思考機械は夢を見ない
垂平 直行
プロローグ
プロローグ
「最も深き地に眠りし者よ。
あらゆる悪逆の支配者よ」
男――アレッシオ・モンテロの額にはうっすらと汗が滲んでいた。
もう幾度目かの詠唱だが、具体的な“変化”は現れていない。
だが、不思議とモンテロは儀式の成功を確信していた。もともと信心深い方ではなく、雇い主たちが言うところの“神”や“主”といったものには懐疑的だったが、今はたしかにその存在を知覚している。彼の額が湿りをおびているのは、体温の上昇だけが理由ではなく、“やってくるもの”への畏れからくる冷や汗も含まれていた。
「汝、火に焼かれ灰燼と化した。
汝、極寒に曝され氷塊と化した」
モンテロの目の前の地面にはチョークで描かれたややいびつな魔法円、さらにその前には屠殺したニワトリの盛られた皿とその血液を注いだ杯が置かれ、二つの器に挟まれるように棺桶のような木製の箱が鎮座していた。
「我は汝の隣人なり。
我は汝の下僕なり」
箱の中には女が横たわっている。修道服を着た、美しい女だ。女の目は閉ざされており、静かに呼吸をする以外には身動き一つ取っていなかった。
「今こそが雪辱の時なり!」
廃工場のなかをモンテロの蛮声だけが虚しく響く。普段はここを根城にしている野生動物たちも、人間の異様な儀式を察したのか、姿を現さずにじっと隠れている。
老朽化のためか、天井には大きな穴があき、月がモンテロの周辺をスポットライトのように照らしていた。
「わが元へ来たれ。
再誕せよ――!」
詠唱が終わろうかという瞬間だった。
突如、赤い閃光がモンテロの目を襲った。
「おわッ!?」
至近距離でカメラのフラッシュを浴びたかのように、モンテロの視界は奪われる。
(な、なにが起こって……!?)
突然の事態に混乱しながら、モンテロはその場に伏せた。
耳を澄ませて周囲の様子を探る。
あたりは先ほどまでと同じように静寂が続いていた。
何か変化があったようには思えない。
そのまま数十秒が経過し、視界が回復してきたときだった。
目の前から黒い“なにか”が漂ってきたのが目に入った。
思わず立ち上がり、正面を見た。
「なっ……!?」
“変化”は一目瞭然だった。
地面に描かれた魔法円が薄赤い光を帯びている。当然ながら、先ほどまではチョークで描かれた図形がそこにあっただけで、発光などはしていなかった。
また、その魔法円を中心として、黒い煙のようなものが広がっていた。煙はだんだんと工場のなかに浸食しているようで、モンテロの位置からは、棺と供物がすでに視認できなくなっている。
「こ、これは……」
モンテロは身震いしながらも、何が起きているかを把握しつつあった。
(儀式は……召喚は成功した!)
黒い煙に全身を包まれながら、モンテロは魔法円の上に目を凝らす。
視界は奪われているが、たしかに“なにものか”がいるのを感じる。
「やった……やったぞ……!」
モンテロは口元を歪めながら、一歩、また一歩と魔法陣へと進んだ。
依然として畏れはあったが、それ以上に儀式の成功を喜ぶ気持ちが強かった。
それゆえ、自分の功績を確認するかのように、魔法円へと不用意に近づいてしまった。
魔法円の中に足を下ろした瞬間だった。
ザシュッ。
空気を裂くような鋭い音。
モンテロは自らの腹部を見る。
自身を包む衣服と、その内にある肉が裂かれ、鮮血が噴き出していた。
「な……な……ッ!?」
わなわなと震えながら、モンテロは流れ出る血を止めるように腹部をおさえ、その場にうずくまった。
逃げようにも身体は動きそうにもなく、すぐに意識も朦朧とし始めた。
(な……なぜ……なにを……俺はいったい何を呼んだ……?)
最後に目を向けても、そこには黒い煙が立ち込めているだけだった。
まもなく、モンテロの意識は暗転した。
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