レイジ3 呼び出されしもの

 レイジはクレマンの去った方向へ追い続けた。


 銃声はもう聞こえてこない。もはや戦闘は終わったのか、生き残りが身を隠しているのだろう。今は他からの襲撃を気にしている猶予はなかった。


 頭は未だ混乱を続けている。


 クレマンはレイジが思想犯罪捜査班に入った頃からの上司だ。信頼もしていた。銃を突きつけている時でさえ、間違っているのは自分だと思っていた。

 現実を受け入れることがまだできていない。思考が停止し、冷静な判断ができなくなっている。ミカを置いていったのがその証拠だ。


 頭が回らないかわりに、視覚と聴覚を冴え渡らせる。

 まずは何としてでもルナの居場所を突き止めなくてはならない。


 遠くで恐ろしい叫び声が聞こえた。黒山羊の雄たけびかもしれない。とりあえず近くにはいないようだとわかり、ほっと胸を撫で下ろした。


 次いで、囁くような、あるいは唄うような声が耳に入ってきた。

 一人、二人の声ではない。複数の人間が同時に発することで、囁きが合唱へと昇華している。


 レイジは柱のかげに身を隠し、声の方向へ足音を忍ばせた。

 

 まもなく、音源は見つかった。

 照明の下、巨大な魔法円――モンテロの現場にあったものと紋様は同じだが、より大きく、丁寧に描かれている――をローブを着た複数の人間が囲んでいる。口元がわずかに動いており、声の発生源は彼らで間違いなかった。


 円から離れた位置にクレマンが立って、儀式の様子を見守っている。

 また、円の端に人がいない部分があり、そこに重厚な装飾を施された長方形の箱が置かれていた。

(……ルナ……!)

 間違いなくルナはそこにいた。


 儀式はすでに始まっている。

(何としても止めなくては)

 レイジが拳銃に手をかけようとした瞬間だった。


「動くな」

 突然、背後からの男の声で動きを止められた。背中に当てられた感触は、間違いなく銃身だ。


(しまった……!)

 とっさに銃を掴もうとした腕を、片手でひねり上げられる。


「ぐああああああああ!」

「そのまま進め」

 腕を後ろ手に掴まれたまま、レイジはクレマンの前まで連れて行かれた。


「レイジ……来たか。ミカは置いてきたんだな」

「クレマン、てめえ!」

 せめてもの反抗にクレマンを睨みつける。

「ふん。威勢はいいが、結局はなにもできなかったというわけだ」

「何が目的だ! これだけの騒ぎを起こし、大量の人間の命を奪って、何を呼び出すつもりだ!」


「目的、か」遠くを見つめながら、クレマンがつぶやく。「目的と呼べるかはわからないな。だが、これは我々の思想であり、復讐でもある」

「何をわけのわからないことを」

「滅ぼすことだ」


「……なに?」

 レイジの顔色が変わる。

 クレマンは、さも当たり前のことを告げるかのように続けた。


「神の創造したこの世界を滅ぼし尽くすことが我々『黒山羊協会』の目的だ」


「……狂ってやがる」レイジは吐き捨てた。「そんな馬鹿げた妄想のために、あの化け物を放ったのか! こんなにたくさんの人間を殺したのか!」

 喚き立てるレイジにクレマンは冷ややかな視線を向ける。

「わかっているさ。狂っていることぐらい、とうの昔にな――それに、まもなく妄想じゃなくなる」

 クレマンは魔法円を一瞥した。


「……まさか、そんなことができるはずが……お前、いったい何を呼ぶつもりだ!?」

「ふん。この時代においては、すでに名前を無くした存在だよ。あえて呼ぶとすれば、そうだな……『悪魔の王』といったところか」

「悪魔の……王?」


 円を囲んでいた者の一人がクレマンへと近づいた。

「ジェネラル、まもなく儀式は完了します。最後の詠唱を」

「わかった」

 クレマンが魔法円へと近づくと、彼を真ん中に据えるように人々が動き、空間が開けられた。


「やめろ!」

 飛び出そうとするも、押さえつける男の力が強く、振りほどけない。


 クレマンは円の正面に立ち、一度目を閉じて祈るような動作をすると、ゆっくりと目を見開いた。その目はまばゆい光を帯びている。


「最も深き地に眠りし者よ。

あらゆる悪逆の支配者よ」


 クレマンの恐ろしく低い声が、地響きのように空気を震わせる。


「汝、火に焼かれ灰燼と化した。

 汝、極寒に曝され氷塊と化した」


 他の者もクレマンに合わせ、詠唱を続けている。

 奇妙な合唱が、異様な雰囲気を伴ってその場を支配していた。


「我は汝の隣人なり。

 我は汝の下僕なり」


 変化は目に見えて現れた。

 地面に書かれた魔法円が、赤い光を帯び始めたのだ。

 途端に空気が重くなり、息苦しくなる。


「や、やめろ。それ以上続けちゃいけない……!」

 レイジの声も、詠唱にかき消されて届きはしない。


「今こそが雪辱の時なり」


 光はより鮮烈になり、空気の澱みは黒い煙となって現れた。


(これは、マズイ。出てくるのは、黒山羊なんかの比じゃない……)

 身体が拒絶していた。

 恐れが、懼れが、畏れが、全身を震わせ、奥歯をカタカタと鳴らしている。

 これ以上、この場所に居たくない。


「わが元へ来たれ。

 再誕せよ――悪魔の王よ!」


 詠唱の終わりと共に、閃光が視界を奪った。

 世界が色を失い、形を失う。


 次いで、音がなくなった。

 静寂ではなく、無音。


 身体の痛みも、肌に触れているものの感触さえも消えていく。


 乾いたコンクリートの匂いも口の中の血の味も無くなる。


 やがて、感情や意識さえも失われた。


 残されたものは何もない。


 この瞬間において、世界は虚無へと変わった。

 ……。


 まもなく、それは凄まじい爆発音で破壊された。


 停止していた身体の機能が復活する。

 意識を取り戻したレイジは、粉塵が舞って視界が遮られるなか、前方を見据えた。


 異常は明確だった。

 地下空間の天井に、ぽっかりと巨大な穴が開いている。当然、儀式を行う前にはなかったものだ。


 もともと、地下空間は爆撃やミサイルによる被害を逃れるために作られた要塞のような施設である。事実、作られてからこれまで、いかにテロが激しくとも、崩壊する恐れなどただの一度もなかった。それが今、何らかの要因によって無残に破壊されている。


 天井の瓦礫が落下してきたのだろう。クレマンは無事なようだが、周りの何人かは押し潰されてしまったようだった。


 ――だが、こんなものはなんでもない。

 レイジが目にしている、真の異形を前にしては。


 それは人の形をしていた。

 性別は男とも女ともつかない。裸の肉体にはおよそ性器と呼ばれるものがなかった。

 足先よりもさらに長い白髪。真紅の瞳。しなやかな肢体。それはあまりに美しく……あまりに恐ろしい。

 目を離したいのに、目を逸らせない。

 泣き叫びたいにもかかわらず、声が出ない。

 強制させられてはいない。だが自由が奪われていた。


(……あれは、まだ何もしていない。それなのに……ヤバすぎる)

 もし、あんなものと直接対峙したら。

 あんなものが、地上へと出たら。


 世界が終わる。


 絶望がレイジの精神を汚染していく。

 悪魔の王は、この世界へと生まれ落ちた。

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