本格ミステリ庵

庵字

名探偵の宿命

「名探偵の行くところ事件あり」とは昔からよく言われていることです。日常生活を送っているご近所はもちろん、ちょっとした外出先から遠出した旅行先まで、足を運んだ至る所で何かしらの事件に遭遇してしまうというのが名探偵の宿命と言えます。半ば揶揄的に「あいつ(名探偵)さえいなければ事件は起きない」なとど言われてしまうほどです。私自身、子供の頃にミステリを読んでいて、大いに楽しむ反面、「探偵、事件に遭遇しすぎじゃね?」という疑問を抱いていたことは確かです。これは、「巻き込まれ型ミステリ」だけでなく、事件を抱えた人物が探偵に依頼をしに来る「待ち受け型ミステリ」でも無視できない問題です。「行く先々で事件に巻き込まれる」という不自然からは逃れられるかもしれませんが、今度は「常軌を逸した不可能犯罪が次々に起きる異様な世界」という不自然さが際立ってきます。

 これに対するミステリファンの回答としては、「そこは、お約束で済まそうぜ」というのが妥当と言えるでしょう。特撮やアニメだって、世界征服を企んでいるはずの悪の組織が、毎回日本の関東しか狙わないだとか、怪人、ロボットを毎回一体ずつしか投入してこないとか、様々な「お約束」の上に成り立っています。ミステリにおける名探偵の圧倒的事件遭遇率の高さも、これと同じことだよ。というわけです。

 ですが、フィクションエンタテインメントの発展は目を見張るものがあり、特撮やアニメの中には、上記の「予算、スケジュール、展開の都合」という「メタ的な理由でどうしても突き破れない壁」であるお約束に対して、作品内で整合性のつく理由と設定をきちんと構築しているものもあります。

 封印されていた場所が群馬県の山中であったため、そもそも活動範囲が関東に限られ、怪人ひとり一人が順番に行う殺人ゲームが怪人側の行動理念であるため、怪人が大勢で暴れ回る理由がないという『仮面ライダークウガ』などはその典型でしょう。

 であれば、名探偵がいつも事件に遭遇している。異様な事件が次々に起きる。という事案にも、何か明確で納得のいく理由が付けられないか? そんなものがあるのか?

 あります。「事件に遭遇しすぎる」もしくは「事件が多すぎる」のが不自然であるのなら、「実は事件に遭遇しすぎてなどいない」「事件は起きすぎてなどいない」ということにすればよいのです。どういうことか。それは、名探偵が解決した幾多の事件は全て、同一時間軸上に起きている出来事ではない。つまり、全ての事件はパラレルワールドである、ということにしてしまえばよいのです。いかな名探偵と呼ばれる人物でも、一生のうちに不可能犯罪に出会うのは一度きり。あとの事件は全て、別の世界に生きる、もう何人かの同一人物が遭遇した事件なのです。


 これは、私がミステリを読み漁っていた子供時代に考え付いた解決策で、当時の自分としては、「うまいこと説明をつけられたな」と、ひとり悦にいっていたのですが、ミステリの発展はそれを許しませんでした。

 かつてのミステリは、舞台やメインとなる登場人物が同じでも作品ごとの関係性はほとんどない、各小説ごとに完結した閉じられた世界の物語でした。金田一耕助ものなど、その典型です。『悪魔の手毬唄』において、「かつて金田一耕助が『獄門島』や『八つ墓村』などの事件を解決してきた」と過去の事件について触れられていても、それは本編(『悪魔の手毬唄』)には何の影響も及ぼさない、まさに「別の世界での出来事」と言ってもよい扱いとされていました。『獄門島』や『八つ墓村』を読んでいなくとも、『悪魔の手毬唄』を楽しむのに何の支障もなかったのです。

 ところが、進化を止めないミステリとその書き手たちは、シリーズ探偵ものに更なるガジェットを叩き込んできました。それは、「シリーズ全体に渡る大きなストーリーの縦軸」です。各事件、小説ごとに完結はしていても、ストーリーの底部や探偵たちを突き動かす行動原理に、一貫した連続性のあるドラマを持ち込んだのです。昨今のアメリカドラマなどでよく使われる手法ですね。私が初めてそれを感じたのが、有栖川有栖の「学生アリスシリーズ」でした。

「学生アリスシリーズ」は、まさに典型的な「巻き込まれ型ミステリ」です。主人公アリスと英都大学推理小説研究会のメンバーは、行く先々で不可能犯罪に遭遇し、巻き込まれ、事件を解決しなければならない状況に陥ってしまいます。だからといって、『月光ゲーム』をはじめとする「学生アリスシリーズ」を、各話ごとにパラレルワールドにしてしまうことは出来ません。『月光ゲーム』なくして『孤島パズル』はありえず、それに続く『双頭の悪魔』も『女王国の城』も存在しえない。アリスの恋や江神に宣告された恐ろしい運命といった、シリーズを貫くテーマが事件とともに進展していくのです。「学生アリスシリーズ」にパラレルワールドなど存在しえない。アリスも江神先輩もマリアも、この世界にたったひとりきりなのです。

 恐ろしい事件や不可解な謎に何度遭遇しようとも、その都度、知恵と勇気で事件を解決し、謎を解き明かしてきたアリスや江神たちの活躍を読み続けるうちに、名探偵の事件遭遇率の異様な高さを、パラレルワールドなどという安易なガジェットに逃れようとしていた、浅はかな自分の考えを私は恥じました。

 やはり名探偵(に限らず、この世に存在する全ての人間)はこの世界にひとりきり。これからも名探偵たちは通常では考えられない頻度で不可能犯罪に遭遇し、そしてまた、快刀乱麻を断つ推理で謎を解き明かし続けるのでしょう。これはもう理屈ではないのです。それでも、「どうして名探偵ばかりが事件に遭遇し続けるのか?」と問いかけられたら、それはもう一番最初に書いたように「宿命だから」と答えるしかないでしょう。常識と論理が全てを支配する本格ミステリというジャンル、そこにたったひとつだけ課せられたオカルトが、この名探偵の宿命なのではないでしょうか。

「フィクションは、大きな嘘をひとつついたら(例えば、巨大ロボットが存在しているなど)あとは全てをリアルに描写するのがよい」とされています。逆説的に、名探偵の事件遭遇率の圧倒的高さ、というものを大前提の大きな嘘としているからこそ、ミステリは他のいかなる嘘も排除しているのかもしれません。



 と、ここで終わりにしようと思っていたのですが、これを書いていてふと、かつて都筑道夫つづきみちお佐野洋さのよう、二人のミステリ作家の間で繰り広げられた、世に言う「名探偵論争」のことを思い出しましたので、それについて少しだけ触れておきます。

「名探偵論争」とは、簡単に言えば、「シリーズ探偵は必要か?」について両者が論を交わした、本邦ミステリ界における名論争のひとつです。「シリーズ探偵は必要」とする都築に対し、佐野は不要論者でした。佐野の言い分は、「同じ探偵が何度も登場することにより、作品のフォーマットが自ずと固定化されてしまい、作風がマンネリズムに陥る」として、「それは常に新しい表現を模索していかねばならない作家の足かせ、退化をもたらす」という意味のものでした。佐野は、いわゆる本格ミステリは様々な枠が存在し、作家はその枠内で作品を書かねばならず、いつまでもそれに甘んじているのは作家の怠慢に他ならない。と考えていたようです。佐野は常に新しい手法、表現に挑戦していた作家でした。

 これに対して都築は「ある程度決められた枠の中で書くから面白い」という考えの持ち主で、「続けて登場することで読者に愛着を持ってもらえる」という理由からもシリーズ探偵の登場を強く推していました(冗談交じりで、「探偵役を毎回固定することで、作者は登場人物の名前をひとり分考えずに済む」といった作家ならではの理由も語っていました)。

 本格ミステリの文法(枠)の中できっちりとルールを守ったうえで面白い作品を書き続けようとした都築と、常に新しい表現を追求し続けた佐野。両者の論はミステリ(というよりも小説全体)を書くうえでどちらが正しい、優れているということはなく、双方ともに推し進めるべき手法であり、結局二人ともが納得する答えは出ないまま、この論争は終結しました(都築は2003年に、佐野は2013年に鬼籍に入っています)。

 この「名探偵論争」については、双葉社発行の『日本推理小説論争史』(郷原宏ごうはらひろし 著)に詳しく載っています。興味がありましたら、ぜひ読んでみて下さい。

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