げたぞ!」


  騙されたと気付いたジイやは、慌てて部下たちを指示する。店内に雪崩れ込んできた数人の黒服の連中に、客たちは驚いて身を低くする。

  皆、ヤバい事に巻き込まれるのはごめんなのだ。マスターも、その様子を黙して見ている。この酒場のマスターは恐ろしく無口で、必要最低限以外はほとんど声を出さない。


 ラオンはすでにすいすいと裏口を抜けると、通りを走り出していた。大勢で細い通路に押しかけた黒服たちは、かなり遅れをとってしまった。その情けない部下の様に、ジイやは苛立ちをあらわに拳を握り締めた。

  まあ、あんな嘘に騙されたジイやも悪いのだが。

  裏口の戸も、大人は屈まなければ通れない高さだったので、これまたずいぶん時間を喰ってしまい、すっかりラオンの姿を見失わなってしまった。


  その間にラオンは、この街の通りに詳しいソモルに先導され、夕闇にまだ賑わう繁華街をすり抜け、家々を横切り、かなり遠くまで逃げおおせていた。まばらにすれ違っていた人々の姿もなくなり、あるのはラオンとソモル、二人の影だけになっていた。


「あ~っ、もう限界っ!」


  息を切らし必死にソモルの背を追いかけていたラオンは、足をがくりと折り曲げ崩れると、そのまま草の上に倒れ込んだ。


「なっさけねえなあ、大丈夫か、姫さん」


  ソモルは腰を下ろすと、ラオンの顔を覗き込んだ。ラオンは頬を真っ赤にし、額に玉の汗を浮かべながら、ぐったりと苦笑う。

 こんなにたくさん走ったのは、初めてだった。城暮らしのラオンは、運動といったら乗馬や軽く剣術をたしなむ程度である。走るのはどうやら苦手らしい。ラオンは自分の不得意分野を苦く噛み締めた。

  荷物運びなどで体力には自信があるうえ、悪さばかりして散々逃げ回って足を鍛えたソモルには到底判らないだろう。

  横たわった草のひんやりとした冷たさが、火照った背中に気持ち良かった。


「ところで、ここは……?」


  ラオンは寝転んだまま、辺りを見回した。そこは、乾いたこの星では珍しく豊かな樹々の居並ぶ、小高い丘の上だった。街からは、ずいぶん離れたようだ、


「へへん! 俺の住処さ」


  ソモルは得意気にそう云った。

  ラオンはごろんとうつ伏せになると、ソモルが親指で指している方向を見た。大木の下、かなりおんぼろの小屋がある。


「へえ」


  ラオンは疲れも忘れて起き上がった。好奇心のおもむくまま、小屋に駆け寄り戸を開く。中は子供二人も入ればいっぱいになってしまう程の小振りな造りではあったが、ラオンの眼には充分魅力的に映った。

  粗末な寝床と小さなチェスト以外、何もない。自分一人の、自由な小屋。


「凄いね! ソモルはここで一人で暮らしてるの?」

「まあな。……雨が降ると、面倒だけどな」


  確かに、天井辺りに古くなった木が朽ちてできたまばらな隙間がある。幸いこのマーズは月に一度雨が降るか降らないかという気候なので、雨漏り対策の苦労は然程でもない。


  そしてラオンが何より眼を奪われたのは、その丘から見渡す景色だった。街全体やその先に広がる砂漠まで一望できる程の眺めは最高で、まるでここにある全てを自分の手の中に入れたような気分になる。

  しかもその頭上を振り仰げば、彼方まで続く空。マーズの空は大気の影響で、昼間赤く、夕暮れは青に染まる。まだ赤の残る空が、地平線から仄青い夜の色に染まっていく。黄昏と夜が交差する時刻。天の綾なす、優雅なほんの刹那の色彩。


  ラオンは空が全て夜の色に変わるまで、感嘆しながらその眺めを楽しんでいた。


  ソモルは内心、変な気分だった。

  ラオンの事は、最初からおかしな奴だと思っていた。ラオンの素性を知ってから、その思いは更に強くなったような気がする。

  ソモルの先入観では、お姫様というのは皆ワガママか、静々とお淑やかなイメージしかなかった。だがラオンには、そのどちらも当てはまらない。片鱗すらない。

  素直に目の前の事に感動し、驚いたり笑ったり、普通の子なんかよりもずっと敏感で新鮮だ。とにかく、今までに出会った事のないタイプだった。ラオンを見ていると、いつまで経っても退屈しない気さえする。

  日常をぼんやりとやり過ごしていたソモルの心に、鮮やかな刺激を与えてくれた。


  ソモルはまるで、珍しい動物でも見るような眼差しでラオンを見ていた。


―あの動作といい、大きな真ん丸い眼といい……。


  ソモルは、尚もじーっとラオンを観察する。


―まるで……まるで、リリンキャットみたいだ。


  ソモルの脳裏に、ある動物の姿が浮かんだ。それは、ジュピターの原生林に生息するという小動物だった。姿形はリスそっくりだが、目元は何処となく猫という感じだ。耳の形はジュピター人そのままなので、ジュピター人はこの動物から進化したと云われている。

  まあ可愛い動物なので、似ていると云われても悪い気はしないだろうが。

  振り向いたラオンの顔が、あまりにも自分の思い描いていたリリンキャットそっくりだったので、ソモルは思わず吹き出しそうになった。だが、辛うじて堪える。

  この姫様に粗相をしたら、あのジイやたちに何をされるか判らない。ソモルはこの発見を、自分の心の中だけに仕舞う事にした。


「いいなあ、ソモルは」


 風を受けながら、ぼそっとラオンが呟いた。


「えっ」


  聞き間違いだと思い、ソモルが訊き返す。


「だって、ソモルは自由なんだもの」


  自分を見詰めるラオンの翡翠の瞳に、星が宿ったような気がした。


「この星に生まれてこの星に生きて、たくさんの人たちと語らって、自由に駆けて。僕は、今日の今日まで一人で城の外にすら出た事がなかったんだ」


  ソモルは、真顔でラオンを見詰め返した。

  夜の薄闇が、二人を黒く包み込んでいく。


  羨ましい。

  ソモルは今まで一度だって、人に羨まれた事はなかった。ましてや巨大惑星の姫であるラオンの口から聞く事になるとは思ってもみなかった。ずっと最下層に近い生き方をしてきたソモルの方が、他人を羨み欲する側だったから。

  いくら欲しても手に入れられないものばかり、ソモルは横目で見送ってきたのだ。ラオンはきっと、その全てを持っている。そう思っていた。


「僕はね、父上と母上の為に、幻の遊星ミシャにある、クピトという宝石を手に入れようと思って、内緒で城を抜け出してきたんだ」


「クピト……」


  聞いた事もない、星と宝石の名前だった。


「僕の父上が伝説好きで、いつか話してくれたんだ。僕のラオンって名前も、古の惑星の名前から貰ったんだって。遠い昔に滅びたその星の言葉で、夢って意味があるんだって……」


  ラオンは遥か遠くを見るような眼で、そう語った。

  ラオン。

  その綺麗な響きと意味は、紛れもなくこの姫に相応しいとソモルは思った。


「クピトは愛を司る宝石だって、父上が云ってた。それを手にした恋人は、永遠に尽きる事のない愛を得るんだ」


  永遠の愛。

  まだ愛という感情の意味を知らないソモルには、思い描いてみる事すら敵わなかった。それを語っているラオンすら、まだ知らぬ感情なのだ。だが、父上と母上の姿を 思い浮かべれば、想像する事はできる。


「それを、喧嘩してしまったお二人に差し上げようと思って……。でも……もしかするとそれは口実で、本当はただ、僕は一人で城の外へ出てみたかっただけなのかもしれない。自由に、誰にも気兼ねする事なく……。それを、父上と母上を口実にして……僕は……」


  ラオンの大きな眼からは、今にも涙が零れそうだった。夜の帳の中で、ソモルにはそう見えた。

  生まれてこの方、ラオンは誰にも反抗した事もなかったのだろう。きっと些細なワガママですら。少なくとも、両親には。

  普段だったら、ソモルが嫌気の差すくらいの良い子ちゃんだった。優等生面した人間を、ソモルは一番嫌った。それくらい天の邪鬼になってしまう程、ソモルは奥歯を噛み締め生きてきたのだ。

 だがどうしてだか、ラオンは全く憎めなかった。したたかな良い子のフリではない。本当に苦しんでいる。両親を悲しませてしまった事を、本気で悔やんでいる。

 そんな素直な心に、ソモルは初めて触れた。


「……気にすんなよ! 子供ってのはな、少しくらい親に心配かけるもんなんだよっ」


  ラオンの傍に寄り、ソモルがぽんっと肩を叩いた。

  驚く程、薄い肩。この小さな背中で、将来はあの巨大惑星を背負っていくのだろうか。今のほんのちっぽけな身体からは、未来のその姿は想像できない。

  この小さなラオンの背中に隠れた、大きな大きな未来。多くの者たちの、希望。


  この宇宙の行く末も、恐らくはこの姫に全てかかってくる。自分ならきっと、その重みに押し潰されてしまいそうに苦しいだろう。

  ソモルは、小さく息を洩らした。


「……ま、俺なんかが偉そうな口利ける立場じゃねえけど」


  ラオンが、ソモルの顔を見上げた。その視線に何だか耐えきれず、ソモルは勢い良く草の上に腰を降ろした。


「……俺、両親居ないからさ」


  彼方に灯る街の明かりを見詰めながら、ソモルが呟いた。ラオンは、驚いてソモルの背中を見た。

  両親が居ない。

  城育ちで世間知らずのラオンには、その意味が良く理解できなかった。誰にでも、父母が居るのが当たり前だと思っていたから。


「俺は、戦災孤児なんだ。判るか? 俺が生まれた衛星ルニアが戦いに巻き込まれて、俺は一人、この星マーズへ逃がされた。他数人の子供とまとめてさ。あんまりちっさかったんで、覚えてねえんだけどな」

 

  衛星ルニア。

  それは、アンドロメダ星雲の更に先にある小さな星。あまりに辺境の星なので、他の星々との交流もあまりなく、また向かう者も滅多に居ない。

  その小さな星でソモルは生まれ、そしてマーズへ辿り着いた。


  この子だけは、生きて欲しい。

  両親の切なる願いを託され、宇宙の永い旅路の果てに。


  いつの間にか隣に座り込んだラオンの真っ直ぐな眼に、ソモルは小さく苦笑いを浮かべた。


「だから俺は、金を貯めてる。いつか、故郷の星に帰る為に。仲間のチビたちの分もな。親父もお袋も生きてっか判んねえけど、絶対探してやるんだ!」


  宇宙渡航にかかる費用は、その距離と場所に比例する。ここからルニア星までの距離は恐ろしく遠い。算術を習った事のないソモルには、一体幾らかかるのかすら見当がつかない。だから、がむしゃらに働いてやろうと決めた。


  ラオンは、ただ真っ直ぐにソモルを見詰めていた。

  ソモルの深い深い海のような瞳の奥に、幾つもの光が宿っては消えていく。まるで、ラオンには視えない、彼方の銀河を映しているような、強い眼差し。

 まるでこの宇宙に力強く瞬く、星のようだとラオンは思った。

 

  ラオンは素直に、ソモルの生き方を凄いと感動していた。子供だけで生きていくのは、きっと並大抵の事ではない。それを、ソモルは今日までやってきたのだ。ラオンは両親以外で、誰かを尊敬したのは初めてだった。


  ソモルと、友達になりたいと思った。

  ラオンにとって、生まれて初めての友達。

  どうすれば友達になれるのか、友達を作った事のないラオンには判らない。それとも、今こうして空を見上げながら互いの事を語り合っている自分たちは、もうすでに友達なのだろうか。


  そうなのかもしれない。もう僕らは、友達なんだ。


  なんだか心の奥の方に、大きくて力強い支えができたように安心できた。

  ああ、友達って暖かいんだな。ラオンは初めて、それを知った。


「俺、姫さんを利用して、金儲けしようと思ってたんだ。……ごめんな」


  ソモルは、今の自分の胸の内を正直に話していた。云わなくてもいい事なのに、何故かそうしないといけないような気がした。

  そうしなければ、友達になれない気がした。

  ラオンは、いいよと云う返事の代わりに、嬉しそうに微笑んだ。

 

  友情は、いつの間にか生まれる。まるで、知らぬ間に輝き始める夜空の一番星のように。

  すっかり暗くなった空には、零れんばかりの星々が瞬いていた。

  ラオンは再び、感激にはしゃいだ。こんなに圧倒的な星空は、ホログラフィーでしか見た事がない。


「あれが、僕の星だ!」


  ラオンは、一際輝くジュピターを見つけ、手を叩いて喜んだ。


「ソモルの故郷の星は、見えないの?」

「俺の故郷は、ラオンの星と違って遠いからな……」


  まだ姫さんと呼ぶソモルをたしなめ、ラオンと呼ばせたのだ。友情に、遠慮は必要ない。

  ラオンは、少し考えるように星を数えていた。

 赤い星、青い星、そして、白。


「ソモル、知ってる? あの天の川は、この宇宙で死んだ、星の残骸が集まってるんだって」


  不意に思い出したように、ラオンが語った。

 街の方に視線を落としていたソモルは、ラオンの言葉に空を仰いだ。ほんの微かにぼんやりと、白い星々の筋が浮かんでいる。

 すっかり、夜空に溶けるように。


「そう、なのか……」


 ソモルは、白い帯状に広がる天の川を辿りながら呟いた。

 散りばめられた星々の溢れんばかりの光に比べ、ほんの極淡い形。眼を凝らさなければ、きっと見逃してしまうだろう。


「星も、死ぬんだな」


 人間の寿命に比べれば、悠久に近い永い時を越え、最期はその内側に残された全ての輝きと共に、この宇宙に散っていく。その残骸の寄り集まりが、今も穏やかな輝きを放ち、宇宙に存在し続けている。

 まだ、ここに居るよ、と綺羅めいている。


「星の、墓場か……」


 そこに散った星と同じように、夢を抱きながらこの無限の宇宙に散っていく人間たちが、無数と居る。

 命と人生の全てを捧げた、一世一代の賭け。

 散り際の、星の輝きのように。

 ソモルは、切ないような心持ちになった。

 自分もいつか、散っていくかもしれない。

 あの、星の海の中に。


「けどね、あの場所は、たくさんの人たちが忘れていってしまった、夢の眠る処でもあるんだ」


  紡ぎ出された言葉に、ソモルは振り向きラオンを見た。ラオンは星を見上げたまま、語り続けた。


「遠い昔に宇宙に飛び出していった人たちが、落としていった夢の欠片。心の断片。だから、今もあんなにキラキラ輝いている」


 ソモルは、もう一度空を見上げた。今度はすぐに、星の川を見つける事ができた。


「その人たちもきっといつか、自分の落としてしまった夢の欠片を、あの星の川に迎えに行けるといいね」


 ラオンは夜空を見詰めたまま、微笑んだ。

  宇宙の全てを見透かしたような深い翡翠ひすいの大きな瞳が、夜空の星の光を映し、湛えていた。



  ラオンは星空を見上げながら、遠い記憶の糸を手繰り寄せていた。

 ラオンは七歳の頃、一羽の小鳥を飼っていた。とても綺麗な声でさえずる、仄青い可愛らしい小鳥だった。話しかけると、丸くて黒い瞳で真っ直ぐにラオンを見詰めてくる。

  ラオンはこの小鳥が大好きで、かけがえのない大切な存在だった。

  指先でそっと頭を撫でてあげると、いつでも嬉しそうに眼を細める。



 ある日、その小鳥が死んだ。

 ほんの軽い風邪をこじらせ、次の朝には鳥かごの端で小さく横たわっていた。

  朝、小鳥のかごに被せた布を取ったラオンが、それを見つけた。

  いつも止まり木に居る筈の小鳥が、何故下の端でうずくまっているのか、最初ラオンは判らななかった。

 小鳥の名前を呼んでみた。おはよう、と声をかけてみても、小鳥は動かなかった。

 かごの中に手を入れ、ラオンは小鳥の体に触れてみた。


  いつもと同じ、羽根の感触。けれど、ほんの少し冷たい。ラオンが手のひらを差し出すと、いつも自分からちょこんと飛び乗ってくるのに。

 ラオンはぐったりと動かなくなった小鳥を、そっと手のひらに乗せた。その途端、小さな体がだらりとあお向けになった。


  硬直したまま、わずかに開いたくちばし、うっすらと閉じたまぶたの隙間から、乾ききった瞳が覗いていた。細い足が、枯れた小枝のように垂れ下がり、柔らかな羽根が、しっとりと小さな体に張りついていた。


  小鳥はもう、ここには居ないのだとラオンは気づいた。


  ぽろぽろと、ラオンの大きな両眼から涙が零れた。

  ポタポタ、ポタポタ。

  大粒の雨のように。

 ラオンは大声で泣きじゃくった。

  その声に驚いて駆けつけたジイやが困り果ててしまう程に、いつまでも泣き続けた。


  その日の夕食に、チキンステーキが出た。

  ラオンはナイフとフォークを持ったまま、それを口に運ぶ事ができなかった。ラオンの大好きなメニューのひとつなのに。

 料理長が気を落としている姫の為にと、腕をふるって用意してくれたのだろう。が、ほんの少し配慮が足りなかったようだ。

 昨日までは喜んで口にしていた料理だけど、死んでしまった小鳥の事を考えると、どうしても食べる事ができなかった。

  この皿の上に乗せられた鳥も、ここに運ばれてくる前はきっと元気に生きていた。今朝死んでしまった、大好きな小鳥のように。


 そう思うと、また涙が溢れてきた。

 ラオンに食べられる為に命を奪われてしまった鳥の事を思うと、可哀想で罪悪感でいっぱいになった。今まで、そんな事考えてもみなかったのに。

 急に、命というものの重さを知った。

  辛くて苦しくて、心が弾けてしまいそうだった。

  うつ向いたまま、ただ涙を流しているラオンの頭を、母である王妃ミアムが優しく撫でた。


「ラオン、あなたがちゃんと食べてあげないと、この鳥さんの命は無駄になってしまうでしょう?」


 ミアムは抱き締めるような声で、ラオンを諭した。


「この鳥さんは、ラオンがきちんと綺麗に食べてあげなきゃ。そうすれば、ラオンの体の仲間になって、これからもずっとラオンと一緒に生きていけるのよ」


「……僕と、一緒に……?」


  見上げたラオンに、母は微笑んでうなずいた。


「鳥さんだけじゃないのよ。この野菜も、お米の粒も、全部の命がラオンに手渡されて、ラオンと一緒に生きていくの」


  一緒に生きていく。

  すぐにラオンが理解するには、少し難しい話だった。けれど、大切な意味が込められている事ははっきりと判った。


「だから、ちゃんと食べようね、ラオン」


  ラオンは桜色の頬に涙を飾ったまま、小さく頷いた。

 

  夕食後、ラオンは父である王アルスオンと、城のバルコニーから星を見上げた。

城内や街の光が明るすぎて、ここからではあまり多くの星を見る事はできない。それでも晴れていれば、大きな星やわずかな星座を見つける事はできる。

  ラオンは父と一緒に星を数えた。父は星の筋を辿り、天の川を教えてくれた。


「ラオン、天の川には、数え切れないくらいたくさんの星の命が集まっているのだよ」


「……星の命?」

「そうだよ。星も、ラオンと同じように生きている。生まれてきて、そして死んでしまったら、あの場所に還っていくんだよ」


 星も生きている。

 ラオンは必死に眼を凝らしながら、夜空に散らばる星を探した。

 父上、母上、ジイやたち、死んでしまった小鳥、そしてラオン。

  同じように命を与えられた星。


「死んでしまった生き物の命も、あの天の川の星の処へ還っていくんだよ」


  ラオンは、背の高い父の横顔を見上げた。


「じゃあ、僕の小鳥も、あの星の中に居るの?」

「そうだよ」


  ラオンの瞳が、星を宿したように煌めいた。


「じゃあ、いつかあの場所に行ったら、もう一度会える?」

「会えるよ。小鳥さんはいつだって、あの星の中からラオンを見ていてくれるからね」


  ラオンは、もう淋しくなかった。

 いつか必ず、あの天の川に会いに行こうと決めた。

 大好きな小鳥に会いに行く。

 ラオンは、そう決めた。




「明日、行くのか?」


  しばしの沈黙の後、ソモルが訊いた。

  なんだかこの小さな姫と別れるのが、酷く名残惜しい気がした。


「うん、明日の朝、この星を発とうと思う。探し物が一体何処にあるのか見当もつかないけど、絶対に見つけ出すんだ」

 

  ラオンの見詰める先には、広大な銀河が幾重にも重なり、瞬いていた。

 途方もなく限りない宇宙。

  無謀な程のラオンの奔放さが、今のソモルには酷く羨ましかった。


「一緒には行ってやれないけど、ラオンならきっと大丈夫だな」


  ほろ苦い笑みを浮かべて、ソモルは云った。

 ラオンが、強い眼差しで頷いた。


  今宵限りで、お別れだった。もうきっと、会う事もないのだろう。

 けれど、ずっと友達なんだ。

 この広い宇宙の片隅に、大切な友達が居る。たとえもう会う事ができなくても、それだけで嬉しかった。


「宇宙ステーションまで案内してやるよ。あのジイやたち一行に見つかったらヤバいんだろ?」


  ラオンが悪戯っぽくへへっと笑う。


「そろそろ眠らなきゃいけない頃だけど、もうちょっとだけ星を眺めてから。本当はね、一晩中でも眺めていたい気分なんだ」


  ラオンは記憶に焼きつけるように、夜空に広がる銀河をもう一度見上げた。

  忘れない、このマーズの空を。

 その日の星空は、ラオンの希望満ちた心を映し描いたようなまたとない満天の煌めきだった。




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