完全『いじめ』対策マニュアル

赤キトーカ

第1話 前書き 「死んでからいじめ認定されても遅い」


本書の使い方

・加害者から被害に遭っていることを強く認識すること。

・被害から逃れるために、重い決意をすること。

・そのために、頑張らなければいけないことを認識すること。

このことを覚悟したうえで、マニュアルとして利用することができる。



 かつて、1990年台に「完全自殺マニュアル」というシンプルなマニュアル本が出版され、数十万から数百万部を超えるベストセラーとなった。

 その直截的なタイトルから、安易に自殺を推奨するものではないか、自殺者が増加してしまうのではないか、という議論がおこり、ワイドショーでの当該書籍、著者へ対するバッシングなど、社会問題を引き起こすまでにいたったものだ。

 しかし、実際に当該書籍の読者ならわかるように、その本質は「何があっても自殺をすることだけは許されない」という社会そのもの、考え方そのものに一石を投じるものであり、こうした本が存在し、手にとることで、「本当にいざという時の解決策のひとつとして、自殺というものもある」という手段があること、それを知ることで、少しでも「生きる」ということが楽になることもあるだろう、あるのだということを教えるものだった。

 その著者の鶴見済氏が「一人でも多くの人を救おう」(どういうかたちで?)と考えていたかどうかは別として、現実として、「完全自殺マニュアル」が出版された後の自殺者の統計は増えることはなく、むしろ減少する傾向に向かい、「完全自殺マニュアル」そのものが原因で自殺した者は皆無であるといわれている。著者の言うように、「いざという時に直面してしまった人」。たとえば仕事の残業時間が月に100時間、200時間を超えて逃げ場所を失ってしまったような人の前にあの本が現れたことで、「死ぬ」という選択肢があるという「気付き」を得、それが正しいか間違いかは別として、自殺を実行してしまったケースは、ゼロとはいえない。しかしそれはもちろん「完全自殺マニュアル」という本を読んだから、本があったから自殺をした、ということにはならない。


 少し前置きが長くなった。


 本書は、簡単に言えば、タイトルに冠しているように、「いじめ」に遭っている人のための書籍であり、「いじめ」を解決させることを目的としたものであり、「いじめ」を受けている人はもちろん、「いじめ」を受けている人を知っている人、「いじめ」に反対する人など、「いじめ」をよしとしないことに賛同している人にも購入してもらい、そのあまりにも過酷な状況から一人でも多くの小学生、中学生、高校生、その他の人々、という言い方はどうかと思うが、一人でも多くの方に、一刻も早く楽になっていただきたいという意図により執筆されたものである。


 「何がいじめ」なのか。

 学校。教育委員会。上司、教師、同級生、労働基準監督署。

 ゴタクは聞き飽きた。

 「いじめ」を受けているのであれば、そうではないだろうか。


 本来なら、私はタイトルに「いじめ」という言葉を使うことは気に食わないと思っている。

 これも1990年台だったと思うが、やはりいじめや自殺が問題となり始めた頃、確か少年ジャンプに、「いじめられっ子」の少女を主人公とした、「いじめ問題」を正面から扱った漫画が発表されたことがあった。絵柄などはうっすらと覚えていて、学校全体を巻き込むような展開だったと記憶している。その作品が単行本化されたかの記憶も定かではないけれど、その本にしろ何にしろ、「いじめをなくそう」「いじめに遭っている君に」という言葉はうんざりとするほど世の中に出回っている。

 しかし少なからずの「いじめ」経験を受けてきた私にしてみれば、書店で「いじめられっ子の君のために」「いじめから逃れるために」といった本を手にとって購入することは、ハードルが高すぎる。

 私にとっての一番の高いハードルは、「自分がいじめに遭っていること、それによって苦しんでいることを認めたくない」ということだった。誤解を恐れずに言うならば、性的暴行を受け、あるいは受け続けており、苦しんでいる人が、そのことを人に積極的に知ってほしいと思うことは少なく、ひとりで悩み抜いていることが一般的に多いことが、「いじめ」というケースにも近いのだと考える。

「いじめ」を受けている人が、その被害を多くの人に知ってもらい、救いを求めること。それは簡単なことではない。それができれば、苦労はしない。

 それに、私は強く思う。「いじめ」を受けている人が、「僕はいじめられっ子なんだ」「私、いじめられっ子なんです」と人に打ち明けるようなことはとても困難なことだ。漫画やドラマではいくらでもこのようなシーンが登場するが、自分から「いじめ」などという言葉は使いたくないし、「いじめられっ子」というカテゴリに属していることを軽々しく思うことはもちろん、それを人に話すことなど、私にはとてもできない。

 ましてや、「いじめ」を受けているならば、そのことを両親に知られることなど、絶対に阻止しなければいけないことだった。幸い、というべきか何というべきか、私には子を持ったことがないのでどういう理由なのかは実体験していないのだが、親というものは子が「いじめ」に遭っているということに、決して敏感にはならないようである。それが「信じたくない」という気持ちに起因していることも考慮しなければならないだろう。


 繰り返すが、ゴタクはいい。

 「いじめ」自殺が増えるたびに(最近はなぜか減っているようであるが)、教育委員会が新聞やウェブサイトに「緊急アピール」を発表する。

 大きな見出しで、「死なないで!」と書かれているものが多く、それらは簡単に言えば、「いじめにあっていても、生きていればいいことがあるのだから、死ぬことだけはやめて」という主張であり、具体的にどうすれば良いのか、どういう対策を取ればよいのかの提案や情報提供は一切ないように思えた。教育委員会からしてみれば、文字通り「緊急のアピール」をしましたよということが、行政としての大きな行動なのであり、そこで完結しているのであろう。「いじめ」で自殺を考える私たちは何も死にたくて死を選ぼうとしているわけでもないのに。「いじめ」で自殺をする、自殺を選ぶのは、死ぬのではなく、「いじめ加害者」に殺されたと考えるのが自然であるはずなのに。


 著者は行政書士有資格者であり、「いじめ」(本当に、いやな言葉だと思いながらも仕方なくこの言葉を使っていることに留意してほしい)から逃れるために、「いじめ」を法的な問題にすることを中心として執筆している。

 これまでの前置きで、いちどたりとも(今は除く)いじめという言葉を使っていないことにお気づきだろうか。禅問答のようになってしまうが、「いじめ」に遭っている状況から脱却するには、いじめという言葉を使うことは適切じゃない。

 主に学校でのケースになってしまうけれど、それが、直接的な殴る、蹴る、無視をされる、LINEでのトラブルにしても、それを学校の中で解決しようとすると、それはなぜか、「それは『いじめ』に該当するのか」という不思議な問題にすり替えられてしまう。詳しくは後述するが、「いじめ」をなくそうと、撲滅しようとしてはいけない。「いじめ」は突き詰めれば「人間関係のトラブル」だ。人間が集団で行動する以上、人間関係のトラブルが完全に消滅することは、ありえない。だから、「いじめ」が消滅することは、ない。つまり、「いじめをなくそう」とか、「いじめゼッタイダメ」といった言葉に意味はない。

 私たちにできることは、それが「いじめ」であれ何であれ、自分や被害者が置かれている状況を適切に把握し、ひとつひとつのケースに、個別具体的な対処をしていくことであり、本書はそのマニュアルである。タイトルに「いじめ」という文言を入れざるを得ないのは、(主として)学校内で行われている、(学校等内)虐待行為の重大さ、被害者救助の緊急性の高さを現すために最も適切な言葉が「いじめ」という言葉しかなかったため、理解いただきたく思う。

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