1.離反
では話をはじめよう。
これはまだ私が幼かった頃の話だ。
当時、小学生だった私は、現在の私からは想像も出来ない程、頭の悪い子どもだった。勉強も運動も、人並み以上の事は何一つ出来なかった。
例を挙げるなら、百点満点のテストで二桁の点数をとる事などまれだったし、跳び箱は一段も飛べなかった。絵を描けば色彩の無茶苦茶な何かも分からない絵を書きあげてしまうし、言葉も他の子どもたちのように上手く話せなかった。
両親からは何も聞かされてはいなかったが、恐らく軽度の知的障害を患って生まれたのだろう。
馬鹿な私だったが、自分が他の子ども達とは違う、という事はしっかりと理解していた。
クラスメイト達は、発言のはっきりしない私をよくからかったし、蔑みの目で見られることも多くあったからだ。
しかし、当時の私にはたった一つだけ秀でたものがあった。
それは、軽度の知的障害など、些細なものとしか考えられなくなるぐらい、特別なものだった。
その力の本質を知るのはもう少し先になるが、本質を知る前から、自分がその特技に対して、他人を圧倒しているという自覚はあった。
私の特技。それは、非常に〝達筆〟だという事だった。
字なんて上手だろうが下手だろうが、そんなに特別な事ではないだろうと思うかもしれないが、私の達筆さは常識の範囲を超えていた。
私の書く字は印字と見分けがつかない。食い入るように見てやっと〝ああこれは機械で出力した字ではない〟と気が付く。
〝こんな美しい字は決して機械では表せないな〟と、そう気が付くのだ。
私の特技の話は一旦置いておこう。次は、当時の私の学校生活についての話だ。
私は当時、担任だった教師にとても嫌われていた。
担任の教師の名前は鈴木。二十代半ばの美人な女教師で、教え方も上手く、生徒達にも好かれていた。
鈴木は私を初めて見た時から死ぬほど嫌いだったようだが、私は出会った時に担任の教師に嫌われているなど、考えもしなかった。考えもしなかったというよりは、理解しなかったと言った方が正しい。
思えば最初から、他の生徒達とあからさまに態度を変えられていたが、私はそれに気が付かなかった。
幼かった私にとって、教師というのはとてつもなく偉い人間に思えており、そんな偉人が個人的な感情で、劣等生に態度を変えているなんて思いもしなかったのだ。
嫌われている、という事をしっかり自覚したのは、忘れもしない小学校五年生。
夏休みが終わった九月一日の事だった。
当時、出題された夏休みの宿題の一つに読書感想文があった。
どのような本で感想を書いたかは、よく覚えていないが、小さな子どもが読むような絵付きの本であったと記憶している。
それを読み終えた私は、すぐに感想文に取り組んだ。
もちろん文章を書くのも得意ではなかったが、それでも母親に相談しながら一生懸命取り組んだ。
そうして書きあげた感想文を九月一日に提出し、翌日に鈴木に呼び出された。
呼び出された先は電球の一つ切れた、薄暗い生徒指導室だった。
真ん中に木製の長机があり、机を挟んで向かい合うようにして私達は座った。私と鈴木、二人きりだった。
「あなたの提出した、この読書感想文の事についてなのだけれど」
鈴木は冷たい声でそう切り出した。
私はその時何を思ったのか、褒められるのだと思い目を輝かせた。
私の書きあげた感想文が優秀だった。他の子ども達が書いたものよりも優れた出来だったのだ。そのようなニュアンスの事を考え、鈴木の次の言葉に期待した事を覚えている。
しかし鈴木は、幼い私の期待を裏切ってこう言った。
「高田さん。あなたふざけているの? 誰がパソコンで作っていい、なんて言った?こういうものは手書きで書くのが普通でしょう」
私は目を見開いて驚き、首を振った。
それはわたしがかいたものです……。
消え入るような声で反論する。
「―――嘘をつくなッ!」
鈴木は両手で机を勢いよく叩いた。
突然鳴らされた大きな音に驚き、肩が大きく震えた。鈴木の冷たい視線があまりに恐ろしくて、目からはぼろぼろと涙が止まらなかった。
鈴木は涙を流す私を見ても、同情心などは湧かなかったようで、それからしばらく説教が続いた。
説教の内容は読書感想文の事ではなく、私の日ごろの行いの事だった。
声が小さい事や協調性がない事、給食をいつも残す事、私だけ授業を理解していない事など様々な事柄で私を叱った。
私は終始うつむいたままだった。言葉も発せず、鈴木が大きな声を出すたびに震えていた。
一時間程経った頃、鈴木は最後にこう言った。
「読書感想文の話に戻りましょう。確かに印刷した字は格好良く見えるかもしれない。けれど、あなたの書いたこの文章は稚拙すぎて、印字が逆にお粗末に見えてしまうのよ。だから、今度からはこの下手な文章に相応しい、手書きで書きなさい」
私は目を見開いた。驚愕だった。
その時初めて、私の字は綺麗などと簡単に片づけられるものではなく〝異様〟なのだと気がついたのだ。
自分の書く字が整っている事は知っていた。今まで大勢の人に褒められてきたし、綺麗すぎて、不気味がる人もいたほどだ。
ただ、それが、人が書いたものと信じてもらえない程、離反しているという事に驚きを隠せなかった。
しかし鈴木は、私の字が美しい事は、とうに知っているはずだった。それまでもテストや宿題などで私の字を見る機会は何度もあったからだ。
だから、この生徒指導室の出来事は、鈴木の最初の難癖だった。
馬鹿だった私はそんな事にすら気が付かなかったが。
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