お刺身の盛り合わせ
ワシントン州 和食専門店『撫子』 二〇一三年二月一七日 午後七時四五分
香澄・マーガレット・フローラの三人で話が盛り上がっているが、それはケビン・ジェニファー・トーマスたちも同じこと。その内容の多くは、“学校の勉強はどう?“何か悩み事はないかい?”などといったものが中心。言葉にはしないものの、ケビンなりに二人の心身を心配しているようだ。
「うん、僕は大丈夫だよ。ジェニーの方こそ大丈夫? やっぱりお勉強は大変?」
「ありがとう、トム。心配してくれて。でも私も大丈夫よ」
トーマスたちとこうして楽しく世間話が出来ることが、今のケビンにとって何よりの幸せ。
『……この小さな幸せがいつまでも続くといいな』
日常への幸せをかみしめつつも、そう心の中で一人願うケビンの姿があった。
そんな幸せを一人願うケビンの視線には、お刺身をじっと見つめているトーマスの姿が映る。お皿にはマグロの赤身や鮭やアジの切り身をはじめ、ツマなどが綺麗に盛り付けられ、テーブルを綺麗に
「ねぇ、ケビン。このお刺身っていうお料理――何だか独特の味だね。ううん、どういう言葉で表現すればいいのかな?」
だがそれもそのはず。本来ならお醤油を付けて食べるはずのお刺身を、トムは何も付けずに食べているのだ。
「あぁ、トム。お刺身はね、このお醤油を付けて食べるんだよ。……僕がお手本を見せるからね」
そう言いながらケビンはお醤油を自分の小皿に垂らし、それにお刺身を付けて口の中へ入れて見せた。
ケビンの見よう見まねで小皿にお醤油を垂らした後で、“チョンチョン”とお刺身を味付けてするトーマス。そして“そんなに味が変わるわけないよ”と疑念を抱きながらも、お醤油付きのお刺身を口の中で味わってみる。
「……何これ!? すごく美味しいよ!」
まさに頬っぺたが落ちるかのような、うっとりとした顔をするトーマス。そして新しいお刺身の味を発見したことで、“パクパク”と一切れずつ食べ続けるトーマス。そんな無邪気のはしゃぐトーマスの姿を見て、思わず穏やかな笑みを浮かべるケビンとジェニファー。
だがそんなトーマスの瞳には、お刺身の横に添えてある緑色の薬味のようなものを見つける。
『このお刺身の横にあるのは何だろう? これもお醤油なのかな?』
と不思議に思いながらも、スプーンで緑色の薬味のようなものをつかもうとする。
ジェニファーとの楽しそうに話をしながらも、その光景を見たケビンは
「……あっ、トム!? それはお醤油じゃないから、食べなくていいよ!」
優しくトーマスへ注意する。“えっ、どうして?”と不思議そうな顔をするトーマスへ、
「これはね、『わさび』っていう薬味なんだよ。普段はお寿司という料理が出る時に、お刺身の横に添えてあるんだ。でもそのまま食べるととっても辛いから、トムにはまだ早いんじゃないかな?」
『わさび』の特徴について簡単に説明してくれた。
「ふ―ん、これが『わさび』なんだね――ありがとう、ケビン。心配してくれて」
日本に『わさび』という薬味があることは知っていたものの、実物は見たことがなかったトーマス。そこへケビンからの忠告のおかげで、何とか難を逃れたトーマス。そのことを知ったトーマスは、スプーンですくいかけた手を止める。
だが慌ててお刺身を食べ続けたためか、トーマスの口周りは醤油の跡がついている。そのことに気が付いたジェニファーは、
「あら、トム? お口周りにお醤油が付いていますよ。……私が拭いてあげるから、じっとしてね」
テーブルに置いてある紙ナプキンを右手で取り出す。
そして左手で頬を抑えつつ、右手でトーマスの口周りを綺麗に拭き取るジェニファー。
『あれ? 前にも確かこんな風に、誰かに僕のお口周りを拭いてもらった気がするな。……気のせいかな?』
そのように不思議に思いながらも、トーマスはどこか懐かしい気持ちに浸っている。
軽く口を開けたまま唖然としているトーマスを見たジェニファーは、
「はい、これで綺麗になったわよ。……ってあら? どうしたの、トム?」
どこか不思議そうな顔をしながら問いかける。
そんなジェニファーの問いかけに応えるかのように、すぐに我に返るトーマス。そして何事もなかったかのように、“うん、何でもないよ。ありがとう、ジェニー”と元気な返事を返す。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます