3.事故
授業後、身体を確認するとアザだらけだった。
幸いにも酷いものはないが、身体のいたる場所が赤くなっていた。
家に帰ると、母親に、まぁどうしたのと驚かれた。
体育の時間にドッチボールをしたら、たくさん当たってしまったと言うと、呑気な母親はそれで納得したようだった。
夕食を食べて、自室に戻ると途端に涙腺が緩んだ。
涙が止まらなかった。
悲しいのか悔しいのか。自分がどのような感情の襲われているのかも分からなかった。
苦痛を誰にも言う事が出来ないというのは、それだけで苦痛は倍増した。
ドッチボールの事で、ついに私の精神は限界だった。
部屋のベッドの上で力なく横たわり、このまま消えてしまえたらどんなに幸せだろうと思った。
「……?」
そのときふと、床に落ちている白いものが視界に入る。
それは一枚のルーズリーフだった。何かのはずみで机に立てかけてあったものが一枚落ちたのだろう。
その時私は、何かに縋りたい一心だった。
ルーズリーフを拾い、まるでそうする事が自然かのように、ボールペンで悲しみを書きはじめた。
その行為こそが、全ての始まりだった。
〝くるしい たすけて〟
そう書いた。
感じている苦痛を文字にして書いた。その瞬間、嘘のように気分が楽になったのを覚えている。
落ち着きを取り戻した私は、鈴木の事を考えた。
鈴木に嫌われている。
馬鹿だった私でも、とっくにそれは理解していた。
ではどうすれば好きになってもらえるのだろう。
それを考えてすぐに首を振った。
好きになってくれる事などありえない事も分かっていた。
理屈ではない。本能で憎まれている事を感じとっていた。
ではどうしたらいい? どうしようもない。もう学校に行きたくない。学校に行ったら鈴木がいる。
また、涙がぼろぼろとこぼれ、ルーズリーフにしみを作っていく。
私は再びボールペンを持ち、書き始めた。
〝すずきせんせいが くるまにひかれてほしい〟
そう書いた。ひらがなだけの稚拙な文だったと記憶している。
しかし、文章は稚拙でも、字そのものは違う。
人間が書いたとは思えない、例えば神のような超越した存在が書いたのではないかと思わせるほど美しい字だった。ひらがなだけの稚拙な文章と綺麗すぎるその字は、強烈な違和感を醸し出していた。
そのとき、なぜ車に轢かれて欲しいと書いたのかよく覚えていない。幼い私にとって交通事故こそが一番身近な大怪我だったのだろう。
書き終わったルーズリーフを引き出しに隠し、ベッドに戻る。
脳内に鈴木の存在がちらつき、なかなか眠れなかった。
***
翌日。
学校を休みたかったが、両親に仮病を言い出せず、いつも通りの時間に家を出た。
登校中、体育の授業の事があったせいかいつもよりも周りの音に敏感になり、他人の声が恐ろしかった。笑い声はもちろん、普通の会話にすらびくびくと身体を震わせていた。
体中に出来た打撲は、数が多いせいか酷く痛んだ。
足にも複数のアザができていたためずきずきと痛み、スムーズに歩くことは困難だった。
登校は、同じ地域に住む生徒達が集まって、集団で登校していた。
しかし、痛みで足が思うように進まず、次第に集団から大きく離され、一人で足を引きずりながら歩いていた。
前を見ると、集団登校が一緒のクラスメイトの男子が、私を見てニヤニヤと笑っていた。
私は顔を青くした。
少しでも学校に着く時間が遅くなれば、彼に報告され、また鈴木に叱られてしまう。
恐ろしくて生唾を飲み、歩くペースを上げた瞬間だった。
「高田さん!」
後ろから声が聞こえ、血の気が引いた。
それはよく知る声だった。
「高田さん、あなたは本当にのろまね。なぜそんなに歩くのが遅いの?」
鈴木だった。
身体の震えが止まらなかった。
私は頭こそ悪かったが、視力は良かったので、遠くから歩み寄ってくる鈴木の顏がはっきりと見えた。
その表情は楽しそうに笑っていて、人間とは別の恐ろしい生物に見えた。
道路を挟んで鈴木と対面する。
「どうしてあなたはいつも」
そこで鈴木の言葉が途切れ、急に姿が見えなくなった。
突然、消えたのだ。
まさかそんな筈ないだろうと、あたりを見回すと、鈴木は空中を飛んでいた。
スローモーションのようにゆっくりと、宙に浮かび上がり、次第に落ちていく。
目の前の道路には赤いスポーツカーが止まっており、前部分の車体がべこりとへこんでいた。
ごつんという鈍い音がして、音のする方を見ると、鈴木が道路に転がっていた。
道路上に赤い液体がみるみる広がっていく。
鈴木が交通事故にあったことをやっと理解した。
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