第165話

 衝撃と騒音が、アーサーの鼓膜を揺らす。

 振動のたびに、天井からかび臭い水滴が落ちてくる。


 水滴が頭に当たる。

 その度に払い除けたくなるが、残念なことに両手は塞がっている。

 氷柱はいまだにアーサーの両手を壁に縫い付けていたのだ。


 水滴に混じって、足音が聞こえてくる。

 久しく感じなかった人間の気配。

 アーサーはゆっくりと顔を上げた。


 通路からやってきたのは、見慣れた兄の顔だった。


「久しいな、アーサー」


 ロイは不敵に笑みを浮かべながら、アーサーに声をかける。


「……一体、何の用だ」


「そう邪険にするな。せっかく会いにきてやったのだから」


「邪険にしてほしくなかったら、ここから出してくれ。そしたら丁重にもてなしてやろうじゃないか」


「……減らず口は、相変わらずか」


 ロイが肩を竦めた。


「お前がべったりの皇帝陛下はどうした。一緒じゃないのか」


「陛下は、来客の相手をしている」


「客だぁ? こうもやかましい客がいるもんかよ」


「陛下にとっては、客人なんだよ。アーサー」


 ロイはおもむろに鍵を差し込み、扉を開けた。


「……こうして面と向かい合うのは、あの日以来か」


「こいつがなければ、お前を抱きしめてやれたんだがな。残念だ」


「そうか。なら、抱きしめてくれ」


 ロイは杖を構えた。

 そして、呪文を唱え、杖の先を氷柱に向けた。


 小さな炎が杖から放たれ、氷柱に蛇のようにまとわりつく。

 不思議と熱は感じなかった。

 痛みを感じることもなかった。


 氷柱はみるみると溶けていき、石畳の床に落ちていく。

 数分もしないうちに、アーサーの両手は久しぶりの自由を得た。


「……なんのつもりだ」


 穿たれた手のひらを見ながら、アーサーはロイを見た。


「私とともにここから逃げてくれ。今すぐに」


「どういうことだ? どうしてそんなことをする」


「……私は、以前にお前に言ったな。平和ボケを治すには、劇薬が必要なのだと。ドミティウスこそ、その劇薬だ。劇薬は見事に国を半壊させ、恐怖の渦に人々を落としてくれた」


 杖をポケットにしまい、ロイはアーサーを見た。


「そして最後の仕上げ。ドミティウスと私を帝国の敵としてさだめ、人々を怒りと殺意によって立ち上がらせなければならない。そのためには、お前が必要になる」


 アーサーの胸を、ロイの指がつく。


「お前がその先導者になるんだ。人々を導く英雄に。私を滅ぼす救世主になるんだ」


「……何を言っているんだ。お前は」


「悪に染まった兄を、正義のもとに弟が討つ。皆の前で燦然と、お前が私の首を取れ。そして市中に晒せ。このものが諸悪の根源であると。このものがドミティウスとともに帝国を滅ぼそうとした、悪党の顔なのだと」


「何を言っているんだ! お前は!」


 アーサーは叫んだ。

 これまで感じたことのない動揺が、彼を襲っていた。

 声が震え、痛みが遠く離れていく。


「アーサー。どうかわかってくれ。これは国のためだ。帝国がより堅固に、強大になるために必要な行いなんだ。私の仕掛けた謀は、私の死によって完結する。これこそ、私が望んでいたことなんだ」


 ロイはアーサーの手を握った。

 硬く、強く、握りしめた。


「私のことを恨んでくれて構わない。いやむしろ恨んでくれ。憎しみ、怒り、殺意。それは忌むべき感情であるが、時として人間を進歩させる強大なエネルギーなのだからな」


 ロイはアーサーの肩を叩く。


「迷っている暇はない。陛下が客人を相手にしている、今の内だ。さあ、早く行くぞ」


 アーサーの手を引いて、ロイは牢屋を出ようとした。

 しかし、アーサーは動かなかった。

 ロイの手からするりとアーサーの手が抜けていく。


「どうした?」


 ロイが言う。


「……いいや。なんでもない」


 間を開けて、アーサーが言う。

 深く息を吸い、そして吐いた。


「行こう。ぐずぐずしてられん」


 ロイが再度アーサーに声をかける。


「……ああ、行こう」

 

 アーサーが力なく言う。

 そして、重い足をようやく動した。

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