第172話

「……ジャック?」


 ユミルは彼の名を呼ぶ。

 ジャックは答えなかった。

 穿たれた穴からは、彼の血液がとめどなく溢れていく。


「無駄だ。こやつはもう死んだ」


 ドミティウスはジャックを見下ろし、つまらなそうに言った。


 ドミティウスの言葉が、ユミルの耳を通り頭蓋の中で反芻される。


 ジャックが、死ぬ。死ぬ。死ぬ……。


 誰しもが抗えぬ運命の終わり。

 脳へとしみわたるジャックの死。

 理解が追いついた時には、ユミルの心にはある一個の感情が燃え上がっていた。


 すくと立ち上がると、ユミルは弓を引きドミティウスに構える。

 

「こやつのために、お前が怒るのか」


 ユミルの行動を目の端に捉えながら、ドミティウスが言う。

 彼の顔が、ユミルへ向けられた。


「……エルフのお前が、この男のために泣いているのか?」


 ドミティウスは、わずかに頬を歪めた。

 ユミルは、泣いていた。 

 両目から止めどなく涙が溢れていた。


 喉がひくつき、唇を噛み締め、涙に濡れた目でドミティウスを睨みつける。


「よくも……。よくも……」


 ユミルの声は震え、湿り気を帯びている。


「いいのか? この娘は貴様やこの男にとって大切な娘なのだろう?」


 両手を広げ、ドミティウスは挑発するかのように言う。


 殺してやりたかった。

 今すぐにでも、ジャックの仇をとってやりたかった。


 弦を引き、少し力を緩めるだけで、あの小さな額に矢を突き立てることができる。

 やれ、やってしまえ。ユミルの心がそう叫ぶ。


 だけど、できなかった。

 彼女の心以上に、エリスとジャックとの記憶が、彼女の指を動かさなかった。


「情というのは難儀なものだ。時として力を与えてくれるが、反面、人の思考を振り回し殺意を鈍らせる。ならば持ち合わせなければよいかと、丹精込めて兵を作り上げたのだが、情に取り憑かれこの有様だ」


 ドミティウスはジャックの体を足で小突く。

 ジャックは虚ろな視線でドミティウスの顔を見上げている。


 頬をわずかに歪め、ドミティウスは苦笑を浮かべる。


「非情になりきれ。でなければ私を殺せんぞ」


 ユミルに向けて放たれたドミティウスの言葉。

 まるでユミルをたしなめるかのような言葉だったが、しかしユミルの指は矢羽を離さない。


「……仇敵も満足に殺せんとはな。もう良い」


 あからさまな失望。 

 ため息を一つ吐くと、ドミティウスは一歩を踏み出した。

 

 ユミルを殺すために。

 そのほかの生き残りを殺すために。

 

 しかし、ドミティウスの足は止まった。

 

 ドミティウスの横腹に何かが押し付けられた。

 ドミティウスは目を動かした。

 自身の背後から脇腹を掴んでいるのは、人工的な腕。


 義手。

 死の床にあったはずジャックが、彼の脇腹を掴んでいた。


 まだ抵抗する力が残っていたのか。

 そう感心したのも束の間、鋭い痛みがドミティウスの体を貫く。


「……仕込みか」


 鋭い痛みは、剣に肉を貫かれる痛みとよく似ている。

 義手に短剣でも仕込んであったのだろう。

 ドミティウスはそう予測した。


 しかし、一撃は内臓を外れ、肉だけを貫いているだけ。

 すぐに魔法で傷を塞げば、致命傷にもなり得ない。


 さて今度こそ殺してやろうとした時、異変が起こった。

 体に思うように力が入らない。

 振り向くどころか、膝が崩れ、倒れてしまった。


 「……貴様、何を、した」


 うまく口も動かせず、言葉が途切れ途切れになる。

 気持ちの悪い。

 内側から何かが吸い出されていく感覚がする。


 何だ、何をした。

 戸惑いは恐怖に混ざり、左右に小刻みに揺れ動く視界で、ドミティウスはジャックを睨む。


 ジャックは、笑っていた。

 頬を歪め、歯をむき出しにして笑っていた。 


 ……そうか。こやつの術中にはめられたというわけか。

 そう思ったのを最後に、ドミティウスの意識は闇の中へと吸い込まれていった。

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