第2話 女優 中山美智子
第二章 女優 中山美智子
1
「ああ、なんてことかしら」
美智子はBMWのバックシートで頭をゆすった。
顔が薄紅色にそまっている。こんな気持ちは……三年ぶりだ。醒めたくはない。 彼と別れてきたのが心残りなのだ。彼と話ができた。彼と会った。それも霧降りで……思い出の場所だ。
車は美智子の付き人が運転していた。彼女の母の妹だ。
「里佳子、おばさん。ごめんなさい。連絡もしないで消えちゃって」
霧降まで、追いかけて来たのは、理佳子の勘だった。その結果、プレスの車を引き連れてきてしまったが。
「リカコでいいの」
「ふたりだけのときくらい、里佳子おばさんと呼ばせて」
「なにかあったのね。いくら、ケイタイしても出ないんだもの――」
「直人に会ったの」
上ずった美智子の声に。里佳子のハンドルを握る手が反応した。高速をぶっ飛ばしていた車が蛇行した。タイヤが路面をこすった。タイヤのスキット音がした。あと少しで、事故を起こすところだった。
車は東北道を東京に向かっていた。秋の観光シーズンも終わった。ウインタースポーツにはまだ早い。奥日光、那須さらには福島から東北一帯のスキーシーズンにはまだ間がある。道路はすいている。こみあっていたら、たいへんな事故になったろう。
「ああ、こわかった」
同じような声とアクセント。同時に里佳子と美智子が言った。まさに叔母と姪だ。
「おどかさないでよ」
里佳子が横目で美智子を睨む。
2
「ほんとうにおどろきました」
マネージャーは話しながら、ぽんと手をたたくしぐさをした。
「あなたにお返しするものがあります」
「榊隼人です」
少年が自己紹介をした。
「これはごていねいに。この店をまかされている信藤ともうします。榊さんがあの日、預けて行ったコートがあるのです。ケイタイはさきほど充電して置きました」
「事故を知らされたとき、ぼくはまだ学生でした。パパの仕事でずっとアメリカにいます。フロリダからフライトしてきました」
それで季節にそぐはない薄着なのだと信藤は納得した。コートは黒のニットらしかった。手編みのコートのようにも、古い貫頭衣仕様にも見る。ふしぎな感じがした。手を通すと暖かく体をつつみこんでくれた。体によくフイットした。コートなのに肌を直接包み込んでくれる感じなのだ。
さきほど、プレスの車がつけた轍の跡をふみながら隼人は歩きだしていた。
直人の転落現場まで崖を下りたい――。という欲望を思いとどまり、歩きだしていた。
空の隅でヘリコプターの音がしていた。世界遺産の日光を空から見る遊覧ヘリだ。
来るときとは違う。ひとりだ。
いまごろ美智子さんは東京にむかっている。ケイタイのナンバーくらい聞いておけばよかった。住所も聞いていない。
また会いたい。
わかれたばかりのに、すぐにでも会いたい。
彼女の声が聞きたい。
彼女のほほえむ顔が見たい。
きれいなひとだった。
切れ長の少しつりあがった目。
形のイイひかえめな高さの鼻梁。
色白な肌。東洋の、日本的な美しさだった。
ここは、日本。日光。――日光にいまぼくはいる。
3
「ごめん、おどかすつもりはなかった。そんな気でいったんじゃないのよ」
「だって、三年も前に死んだモト彼。直人さんに会ったなんていわれて、おどろかないほうがよっぽどおかしい。……と思わない」
さいごの言葉は質問の形となって美智子になげかえされた。
「ほんとなの。榊直人に会ったの。彼は三年たったら霧降の滝で会えるからといっていたのよ」
「そんなの死んでいく人間のロマンチシズムよ」
里佳子は容赦なく言い放った。それで会話にひずみができた。美智子は深い吐息をもらす。里佳子が沈黙に耐えられなくなった。
「ねえ美智子なにがあったの」
姪に呼びかけるやさしさがある。
「だから直人そっくりの青年にあったの」
「直人さんじゃないわけね。ソックリ、という言葉いれてくれないと困るじゃないの。わたし、てっきり美智子がサクランしたと思うところだったわ」
「わたしだって、浅草駅の人ごみで彼を見たときおどろいた。彼が約束にたがわずこの世にもどってきた。そう見えた。でも、足があった」
彼女は思いだし笑いをした。
そこで彼女は気づいた。若者の名前を聞いていなかった。ふたりで霧降まで歩いた。山のレストランで食事をした。あの雰囲気は……。
恋人までの距離に限りなく近寄っていた。
いや、恋人の、直人だった。そう信じた。
だからこそ、名前聞いてしまっては――。現実に引き戻されそうな予感がして怖かった。
あの事故がなかったら、わたしたち、結婚していた。今頃はよちよち歩きの子どもがいても、不思議ではない。
わたしは、女優であることをやめていたろう。
わたしには、普通の家庭の主婦がむいている。そうなりたかった。
直人がそばにいて。
子どもがいて……。
毎日。笑い声の絶えない。
平凡だが楽しい家庭を築きたかった。
鹿沼のGGとミイマのように――。
わたしはいい母親になっていたろう。
4
「もちろんぶじでした」
美智子の属している「中野芸能事務所」の中野社長からだった。里佳子からケイタイを渡された。心配してくれている。ことわりもしないで、パーティーの席からぬけだした。とおりいっぺんの返事しかできないじぶんが悲しかった。社長はなにも知らない。
直人の三回忌をひとりで霧降の滝で過ごしたかった。それで、主演女優賞の受賞パーティーを中途でぬけだしたとしか社長は思っていない。
そうだった。そうだったのだ。浅草の駅に着くまでは――。だって、受賞がきまって、うれしくて、直人との約束の日を、彼の命日を忘れていた。
わたし、おかしい。あれから……ずっと寂しかったので、おかしくなっていた。
まだおかしい。寂しすぎたもの。ひとりぼっちだったもの。そして直人に会った。
亡霊だと思った。それでもいい。孤独の寂しさからはぬけだせる。亡霊でも直人に
会えてうれしかった。直人が会いにきてくれた。
直人が約束を守ってくれた。うれしぃ。こころがおののいた。戦慄で体もふるえていた。
「結果的にマックス宣伝効果があった。局の出演を調整するのにてまどって連絡がおくれた。安全運転で帰ってきてくれ」
「つけられているわ」
美智子がケイタイをきるのをまって里佳子がいった。
「パパラッチ?」
「あのころの日常がもどってきたのよ」
「おばさん、あまりはりきりすぎないでくださいな」
美智子がおどけていう。
「あれから三年もたっているの。おばさんも、わたしもあのころの歳にはもどれないのよ」
「あなたは、美智子は、ぜんぜんかわっていない。むしろあのころより美しくなった。女優としての風格がでてきた。きれいすぎるだけでなく……貫禄が身についたって感じよ」
「ほらやっぱぁ、年とったってことよ」
「そんなことない。これからよ。これから昇りつめて見せて」
「おばさん。よして」
「ごめん。じぶんのことのように興奮している」
「そうよね。わたし……三年もくすぶっていたのですもの。みなさんに迷惑かけたわ。謝るのはわたしのほうなのよ」
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