第9話夏休みがはじまる。『夜は短し歩けよ乙女』
夏休みが始まる。
そうなれば暑い中、学校に通わないで良い期間が一ヶ月半も続くのだ。もはやこれは天国といっても誰も否定はできまい。
夏は、身も心も開放的になるから普段と、ちょっとでも違うことがあるとキュンとしてしまうことがあるらしい。それとも夏祭りにパートナーと行きたいからハードルが下がるだけなのだろうか?
理由はともあれ、夏はいろいろな意味で暑い。
「暑い、暑すぎる……」
寝間着にしている薄地のTシャツが汗で肌に張り付いていた。夏休みで気が抜けていたせいか日は既に高い位置に来ている。そのせいで出窓から陽が部屋に差し込み、室温が上がったようだ。
寝間着にしていたシャツから外に出る訳でもないのにポロシャツに着替え、髪の毛で首下に熱が籠もるからポニーテールにして纏めた。
リビングに行くとエアコンだけが風の騒々しい音を出している。お父さんは仕事だからいないのは分かっていたが、お母さんまでいなかった。きっとパートか何かだろう。
(まぁ、何も言われなし、このクーラーを独り占め出来るから天国だぁ~)
冷蔵庫からアイスを取り出して、ソファに腰かけ、アイスを咥えながらテレビを付けてみた。普段は家にいない時間帯のせいで見慣れないテレビばかりやっているのが、特別感を倍増させてくれる。
しかし、やっている番組はニュースか通販が大半だ。主婦が見ている分には楽しいのだろうが、高校生が見ていて楽しいものではない。
インターネットに繋がって居る我が家のテレビはボタン一つで様々な動画を漁ることが出来る。
お父さんが通販サイトの有料会員になったおかげで宅配を受け取る機会が増えてしまったけど、その特典として勝手に色々な動画を見ることが出来るからあまり悪い気はしない。
(何見ようかな~)
日本、海外問わず、アニメや映画、ドラマ様々な作品を見ることが出来る。
最近のマイブームは新着に出てくる海外の映画をぼーっと流し見することだ。これといって観たい作品があるわけじゃないけど、見始めれば何でも面白いのだ。
タイトルは知っていたが、内容を知らない洋画
最近話題になっている動物を擬人化したアニメ
名作と言われるような古い映画
そうやっていくつも、いくつも見ていればあっという間に時間は経ち、陽が傾いていくのは必然だった。
「あら、あんたずっと家にいたの?」
リビングのドアを開けてすぐに母は私の現状を察したらしい。
「そだよー。外暑いもん。」
ソファに座ったまま、ジャージ生地のショーパンから出る自分の脚を両腕で包み、船を漕ぐ。
「もう、お父さん帰ってくるまでにちゃんと着替えないと何か言われるわよ」
私のことを一蹴すると夕飯の用意をし始めた。
夕飯が出来上がる頃にはお父さんも帰ってきて、食卓についた。お父さんの帰宅時間を把握しきったお母さんの時間配分には恐れ入る。私ならそんなことマネ出来ない。
お父さんが帰ってくる前に麻で出来た風通しの良い長ズボンに履き替えていたから特に何も言われなかった。
「愛生、今日家から出てないんだってな」
どうやら私が部屋に戻っている間にお母さんが話してしまったらしい。しかし、こんな程度では別に怒ることではあるまい。
「そうだよ。どうして?」
「昼にコンビニ行ったら当たったからこれ上げるからコンビニでも行ったらどうだ?」
お父さんは、ポケットからICカードくらいの紙のカードを取り出した。机の上に並ばれた焼き鯖の上から渡されたそれは、どうやらコンビニで700円以上買うと引けるくじの当たり券らしい。
「え、これ高いアイスのじゃん。良いの?」
思わず、浮ついて食卓を照らす照明に透かした。
「そのくらいなきゃ家を出ないのは困るな」
父のそのつぶやきは私の耳には入っていなかった。
夕飯を食べ終え、完全に日が落ちた街に出て行くコンビニは昼間に行くより、とても魅力的に感じた。
そして、その幸せを胸一杯に夜眠れるかと言われれば別問題だ。
布団に入っても全然、睡魔さんはやってこなかった。
それもそうだ。家に籠もり、映画を見続け、夜、慰め程度に外に出ただけだ。体力が有り余っているのだ。夏休み中、こんな生活を続けていたらすぐにでも太ってしまうだろう。
だが、この夜にすべきことは今を乗り切ることだ。
私はいつものごとく、布団から這い出て、本棚を正面にとらえた。なんだか夏休みに入ったせいか浮かれた気分な本が読みたかった。だから既に読みたい本は決まっている。
『森見登美彦 夜は短し歩けよ乙女』
と、書かれた角川書店の薄緑の本に指を引っかけて本棚から抜き取る。
有名なロックバンドのジャケットを担当して、話題になったイラストレーターさんが書いたシンプルでありながら特徴的な表紙だ。
本作はアニメーション映画になったおかげかとても売れた本らしい。私は昔からこの作家さんが好きでこの映画も見に行った口だ。
所どころ、異なる箇所はあったがとても良い出来だったと思う。
小説版では「○」を用いて場面転換していくからテンポ良く進んでいく。
物語は、奥手な「先輩」が恋する「黒髪の乙女」を語り手として物語りは回っていく。その二人を取り囲む、四畳半物語に出てきた人たちにとても良く似た人が登場する。
そして、森見登美彦作品ならではの酒、変人、ヘンテコなことが波のように押し寄せてくる。
「先輩」が「黒髪の乙女」に近づきたいのに次々に起こる珍事に巻き込まれ、そしてその珍事の中心にいる「黒髪の乙女」が楽しそうに夜の京都を闊歩する。酒を飲み、仲間を集い、踊り狂る。そして、また酒も飲む。
夜の街は不思議なところだ。普段いく所でも時間帯が変わるだけでこんなにも見え方が変わるものだろうか。そこには何か特別な力があっても可笑しくない。
しかも「○」によってこの夜が連続し、次々に起こる珍事はなんだかんだ最終的にまとめきってしまうのが、心底気持ち良い。
夏の夜は短い。日が落ちるのは遅いし、日が上がるのはとても早い。
このまま本を読み続けたら初日から徹夜をしてしまう。まだ私の人生で徹夜したことはない。だが、今日は眠ることにした。「先輩」のように四畳半でもなければ万年床でもない自室のベッドにもう一度入り、我が身恋しく……ではなくぬいぐるみを抱いて目を閉じた。
夏休みはまだ始まったばかりだ。高校最後の夏休み、今日は家でゆっくり過ごしてしまったけど、きっと何か起こるだろう。また、何も起きないのもそれはそれだ。
夏は短し遊べよ乙女――――
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