紫色の研究

竜山藍音

例題編

 胡散臭い。

 それがその小さなチラシを見た瞬間に若菜わかな樹里じゅりが抱いた感想だった。

 そう思うのも無理はない。何しろそのチラシの表面には、ただ一言『探偵助手募集(知識・経験・年齢・性別不問)』と書かれているのみで、では裏面はと言うと、『橋姫はしひめ探偵事務所』なる場所とその連絡先が記してあるだけだった。こんなものを見れば誰だって胡散臭いと思うだろう。土曜日の朝から何てチラシを入れるんだ、と怪訝な思いをするのは当然である。

 だいたい、このご時世に探偵助手募集なんて冗談にも程がある、というのが恐らく普通の感想だと思われるのだが、残念ながら樹里はそこまで思い至らなかった。何故なら彼女は小説のように難題を解決する名探偵の存在を信じてやまなかったからである。今日まで十七年間生きて尚、そんな夢の様なことを信じているというのは可愛げがあると言えなくはないが、その彼女でさえ「胡散臭い」と思う怪しさがそのチラシにはあった。

 しかし、彼女はまた同時に好奇心旺盛で、名探偵に憧れる少女だった。それだけ怪しいチラシだというのに、経験も年齢も関係ないなら一度行ってみようか、などと思ってしまう辺り、思慮が浅いと言われても言い返せないだろう。

 更に不幸なことに、彼女の両親は共働きで、土日祝日であっても夜遅くまで返って来ない事さえある。もっとも、何事も無ければ普通に休めるのだが。そして、残念ながらこういう時に限って何事もないとはいかないのである。

 ともあれ、彼女のそんな無謀とも言える行動を止める者はなく、誰も何も知らぬまま件の『橋姫探偵事務所』へ行ってしまったのである。


『橋姫探偵事務所』と言うからには、そこには当然職業探偵がいて、恐らくはその人の名前が橋姫さんなのは誰でも理解出来るだろう。実際樹里もそこまでは理解していた。

 だが、その探偵がどんな人間なのかというところまで考えが及ばなかった。高校生らしい失敗と言えるだろう。無論、彼女が何ら予想していなかったという訳ではない。なんか知的な男の人とか、その程度のぼんやりしたイメージである。それで本当にいい人だったらともかく、よろしくない人が出て来たらどうするつもりだったのか、後になって自分で訝しがる事になるのだが、後悔先に立たずである。そんな状態で事務所(小さいながらも綺麗なテナントビルの一室)の戸を叩いた樹里は唖然とすることになった。

「はいはーい。……新しい仕事かな?」

 と間延びした調子で言いながら出て来たのは、二十歳にも届かないのではないかと思われる若い美人だったからだ。白いレース付きの女性らしいブラウスに、黒い細身のパンツ姿で樹里を僅かに見下ろしている。当然ながら樹里の思い浮かべる探偵像とはかなりかけ離れている。

 謎の美女は、樹里が大事そうに手に持っているチラシに目を落とし、柔らかい笑みを浮かべた。

「ん? そのチラシを持ってるってことは、助手希望者ってことね。じゃあ上がりなさいな。コーヒーくらいなら淹れてあげよう」

 そう言って樹里を招き入れた。この展開を予想だにしなかった樹里は驚きのあまり頭が正常に働いていないので、場合によっては何だかまずい光景に見えなくもないが、本人達はいたって真面目である。

 そもそも、探偵が男性である道理はない。エルキュール・ポアロだの、オーギュスト・デュパンだの、シャーロック・ホームズだの、金田一耕助だの、明智小五郎だの、男性名探偵の小説ばかり読んで来た女子高校生には、予想がつかなかったというだけで。

「まさかそんな安い広告で来てくれる子がいるとは思わなかったわ。何事も試してみるものね。君みたいな可愛い女の子なら大歓迎、と言いたいところだけど、君、高校生でしょ? それも隣の大宅おおやけの。こんなところに来て大丈夫なの?」

 言葉通りコーヒーを淹れた謎の美人探偵は、事務所の奥のソファに樹里を座らせ、自身もまたその向かいに座った。

「え? どういうことですか? ていうか何でわたしが高校生だって分かったんですか?」

「おやおや、君は今誰の前に座っていると思ってるのかしら? 私は知る人ぞ知る名探偵、橋姫紫音しおんよ」

「いや、自分で知る人ぞ知るって言ってて悲しくないんですか?」

「おっと、それ以上はいけないわ。人の心というのは存外デリケートだからね。好き勝手弄っていいものではないよ」

 樹里からすれば、これほどデリケートとは程遠い人はないというのが率直な感想だったのだが、流石にそれを言うのははばかられたので「はぁ……」と言うにとどまった。

「まあそんな事はどうでも良くてね。なんで分かるかって、見れば分かるのよ」

「普通分からないと思うんですけど……」

 見れば分かると言われても、探偵では無く、ただ探偵に憧れるだけの樹里は困惑する他ない。

「うぅん。仕方ないわね。少し野暮だけど説明してあげる。特別にね」

 そう言って得意気にウィンクする。ウィンクが似合うのは美人の特権だと、樹里は常々思っている。その点この探偵は似合い過ぎていると言っても過言ではない程の美人だった。

「聞けばなんてことないんだけどさ、君、左手の甲にペンでメモ書きしているでしょう?」

 樹里はぎょっとした。確かにメモとして学校の宿題を書いた。しかし、それを書いたのは一昨日だ。今はほぼ消えているのに、それに気が付いたということに大きな衝撃を受けた。

「そしてそこに書いてあった問題集の名前だけど、それは高校の内容で、しかもここ夏山なつやまではあまり使われておらず、大宅市では逆によく使われているものよ。加えて、その広告は大宅市と夏山市にだけ配布した。つまり、その他の市について考える必要はない。以上の事から、君は大宅市の高校生と推測できる。推理と言うほどの事でもないわ。どう? 大したことなかったでしょ?」

 確かに言われてみればどうということはない。むしろそれ以外の答えを導き出す方が難しいだろうというくらいのものだ。

「はい。でも、よくこんな消え掛けのメモに気が付きましたね」

「その程度のことに気が付かないようじゃ、探偵なんかやってられないでしょ?名探偵じゃなくても出来るわよ」

 そう言って得意気に胸を張る様を、樹里はまるで子供みたいだと思いながら見つめた。

 やや呆れる反面、この妙な探偵の洞察力、推理力に心を奪われてもいた。広告を出した本人である以上地域は絞れるとしても、消えかかった左手のメモに気付き、あまつさえそこに残った僅かな文字から問題集の名前を見抜くなど、樹里には百年経っても出来そうにないように思えた。

「まあ、そんなことはどうでもいいんだけどー。私、まだ名前を訊いてないよね?良ければ教えてくれないかな?」

 そういえばそうだった。名前も明かさずに助手にしてくれなんて、非常識にも程がある。もっとも、樹里とて頼み込んだ訳ではないし、探偵──橋姫紫音──が樹里に頼んだ訳でもないが。

「あ、ごめんなさい。わたし、若菜樹里と言います……」

「謝る必要はないよ、私が訊いてなかっただけだもの。ふーん、若菜樹里ね。樹里ちゃんって呼ぶけど、構わないかしら?」

「は、はい。ありがとうございます」

 慌てて首肯すると、紫音探偵はふふっ、と笑いだした。

「そこでお礼を言うなんて、変わってるねえ」

「そ、そうですか?」

 変わっているなど心外である。とはいえ、構わないかと訊かれてありがとうございますは確かに変だ。言い直そうかと逡巡しているうちに

「ところで、話は変わるんだけどさ」

 先に話を終えられてしまった。

「へ? あ、はい。何でしょう」

 完全に自分の考え事(というほど大した内容ではないが)に没頭していたので、変な声が出てしまった。恥ずかしさのあまり顔から火が出そうだ。

「大した話じゃないんだけどさ。もしかして樹里ちゃんのご両親って、県警で働いてたりする?」

「! わたしの両親を知ってるんですか?」

 先程は彼女の両親について「共働き」としか言わなかったが、実は二人とも警察官だったのである。父は警部、母はただの刑事だ。警察官やその家族は、得てしてそれを隠したがる。とはいえ、誰だって「私は警察官です」と言われていい気分にはならないだろうが。

「うん、ちょっとこの前お世話になってね。私が若菜警部のお世話になったのか、若菜警部が私のお世話になったのかはちょっと微妙だけどね」

「それってもしかして、両親が担当してる事件を手伝った、という事ですか?」

 仕事中の両親の様子など一度も見た事がない樹里は、話に食いついた。

「そ。二人ともいい人だからね、よく私に仕事をくれるんだよ。もっとも、無能な警察が解けなかったってだけなんだけどね。給料が出る訳でもないし」

「え!? お給料が出ないなら、どうやって生活してるんですか?」

 仮にも警察官の娘に向かって、無能な警察というのは如何なものかと思わなくはないが、そのような些事は紫音の思わぬ発言によって、仕事中の両親の様子を聞こうという樹里の目論見も含めてあっという間にどこかへ霧散した。

「いや、一生遊び尽くして暮らせるくらいの資産があるからね。元は父の遺産だけど。探偵業なんて、私が道楽でやってるようなものよ。そもそも、無償でなきゃ警察の仕事に絡めるような事件は来ないのよ。向こうは公務員だからね」

「無償事業でも普通駄目だと思うんですけど……」

 当然である。外部に機密情報を流していい訳がない。

「まあ、そこはそれ、世渡りの才ってヤツよ。まあ実際は、偶々居合わせた私が警察より先に解決させただけってことも多々あるんだけどね」

「多々あるんですか、そんなこと……。そんなに事件に居合わせるんですか?」

「私だって、別に居合わせたくて居合わせる訳じゃないわ」

 両手を広げ、呆れた様子で語り出した。

「私、結構あちこち出掛けるんだけどさ。お金には困らないから。すると、何故か行く先々で事件に巻き込まれるのよ。毎回じゃないとはいえ、不思議だよね。ま、ありがたいことではあるけど。何しろ、探さなくても事件がやって来るんだもの」

 やや意地悪くニヤニヤと笑う。

「今はお仕事ないんですか?」

「んー、一応あるんだけどね。ただ、一週間後に出発予定なのよ。山奥の賢木さかきさんの屋敷に呼ばれててね。何でもそこで今までお世話になった人を集めて感謝パーティをやるんだって。私も呼ばれたんだけど、気が乗らなくてね……」

「はぁ……何でですか?」

 本気でさっぱり分からない。樹里にしてみれば、とても美味しい話なのだが。

「だってさぁ……面倒くさいでしょ。会ったこともない人だっているだろうし」

 身も蓋もない理由だった。面倒くさいから仕事しない、というのは、いくら何でも道楽仕事とはいえ許されないだろう。

「とはいえ行かない訳にもいかないからね。そこで今までいなかった助手を一人連れていければ少しは楽しくなるかなと思って募集したのよ」

 と、募集の理由をサラッと語ったと思いきや、ここでまたしてもいきなり話を変えた。とんでもないマイペースだ。

「そういえば、うちで助手になるつもりはあるんだよね?よろしい。ならここで暮らして貰うことになるけど、いいよね」

「えっと……さすがにそれは両親に確認してみないと……」

 いいよね、ではない。いい訳ないだろう。その常識の無さに少しどころではなく呆れながら答えた。

「うーん、それもそうだよね。女の子だし。じゃあ私の方から若菜警部に連絡して、話をつけとくから、樹里ちゃんは一度帰って準備した方がいいね」

 そのようなやり取りを経て、樹里は家に帰らされた。

「明日の朝また来てね〜」

 という、間の抜けた声を聞きながら。


「さて、樹里ちゃんも帰った事だし、私は私の仕事をしなきゃね」

 そう呟いた紫音は早速デスクへ向かい、どこかへ電話をかけ始めた。

「もしもし、橋姫です。ご無沙汰してます。えぇ、そうでしょうね。いえ、今日樹里ちゃんがうちに来たんですよ。まさか、嘘なんか言ってどうするんです?えぇ、助手の募集に応じてくれたので。ふふっ、話が早いですね。えぇ、用件はそれでして。うちで預からせて貰えないかなーって」

 聞いての通り、件の若菜警部に電話をかけているのである。彼等が休日出勤しなければならないような事件があるというのに。

「え?そちらの事件を解決出来たらいいですって?でも私、一週間後には栃木だか群馬だか何処かの山奥に行かなきゃいけないのですけど……。えぇ、そこに樹里ちゃんと一緒に行きたいなーって。え?子供っぽい言い方をやめろって?それは無理な相談ですよ。だって私、まだ18歳の子供ですから」

 ふふふっ、と上品に笑いながら話を続ける。

「確か、樹里ちゃんって17歳でしょう? 私達、きっといい友達になれると思うんですよ。ホームズとワトソンみたいに。それはともかく、事件の話を聞きましょうか。捜査一課の貴方が出張ってるということは、またぞろ殺人事件ですね?」

 しばしの沈黙。

「なるほど。委細承知しました。では、明日現場を見に行くとしましょう。樹里ちゃんと一緒に」

 そう言ってまた微笑み、一方的に通話を終えた。

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