第六章 間違い
第六章 間違い
翌日。朝食をとりに、利用者たちが続々食堂に集まってきた。食堂のテーブルには、水穂のために作られたコーンスープも用意されていたが、肝心の本人は現れなかった。
懍は食器を片付けながら、食堂のおばちゃんこと、塔野澤恵子さんに、
「今日、吉原の家政婦紹介所に行きたいのですが、一緒にいってくれますか?ちょっと、相談しようと思うので。」
と、お願いした。おばちゃんも、それを予測していたようで、
「また新しい方を雇うんですか?確かに前々から、必要だなあと思っていました。あたしも正直に言えば、かわいそうでなりませんよ。じゃあ、片付けたあと、支度をしますから、ちょっと待っててください。」
と言った。
「あと、彼を布団屋にも行かせる必要がありますね。」
「そうね。衛生的にもよくないですよ。でも、今日一日は、寝かしてあげましょう。昨日あれだけ辛そうだったので、すぐに立たせるのはかわいそうですよ。」
「ええ。食事すらとりに来ないのですから、そうでしょう。本人には僕が伝えておきます。」
「じゃあ、あたしは手っ取り早く片づけを済ませますね。」
「お願いします。」
他の利用者は、会社へ行く支度をしたり、製鉄の準備をしたり、それぞれの持ち場へ移動したが、聰はどうしてもその場を離れられず、一度出たふりをして、二人の話をこっそり聞いてしまった。食堂のおばさんはそのままお皿の片づけをはじめ、懍は水穂の部屋へ向かって行った。
「水穂さん、起きていますか?」
懍がふすまを叩くと、はい、と弱弱しい返事がする。
「開けますよ。」
ふすまを開けると、水穂も急いで布団の上に座ったが、たった今目が覚めたところの様で、まだ寝ぼけ眼だった。多分、鎮血の薬で眠りすぎてしまったのだろう。
「すみません、こんな時間まで寝過ごしてしまって。もう朝食の時間もとっくに過ぎてますよね。急いで食べてきます。あと、午後になりましたら、多分布団屋にも行けると思いますから。」
と、言いながらもまだ二、三度咳をした。
「無理ですよ。もう、いい加減になさい。時には素直に休みたいということも必要です。エアコンの掃除は今日誰か新しく手伝い人に来てもらうことにしますから、それまでしばらくの間は休んでいなさい。逆を言えば、一番足りないのはそこなんですよ。」
「しかし、そうなると、また人件費の支払いが。」
「まあ、無駄使いはせず、使うとき惜しみなく使えば、後悔はしませんよ。とにかく、これ以上、応接室を血液で汚されたら、たまったものではないですから。」
「あ、申し訳ありません。」
「だから、そうじゃなくて、素直に喜べばいいんです。エアコンの掃除をするのは、確かに必要なことですが、本当はやりたくなかったのでは?」
「そんなことありませんけどね。しないと、故障してしまいますので。故障したら、もっとつらくなってしまいますから。」
「必要な時でなければ、むやみに手を出すこともないのですけどね。」
このやり取りを、廊下で立ち聞きしていた聰は、もう我慢できなくなって、水穂の部屋へ突進する。
「先生!今日は番子の仕事を、一日お休みしていいでしょうか!」
そう言いながら走ってきた聰を、懍は驚いた顔で見た。
「休んでどうするんですか?」
「はい、俺が布団屋さんへ行って、布団を買ってきます!と言ってもしまむらのようなところは使えないと思いますので、もっと良いところに行ってきます。」
「しかし、しまむらであれば歩いて行けますが、布団の専門店は遠いですよ。歩いては到底いけないでしょう。それに、重たい布団を歩いて持って帰ることもできないでしょうに。」
「タクシーがあるじゃありませんか。最近はジャパンタクシーのような車両の大きなタクシーもありますよ。それだったら、布団くらい持って帰れるでしょう。」
「教授、お願いしたほうがいいかもしれないですね。」
「水穂さん、いいんですか?使ってはいけない素材とかあるのでは?」
「ええ、確かにそれはあります。なので紙に書いてお渡ししておきますよ。」
確かに、布団の中身を厳重に選ばないと、眠るどころか大変なことになるのは確かである。だから、安物の羽毛布団などは絶対に使ってはいけない。さらにそれに交じって、中身に化学繊維が用いられている安い布団は厳禁。そういうわけで、ホームセンターの布団ではだめなのである。
「わかりました。じゃあ、これまで失敗した布団の中身を紙に書いてくれますか!俺、それが入っているのは絶対に買いません!見つかるまで必ず探してきますから。すぐに支度してきます。」
「あ、はい。わかりました。」
水穂は、また咳をしながら立ち上がって、机からメモ用紙と鉛筆をとった。
「本当は横になってくれたほうがいいのですが、」
「いえ、かまいません。この程度のことならできます。」
そう言って、メモ書きを始める水穂に、懍は、結局こうなってしまうのかと少しがっかりした様子だった。
「じゃあ、俺、財布とカバンをとりに行っていいですか?そして、タクシー呼んだりとかしますから。」
「あ、はいどうぞ。」
懍は有難迷惑だと思いながら仕方なくそういった。しかし、聰には、この気持ちはわかってもらえないなということも分かった。
「あの。」
いきなり、女性の声がしたので、全員動作が止まる。
「私も、布団屋さんへ行ってもいいですか?」
声の主は淳子だ。最近は、一人にしても、あまり危ない行為をしなくなったようだ。でも、やはり寂しいと強く感じてしまうようで、寝る時以外は、常に恵子さんのそばにいたり、テレビを見たりしていた。
「恵子おばさんが、先生と一緒に出掛けてしまうようですから。」
「一人ではまだ居辛いですか?それではまずいですよ。いずれは一人で過ごすことにも慣れてもらわないと。」
懍がそう言ったが、
「それは違います。」
という。
「じゃあ何ですか?」
「いえ、女性が一人ついていったほうが良いと思います。というより、私も、今は何とか大丈夫なんですが、子供のころは布団選びでかなりぐずっていたことがありましたので、お手伝いできるかもしれないです。」
「淳子さんもアレルギーを持っていたんですか?」
と、聰が聞くと、
「ええ。幸い、さほどひどくはなかったんですけど、布団の中身で失敗したことはよくありました。」
と答えた。
「そうなんですね。経験に勝るものはないです。それでは、彼女の話も参考になるでしょうから、今日はお二人で布団屋さんへ行ってきてください。場所はわかりますか?」
「あ、あの、ニトリみたいなところでしょ?」
聰はそう答えたが、
「いいえ、そこでも失敗しているので、ちゃんと医事監修のある布団を販売している布団屋さんでないとだめです。」
と、懍は言った。医事監修が付いている布団なんてどこで販売しているのだろうと考えたけど、聰は思いつかない。
「あたし知ってます。そこはオーダーメイドで布団を作ってくれたりもしますし、ちゃんと、アレルギーのある子供さんの対策もしてくれます。」
淳子は経験者として、そういうものを知っているのだろう。
「じゃあ、今日は佐藤さんに案内人をお願いしたほうがいいですね。では、お願いしましょうか。布団というものは、返品の利きにくいものでもありますから、くれぐれも失敗しないようにしてくださいませよ。」
「教授、書けましたよ。とりあえず、過去に使用してみて失敗した布団の、メーカーを列記しておきました。その中身についてははっきり記憶していないものもあるので、割愛しましたけど。」
水穂が、メモ用紙を聰に手渡す。A5サイズのメモ用紙がびっしりと埋まっている。勿論、布団のメーカーがこんなにあるのか、ということも驚きなのだが、ニトリとかカインズと言った、聰が知っている布団の製造ブランドがすべて表記されていたのにはさらに驚いてしまった。
「まあ、布団自体が本当に原因だったかはわかりません。もしかしたら、ダニでもいただけだったかもしれないですけど、」
「いや、ダニが出るほど、安い布団は不潔という事です。わかりました。ここに書いてあるものは絶対に買いません!」
「本当にすみません。申し訳ないですね。さんざん困らせてしまって、、、。顔に書いてありますよ。知っているブランドは全部書いてあるから、他にどこへ行けばいいかわからないと。」
「水穂さんは、謝るよりも横になるほうが先です。」
「すみません。」
懍にそう言われて水穂は血液のついた布団に横になった。そう言われて、聰もさらに悩んでしまう。
「大丈夫ですよ。布団のブランドは、本当に星の数ほどあるし、研究も進められていますから、必ず良いものが見つかると思います。もし、聰さんが知らなくても、私が知っているかもしれない。眠れないほどつらいことはないですし、しっかり買ってきます。」
淳子が聰を励ますように言った。
「はい!わかりました!行ってきます!急いでカバン取ってきます!」
聰は、額の汗を拭きながら、自室に直行していった。
「じゃあ、あたしは、」
「玄関で待機してください。」
懍の指示通り、淳子は玄関に向かって行った。
数分後。聰がスマートフォンで手配したタクシーがやってきたので、二人はそれに乗り込む。
「えーとどちらまで?」
運転手が間延びした声で聴くと、
「はい、布団のカキツバタまでお願いします。」
と、淳子が答えた。
「ああ、あそこですか。ちょっと遠いですので、裏道使いましょうか?」
「あ、はい。お願いします。」
ぽかんとしている聰を尻目にタクシーは静かに動き出した。幹線道路を使うと混雑してしまうので、抜け道を通ってくれたのだが、なんだか別の意味もあるように思える。運転手の態度を見ると、そんな気がする。
「ねえ、あなたって、日ごろからそう呼ばれているの?ブッチャーブッチャーって。」
不意に、淳子がそう聞いてくる。
「まあねえ。この醜悪な容姿と、学生時代に柔道やってて、段を持っていたことが、プロレスラーのアブドゥーラ・ブッチャーに似ていたからでしょう。」
正直にそう答えた。段を持っていたって、今では大した称号にならないことは知っている。でも、学生時代は本当に、身も心も砕いて柔道に打ち込んでしまったので、容姿とか体格なんて何も気にしたことはないから、今でもそのままでいる。
「へえ、面白い人ね。プロレスと柔道はまた違うものだと思うんだけどね。似ているなんてしないでもらいたいわね。」
変なことをいう女性だ。まあ確かに柔道は、プロレスに比べるとルールも何も違うのだが、今の人にとっては、ただやる場所がリングか畳の上かで、あとは取っ組み合いのけんかをするスポーツとしか見えないだろうし。事実、聰もそう言われてきた。
「それなら、ブッチャーじゃなくて、柔道選手の愛称をつけてもらうとか、そういう事をすればよかったのにね。」
「いやあ、、、。どうですかね。普通、格闘技と言えば、柔道はあまり知られてないでしょ。」
まあ確かに、日本の伝統スポーツは、今の若者たちには驚くほど知名度は低い。オリンピックで目にすることがあっても、逆にそれ以外でテレビに登場することもほとんどない。そんなわけだから、いくら嫌だと言っても、こんなあだ名をつけられて文句は言えないだろう。しかし、目の前にいるこの女性は、柔道とプロレスが明らかに違う事を知っているようである。と、いう事は、一般的な育てられ方をしてきた女性ではなく、高等な教育を受けていたのかな、と解釈できる。
「なんか、かわいそうね。一生懸命いろんなことやっているのにね。」
と、彼女はまた変なことを言いだした。
「だって、いつも、恵子さんと一緒に手伝いながら見ているけど、あなたって誰よりも、一生懸命だし。本来なら、そういう人と出会いたかったわ。」
「本来ってことは、誰かいたんですか?」
「ええ。一時、お嫁に行けと言われたこともあったんだけど、取りやめになったの。」
取りやめとはまたすごい処分だ。今時の感覚なら、結婚を取りやめにするとなると、よほどの事情がない限りしないだろう。
「そうですか。そんなかわいいのに、そういう事もあったんですか。」
聰は口が下手だ。女性の容姿をたたえるのに、適当な語句が見つからない。だから、飾る言葉なしに、「かわいいのに」という言い方をしてしまう彼女の容姿を例えるなら、花のように綺麗とか、他にも語句はたくさんあると思われる。時には正反対の言葉を使ったりして、通常、遠回しに彼女に美しいと伝えるのが、若者のやり方。直接かわいいというのは、年寄りがするほめ方だが、どうもそれ以外、やり方が浮かばなかった。
「すみません。失礼ないい方しましたね。」
傷つけてしまったかと思い、すぐに訂正する。
「いいえ、というか、こういう風に結婚相手を決められる家庭のほうが珍しいと思うからいいわ。なんでもいって頂戴。」
予想外の返事が返ってきた。思わずびっくりして、返答に困ってしまう。
「いいの。そのほうがいいって、私思ってる。一時、本気で好きになったこともあったけど、やっぱり、心から愛してるっていう人じゃないと、私もやっていけないって思うから。」
なんだか自分に言い聞かせているような感じ。ということは大失恋をしてしまったという事か。しかも相当すごいやり方で。
「そ、そうですか。俺は全然恋愛なんかしないで、学生の時は柔道をして、終わったら何か仕事に就いて一生懸命やるつもりでしたが、、、。結局、仕事をしても全くダメなので、もう自分は終わりだと思っています。人間、仕事がなければ終わりじゃないですか。それなのに、仕事ができないんじゃ、俺は、生きている資格がありません。」
聰は、仕方なく、自分の感想を言った。聰にしてみれば、愛しているというより、どうやって生活していくかのほうが大事だから、恋愛などどうでもいい話なのだ。
「俺にしてみれば、そういうもんです。恋愛にうかつを抜かすよりも、仕事をいかにこなして、いかに生活していくか。それだけです。」
「かっこいいわ。」
そんな事をいう淳子。
「かっこいいって、お世辞なんか言わなくていいですよ。かっこいいという台詞は、水穂さんのようなああいう綺麗な人にいうものです。俺のように、ブッチャーというあだ名しかない人間にいうものではありません。」
「だから、そう言えるのがかっこいいのよ。」
淳子はそう言って、からからと笑いだした。聰は返答に困ってしまった。
「そんなに面白いですか?」
「面白いんじゃないわ。もう一回言うけど、かっこいい。」
「は、はあ、、、。」
なんと答えていいかわからないで、ただ笑っている淳子をぼんやり見つめているしかできない聰。そうこうしている間に、布団のカキツバタという看板が見えてきて、タクシーはその前で止まった。
「お客さん。着きましたよ。」
「はい、ありがとうございます。電子マネーでいいかしら?」
すごい、よくそんな言葉が出るな、とまた驚いてしまうのだった。
「はい、可能ですよ。じゃあ、ここに付けてください。」
運転手がカードの読み取り機を出したので、淳子は持っていたカードをそこに乗せた。現金なんか使わずに、そういう事をやれてしまうのもすごいなあと思ってしまった。電車の運賃を払うなら、電子マネーはだいぶ普及しているが、タクシーの支払いではまだ少ない。それでいくらくらいになったのかを見ることはできないが、おそらくものすごい大金になるのではないかと思われるほどの距離だった。そういうところから見ると、やっぱり彼女は俺とは違うなあ。そんな事を考えながら、聰はタクシーを降りた。
「ありがとうございます。帰りも乗せてくれますか?私たち、これから、このお店で布団を買ってまた製鉄所に戻るから、次の時はセダンじゃなくて、ワゴン車で来てくれると助かるんですが。」
淳子はそんな事を言っている。
「わかりました。じゃあですね、ワゴン車は、大型車料金になりますので、初乗り運賃が850円になりますがそれでもいいですか?」
「あ、大丈夫ですよ。帰りも、電子マネーで払えますか?」
「ええ。うちの会社のタクシーは、どの車種でも基本的に使えますから大丈夫です。」
「じゃあ、それでお願いします。多分布団屋さんで、すごく時間がかかると思うので、終わったら、もう一回そちらに電話させてもらってよろしいですか?えーと、電話番号は。」
「はい、領収書に営業所と書いてありますので、そちらにお電話ください。」
「ここですね。」
運転手に渡された領収書を確認して、淳子はしっかりとやり取りを交わしている。なんだ、製鉄所では、あれほど不安定で、暇さえあれば自殺したいと口にしていた彼女が、今になってどうしてこんなにしっかりと会話できるようになったのだろう?まあ、精神疾患というのは、足が痛いとか、体がかゆいとか、そういう具体的な症状が現れにくいというのは知っていたので、いつ症状が出ているのかを掴むのは難しいと言われる。でも、少なくとも、今は、症状が出ていないという事だろうか。まあ、どんな病気でも症状さえなければ、普通に生活ができるものなのだが、彼女は普通の生活というよりも、むしろ能力は高いと思う。それに、偉い人というか経済的に豊かな人にありがちな、すぐに他人を頼ろうとするとかそういう態度は見られないから、ただお金があるだけに甘んじている家庭でもなさそうだ。きっと、俺の家より、すごいところだろうな。なんて想像は容易にできる。
「はい、わかりました。じゃあ、そこへお電話差し上げますから、どうぞその時によろしくお願いします。」
「はい。じゃあですね。連絡を円滑にしたいので、お客様のお名前を教えていただけませんかね。」
まあ、これは当たり前のように聞く運転手。
「あ、はい。佐藤、です。佐藤、あ、じゃなくて淳子です。」
あれ?と思われる瞬間。自分の名前を言い間違えることってあるか?まあ、何かで師範免許でも取って、芸名でもあればまた別か。
「佐藤さんね。じゃあ、お電話お待ちしています。」
運転手は、軽く一礼して、タクシーに乗り込み、とりあえず走り去っていった。その時、淳子の顔に安堵の表情が浮かんだのを、聰はしっかり目撃した。
「さ、入りましょ。布団を買いに来たんだから。」
「は、はい。」
驚きと不安を隠せない聰に、淳子はそう言った。そして、布団屋さんの入り口の方へ歩いて行ったので、聰も急いでそれを追いかけて行った。
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