UMA

執行明

第1話

 ……白。


 見渡す限りの白。


 ホワイトアウトと呼ばれる現象だ。雪嵐の中で全視界が純白になり、一寸先も分からなくなる、白い暗闇。

 

 私はその中をあてもなく歩いていた。いや、雪嵐に吹き飛ばされるように、右に左に理不尽に方向を変えさせられながら、ただ延々と歩みを進めていく。ただ吹雪が耳の側を通り過ぎる轟音と、凍てつく寒さ、踏みしめる雪の感触だけが、防寒具を突き抜けて私の脳を襲い続ける。雪の感触のことを思うと、なぜか少し落ち着く。なぜだろう。

 もう何時間、何十時間……いや、何日歩き続けているのだろう。時計すら見ることができない。腕時計など持っていたっけ。いや、あっても無駄だ。

 自分の手をどれだけ眼に近づけても、それが見えてこないのだから。

 私はなぜ歩いているのだったか。

 どこへ行くために。何を探すために。誰かに会うために?

 思い出せない。なにも思い出せない。

 ただ、何か恐ろしいことが起こったような気がする。何か、突然の恐怖に襲われたような。

 そして突然思い出す。

 足元の雪が消え、悲鳴を上げて私は空中へ投げ出された。

 やはり何も見えない。暗い。今度は見慣れた闇だ。ちゃんと黒い闇だ。が、恐ろしいことに変わりはない。

 恐怖に満ちた浮遊感が続く。後どのくらいで最後まで落ちるのか分からない。今どこまで落ちたんだ。いや、落ちる前はどこにいたんだっけ。私はどこを歩いていたんだ。わからない。

 はっと気が付くと、私は地面の上にいた。あいかわらずの暗闇だが、地の感触はあった。材質は分からないが、とにかく自分の体を支える「下」が存在してくれている。

 私はまた歩き出した。黒い闇の中を。

 だが、今度は遠くに白い点が見える。

 なんだ。私は立ち止まって眼をこらした。人のようなものだ。こっちを手招きしている。

 その人のようなものは立って手招きしているだけなのに、なぜかだんだん大きくなってきた。いや、あれは、人なのか。

 違う。

 なにか別のもの……


 白熊?

 

 ……馬鹿な。

 白熊がいるのは北極だ。

 ここは北極でも南極でもない。ここヒマラヤに白熊など……


 そうだった。


 私はヒマラヤにいたんだ。

 なぜ。そうだ、彼らに会うためだ。彼らは、だれだっけ……

 

 私は闇の中に倒れた。

 が、私の体を受け止めたのは、硬い地面ではなく、ふかふかした毛皮のようなものだった。いつのまにか彼らが、私の側まで来て支えてくれたのだ。

 白熊なんかじゃない。


 彼らの名は――イエティ。


 やっと思い出した。

 彼らを探しに来たんだ。

 そのために雪の中を歩き続けたんだ。

 真っ白な毛皮が、私を暖かく包み込む。まるで古くからの友人のように、家族のように彼らは私を受け入れてくれている。

 私は……


「気が付いた?」

 そんな声が聞こえ、眼が覚めた。

 イエティも暗黒も消えた。なんとなく目の前が茶色い。

 目の焦点がはっきりしてくるにつれ、その茶色い視界が、木の板であることが分かった。しかも天井の板らしい。

 美しい娘が私の顔を覗き込んでいた。

 どうやら自分はどこかの部屋に仰向けに寝ていて、いま目を覚ましたようだ。ぼんやりした頭で、私はそう合点した。

 どこの部屋だろう?

 体はうまく動かせない。天井に見覚えはない。知らない部屋だ。

 なぜ私は知らない部屋に寝ているのか……そう考え込んで、自分がクレヴァスに落ちたことを思い出した。


 私は日本の学術調査隊の一員である。

 俗に雪男、現地語でイエティと呼ばれるものをはじめ、ヒマラヤに存在するとされるUMA(未確認生物)を探すのが、我々の調査の目的だった。

 そんなものを目的にしている者が「学術探検」などという言葉を使えば、ただのオカルト好きがまあ背伸びして、という目で見られるのが普通である。が、私たちは本物の学者集団だ。オカピやゴリラ、カモノハシ、ダイオウイカなどの種も、実在が公認されるまではUMAと同然の扱いだったのだ。彼らを探し続ける多くの真摯な研究者たちが、どれほど長い間、詐欺師、妄想狂、空想と現実を混同した夢見る愚か者として扱われてきたことか。その歴史を知る者は、一般人にはほとんどいない。

 もちろんいつの時代にも、インチキな人間はいる。嘘の目撃証言もあれば、偽造写真だってある。それらを安易に盲信することも、頭から笑い飛ばすこともせず、黙々と調べ続けられる者だけが、本物の科学者だ。私はそう在り続けてきたつもりだ。

 だから私は、テレビのオカルト番組に呼ばれて出演料を貰うことはできなかった。けれども今回の、ほんものの学術調査に参加できたのもそのおかげだ。オカルト番組でイエティ実在説を吹聴する側に廻っていたら、ヒマラヤの山々には生涯、足を踏み入れることはなかったかもしれない。

 現地の人々もまず行かぬ難所をいくつも踏破したが、イエティの痕跡らしきものは見つからなかった。人間よりも大きな二本足の足跡はいくつもあった。が、それらは毎回、熊の足跡だった。それでも私たちは諦めずに歩き続けた。

 雪山にある岩の裂け目を、すっぽり覆い隠す形で雪が積もってしまうことがある。見た目からはまったく分からない、巧妙に隠された天然の落とし穴だ。どんな熟練した登山家でも完全に避けることは不可能な、自然が仕掛けた罠だった。

 雪を踏みしめるつもりで、とつぜん空中に放り出される恐怖の感覚。あれは味わった者にしか分からない。私はあやうく絶叫しそうになり、ぎりぎりの理性で抑えた。自分の意志力を、素直に賞賛したいと思う。本当に絶叫をあげていれば、雪崩を引き起こして隊を全滅させていたかもしれないのだ。

 落ちてゆく私を見つめる仲間の絶望の表情を見た瞬間、自分は死ぬのだと思った。そのまま落下しながら気を失なったらしい。

 

 ここは谷間にある小さな村らしい。

 幸運にも私は軽傷ですんでいた。が、風邪をひいたらしく、数日のあいだ寝込むことになった。

 私を拾ってくれた娘は親切だった。私の面倒を見てくれ、話し相手にもなってくれた。付近に住む人々も、物珍しさから何人も会いにきてくれた。

 あのとき娘の声が「きがついた?」と聞こえたのは、錯覚ではなかったらしい。

 彼女の話す言葉は、驚くほど日本語に似ていた。いや、似ているなんてものではない。文法はまったくと言ってよいほど同じだし、単語のほとんども日本語の同義語を連想させる音だった。大げさに言うなら、日本人はみな彼らの言葉をカタコトで話せる、というほどなのだ。違いといえば、ア行とワ行の発音が少しヤ行に近くなること、そして少し長めに発音することくらいだろうか。

 もともと日本語の起源はいまだに明らかでない。私は言語学が専門ではないが、諸説が乱立して、確定する目途さえ立っていない状態だと聞いている。有力説のなかには、東南アジアや南インドで話されるタミル語を起源とする説もある。地理的にはヒマラヤの方が近いから、似た言語があってもおかしくないのかもしれない。が、ここまで酷似した言語を話す民族が存在するというのは、素人目にも驚異だった。

 とにかくそのおかげで、私は非常にスムーズに彼らの言葉を習得することができた。

 しかしその結果、私にとって衝撃的な事実が分かった。

 この村を出る方法がない。

 この村は谷の底にある。が、その谷間に出口が存在しないのだ。完全に山に囲まれている。

 薄々そうではないかと思っていた。これほど日本語に似た言語が存在して、話は通じるというのに、日本や都市部への連絡手段について聞こうとすると、娘も村人たちも途端に要領を得なくなってしまったからだ。彼らには「日本」はおろか「外国」や「都市」という観念すらないようだった。

 私自身は川岸に倒れていたらしい。実際に歩けるようになってから、その川を下ってみたりさかのぼってみたりが、谷を出入りするときには地下水になってしまい、たどって谷を出られるものではなかった。

 ちなみに無線通信機やGPSの類は、落ちた時か流されている間に失ってしまったようだ。むろん自作できる技術は私にはない。そもそもこの閉ざされた村には、金属すらろくにないのだ。寝込んでいる間に見たのだが、家や家具もすべて木製で、釘ではなく木材をジグゾーパズルのように嵌め込んで組み合わせる手法で作られていたのだ。

 娘や村人たちの祖先がどうやってこの谷にやってきたのか分からないが、あるいは私と同様に一方通行的な手段でここに来た人々なのかもしれない。

 失意のなかで私は彼女の家に戻った。

 娘は家で飼っている鳩のような鳥を抱いたまま、笑顔で迎えてくれた。

 この娘は私を歓迎してくれている。ここで一生暮らすのも悪くないかもしれない。日本で偏見に晒されながら暮らすよりは……私は無理にそう思い込もうとして、美しい娘をもう一度見返した。

 ふと、彼女が抱いている鳥に目が行った。

 次の瞬間、私はその鳥を彼女から奪い取っていた。

 ヒマラヤウズラだ。

 間違いない。1876年以降は信頼できる目撃証言がなく、絶滅を疑われていた鳥だ。

 私の生物学者としての情熱が再燃した。

 よく観察すると、この谷の動植物相は希少種の宝庫だった。UMAこそすぐにはいなかったが、絶滅危惧種のシフゾウやユキヒョウの姿まで見かけることができた。

 この谷なら、もしかしたら……

 彼らの言葉をまだ流暢には話せなかったが、私は娘に、自分がどんな生き物に会いたいのか話した。話したというより、ほとんどわめき散らしたと言った方がいい。それほど興奮していた。もしかしたらUMAに会えるかもしれないのだ。

 彼女は私の言葉を完全には理解しなかったようだ。無理もない。日本人ですら聞き取りが難しいようなスピードでまくし立てたのだから。

 が、彼女はこう言った。

「あなたが寝てるとき、うわごとで見たいと言ってた動物なら、わたし知ってる」

「本当か!?」

 娘はこっくりとうなずいた。真剣そのものだ。冗談を言っている表情ではない。

「こっちに来て」

 私の目はおそらく血走っていたのではないか。

 一も二もなく私は彼女についていった。林を抜け、岸壁の洞窟に入った。その洞窟を抜けると、また太陽の下に出た。そこにもまた、林と泉があって……

 そこにいた。数匹のUMAが。

 彼らは変わった生き物が来たとでも思ったか、私と娘をじっと見つめていた。

 私はよろよろとそのUMAに近寄り、そっとその毛並みに触れた。


 UMAは、ヒヒンといなないた。

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UMA 執行明 @shigyouakira

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